戦国期の品川商人「岩崎勝右衛門」は史料で確認できず。岩崎姓は近代の三菱創業者と関連。品川の商人は中世の豪商から近代の財閥へと変遷した。
本報告書は、利用者より依頼のあった「戦国時代の品川の商人、岩崎勝右衛門」という特定の人物に関する歴史的実在性を徹底的に検証することを第一の目的とする。さらに、その探求の過程で明らかになった、より広範な歴史的テーマ、すなわち「品川の商人」のあり方が時代と共にどのように変遷したのかを、中世から近代に至る長大な時間軸の中で多角的に解明することを目指す。したがって、本報告は単一の人物調査に留まらず、品川という土地が持つ経済史的特質を、その時代ごとの代表的な商人像を通じて浮き彫りにするものである。
調査に着手した初期段階において、一つの核心的な所見が得られた。それは、依頼された「岩崎勝右衛門」という戦国時代の人物に関する直接的な史料が、品川区が公開する公式デジタルアーカイブや主要な歴史データベース、人名辞典等において一切確認できなかったという事実である 1 。この史料上の「不在」は、本報告書の議論の出発点となる。一方で、「岩崎」という姓は、品川の近代史において極めて重要な意味を持つ。三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎とその一族が、明治期に品川の御殿山に広大な邸宅を構えていた事実は数多くの資料によって裏付けられている 2 。この時代と人物像の著しい乖離こそが、本件の謎を解く鍵である。本報告書は、この「不在の証明」から筆を起こし、なぜそのような人物像が想起され得たのかという歴史的イメージの生成過程を考察しつつ、利用者の根源的な知的好奇心に応えるべく、中世の「湊」、近世の「宿」、近代の「邸宅地」という三つの顔を持つ品川の、豊かでダイナミックな商人史の全体像を描き出すことを試みる。
「岩崎勝右衛門」の実在性を検証するため、多角的かつ網羅的な史料調査を実施した。調査の中核には、品川区立品川歴史館が提供する「しながわデジタルアーカイブ」を据えた 1 。このアーカイブには、地域の基礎的資料である『品川区史』の通史編・資料編や、古文書、絵図などが含まれており、キーワード検索を通じて人物名や地名に関する記述を横断的に確認することが可能である 6 。加えて、国文学研究資料館が所蔵する近世品川宿の運営に関する一級史料「武蔵国荏原郡南品川宿利田家文書」 8 や、各種の歴史人名辞典 9 、学術論文データベースなども調査対象とし、あらゆる角度から「岩崎勝右衛門」の名を探求した。
徹底した調査の結果、品川という地域と関連付けられる「岩崎」姓の人物は、ほぼ例外なく三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎(1835-1885)とその一族に集中していることが判明した 10 。弥太郎の弟で三菱の第二代総帥となった岩崎弥之助、弥太郎の長男で第三代総帥の岩崎久弥といった人物群である 9 。
彼らの経歴を精査すると、いくつかの重要な事実が浮かび上がる。第一に、活動時期が幕末から明治、大正、昭和にかけてであり、依頼のあった「戦国時代」とは全く一致しない 9 。第二に、岩崎弥太郎の出身地は土佐藩(現在の高知県)であり、品川を本拠とする商人ではない 10 。第三に、品川との具体的な接点は、明治期に入ってから、御殿山周辺に広大な土地を取得し、邸宅や倶楽部(開東閣)を建設したことに起因する 2 。この土地は元々、明治の元勲である伊藤博文の邸宅地であったものを岩崎家が買い取ったものであり、岩崎家が古くから品川に根付いていたわけではないことが明確に示されている 2 。
「勝右衛門」という名前自体についても考察が必要である。この名は、江戸時代において広く用いられた典型的な男性の通称(実名である諱とは異なる、日常的な呼び名)の一つである。特定の個人を識別する強力な手がかりとはなり難く、仮に史料中に「岩崎勝右衛門」という名が現れたとしても、それが品川の商人と結びつくかどうかは慎重な検証を要する。しかし、今回の調査では、そもそもこの名前自体が品川の歴史資料の中に見出すことはできなかった。
以上の調査結果を総合的に判断すると、現存する主要な歴史史料において「戦国時代の品川の商人、岩崎勝右衛門」という人物の実在を客観的に確認することはできない、と結論付けざるを得ない。この人物像は、後述するように、異なる時代の複数の歴史的事実が、人々の記憶や伝承の中で混同・結合することによって形成された、一種の歴史的イメージもしくは伝承上の存在である可能性が極めて高い。
この現象は、歴史情報が二次的、三次的な形で伝播する過程でしばしば見られるものである。まず、「品川」という地名が持つ複数の歴史的性格、すなわち中世の「港町(湊)」と近世の「宿場町」という異なる時代の機能が、時間軸を越えて一つのイメージに統合される 13 。次に、この漠然とした「古い時代の品川」のイメージに、近代における最も著名な「品川の住人」であり、かつ「大商人(豪商)」であった岩崎弥太郎の存在が重ね合わされる 3 。この情報の断片化と再結合のプロセスを経て、「品川の(古い時代の)商人、岩崎某」という、史実とは異なる架空の人物像が創造されたと推察される。本報告は、この「誤伝」が生成される歴史的背景そのものを解明する試みでもある。
「岩崎勝右衛門」という個人の探索から、より広い視野へと転じ、品川の商人史の原点を中世に探る。戦国時代以前の品川は、陸の宿場町としてよりも、海の玄関口「品川湊」としてその歴史的個性を確立していた。
品川湊は、目黒川の河口部に自然発生的に形成された港湾であり、鎌倉時代から室町時代にかけて、江戸湾内における物流の最重要拠点の一つとして繁栄した 14 。遠浅な地形であったため、沖合に停泊した大型船から小型の艀(はしけ)に荷物を積み替えて荷役を行う形態が取られていた 16 。特に伊勢との間には定期的な航路が確立し、伊勢商人の活動も見られたことが示唆されている 16 。
その経済的重要性の高さから、品川湊は鎌倉府の貴重な財政基盤と見なされ、港で活動する問屋(倉庫業者兼金融業者である土倉)からは、称名寺や円覚寺といった大寺院の造営費用が税として徴収された 14 。このことは、品川湊が単なる一地方港ではなく、関東の政治・宗教の中心と密接に結びついた経済拠点であったことを物語っている。
室町時代の品川湊の経済を牛耳っていたのは、「有徳人(うとくにん)」と称される特権的な豪商たちであった。中でも、鈴木道胤(すずきどういん)と榎本道琳(えのもとどうりん)の名は特筆に値する 14 。
彼らは紀伊国の熊野地方をルーツに持つ一族とされ、海上交易(廻船業)と金融業(土倉)を兼営することで莫大な富を築き上げた 14 。鈴木道胤は、15世紀半ばに品川湊の支配権を確立し、領主であった足利成氏から蔵役(倉庫税)を免除される代わりに、港や町の運営を任されるほどの信頼を得ていた 14 。
彼らの活動は、単なる経済活動に留まらなかった。中世の「有徳人」は、その富を地域社会に再投資することで、自らの社会的威信と影響力を高める文化的パトロンとしての役割を担っていた。鈴木道胤が私財を投じ、17年の歳月をかけて天妙国寺(当時の名は妙国寺)に五重塔を含む壮麗な七堂伽藍を寄進したことは、その典型例である 19 。また、彼は文化人としても知られ、太田道灌の父である太田道真が河越城で催した大規模な連歌会「河越千句」においては、当代一流の連歌師を招聘し、会を実質的に運営するほどの財力と人脈を誇っていた 18 。このように、中世品川の商人は、経済・文化・宗教の各領域に深く根を張り、地域社会の統合的中心として機能する、複合的な存在であった。
15世紀後半から16世紀にかけての戦国時代の動乱期に入ると、品川湊はその戦略的重要性の高さゆえに、関東の覇権を争う諸大名の争奪の的となった。特に、江戸湾岸に集積される兵糧米を求め、扇谷上杉氏や後北条氏、さらには房総の里見氏といった勢力が、品川湊の支配権を巡って激しく争った 14 。
最終的にこの地域を支配下に置いた後北条氏の時代には、宇田川氏や鳥海氏といった配下の武将が湊の管理を担った 15 。このうち鳥海氏は、後に江戸時代の南品川宿で名主を世襲する利田家の祖先であると伝えられており、戦国期から近世への有力者層の連続性を示唆する興味深い事例である 23 。この時代、湊の商人や寺社は、各勢力から「制札(せいさつ)」と呼ばれる安全保障の証文を購入することで、戦乱による略奪から自らの財産と生命を守ろうと努めていた 14 。これは、武力による庇護を金銭で買うという、戦国期ならではの現実的な処世術であった。
戦国時代の終焉と徳川幕府の成立は、品川の歴史に大きな転換点をもたらした。海の玄関口であった「湊」の機能に加え、陸の玄関口としての「宿」という新たな役割が与えられたのである。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、全国支配の基盤を固めるため、江戸の日本橋を起点とする五街道の整備に着手した。慶長6年(1601年)、その一環として、品川は東海道五十三次の第一番目の宿場町として正式に指定された 13 。
品川宿は、当初、目黒川を境に北品川宿と南品川宿の二宿で構成されていたが、後に高輪寄りの地域が歩行新宿(かちしんしゅく)として加わり、三宿体制で運営されるようになった 23 。江戸の出入り口という立地から、参勤交代で江戸に出入りする西国大名の大名行列は、必ず品川宿で旅装を解き、あるいは身支度を整えてから江戸城下に入った 13 。街道沿いには、大名や幕府役人が宿泊する本陣・脇本陣のほか、一般の旅人向けの旅籠屋や茶屋が軒を連ね、絶えず多くの人々で賑わっていた 13 。
品川宿の運営は、宿役人と呼ばれる商人層によって担われていた。彼らの役割は、中世の「有徳人」とは大きく異なり、幕府の定めた公的制度の枠組みの中で機能するものであった。
宿場の最も重要な機能は、公用の旅行者や物資を次の宿場まで運ぶ「人馬継立(じんばつぎたて)」と、公用書状を運ぶ「継飛脚(つぎびきゃく)」であった 24 。これらの業務を統括したのが「問屋場(といやば)」と呼ばれる役所である 27 。問屋場の責任者は「問屋(といや)」と呼ばれ、宿役人の筆頭であった。問屋役は世襲されることが多く、地域の有力者である名主が兼帯する例も少なくなかった 28 。
品川宿では当初、南北の宿にそれぞれ問屋場が置かれていたが、たび重なる火災などにより、文政6年(1823年)以降は南品川宿の一箇所に統合された 26 。宿場運営は経済的に常に安泰だったわけではなく、南品川宿の問屋であった市郎左衛門という人物が困窮したため、宿場内の百姓たちの合議によってその屋敷地が再分配されたという記録も残っている 27 。これは、公役を担うことの経済的負担の重さを示している。
宿場としての業務とは別に、村落としての一般行政を担ったのが名主(なぬし)である。品川宿では、南品川宿の利田(かがた)家、北品川宿の宇田川家などが、名主職を世襲する有力な家系として知られていた 23 。
特に南品川宿の利田家は、前章で述べた戦国期の商人・鳥海氏の末裔とされ、中世から近世への権力の連続性を示す存在である 23 。利田家は単なる行政官に留まらず、南品川の漁師町に隣接する洲崎の干潟を埋め立てて「利田新地」を開発するなど、地域の発展に貢献するデベロッパーとしての一面も持っていた 8 。彼らが残した「利田家文書」は、近世品川宿の社会経済状況を詳細に伝える一級の歴史史料群である 8 。
品川宿は、公的な交通・通信の拠点であると同時に、多様な経済活動と文化が花開く場でもあった。大名や公家が利用する格式高い本陣に対し、一般庶民は食事付きの「旅籠屋」や、自炊を基本とする安価な「木賃宿」を利用した 23 。
また、江戸に近い宿場町という性格から、遊興の地としても発展した。特に幕末期には、高杉晋作や伊藤博文といった尊王攘夷派の志士たちが密議を重ねた遊郭「土蔵相模」が有名であり、品川宿が歴史を動かす政治活動の舞台ともなっていたことがわかる 30 。
近世品川の商人像は、幕府という中央権力が構築した「東海道」という公的インフラの末端を担う「官製商人」とも言うべき性格を色濃く帯びている。彼らの繁栄は、自律的な経済活動のみならず、幕藩体制によって保証された交通システムに大きく依存していた。その役割は、純粋な「経営者」というよりも、「行政官」とのハイブリッドであったと言えよう。
時代 |
代表的な人物/家名 |
主な活動内容 |
役割・性格 |
関連史料 |
中世 |
鈴木道胤 |
廻船業、土倉(金融)、寺社への寄進 |
地域の経済・文化を支配する自律的な豪商(有徳人) |
14 |
戦国 |
宇田川氏、鳥海氏 |
品川湊の支配(後北条氏配下) |
領主権力と結びついた地域支配者 |
15 |
近世 |
利田家 |
南品川宿の世襲名主、土地開発 |
宿場制度を担う役人、地域開発者 |
8 |
近世 |
市郎左衛門 |
南品川宿の問屋役 |
公的輸送業務の責任者 |
27 |
近代 |
岩崎弥太郎 |
三菱財閥創設、海運業、金融業 |
国家政策と結びついた政商、近代産業資本家 |
10 |
時代は明治に移り、品川の歴史に「岩崎」の名が初めて明確に刻まれる。しかしそれは、戦国の商人ではなく、近代日本の産業を牽引した巨大財閥の創業者、岩崎弥太郎であった。
岩崎弥太郎は天保5年(1835年)、土佐藩の地下浪人という低い身分の家に生まれた 10 。貧困と差別の中で育った経験は、彼の強い反骨精神と立身出世への渇望を育んだ 12 。若くして藩の役人となり、長崎の藩営商社で貿易の実務を学ぶ中で、商才を開花させる 12 。幕末の動乱期には、坂本龍馬が率いる「海援隊」の会計責任者を務め、その経営手腕を発揮した 10 。
明治維新後、弥太郎は土佐藩の事業であった九十九商会を個人で引き受け、これを「三菱商会」と改称 12 。これが、後の巨大財閥・三菱の出発点となる。彼の飛躍の契機となったのは、明治7年(1874年)の台湾出兵であった。この時、政府の軍事輸送を独占的に請け負うことで莫大な利益を上げ、その資金を元手に海運業を急速に拡大させた 12 。
弥太郎の経営手法は、大胆かつ徹底したものであった。当時、日本の海運市場を席巻していた英国のP&O(ピー・アンド・オー)社に対し、三菱は国家の威信をかけた価格競争を挑んだ。弥太郎は社員に給与の3分の1返上を求めるほどの徹底した経費削減を実行させ、全社一丸となってこの「ビジネス戦争」に勝利した 10 。この勝利の後、社員の奮闘に報いるため、日本で初めて「ボーナス(賞与)」を支給したという逸話は有名である 11 。
彼の経営哲学は、徹底した利益至上主義と市場の独占にあった。この点で、企業の利益と社会全体の利益の調和を説いた渋沢栄一とは思想的に鋭く対立した 12 。岩崎弥太郎は、国家の政策と密接に結びつきながら巨大な富を築き上げた、近代日本を代表する「政商」であり「産業資本家」であった。
三菱財閥の総帥となった岩崎家は、東京の各所に広大な邸宅を構えた。本邸は湯島(現在の旧岩崎邸庭園)にあったが、それとは別に、明治22年(1889年)頃、品川の御殿山に大規模な土地を取得した 2 。
この土地は、江戸時代には将軍家の御殿が置かれ、桜の名所として江戸庶民に親しまれた風光明媚な高台であった 25 。明治に入ってからは伊藤博文が邸宅を構えていたが、それを岩崎家が買い取り、三菱グループの迎賓館兼倶楽部である「開東閣」として整備したのである 2 。近代の新興財閥が、かつて将軍家や元勲が所有した由緒ある土地に自らの拠点を置くことは、その富と権威を社会に示す象徴的な行為であった。
この事実こそが、「品川の商人、岩崎」というイメージが生成される土壌となった。まず、品川・御殿山という土地が持つ「将軍家ゆかりの地」という歴史的権威。次に、その土地の新たな主となった「岩崎家」という近代日本の経済的権力者。この二つの強力なイメージが、人々の意識の中で強く結びついた。そして時間の経過と共に、この「近代」の出来事が、品川の持つより古い「湊」や「宿場」の歴史と混ざり合い、単純化されていく。「岩崎家は(昔から)品川にいた大商人だ」という、時代を超越した曖昧な認識が生まれる素地が形成されたのである。「岩崎勝右衛門」という架空の人物像は、この歴史的イメージの重層と混同が生み出した、最終的な産物である可能性が高い。それは史実ではないが、品川という土地と、そこに関わった有力者たちの歴史が、人々の記憶の中でいかに変容し、再生産されていくかを示す、極めて興味深い事例と言えるだろう。
本報告書は、「戦国時代の品川の商人、岩崎勝右衛門」という人物の歴史的実在性を検証することから始まった。徹底的な史料調査の結果、この人物は歴史記録の中にその名を見出すことができず、異なる時代の複数の歴史的事実が混同されて生まれた、伝承上の存在である可能性が高いと結論付けた。しかし、この不在の証明を目的とする探求は、期せずして、品川という土地における「商人」のあり方が、時代と共にいかにダイナミックに変遷してきたかを明らかにする貴重な機会となった。中世の海を支配した自律的な「有徳人」、近世の公的制度を担った「宿役人」、そして近代の国家と結びついた「財閥」。これら三つの異なる商人像の解明こそが、本報告の最大の成果である。
品川の商人像の変遷は、この土地の歴史的役割の変化と完全に同期している。中世、品川が江戸湾の物流を担う自律的な「湊」であった時代には、鈴木道胤のような、経済力と文化的権威を兼ね備えた豪商が地域を支配した。近世、徳川幕府の中央集権体制の下で品川が東海道の「宿」として制度化されると、利田家のような、公役を担う行政官的な商人が主役となった。そして近代、日本が国民国家として再編され、資本主義経済が導入されると、品川は首都圏の枢要な一角となり、岩崎弥太郎のような、国家政策と一体化した産業資本家がその地に邸宅を構えた。この商人像の変遷は、日本社会の構造変化が、品川という一つの地域にいかに具体的に現れたかを示す縮図に他ならない。
本件は、歴史を研究する上で、伝承や断片的な情報を無批判に受け入れるのではなく、一次史料に遡って一つ一つの事実を丹念に検証する「史料批判」の重要性を改めて示す好例である。一つの素朴な問いから出発し、史料の海を渉猟する過程で、当初の想定とは全く異なる、より豊かで複雑な歴史の全体像が立ち現れてくる。利用者から提示された「岩崎勝右衛門」という名は、結果として歴史の闇に消えた。しかし、その探索の旅路の果てに我々が見出したのは、時代と共にその貌を変え続けた、名もなき、あるいは名高き品川の商人たちの確かな足跡であった。これこそが、歴史研究の醍醐味であると言えよう。