岩松尚純は家臣横瀬氏に実権を奪われ隠居したが、連歌に傾倒し、一流の文化人として名を残した。自画像も残し、武力だけでなく文化で生きた。
室町時代後期、戦国という新たな時代の幕開けを告げる上野国(現在の群馬県)に、一人の特異な武将が存在した。その名は岩松尚純(いわまつ ひさずみ)。新田金山城の城主として、源氏の名門・新田氏の血を引く岩松宗家の当主という、輝かしい地位を継いだ人物である 1 。しかし、彼の名は武功や領国経営の手腕によってではなく、家臣に実権を奪われ権力の座から追われた「悲運の当主」として、そして、その失意の後半生を連歌の道に捧げた「文人武将」として、歴史に刻まれている 3 。
岩松尚純の生涯は、一見すると矛盾に満ちている。彼は、武将としては時代の激流に抗うことができず、家臣であった横瀬氏の下剋上によって隠居を余儀なくされた 1 。一方で、文化人としては当代一流の連歌師・宗祇や宗長らと交流し、自らも准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』に九首もの句が入集するほどの才能を発揮した 1 。この「権力闘争の敗者」と「一流の文化人」という二つの顔は、単に彼個人の資質に起因するものではない。彼の人生は、室町時代後期から戦国時代初期にかけての日本社会を貫く、二つの巨大な潮流が交差する一点に位置していた。
一つは、「下剋上」という、旧来の権威と秩序が崩壊し、実力ある者が上位の者を凌駕していく政治的・社会的変動の嵐である 6 。もう一つは、応仁の乱を契機として、それまで京都に集中していた高度な文化が地方へと拡散し、各地の領主層の間で花開いた「文化の地方伝播」という静かな光である。尚純の生涯は、この二つの潮流に翻弄され、その中で自らの生きる道を模索した軌跡そのものであった。
本報告書は、岩松尚純の人生を多角的に検証することにより、彼が単なる「無力な当主」であったという一面的な評価を越え、その実像に迫ることを目的とする。彼の「武将としての失敗」と「文化人としての成功」は、決して無関係な事象ではない。むしろ、両者は表裏一体の関係にあり、政治的権力を失ったからこそ、文化の領域に新たな権威と存在意義を見出そうとした、彼の意識的な選択の結果であった可能性を考察する。岩松尚純の生涯を通じて、武力による「天下」を目指す道だけが全てではない、戦国という時代が内包していた武士の多様な生き方と価値観の一端を明らかにしたい。
西暦(和暦) |
岩松尚純の動向 |
岩松氏・横瀬氏の動向 |
関東・中央の主要な出来事 |
1461(寛正2) |
上野国にて誕生 5 。 |
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1469(文明元) |
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祖父・家純、金山城を築城し、岩松氏を統一 8 。 |
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1494(明応3) |
祖父・家純の死に伴い、34歳で家督を継承 5 。 |
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明応の政変(中央)。 |
1495(明応4) |
父・明純と共に横瀬成繁と対立。古河公方の仲介で隠居させられる 5 。 |
父・明純が金山城を攻撃。横瀬成繁が尚純の子・夜叉王丸の名代(後見人)となる 9 。 |
宗祇らにより『新撰菟玖波集』が成立。尚純の句も9首入集 1 。 |
1501(文亀元) |
41歳の時、自画像『紙本墨画岩松尚純像』を制作 1 。 |
横瀬成繁、死去 9 。 |
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1509(永正6) |
新田荘にて、連歌師・宗長を招き連歌会を催す 1 。 |
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1511(永正8) |
10月15日、死去(享年51) 1 。 |
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1528(享禄元)頃 |
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子・昌純、横瀬泰繁に攻められ自害(享禄の乱) 9 。 |
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岩松尚純が歴史の表舞台に登場した15世紀末、彼が継承した岩松氏とその本拠地・上野国は、既に深刻な動揺と構造的な脆弱性を内包していた。彼の悲劇的な運命を理解するためには、まず、彼が生まれ育った時代の関東地方がいかなる状況にあり、岩松一族がどのような葛藤を抱えていたのかを解き明かす必要がある。尚純の代における権力基盤の弱体化と家臣・横瀬氏の台頭は、彼の祖父の代から仕掛けられた「時限爆弾」であった。
尚純が生まれる約15年前の享徳3年(1454年)、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺したことをきっかけに、関東地方全域を巻き込む大乱が勃発した。世に言う「享徳の乱」である 16 。この戦乱は、古河に本拠を移した足利成氏(古河公方)方と、室町幕府の支援を受ける上杉氏方との間で、約30年にもわたって繰り広げられた 18 。長期にわたる争いは、鎌倉府という関東の統治機構を事実上崩壊させ、守護大名の権威を著しく低下させた。その結果、各地の国人領主や有力な家臣たちが、主家の統制から離れて自立化し、実力で領地を奪い合う「下剋上」の時代へと突入する、決定的な土壌を形成したのである 6 。
この関東全域を揺るがす大乱は、上野国新田荘を本拠とする岩松氏をも分裂させた。一族は、古河公方方に与した岩松持国を当主とする系統と、幕府・上杉方に与した尚純の祖父・岩松家純を当主とする系統の二つに分かれ、血で血を洗う抗争を繰り広げた 16 。前者は、当主・持国が右京大夫の官職を得ていたことから、その唐名にちなんで「
京兆家 (けいちょうけ)」と呼ばれ 17 、後者は、家純が治部大輔の官職を得ていたことから同じく「
礼部家 (れいぶけ)」と称された 17 。この分裂は、まさに関東全体の対立構造の縮図であり、岩松氏は大勢力の代理戦争の舞台と化したのであった。
長く続いた一族の抗争は、礼部家の家純が、寛正2年(1461年)に京兆家の当主・持国とその子・次郎を謀殺するという衝撃的な形で終結に向かう 14 。さらに文明元年(1469年)、家純は京兆家の跡を継いだ岩松成兼を追放し、遂に分裂した岩松氏の武力による統一を成し遂げた 21 。この統一事業の拠点として、また、50年以上ぶりに回復した本領・新田荘の支配を盤石にするため、家純は同年に重臣の横瀬国繁に命じ、金山に新たな城を築かせた 8 。これが、後に関東七名城の一つに数えられる難攻不落の山城、金山城である 22 。この城は、上野・下野・武蔵の三国を見渡せる戦略的要衝に位置しており、家純の権力の象徴であった 23 。
しかし、家純による支配は、新たな火種を内包していた。彼は、実子である岩松明純(尚純の父)と、宿敵であった古河公方への対応を巡って激しく対立し、最終的に明純を勘当・廃嫡するという強硬手段に打って出たのである 1 。この一連の経緯は、家純に仕えた僧侶・松陰が記した回想録『松陰私語』に詳しく、岩松家の深刻な内部亀裂を物語っている 10 。実子を退けた家純は、その子、すなわち嫡孫である尚純を自らの後継者に指名した 5 。父が存命でありながら、祖父から孫へと家督が継承されるという極めて不規則な形は、家純という絶対的な権力者の死後、必ずや権力闘争が再燃することを示唆していた。尚純が継承したのは、安定した領国ではなく、いつ爆発してもおかしくない「負の遺産」だったのである。
岩松尚純は、寛正2年(1461年)、父・明純と、母・蜷川氏の娘との間に生まれた 5 。母方の蜷川氏は、室町幕府の中枢で政所代(まんどころだい)を世襲する名門であり、この血縁は岩松氏と幕府との繋がりを強める上で重要な意味を持っていた 5 。彼の名である「尚純」の「尚」の字は、当時の室町幕府第9代将軍・足利義尚(よしひさ)からの一字拝領(偏諱)であると推測されている 5 。これは、幕府との関係を重視した祖父・家純の意向や、母方の蜷川氏の斡旋によるものと考えられ、尚純が礼部家の正統な後継者として、幕府からも公認された存在であったことを示している。
家系 |
関係図 |
岩松氏(礼部家) |
岩松家純 ―┬― 明純(廃嫡)― 岩松尚純 ―┬― 昌純(自害) └―(女子) └― 氏純(自害) |
横瀬氏 |
横瀬国繁 ― 横瀬成繁 ― 景繁 ― 泰繁 ― 由良成繁(改姓)― 由良国繁 |
この系図は、岩松家の家督継承がいかに歪なものであったかを視覚的に示している。祖父・家純から父・明純を飛び越えて孫の尚純へと継承された権力は、正統性に常に疑問符が付きまとい、その基盤は極めて脆弱であった。一方で、横瀬氏は着実な世代交代を重ねており、その安定性が岩松氏の不安定さと対照的である。この構造こそが、後の下剋上の伏線となっていた。
明応3年(1494年)、祖父・家純の死によって岩松氏の家督を継承した尚純は、当主となったその瞬間から、自らの意のままにならない厳しい現実に直面する。彼の治世は、平穏な領国経営ではなく、家中の実権を巡る権力闘争の連続であった。そしてその闘争は、わずか1年余りで、彼の政治生命を絶つという結末を迎える。この失墜劇は、単に尚純個人の無力さだけではなく、廃嫡された父の野心、台頭する家臣の戦略、そして関東の最高権威である古河公方の思惑が複雑に絡み合った、高度な政治ゲームの結果であった。
86歳で家純が没すると、34歳の尚純が金山城主、そして岩松氏の当主となった 5 。しかし、その権力基盤は名目上のものであり、実質的な権勢は、祖父の代から家宰(執事)として岩松家の軍事・政治を支えてきた横瀬氏が掌握していた 13 。特に、家純の腹心であった横瀬国繁の子・成繁は、父の地位を継いで筆頭家老として家中に絶大な影響力を行使しており、若き新当主・尚純にとってはその存在自体が脅威であった 27 。横瀬氏は、もはや単なる家臣ではなく、主家の運命を左右するほどの力を持つ、独立した勢力と化していたのである。
絶対的な権力者であった家純の死は、岩松家内部に抑え込まれていた不満を一気に噴出させた。その中心にいたのが、かつて廃嫡された尚純の父・明純であった 10 。彼は家純の死を千載一遇の好機と捉え、横瀬氏から実権を奪還すべく行動を開始する。明純は、当主であるはずの息子・尚純を自陣に引き込むと、横瀬成繁・景繁父子が守る金山城に攻撃を仕掛けた 1 。この時、下野国の佐野小太郎といった外部勢力も明純・尚純方に加勢しており、事態は岩松家内部の争いにとどまらない広がりを見せていた 9 。
この内紛の構図は、単純な「主君・尚純 vs 家臣・横瀬」という対立ではない。実態は、「権力奪還に燃える前当主の父・明純と、それに同調せざるを得なかった現当主・尚純」の連合軍が、「家中の実権を死守しようとする家宰・横瀬成繁」に挑んだという、より複雑なものであった。尚純は、父の野心と台頭する家臣との板挟みになり、主体的な指導力を発揮できないまま、争いの渦に巻き込まれていった。この明純の無謀な行動こそが、結果的に横瀬氏に決定的な利を与えることになった。横瀬成繁は、主君の父が当主を巻き込んで本拠の城を攻めるという異常事態に対し、城を固守することで「主家の秩序を守る忠臣」として振る舞う大義名分を得たのである。
内紛が泥沼化する中、関東の最高権威であった古河公方・足利成氏が、この争いの仲介に乗り出した 5 。成氏の狙いは、自らの影響下にある上野国の混乱を収拾し、地域の安定を図ることにあった。しかし、彼が下した裁定は、尚純にとって事実上の敗北宣言に等しい、極めて過酷なものであった。
明応4年(1495年)12月18日に成立した和約の内容は、以下の通りである 9 。
この和約は、形の上では争いの仲裁であったが、実質的には横瀬氏による下剋上を、古河公方が公的に追認したものであった。横瀬成繁は、主家の内紛という絶好の機会を捉え、自らを「秩序の回復者」として演出し、公方の権威を利用して自らの権力を合法化したのである。この一連の事件は、主家の内紛(屋裏の揉め事)が原因で家臣に実権を奪われたことから、「屋裏の錯乱(やりのさくらん)」とも呼ばれる 28 。尚純は、この武力だけでなく権謀術数が渦巻く高度な政治ゲームの、紛れもない敗者となった。家督を継いでわずか1年余り、彼は金山城を追われ、政治の表舞台から姿を消すことになったのである。
権力の座を追われた岩松尚純は、しかし、歴史から完全に消え去ったわけではなかった。彼は武将としての道を断たれた後、自らの人生を文化と芸術の領域で再構築するという、稀有な道を選択する。政治的権威の象徴であった「金山城主・岩松尚純」の名を捨て、文化的権威の体現者たる「静喜庵(じょうきあん)」として生まれ変わったのである。彼の後半生における文化的活動は、単なる隠居生活の慰みや気晴らしなどでは断じてない。それは、失われた政治的権威に代わる新たなアイデンティティを確立し、後世に自らの存在を刻みつけようとする、極めて意識的で戦略的な営みであった。
金山城を追われた尚純は、一族の本拠地である新田荘岩松の地(現在の群馬県太田市岩松町)に閑居した 3 。彼が隠棲の場として選んだのは、源義国(新田氏・足利氏の祖)の開基と伝わる時宗の古刹・青蓮寺であった 12 。この寺で、彼は「静喜庵」と号し、風雅の道に没頭する日々を送る 3 。妻の秋吟尼(しゅうぎんに、佐野氏出身)もまた、夫と共にこの地で静かな余生を過ごしたと伝えられている 3 。
尚純の文化活動は、単に自らが楽しむだけに留まらなかった。彼は、当時の東国武士たちの間で連歌が流行する一方、その作法やマナーが乱れていることを嘆き、正しい連歌のあり方を説くための作法書『 連歌会席式 (れんがかいせきしき)』を著した 1 。これは、彼が自らを東国における文化の指導者・普及者と位置づけ、文化的な秩序を打ち立てようとしたことを示している。失った政治的権力に代わり、文化の領域で「立法者」たらんとした、彼の強い自負の表れであった。この他にも、『
池水草 (ちすいそう)』と題する著作があったことが記録されている 12 。
尚純の連歌師としての実力は、中央の文化界でも高く評価されていた。その最も明確な証拠が、当代随一の連歌師・宗祇(そうぎ)らが中心となって編纂した、第二の准勅撰連歌集『 新撰菟玖波集 (しんせんつくばしゅう)』に、彼の句が 9首 も入集しているという事実である 1 。驚くべきことに、この撰集が成立したのは明応4年(1495年)、まさに尚純が権力闘争の渦中で苦しみ、隠居に追い込まれたその年であった 11 。この事実は、彼が政治的に失脚する以前から、既に都の連歌界と深く通じ、一流の文化人として認められるほどの実力を持っていたことを雄弁に物語っている。彼の文化への傾倒は、失脚後の「転身」というよりも、武将としての人生と並行して追求し続けていた道であり、失脚によってその道が人生の本流となったと解釈すべきであろう。
隠居後も、尚純の文化人としての名声は衰えることがなかった。永正6年(1509年)8月には、宗祇亡き後の連歌界を牽引していた第一人者・宗長(そうちょう)が新田荘を訪れた際、尚純は彼を自らの庵に招き、連歌会を催している 1 。この交流は、尚純が地方にありながらも、常に中央の文化ネットワークの第一線にいたことを示している。
尚純が後世に残した最も注目すべき遺産の一つが、青蓮寺に伝わる『 紙本墨画岩松尚純像 (しほんぼくが いわまつひさずみぞう)』である 12 (現在は群馬県立歴史博物館に寄託)。この肖像画は、文亀元年(1501年)、尚純が41歳の時の作とされ、彼自身の筆による自画像と伝えられている 1 。画の上部には、自らが詠んだ連歌の発句三句が添えられており、彼の芸術的才能が集約された作品となっている 1 。この自画像は、現存するものが模本のみである雪舟の自画像と並び、
日本美術史上、最初期の自画像 の一つとして極めて高い価値を持つ 1 。武将が自らの内面と向き合い、その姿を絵筆で捉え、さらに自作の詩歌を書き添えて後世に残すという行為は、単なる記録を超えた、強烈な自己表現の意志の表れである。彼は、後世の人々から「どのような人物として記憶されたいか」を、自らの手で規定しようとした。これは、究極の自己プロデュースであり、武力ではなく文化によって自己の不滅性を追求した、彼の生き方の象徴と言える。
永正8年(1511年)10月15日、岩松尚純は波乱の生涯を閉じた。享年51であった 1 。彼の墓は、隠棲の地であった青蓮寺のほど近く、現在「岩松尚純萩公園」として整備されている場所に、妻・秋吟尼の五輪塔と並んで静かに佇んでいる 3 。公園内には、彼が詠んだとされる和歌「なでつくす 袖か岩本の朝霞 ほととぎす 月にいざよふ雲間かな 風またで露におられよ萩が花」を刻んだ歌碑も建てられており 3 、権力闘争の喧騒から離れ、風雅に生きた文人武将の面影を今に伝えている。
岩松尚純の死は、彼個人の生涯の終わりであると同時に、名門・岩松氏の領主としての歴史が事実上終焉を迎える序曲でもあった。彼の死後、残された子孫は悲劇的な末路を辿り、一族は完全に没落していく。それとは対照的に、下剋上を仕掛けた家臣・横瀬氏は、主家の権威までも巧みに取り込みながら「由良氏」と名乗りを変え、上野国に確固たる地盤を築く戦国大名へと飛躍を遂げる。この両家の対照的な運命は、尚純の失脚が単なる一個人の悲劇ではなく、旧来の権威が崩壊し新たな実力者が台頭する、戦国という時代の大きな歴史的転換点であったことを如実に物語っている。
尚純の跡を継いだのは、かつて横瀬成繁の後見のもとで家督を継承した息子・昌純(幼名・夜叉王丸)であった。彼は横瀬氏の傀儡としての日々を送る中で、成長するにつれてその専横に強い憤りを募らせていった 28 。そして享禄元年(1528年)頃、昌純はついに横瀬氏(当主は泰繁)を排除すべく、密かに陰謀を企てる。しかし、この最後の抵抗はあまりにも無力であった。彼の計画は事前に横瀬泰繁に察知され、逆に金山城を攻められるという事態を招く 9 。追い詰められた昌純は、なすすべなく自害。この「
享禄の乱 」と呼ばれる事件により、岩松氏による権力奪還の試みは完全に潰えた 9 。さらに、昌純の跡を継いだ弟の氏純もまた、実権を握られたまま、やがて自害に追い込まれたとされ、ここに領主としての岩松氏は事実上滅亡したのである 14 。
主家を完全に無力化した横瀬氏は、名実ともに金山城主となり、上野国南部に勢力を誇る独立した戦国領主となった 33 。そして、8代当主・横瀬成繁(尚純と争った成繁の曾孫にあたる同名の人物)の代に、彼らは下剋上の総仕上げとも言うべき、象徴的な行動に出る。鎌倉時代に新田氏宗家が相伝してきた由緒ある地名「由良郷」にちなみ、姓を横瀬から「
由良 」へと改めたのである 26 。これは単なる名称の変更ではない。旧主・岩松氏が拠り所としてきた「新田一族」というブランド、その権威の源泉を根こそぎ奪い取り、自らがその正統な後継者であると内外に宣言する、極めて高度な政治的戦略であった。彼らは武力によって権力を奪うだけでなく、主家の歴史と権威までも簒奪することで、下剋上を完成させたのである。
戦国大名・由良氏として新たなスタートを切った成繁は、その巧みな政治手腕を発揮する。領国は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康という、当代屈指の強大な勢力に囲まれていたが、成繁は時に従い、時に離反するという巧みな外交を展開し、家の存続と勢力拡大に成功した 32 。その存在は中央にも知られ、将軍・足利義輝から鉄砲を贈られたり、その弟・義昭(後の15代将軍)から上洛を要請されたりと、関東における有力な国人領主として一目置かれる存在となっていた 35 。由良氏の巧みな立ち回りは、血筋や家格といった旧来の価値観ではなく、現実的な政治・軍事バランスを読み解く能力こそが、戦国乱世を生き抜くための必須条件であったことを示している。
一方、領主の座を追われた岩松氏の末裔は、不遇の時代を送った。江戸時代に入り、徳川家康によって召し出されたものの、与えられたのはわずか20石の扶持であり、後に加増されても120石という、ごく小身の旗本として家名を保つに過ぎなかった 2 。かつて新田荘一帯を支配した名門の姿は、そこにはもはや見る影もなかった。岩松氏の没落と由良氏の興隆という鮮やかな対比は、時代の過酷な淘汰圧を冷徹に描き出している。
岩松尚純の生涯を、彼が生きた時代の文脈の中に置いて詳細に検証すると、従来語られてきた「家臣に権力を奪われた無力な当主」という一面的な評価が、必ずしもその実像を捉えきれていないことが明らかになる。彼の運命は、個人の資質のみならず、彼が継承した岩松氏そのものが内包していた構造的な脆弱性と、下剋上という抗いがたい時代の激流によって、大きく規定されていた。
尚純の失脚は、彼の祖父・家純による血塗られた統一と、父・明純の廃嫡という、歪な権力継承にその遠因があった。家純という絶対的な個人の死後、権力の空白と内紛が生じるのは必然であり、その間隙を突いて家臣の横瀬氏が台頭したのも、また時代の必然であった。尚純は、この複雑な権力ゲームを乗りこなす政治的手腕に恵まれていなかったことは事実であろう。
しかし、彼の真価は、政治闘争の敗北の先にこそ見出される。彼は、武力で争う土俵から降りるという選択を(あるいは、せざるを得ない状況に追い込まれた結果として)、結果的に自らの命脈を保ち、全く異なる土俵、すなわち文化と芸術の世界で不滅の名声を得ることに成功した。これは単なる「敗北」ではなく、ある種の戦略的な「転進」であったと再評価することも可能である。
彼の著作『連歌会席式』は、東国文化の指導者たらんとする意志の表れであり、准勅撰集『新撰菟玖波集』への入集は、中央文化圏に認められた確かな実力の証明であった。そして、自らの手で描いたとされる自画像は、失われた物理的な城(金山城)に代わり、後世にまで自らの内面と存在を伝えようとする、精神的な砦を築く試みであった。
岩松尚純の生き方は、現代に生きる我々にも静かに問いかける。権力や富といった画一的な成功の尺度だけが、人生の価値を決めるのではない。文化や芸術、自己の内面の探求といった領域にもまた、人間の尊厳と時を超える価値が存在することを、彼の生涯は示唆している。武将としては時代に敗れたかもしれない。しかし、彼が残した一首の和歌や一枚の肖像画は、彼が失った金山城の石垣以上に、岩松尚純という人間の存在を、そして彼が生きた時代の奥深さを、今なお雄弁に物語っている。
最終的に、岩松尚純は「戦国時代が生んだ、最も非戦国的な文人武将」として、その歴史的意義を位置づけることができる。彼は、武力による支配が全てであった時代に、文化の力によって自己を確立し、後世に確かな足跡を残した。その特異な生涯は、戦国という時代の多様性と、そこに生きた人間の複雑な精神性を理解する上で、極めて貴重な光を放ち続けている。