最終更新日 2025-06-18

岸田忠氏

「岸田忠氏」の画像

岸田忠氏(晴澄)の生涯:大和国人から豊臣大名、そして盛岡藩御預人へ

序章:歴史の転換期を生きた武将、岸田忠氏

戦国乱世の終焉から徳川幕藩体制の確立へ。日本史上、最も劇的かつ流動的な時代を生きた一人の武将がいた。その名を岸田忠氏(きしだ ただうじ)という。史料によっては、実名である「晴澄(はるずみ)」の名でも記録される人物である 1

彼の生涯は、まさに時代の激流そのものであった。大和国(現在の奈良県)の有力な土豪、筒井氏の一家臣として歴史の舞台に登場した忠氏は、その才覚と時流を読む鋭敏さによって、天下人・豊臣秀吉の目に留まり、ついには一万石を領する大名へと昇り詰める。しかし、その栄光は長くは続かない。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与したことで、その地位と所領のすべてを失う。死罪を免れた彼は、遠く陸奥国盛岡藩へと流され、「御預人(おあずかりにん)」という特殊な身分で、波乱に満ちた生涯の後半期を過ごすこととなる。

これまで断片的にしか語られてこなかった岸田忠氏の生涯は、一地方武士の立身出世物語であると同時に、時代の転換点における選択の厳しさ、そして勝者と敗者の運命を分けた政治力学の実相を映し出す鏡でもある。本報告書は、『増補筒井家記』 3 、『篤焉家訓』 2 、『奥南旧指録』 2 といった複数の史料を横断的に分析し、これまで謎に包まれていた岸田忠氏という人物の実像を、その出自から立身、戦闘、そして北国での最期に至るまで、詳細かつ徹底的に掘り下げ、歴史の文脈の中に再構築することを目的とする。

表1:岸田忠氏 略年表

年代(西暦)

年齢(推定)

出来事

不明

-

生誕。

天正年間(1573-1592)

-

大和国の戦国大名・筒井順慶に仕え、2,000石を領する 1

天正13年(1585)

-

筒井家が伊賀へ転封。忠氏は大和に残留し、豊臣秀長に仕える 1

文禄3-4年頃(1594-1595)

-

秀長の養子・秀保の死後、豊臣秀吉の直臣となる 1

文禄4年(1595)以降

-

大和国山辺郡岸田に1万石を与えられ、大名となる 1

慶長5年(1600)8月

-

関ヶ原の戦いに際し西軍に所属。三河国藤川に放火を試みるも失敗 1

慶長5年(1600)9月15日

-

関ヶ原本戦で小西行長隊に属して戦うが敗北。戦後、改易される 1

慶長6年(1601)11月

-

助命され、陸奥国盛岡藩主・南部利直に御預人として預けられる 1

元和元年(1616)12月2日

70余歳

盛岡藩の預かり先にて死去。花巻の光林寺に葬られる 1

寛文元年(1662)

-

子の岸田右近が嗣子なく死去。大名としての岸田家は断絶する 1


第一章:大和の風雲と筒井家臣時代 ― 国人としての基盤形成

岸田忠氏の武将としてのキャリアは、戦国末期の動乱に揺れる大和国で始まった。彼がどのような背景を持ち、いかにして歴史の表舞台へと進出していったのかを理解するためには、当時の大和国の情勢と、彼が属した「岸田一族」の動向をまず把握する必要がある。

1-1. 戦国末期の大和国情勢

忠氏が青年期を過ごした16世紀後半の大和国は、二人の梟雄による覇権争いの渦中にあった。一人は、興福寺の衆徒から身を起こし、大和一国を平定しようとする筒井順慶。もう一人は、三好三人衆を操り、畿内に絶大な権勢を誇った松永久秀である 5 。両者の抗争は熾烈を極め、筒井城の攻防戦をはじめ、大和の国人衆を巻き込んだ一進一退の戦いが繰り広げられた 5 。この中で筒井氏は、織田信長の勢力を後ろ盾とすることで次第に優位に立ち、最終的に松永氏を滅ぼして大和の支配権を確立。戦国大名としての地位を固めていった 5 。岸田忠氏は、この筒井氏の興隆期にその家臣団の中核を担う武将として活躍したのである。

1-2. 大和国人・岸田一族の動向

岸田忠氏は、単独で歴史に登場したわけではない。彼は、古くから大和に根を張る「岸田氏」という国人一族の一員であった。一族の中には、筒井家の重臣として阿保城(現在の奈良県内に比定)の城主を務めた岸田伯耆守遠正(きしだ ほうきのかみ とおまさ)や、その弟である岸田遠近(とおちか)といった人物の名が史料に見える 8 。彼らは元々、筒井氏と覇を競った大和の有力国人・越智氏の代官を務めていたとされ、筒井氏に仕える以前からの在地領主としての確固たる基盤を持っていたことがうかがえる 8

さらに、筒井氏の治世を記録した『増補筒井家記』には、本拠地である郡山城の城下町を整備する「町割奉行」として、「岸田覚右衛門(きしだ かくえもん)」という人物が任じられた記録が残っている 3 。この覚右衛門が忠氏本人、あるいは近親者であったかは断定できないものの、岸田一族が単なる武辺者だけでなく、城下町の建設という高度な行政能力をも有する集団として、筒井政権内で重要な役割を担っていたことを強く示唆している。

1-3. 筒井家臣としての忠氏

こうした一族を背景に、忠氏は筒井順慶の家臣として二千石を領する有力武将の地位にあった 1 。彼は順慶に従い、宿敵・松永久秀との数々の戦いに身を投じ、武将としての経験と名声を着実に積み上げていった。

しかし、天正12年(1584年)に英主・順慶が病没すると、筒井家の運命は暗転する。跡を継いだ養子の定次(さだつぐ)は、翌天正13年(1585年)、天下人となった豊臣秀吉の国替え政策によって、先祖伝来の地である大和国から伊賀国(現在の三重県西部)へと移封されることになった 1 。この時、岸田忠氏は重大な決断を下す。彼は主君・定次には従わず、大和の地に留まることを選んだのである 1

この決断の背景には、国人領主としての彼の本質が深く関わっている。伊賀への転封は、実質的には筒井家の勢力削減であり、その将来性には大きな疑問符がついていた。一方で、大和には秀吉の実弟である豊臣秀長が新たな領主として入部し、畿内における豊臣政権の最重要拠点として再編されようとしていた。衰退する旧主と共に未知の土地へ移るリスクよりも、自らの一族が根を張る本拠地・大和に留まり、中央の新たな、そしてより強大な権力者に仕えることこそが、一族の存続と発展に繋がる道である。これは、忠氏が単なる忠実な家臣ではなく、自らの領地と一族の将来を冷静に見据える、したたかな国人領主であったことを物語っている。彼のこの戦略的判断が、後の大名への道を切り拓く第一歩となったのである。

第二章:豊臣政権下での立身 ― 一万石大名への道

旧主・筒井氏と袂を分かち、大和に留まる道を選んだ岸田忠氏。その決断は、彼の生涯における最大の転機となった。彼は新たな支配者である豊臣家の家臣として、中央政権との繋がりを深め、ついには一万石を領する大名へと駆け上がっていく。

2-1. 豊臣秀長・秀保への仕官

大和国の新領主となったのは、豊臣秀吉の弟であり、その政権を実務面で支えた豊臣秀長であった。忠氏は、この秀長、そしてその養子である秀保に仕えることで、自身の地位を巧みに維持・向上させていく 1 。秀長の家臣団には、後に築城の名手として名を馳せる藤堂高虎をはじめ、全国から有能な人材が集結していた。忠氏はこの中で、中央政権の動向や最新の統治技術に触れ、後の飛躍の糧となる人脈と知見を蓄積していったと考えられる。

2-2. 豊臣秀吉の直臣、そして大名へ

文禄4年(1595年)頃、主君である秀保が若くして亡くなると、忠氏の運命は再び大きく動く。彼は秀保の旧臣の中から抜擢され、天下人・豊臣秀吉の直臣(じきしん)、すなわち豊臣家直属の家臣へと取り立てられたのである 1

そして、この抜擢に続き、忠氏の生涯における栄光の頂点が訪れる。彼は、大和国山辺郡岸田(現在の奈良県天理市岸田町周辺)において一万石の所領を与えられ、大名としての地位を確立した 1 。この「岸田」という地名は、彼の名字と奇しくも一致する。これが偶然か、あるいは彼の祖先と所縁のある土地であったかは定かではないが、自らの名を冠する地で大名となったことは、彼にとってこの上ない名誉であっただろう。

この一連の処遇は、秀吉の巧みな人事戦略の一環として解釈できる。大和国は、古くからの寺社勢力や国人衆が根を張る、統治の難しい土地であった。秀吉にとって、旧筒井家臣でありながらいち早く豊臣政権に恭順の意を示し、かつ在地事情に精通した忠氏は、大和を安定させる上でまさに理想的な人材であった。彼を大名として取り立て、先祖伝来の地と思われる場所を与えることで、その忠誠心を確固たるものにすると同時に、他の大和国人衆に対して豊臣政権の威光と懐柔策を示すという、一石二鳥の効果を狙ったものと推察される。忠氏の立身は、彼個人の能力や働きに加え、時代の要請に的確に応えた結果でもあったのだ。

2-3. 黄母衣衆(きほろしゅう)への抜擢

忠氏が豊臣政権の中枢でいかに高く評価されていたかを示す、もう一つの動かぬ証拠がある。それは、彼が「黄母衣衆(きほろしゅう)」の一員に選ばれていたという事実である 1

母衣衆とは、大将の背後で、母衣(ほろ)と呼ばれる武具を背負うことを許された、選りすぐりのエリート武官集団である。彼らは戦場において、主君の命令を最前線に伝える伝令役や、主君の身辺を固める親衛隊としての重要な役割を担った。特に豊臣家の母衣衆は、赤母衣衆と黄母衣衆に分かれ、その一員となることは武人としての最高の栄誉とされた。忠氏がこの黄母衣衆に名を連ねていたことは、彼が単なる一万石の大名というだけでなく、豊臣秀頼に直接仕える、武勇と忠誠を兼ね備えた信頼厚い側近として、政権中枢に認識されていたことを意味している。この名誉ある地位が、後の彼の運命を決定づけることにも繋がっていく。

第三章:天下分け目の戦いと岸田家の没落

豊臣秀吉の死後、徳川家康の台頭によって豊臣政権は大きく揺らぐ。慶長5年(1600年)、ついに天下は二つに割れ、関ヶ原で激突する。豊臣家直属の黄母衣衆として、また一万石の大名として厚遇された岸田忠氏は、この未曾有の動乱に際し、西軍の一員として戦う道を選ぶ。それは、豊臣家への忠義を貫く道であったが、同時に自身の家を没落へと導く選択でもあった。

3-1. 西軍参加への道

忠氏が石田三成率いる西軍に与した理由は、複数の要因が考えられる。第一に、そして最も大きな理由は、豊臣家への純粋な忠誠心であろう。秀吉によって一介の国人から大名へと引き立てられ、その子・秀頼の親衛隊である黄母衣衆にまで抜擢された彼にとって、豊臣家を守護するとの大義名分を掲げた西軍に馳せ参じるのは、武士として当然の帰結であった 1

第二に、旧知の人間関係が影響した可能性も否定できない。西軍の軍事的中核を担った島左近は、かつて忠氏と同じく筒井順慶に仕えた同僚であった 5 。旧知の間柄である左近からの誘いや、彼が西軍にいるという事実が、忠氏の決断を後押ししたことは十分に考えられる。

3-2. 関ヶ原に至るまでの軍事行動

忠氏の西軍への加担は、日和見的なものではなかった。彼は本戦に先立ち、極めて積極的かつ大胆な軍事行動を起こしている。慶長5年8月11日、忠氏は東軍の東海道からの進軍を妨害するため、三河国藤川(現在の愛知県岡崎市)の宿場町に夜襲をかけ、放火を試みた 1 。これは敵地の深くに潜入して兵站線を叩くという、危険を伴う攪乱作戦であった。

しかし、この作戦は地元住民の抵抗に遭い、失敗に終わる。忠氏の部隊は武装解除され、この戦闘で家臣の岸田弥右衛門が捕らえられ処刑されるという、手痛い犠牲を払うこととなった 1 。この藤川での一件は、忠氏が自らの意思で積極的に東軍への敵対行動を取った「確信犯」であったことを物語っている。彼は、家臣を失うリスクを冒してでも西軍の勝利に貢献しようとしたのであり、その行動からは豊臣家への恩義に報いようとする彼の義理堅い武将としての一面がうかがえる。

3-3. 関ヶ原本戦での奮戦と敗北

そして慶長5年9月15日、関ヶ原での決戦の火蓋が切られた。岸田忠氏は、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として、同じく秀頼の馬廻衆である織田信高や伊藤盛正らと共に、小西行長の部隊に配属された 1 。彼らは西軍の最前線の一つとして、東軍の猛攻に立ち向かった。

しかし、戦況は松尾山に陣取った小早川秀秋の裏切りによって一変する。西軍は総崩れとなり、忠氏が属した小西隊も壊滅的な打撃を受けた。奮戦も虚しく、西軍は敗北。この敗戦により、岸田忠氏は築き上げてきた全てのものを失う。彼は大名の地位を剥奪され、所領一万石は没収。改易(かいえき)という最も重い処分を受けることとなったのである 1 。彼の豊臣家への忠誠心は、皮肉にも自らの家を滅ぼす結果を招いた。

第四章:盛岡藩御預人としての後半生 ― 北国での終焉

関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易処分となった岸田忠氏。本来であれば、首謀者の一人として斬首されてもおかしくない立場であった。しかし、彼の運命は意外な方向へと転回する。死を免れた彼は、遠く離れた陸奥国盛岡藩へと送られ、そこで「御預人」として静かにその生涯を終えることとなる。

4-1. 「御預人」としての新たな身分

慶長6年(1601年)11月、戦後処理の一環として、岸田忠氏の身柄は陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられることが決定した 1 。「御預人」とは、江戸幕府が特定の藩に対し、罪人や政治犯などの身柄の監視・扶助を命じる制度である。預かった藩は、対象者の逃亡を防ぐ厳重な監視義務を負う一方で、その生活を保障する責任も担っていた 13 。忠氏は、かつての一万石大名から一転、監視下で余生を送る身となったのである。

4-2. 助命の謎と藤堂高虎の影

藤川宿への放火未遂など、西軍として積極的に行動した忠氏がなぜ助命されたのか。史料にはその明確な理由は記されていない。しかし、当時の状況から有力な仮説を立てることができる。それは、東軍の有力武将であり、徳川家康からの信頼も厚かった藤堂高虎による助命嘆願である。

忠氏と高虎は、かつて共に豊臣秀長の家臣として仕えた旧知の間柄であった 16 。高虎は関ヶ原の戦いで東軍の勝利に大きく貢献し、戦後処理において絶大な発言力を持っていた。当時の戦後処理においては、東軍の有力大名が、旧知の仲である西軍武将の助命を家康に働きかける例は決して珍しくなかった 18 。高虎が旧僚である忠氏の才覚を惜しみ、家康にその命を救うよう仲介した可能性は極めて高いと推察される。

4-3. 盛岡での生活と最期

南部家預かりとなってから約15年後の元和元年(1616年)12月2日、岸田忠氏は70余年の波乱に満ちた生涯の幕を閉じた 1 。その墓は、現在の岩手県花巻市石鳥谷町中寺林にある時宗寺院・光林寺(こうりんじ)に現存する 1 。光林寺は鎌倉時代創建の古刹であり、地域の歴史と深く関わってきた寺院である 21 。忠氏は、故郷の大和から遠く離れたこの北国の地で、静かに眠りについている。

4-4. 息子・右近への破格の待遇と岸田家の終焉

忠氏の死後も、その家名は南部藩の中で特別な扱いを受けていた。父と共に南部家預かりとなった息子・右近(うこん)の処遇が、そのことを物語っている 1

正保2年(1645年)に定められた盛岡藩の正月儀礼の席次を記した史料『篤焉家訓』には、驚くべき記述がある。岸田右近は、藩の最高位の家臣である「高知(たかち)」、すなわち譜代の重臣たちと同格の席を与えられていたのである 1 。これは「御預人」の子としては、まさに破格の待遇であった。

この異例の措置は、単なる罪人の子に対する温情とは考えにくい。南部藩が、助命の仲介者(藤堂高虎など)への義理を重んじたか、あるいは、忠氏・右近父子が持つ大和国での築城技術や統治の経験、中央政権に関する知識などを高く評価し、藩政に活用しようとした意図があった可能性を示唆している 16 。南部藩にとって岸田父子は、単なる監視対象ではなく、藩の威信を高め、有益な情報をもたらしうる「賓客」に近い存在だったのかもしれない。

しかし、この厚遇も岸田家の再興には繋がらなかった。右近は寛文元年(1662年)に嗣子のないまま死去。これにより、大名・岸田忠氏の血筋は、歴史の表舞台から完全に姿を消した 1

なお、盛岡藩の公的記録である『盛岡藩雑書』には、右近の死から数年後の寛文8年(1668年)頃に、「岸田七右衛門(きしだ しちえもん)」という人物が黒沢尻(現在の北上市)の川通改奉行という役職に就いていた記録が見られる 26 。この人物が忠氏・右近父子とどのような関係にあったかは不明だが、忠氏に従って大和から移り住んだ一族の者が、後に南部藩に仕官した可能性も考えられる。

終章:岸田忠氏が歴史に遺した足跡

岸田忠氏の生涯は、戦国時代における地方国人の典型的な立身出世の物語であり、同時に、時代の大きなうねりの中で下した一つの選択がいかに武家の運命を左右するかを示す、厳粛な教訓でもある。

彼は、主家の衰退を見限って新たな権力者に仕えるという冷徹な現実主義者としての側面と、一度受けた恩義には命を懸けて報いようとする古風な義理堅さを併せ持った、複雑な人物であった。その優れた適応能力は、彼を二千石の家臣から一万石の大名へと押し上げた。しかし、その篤い忠誠心は、皮肉にも彼を没落へと導く決定的な要因となった。彼の人生は、能力だけでは生き残れない戦国乱世の非情さと、武士としての矜持との間で揺れ動いた一人の人間の軌跡そのものである。

彼の生涯、とりわけ盛岡藩での後半生は、歴史研究において重要な示唆を与えてくれる。関ヶ原の敗者が必ずしも斬首や自刃といった悲惨な末路を辿ったわけではなく、「御預人」という制度の下、元大名としての家格と尊厳をある程度保ちながら、泰平の世へと軟着陸していった事例の一つとして、戦後処理の多様性を示しているからである。息子・右近が受けた破格の待遇は、この制度が単なる罪人の監視・拘束機能だけでなく、敗者の持つ知識や技術を尊重し、新たな体制の中に緩やかに取り込んでいくという、高度な政治的側面を有していたことを物語っている。

大名としての岸田家は、寛文年間にその歴史を閉じた。しかし、大和の国人から身を起こし、豊臣政権の中枢にまで食い込み、そして天下分け目の戦いに敗れて北国に散った岸田忠氏という一人の武将の生き様は、戦国から近世へと移行する激動の時代を、一人の人間の視点から理解するための、貴重な道標として歴史の中にその足跡を留めている。

引用文献

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