岩松氏純
岩松氏純は新田岩松氏の悲劇の当主。家宰横瀬氏に実権を奪われ、傀儡として擁立された後、自害に追い込まれた。彼の死は岩松氏の事実上の滅亡を意味した。
新田岩松氏の興亡―中興の祖・家純から悲劇の当主・氏純へ―
序章:岩松氏純をめぐる問い―歴史の交差点に立つ二人の人物
日本の戦国時代史において、「岩松氏純(いわまつ うじずみ)」という名の武将を調査する際、我々は歴史の交差点に立つ二人の異なる人物に行き当たる。利用者の方が提示された「新田岩松家13代当主」という情報は、この一族の長大な歴史の一端を示すものであるが、その名を巡る探求は、一人の人物の生涯に留まらず、約一世紀にわたる一族の栄光と没落の軌跡そのものを解き明かす鍵となる。本報告書は、この歴史的錯綜を解きほぐし、二人の「氏純」―すなわち、岩松氏中興の祖である 岩松家純(いえすみ)と、その曾孫にあたる悲劇の当主岩松氏純(うじずみ) ―の生涯を軸として、新田岩松氏の興亡の全貌を、詳細かつ徹底的に論じるものである。
岩松氏は、清和源氏の名門、足利氏の支族であり、その祖は足利義純と新田義兼の娘との間に生まれた時兼に遡る 1 。この出自は、岩松氏に足利・新田両氏の血を引くという複雑な立場を与えた。南北朝の動乱期において、新田宗家が南朝方の中核として戦い、そして滅んでいったのに対し、岩松氏は一貫して北朝、すなわち足利方に属した 3 。この政治的選択の結果、岩松氏は新田氏の故地である上野国新田荘の支配権を掌握し、室町時代を通じて「新田氏惣領」を自認する地域の一大勢力へと成長した 5 。
しかし、その権力基盤は決して盤石ではなかった。室町幕府と鎌倉府の対立、関東管領上杉氏と古河公方足利氏の果てなき抗争(享徳の乱)という、関東地方の複雑な政治力学の渦中に常に身を置いていたからである。そして、その内部では、戦国という時代の潮流を象徴する「下剋上」の波が、家臣である横瀬氏との関係を通じて、静かに、しかし確実に進行していた 8 。
本報告書の主題は、単なる人物伝ではない。それは、岩松家純による奇跡的な一族の再興から、曾孫・氏純の自害による事実上の滅亡に至るまで、約一世紀にわたる権力構造の変転を追う通史である。特に、主家である岩松氏と、その家宰として権勢を強めていく横瀬氏との関係性の変化に焦点を当て、下剋上という歴史事象が、上野国の一国人領主の家中でいかに具体的に展開されたかを解明することを目的とする。
以下の年表は、本報告書で詳述する岩松氏と横瀬氏の興亡に関わる主要な出来事をまとめたものである。これは、錯綜した関東の戦乱と、その中で繰り広げられた一族の運命を理解するための一助となるであろう。
【表1】岩松氏・横瀬氏関連年表(1416年~1590年)
西暦 |
元号 |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1416年 |
応永23年 |
上杉禅秀の乱が勃発。岩松満純は禅秀方に与する。 |
岩松満純 |
10 |
1417年 |
応永24年 |
岩松満純が鎌倉公方足利持氏に敗れ、処刑される。家純は西国へ逃れる。 |
岩松満純, 岩松家純 |
11 |
1440年 |
永享12年 |
結城合戦。家純(当時、長純)は幕府軍として参陣。 |
岩松家純, 岩松持国 |
10 |
1454年 |
享徳3年 |
享徳の乱が勃発。家純は上杉方に属し、関東へ下向。 |
岩松家純, 足利成氏 |
11 |
1461年 |
寛正2年 |
家純、対立していた京兆家の岩松持国を討伐し、岩松氏を統一。 |
岩松家純, 岩松持国 |
10 |
1469年 |
文明元年 |
家純、新田荘に金山城を築城。岩松氏の覇権を確立。 |
岩松家純 |
10 |
1477年 |
文明9年 |
家純、嫡男・明純を勘当。家宰・横瀬国繁の地位が強まる。 |
岩松家純, 岩松明純, 横瀬国繁 |
5 |
1494年 |
明応3年 |
岩松家純、86歳で死去。孫の尚純が家督を継ぐ。 |
岩松家純, 岩松尚純 |
10 |
1495年 |
明応4年 |
「屋裏の錯乱」。尚純・明純父子が横瀬成繁に敗北。尚純は隠居させられ、幼い昌純が傀儡当主となる。 |
岩松尚純, 岩松明純, 横瀬成繁 |
9 |
1528年頃 |
享禄元年頃 |
「享禄の乱」。岩松昌純が横瀬泰繁の討伐を企てるも失敗し、殺害される。弟(または子)の氏純が擁立される。 |
岩松昌純, 岩松氏純, 横瀬泰繁 |
16 |
1548年頃 |
天文17年頃 |
岩松氏純、横瀬氏の圧迫により自害。国人領主岩松氏は事実上滅亡。 |
岩松氏純 |
19 |
1565年 |
永禄8年 |
横瀬成繁(泰繁の子)が「由良」に改姓。戦国大名として自立。 |
由良成繁 |
8 |
1590年 |
天正18年 |
小田原征伐後、金山城は廃城となる。 |
- |
14 |
第一章:岩松家純の雌伏と再興―幕府の後ろ盾と関東への帰還
岩松家純の波乱に満ちた生涯は、一族の没落という絶望的な状況から始まった。彼の復活劇は、個人の才覚のみならず、室町幕府と鎌倉府の対立という、当時の日本東部を揺るがした巨大な政治構造の変動と密接に結びついている。
没落の背景と流浪の日々
応永23年(1416年)、関東に「上杉禅秀の乱」が勃発した。これは、鎌倉公方・足利持氏と、前関東管領・上杉氏憲(禅秀)との間の権力闘争であった。この時、家純の父である岩松満純は、舅であった禅秀に与し、持氏に反旗を翻した 10 。満純は新田義宗の子であり、母方の叔父である岩松満国から家督を継いだ人物で、新田氏の血を引く者としての矜持と、上杉氏との姻戚関係から、この決断に至ったと考えられる 5 。
しかし、乱は持氏方の勝利に終わり、満純は翌応永24年(1417年)に追討を受けて敗死、鎌倉で処刑された 11 。この敗北により、当時わずか9歳であった家純(幼名:土用松丸)は、祖父・満国によって廃嫡され、岩松氏の家督を継ぐ道を完全に絶たれた 10 。家臣に連れられて長楽寺で出家したものの、幕府による追討を恐れ、西国へと逃避するほかなかった。その後の約20年間、彼は美濃の土岐氏や播磨の赤松氏といった有力守護大名の庇護下で、歴史の表舞台から姿を消し、雌伏の時を過ごすこととなる 11 。この流浪の歳月が、彼に中央の政治情勢を冷静に観察し、再起の機会を窺うための貴重な時間を与えたことは想像に難くない。
中央権力との接続と岩松氏の分裂
家純に転機が訪れたのは、永享の乱(1438年-1439年)によって、長年の宿敵であった鎌倉公方・足利持氏が室町幕府に討伐された後のことであった。6代将軍・足利義教は、持氏の没落を受けて関東の再編に着手する中で、家純の存在に目をつけた。義教は家純の罪を赦免し、還俗させて「長純」と名乗らせ、自らの陣営に引き入れたのである 11 。
この義教の措置には、明確な政治的意図があった。満純の死後、岩松氏の家督は従兄弟にあたる岩松持国(満純の弟・満春の子)が継いでいたが、この持国は持氏派の武将であった 11 。義教は、持国に対抗させるための「幕府派」の駒として、正統な血筋でありながら不遇をかこっていた家純を擁立しようと画策したのである。家純にとって、これは失われた家督を取り戻すための絶好の機会であった。
こうして、幕府の後ろ盾という強力な「政治的資本」を得て関東に復帰した家純は、武蔵国五十子(現在の埼玉県本庄市)に拠点を構えた。これにより、上野国新田荘の本領を支配する持国の「京兆家(きょうちょうけ)」と、幕府の権威を背景とする家純の「礼部家(れいぶけ)」という、二つの岩松氏が並立する分裂状態が生まれた 5 。京兆家は持国の官職である右京大夫の、礼部家は家純の官職である治部大輔の唐名に由来する。この呼称は、彼らの対立が単なる一族内の争いに留まらず、鎌倉府と室町幕府という二つの権力中枢を巻き込んだ代理戦争の様相を呈していたことを物語っている。
以下の系図は、この分裂と、その後の下剋上の主役となる岩松氏礼部家と家臣・横瀬氏の世代交代を視覚的に示したものである。
【表2】新田岩松氏(礼部家)と横瀬氏主要人物系図
Mermaidによる関係図
第二章:享徳の乱と岩松家の統一―戦乱を乗り越えた覇権確立
永享の乱と結城合戦を経て、一旦は沈静化したかに見えた関東の情勢は、享徳3年(1454年)に再び大動乱の時代へと突入する。新たに鎌倉公方となった足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことに端を発する「享徳の乱」である。この約30年にも及ぶ未曾有の内乱は、関東の諸勢力に過酷な選択を迫ったが、岩松家純にとっては、分裂した一族を統一し、覇権を確立するための決定的な舞台となった。
享徳の乱における家純の選択と横瀬氏の奮戦
享徳の乱が勃発すると、関東の国人領主たちは、古河を拠点とする足利成氏(古河公方)方と、幕府・関東管領上杉氏方への二分を余儀なくされた。家純は、自らを再興させた幕府への恩義と、これまでの政治的立場から、迷わず上杉方に与し、再び関東の戦乱に身を投じた 11 。一方、京兆家の岩松持国は古河公方方に属し、岩松氏内部の対立は、関東全域を巻き込む大戦乱の構図の中に組み込まれていった。
この戦乱の初期、家純の軍事行動を支えたのが、家臣の横瀬氏であった。家純の代官として出陣した横瀬貞国は、享徳3年(1544年)の武蔵国須賀合戦において、成氏方と激戦を繰り広げた末に討死するという犠牲を払った 8 。父の跡を継いだ子の横瀬国繁は、若くして岩松家の軍事と家政を担う重責を負うことになったが、この悲劇は、横瀬氏が主家の存亡のために命を賭して戦う、かけがえのない存在であることを岩松家中に強く印象づける出来事となった。国繁は父の遺志を継ぎ、家純を支え続け、やがて岩松家執事として頭角を現していく 8 。
京兆家の打倒と岩松氏の統一
戦乱が長期化し、戦線が膠着する中、家純は好機を窺っていた。長禄2年(1458年)、幕府が新たな関東公方として足利政知(堀越公方)を伊豆へ下向させると、家純はこれを好機と捉え、横瀬国繁の外交手腕を駆使して京兆家の切り崩しにかかる。国繁は、古河公方方に属していた岩松持国との交渉を担当し、同年9月には持国を幕府・上杉方へと帰順させることに成功した 10 。
この帰順によって、岩松氏は一時的に上杉方として一本化されたかに見えた。しかし、持国の寝返りは長続きしなかった。寛正2年(1461年)5月、持国父子が再び古河公方・成氏方へ内通しようとしていることを察知した家純は、これを許さなかった。彼は機先を制して持国を討伐し、長年にわたって対立してきた京兆家を完全に滅ぼしたのである 6 。
この勝利は、家純にとって画期的な意味を持っていた。父の代からの宿願であった岩松氏の統一を、自らの手で成し遂げたのである。これにより、家純率いる礼部家が、名実ともに岩松氏の唯一の嫡流となり、新田荘における支配権を確固たるものにした。この成功は、家純自身の的確な政治判断力に加え、主家の危機に際して忠誠を尽くし、軍事・外交の両面で多大な功績を挙げた家臣・横瀬氏の能力に大きく依存していた。岩松氏の統一と覇権確立は、同時に、家宰・横瀬氏の家中における地位を決定的に高める結果をもたらした。それは、家純の権力を強化すると同時に、将来、主家の権力を脅かす可能性のある強力な家臣を育て上げるという、諸刃の剣であったのである。
第三章:金山城築城と新田惣領家の確立―権威の象徴としての山城
岩松氏の統一を成し遂げた家純は、その覇権を永続的な形として内外に示すため、壮大な事業に着手する。それが、本拠地である新田荘を見下ろす金山(かなやま)の頂に、新たな城を築くことであった。文明元年(1469年)に築かれた金山城は、単なる軍事拠点に留まらず、新田荘の新たな支配者、そして「新田氏惣領」としての岩松家純の権威を象徴する政治的モニュメントとしての性格を色濃く帯びていた。
築城の意図と権威の可視化
家純が金山城の築城を開始したのは、京兆家を滅ぼし、関東管領上杉方の拠点であった五十子陣から本拠地・新田荘へと帰還した直後の文明元年(1469年)であった 10 。このタイミングは極めて重要である。長年の内乱を勝ち抜き、一族の統合をほぼ果たした家純にとって、自らの勝利と支配を、誰の目にも明らかな形で示す必要があった。金山城の築城は、まさにそのための事業であった。
標高239メートルの独立峰である金山は、関東平野を一望できる戦略的要衝である 13 。ここに壮大な山城を築くことは、周辺の国人領主や領民に対し、岩松氏の圧倒的な軍事力と財力を誇示する効果的な手段であった。築城という巨大な公共事業は、一族や家臣団の労働力と財力を動員するプロセスそのものが、家純の支配者としての権威を確認し、強化する行為でもあった。完成した金山城は、岩松氏の権威の象徴(シンボル)として機能し、惣領家としての地位を盤石なものにしたのである 23 。
金山城の構造と『松陰私語』の記録
金山城は、関東七名城の一つに数えられるほどの堅固な城郭であった 13 。自然の地形を巧みに利用し、石垣や土塁、そして尾根筋をV字状に深く掘り切って敵の侵攻を阻む「堀切」や、堀底が平らな「箱堀」といった、当時の最先端の築城技術が随所に用いられている 13 。近年の発掘調査では、大手虎口(正門)の巨大な石垣や、籠城生活を支えた石組の井戸、カマド跡、そして火薬庫とも考えられる石敷きの建物跡などが確認されており、単なる要塞ではなく、政庁や邸宅としての機能も備えた、高度な複合施設であったことが明らかになっている 27 。
この築城の政治的性格を雄弁に物語るのが、家純に仕えた僧侶・松陰が記した回想録『松陰私語』である。同書には、文明元年の築城に際して、家純が一族被官を金山城に集結させて盛大な儀式を執り行った「金山城事始」の様子が記録されている 28 。これは、京兆家併合の儀式でもあり、家純が新たな権力秩序の頂点に立つことを、一族郎党の前で厳粛に宣言する、極めて政治的なパフォーマンスであった。
金山城の完成により、岩松氏は新田荘における物理的・軍事的な支配を確立すると同時に、「新田岩松家」として、かつて栄華を誇った新田本宗家に代わる惣領家としての地位を不動のものとした 3 。しかし、この堅固な城の支配権は、後の時代に岩松氏と横瀬氏の間の権力闘争における最大の焦点となる。家純が自らの権威の象徴として築いた城が、皮肉にも、後の下剋上の舞台を用意することになったのである。
第四章:家中の亀裂と下剋上の萌芽―嫡男・明純の勘当と横瀬氏の台頭
金山城を築き、一族の統一を成し遂げ、絶頂期にあった岩松家純の権力に、初めて深刻な影が差す事件が起こる。文明9年(1477年)、嫡男である岩松明純を勘当するという、家中を揺るがす内紛であった。この事件は、単なる親子の不和に留まらず、家宰・横瀬氏の地位を決定的に押し上げ、やがて主家を凌駕する下剋上の土壌を育む重大な転換点となった。
長尾景春の乱と父子の対立
事件の引き金となったのは、文明8年(1476年)に勃発した「長尾景春の乱」であった。山内上杉家の家宰職を巡る内紛から始まったこの乱に際し、家純は景春に呼応して、長年敵対してきた古河公方・足利成氏方に味方するという、大きな政治的路線転換を行った 10 。
しかし、この決断に真っ向から反対したのが、嫡男の明純であった。明純は京都で生まれ育ち、将軍家に仕えていた経験もあってか、幕府・上杉方との関係を重視していた 11 。彼は父の路線転換に従わず、上杉方との連携を維持しようとした。父子の政治路線の対立は深刻化し、ついに翌文明9年(1477年)5月、明純は父の陣を離れて上杉方へと出奔する。激怒した家純は、明純を「勘当」するという厳しい処分を下した 5 。
この事件の深刻さは、『松陰私語』に「一味神水三ヵ条起請」として記録されていることからも窺える 28 。これは、家中の分裂を防ぐために、神前で起請文を焼き、その灰を溶かした水を飲み交わして誓いを立てるという、極めて重い儀式である。絶対的な権力者であったはずの家純に対し、嫡男が公然と反旗を翻したという事実は、岩松家中の統制に深刻な綻びが生じ始めていたことを示している。
横瀬国繁の仲介と権力構造の変化
この岩松家断絶の危機を収拾し、事態を乗り切る上で決定的な役割を果たしたのが、家宰の横瀬国繁であった。国繁は、対立する家純と明純の間を奔走し、最終的に家純と、勘当された明純の子、すなわち孫にあたる尚純とを和解させ、尚純を岩松家の正式な後継者として認めさせることに成功したのである 9 。
主家の後継者問題という、最も重要かつデリケートな問題に深く介入し、これを解決に導いたことで、横瀬国繁の家中における影響力と発言権は、もはや誰も無視できないほど強大なものとなった。彼は、単なる筆頭家臣ではなく、主家の運命を左右する調停者(アービター)としての地位を確立したのである。
この功績を認め、また自らの権威を保つためにも、家純は横瀬氏の力を公認せざるを得なかった。同年、家純は横瀬国繁の家宰としての地位を正式に認める文書を発給し、国繁は名実ともに岩松氏執事となった 15 。この瞬間から、岩松氏の権力構造は大きく変質した。主家の権威は、家臣である横瀬氏の能力と忠誠に深く依存する構造となり、これが後の下剋上の直接的な布石となった。家純が築き上げた権力は、その基盤に自らを掘り崩す要因を内包していたのである。
第五章:「屋裏の錯乱」と横瀬氏の権力掌握―家純死後の激震
明応3年(1494年)4月22日、86年の長寿を全うし、岩松家純がこの世を去った 10 。彼の死は、一個人の生涯の終わりであると同時に、その絶対的な権威によってかろうじて保たれていた岩松家中の秩序が崩壊する始まりでもあった。堰を切ったように噴出した内部対立、すなわち「屋裏の錯乱(おうりのさくらん)」を経て、家宰・横瀬氏は主家を完全に傀儡化し、事実上の主権者へと登り詰める。ここに、下剋上は決定的な段階を迎えた。
権力の真空と「屋裏の錯乱」の勃発
家純の死後、家督はかねてからの約束通り、孫の岩松尚純が継いだ 16 。しかし、家中の実権は、家純の時代から権勢を振るってきた家宰・横瀬成繁(国繁の子)が掌握していた。この状況に不満を抱いたのが、尚純の父であり、かつて家純に勘当された隠居の身の明純であった 9 。
明純は、息子の尚純を抱き込み、強大化しすぎた横瀬氏から実権を奪還しようと画策する。明応4年(1495年)、横瀬成繁が草津へ湯治に出かけた留守を狙い、明純・尚純父子派は横瀬氏が守る金山城を攻撃した 15 。この岩松家中の内紛は、その生々しい経緯が『松陰私語』に「屋裏之錯乱」として記録されており、主家派と家宰派の激しい権力闘争の実態を今に伝えている 9 。
しかし、この企ては失敗に終わる。金山城と家中の主要な軍事力を掌握していた横瀬氏の力は、名ばかりの当主である尚純らの抵抗を許さなかった。この事件は、単なる権力闘争ではなく、二つの異なる権力原理の衝突であった。一つは「血筋」を正統性の根拠とする岩松氏の原理。もう一つは「実力」を正統性の根拠とする横瀬氏の原理である。戦国の世においては、後者が前者を凌駕していくのは必然の流れであり、この事件はその象徴であった。
傀儡当主の擁立と下剋上の完成
内紛は、当時の関東の最高権威であった古河公方・足利成氏の仲介によって収束する 16 。しかし、その和約の内容は、岩松氏にとって屈辱的なものであった。当主・尚純は強制的に隠居させられ、その嫡子でまだ幼い夜叉王丸(やしゃおうまる、後の岩松昌純)が新たな当主として擁立された。そして、その後見人(名代)として、敵対したはずの横瀬成繁父子が就任することが定められたのである 8 。
これは、下剋上の典型的な手法であった。主君を追放し、その幼い子を新たな主君として擁立することで、自らは「後見人」として合法的に全権を掌握する。この和約が成立した瞬間、岩松氏は統治する主体から、統治される客体へと転落し、主従関係は事実上、完全に逆転した。金山城の支配権、軍事指揮権、領国経営の全ての実権は、公然と横瀬氏の手に渡ったのである。
以下の表は、家純の時代から、この下剋上が完成するまでの権力構造の変遷をまとめたものである。権力が不可逆的に岩松氏から横瀬氏へと移行していく過程が明確に見て取れる。
【表3】岩松氏と横瀬氏の権力構造の変遷
権力項目 |
岩松家純 時代 (-1494年) |
岩松尚純・屋裏の錯乱期 (1494-1495年) |
岩松昌純・氏純 時代 (1495年-) |
当主 |
岩松家純 |
岩松尚純 |
岩松昌純 → 岩松氏純 |
金山城の支配者 |
岩松家純 |
横瀬成繁 |
横瀬氏 |
軍事指揮権 |
岩松家純 (横瀬氏が補佐) |
横瀬成繁 |
横瀬氏 |
所領安堵権 |
岩松家純 |
横瀬成繁 |
横瀬氏 |
家臣団の統率権 |
岩松家純 |
岩松派と横瀬派に分裂 |
横瀬氏 |
横瀬氏の地位 |
筆頭家宰、執事 |
主家と対立、実権掌握 |
事実上の君主 (後見人) |
岩松氏の地位 |
絶対的君主 |
権力奪還を試みるも敗北 |
傀儡、名目上の存在 |
第六章:傀儡の当主たち―昌純の殺害と氏純の自害
「屋裏の錯乱」によって事実上の支配者となった横瀬氏の下で、岩松氏は名ばかりの当主を戴く傀儡と化した。横瀬氏の完全な支配下で、名目上の当主として生きた岩松昌純、そして岩松氏純の生涯は、戦国時代における旧来の権威の終焉を象徴する悲劇であった。彼らの抵抗と挫折、そして死は、新たな時代の支配者、戦国大名・由良氏の誕生を告げる最終幕となったのである。
岩松昌純の抵抗と死―「享禄の乱」
「屋裏の錯乱」の後に傀儡として擁立された夜叉王丸は、成人して岩松昌純と名乗った 32 。彼は、ただ無力に甘んじているだけの当主ではなかった。成長するにつれて横瀬氏の専横に強い憤りを抱き、主家としての権威と実権を取り戻すべく、一縷の望みをかけて抵抗を試みる 5 。
享禄元年(1528年)頃、昌純は当時の横瀬氏当主・横瀬泰繁(成繁の子)を討伐する計画を密かに企てた。しかし、既に家中の全てを掌握していた泰繁に対し、この陰謀は事前に露見してしまう 32 。計画の失敗は、昌純に破滅的な結末をもたらした。泰繁はただちに反撃の軍勢を差し向け、昌純はなすすべもなく攻められ、殺害された(あるいは自害したとされる) 5 。享年45であった。この事件は「享禄の乱」とも呼ばれ、岩松氏による最後の組織的抵抗が完全に潰えたことを意味した 16 。
岩松氏純の擁立と悲劇的な末路
主君・昌純を殺害した横瀬泰繁であったが、彼はすぐには岩松氏の看板を降ろさなかった。いまだ「新田氏惣領」としての岩松氏の名には、領国支配において利用価値のある権威が残っていたからである。泰繁は、昌純の弟(一説には子)であった岩松氏純を、新たな傀儡当主として擁立した 17 。
この岩松氏純こそ、利用者の方が当初尋ねられた人物である。しかし、彼の生涯に関する記録は極めて乏しい。それは、彼が歴史の舞台において、自らの意志で行動する主体ではなく、完全に実権を奪われた客体であったことを物語っている。彼は金山城主の座も追われ、横瀬氏の監視下で、事実上の監禁状態に置かれていたと伝えられる 19 。
もはや岩松氏を主君として遇する必要すらなくなった横瀬氏からの圧迫は、日増しに強まっていったであろう。存在意義を完全に失い、名ばかりの当主としての屈辱的な日々を送る中で、氏純はついに自害に追い込まれた 5 。彼の死の具体的な年代は天文17年(1548年)頃と推定されるが 20 、その死をもって、上野国に覇を唱えた国人領主としての新田岩松氏は、事実上、歴史からその姿を消した。
氏純の自害は、単なる一個人の絶望による死ではない。それは、血統や家格といった中世的な権威が、武力と策略という戦国的な実力の前では完全に無力であることを最終的に証明する、象徴的な儀式であった。彼の死によって下剋上のプロセスは完了し、横瀬氏は旧主の権威を過去のものとして清算する。やがて横瀬成繁(泰繁の子)は、新田氏ゆかりの地名にちなんで「由良」と改姓し、自らが正統な支配者たる戦国大名として自立したことを宣言した 8 。岩松氏が築いた金山城は、これより由良氏の居城として、新たな歴史を歩み始めるのである 14 。
第七章:岩松氏の文化的側面―武門の誉れと風流
権力闘争と下剋上という血なまぐさい政治史の裏側で、岩松氏は武門の家系として、また文化の担い手としての一面も持っていた。特に、政治的実権を失った後の当主たちが連歌や書画の世界に生きたことは、戦国武士の多様な価値観と生き方を示す興味深い事例である。権力のあり方が、その文化活動の性格をも規定していた。
文人としての岩松尚純
「屋裏の錯乱」によって家宰・横瀬氏に実権を奪われ、金山城を追われて隠居を余儀なくされた岩松尚純は、武人としての道を絶たれた後、文化の世界に新たなアイデンティティを求めた 7 。彼は「静喜庵」と号し、当時、武士や公家の重要な教養であった連歌に没頭した。
その才能は並々ならぬもので、連歌界の第一人者であった宗祇や、その弟子である宗長とも親しく交流し、永正6年(1509年)には新田荘に滞在した宗長と連歌会を催している 36 。宗祇が中心となって編纂した勅撰に準じる連歌集『新撰菟玖波集』には、尚純の句が9首も入集しており、彼が当代一流の連歌師として認められていたことがわかる 6 。
さらに尚純は、東国武士の連歌会における作法の乱れを嘆き、『連歌会席式』という作法書を著した 36 。これは、彼が単なる趣味としてではなく、連歌の道を深く究め、その文化的権威の保持者たらんとしたことを示している。また、群馬県太田市の青蓮寺に伝わる彼の自画像は、現存する日本最古級の自画像の一つとしても知られ、文化史的にも極めて貴重な遺産である 36 。権勢を誇った祖父・家純が築いたのが「城」という物理的な権力の象徴であったのに対し、権力を失った尚純が後世に残したのは「連歌」や「書画」という文化的な遺産であった。
「岩松の猫絵」伝説と霊的権威
岩松氏の文化的影響は、江戸時代に入ってからも意外な形で生き続けた。それが「岩松の猫絵」の伝説である。江戸時代、財政難に苦しんだ岩松氏の当主は、生計を立てるために猫の絵を描いて売っていたと伝えられる 23 。この猫絵が、養蚕が盛んであったこの地方において、蚕を食い荒らすネズミ除けの御利益があるとされ、養蚕農家の間で「お守り」として珍重されたのである 38 。
この背景には、「ネズミの害は、南朝方として非業の死を遂げた新田義貞一族の怨霊によるもの」という根強い俗信があった 38 。そして、その怨霊に対抗できるのは、新田氏の正統な惣領家である岩松氏の威光以外にない、と人々は信じたのである。これは、岩松氏が政治的・軍事的な実権を完全に失った後も、「新田氏惣領」という血統に由来する文化的・霊的な権威だけは、民衆の間で生き続けていたことを示す非常に興味深い事例である。政治権力と文化的権威が、必ずしも一致しないことを物語っている。
結論:岩松氏の栄光と没落が語るもの
本報告書は、「岩松氏純」という名を巡る問いから出発し、岩松氏中興の祖・家純(いえすみ)の栄光と、その権力基盤の内に孕まれた矛盾、そして曾孫・氏純(うじずみ)の悲劇に至る下剋上の力学を、約一世紀にわたる通史として解明してきた。新田岩松氏一族の興亡史は、室町時代後期から戦国時代へと至る日本の社会変動を、地方国人領主の視点から克明に映し出す、稀有な歴史の縮図である。
岩松家純は、紛れもなく傑出した武将であった。父の非業の死による没落から身を起こし、室町幕府という中央権力との結びつきを巧みに利用し、関東の長期にわたる戦乱を好機と捉える鋭い政治感覚、そして有能な家臣団を駆使する卓越した手腕によって、一度は滅びかけた一族を再興した。金山城の築城は、彼が一代で築き上げた地域権力の頂点を示す記念碑であった。しかし、その成功は、家宰・横瀬氏の軍事力と政治力に深く依存するものであった。家純の権力基盤は、その成立の時点から、主家の存続を家臣の能力に委ねるという構造的脆弱性を抱えていたのである。結果として彼は、自らが育て上げた有能な家臣によって、自らの子孫が築いた権力を奪われるという、下剋上の道筋を準備してしまったと言える。
その帰結が、岩松氏純の悲劇的な生涯であった。彼の生涯は、彼個人の悲劇に留まらない。それは、血統や家格、伝統といった中世的な権威の原理が、武力、策略、そして経済力といった実力主義という新しい時代の論理の前に、いかに無力であったかを証明するものであった。傀儡として擁立され、抵抗も虚しく自害に追い込まれた彼の死は、国人領主・岩松氏の時代の終わりと、彼らを乗り越えて誕生した戦国大名・由良氏の時代の始まりを告げる、一つの画期であった。
新田岩松氏の栄光と没落の物語は、我々に歴史のダイナミズムを教える。権力は決して静的なものではなく、常に内部からの挑戦と外部環境の変化に晒されている。家純の成功と失敗、そして氏純の悲劇は、下剋上という現象が、いかにして地方の権力構造を内側から静かに、しかし根底から変容させていったかを示す、極めて貴重なケーススタディである。歴史の中に埋もれがちな二人の「岩松氏純」に光を当てることは、この日本の歴史における大きな転換点を、より深く、より具体的に理解するための重要な鍵となるのである。
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