島崎安重は常陸の国人領主で、「南方三十三館」筆頭。豊臣秀吉に所領を安堵されたが、1591年に佐竹義宣に謀殺された。この事件は中世から近世への移行期の悲劇を象徴する。
本報告書は、常陸国(現在の茨城県)の戦国時代末期に悲劇的な最期を遂げた国人領主、島崎安重(しまざき やすしげ)の生涯を、あらゆる角度から徹底的に調査し、その実像に迫るものである。ユーザーが提示した「南方三十三館の筆頭格であり、豊臣秀吉に所領を安堵されたが、後に佐竹義宣に謀殺された」という基本情報を出発点とし、その背景にある一族の出自、権力基盤、当時の政治情勢、そして謀殺事件の全容と歴史的意義を深く掘り下げていく。
戦国時代の末期、常陸国は激しい権力闘争の舞台であった。北部に拠点を置き、源氏の名門としての権威を背景に常陸統一へと野心を燃やす佐竹氏が、その勢力を着実に南進させていた 1 。一方で、常陸南部に古くからの伝統的権威を有していた桓武平氏大掾(だいじょう)氏の一族は、その実効支配力を次第に失い、衰退の色を濃くしていた 3 。さらに、西からは関東に覇を唱える後北条氏の威光が及び、それに与する岡見氏や土岐氏のような勢力も存在した 5 。
島崎氏は、このような巨大勢力が複雑にせめぎ合う、霞ヶ浦と北浦に挟まれた鹿島・行方(なめがた)両郡に割拠した国人領主の一人であった。彼らは、佐竹氏の圧迫と後北条氏の誘いの間で、巧みな政治判断を重ねながら自立を模索していた。本報告が解明を試みる中心的な問いは、以下の点に集約される。島崎安重(史料によっては義幹、安定とも伝わる)とは、具体的にどのような人物であったのか。彼がいかにして「南方三十三館の筆頭」と称されるほどの権勢を築き上げたのか。そして、豊臣秀吉による天下統一という時代の大きなうねりの中で、なぜ彼は佐竹義宣によって謀殺されなければならなかったのか。
この悲劇は、単なる一個人の運命の物語にとどまらない。それは、中世的な国人割拠の時代が終焉を迎え、近世的な大名一元支配体制へと移行する、日本史の大きな構造転換を象徴する事件であった。本報告は、島崎安重の生涯を丹念に追うことを通じて、この歴史的転換点における権力闘争の非情さと、それに翻弄された人々の実態を明らかにしていく。
島崎氏の悲劇的な末路を理解するためには、まず彼らがいかにして常陸国南部に強大な権力基盤を築き上げたのか、その出自と発展の歴史を遡る必要がある。
島崎氏のルーツは、桓武平氏の流れを汲む常陸大掾氏の庶流、行方氏にある。鎌倉時代初期、行方氏の祖である行方宗幹(むねもと、景幹とも)の次男・高幹(たかもと)が、行方郡島崎郷(現在の潮来市島須周辺)に分封され、その地名を姓として「島崎」を称したのが始まりとされる 3 。これは、戦国末期に急に台頭した新興勢力ではなく、鎌倉時代以来の由緒を持つ名族であったことを示している。
行方宗幹には四人の男子がおり、それぞれが独立して行方郡内の有力な国人領主へと成長した。長男の為幹(ためもと)は行方氏の惣領家(後に小高氏を称する)を継ぎ、次男の高幹が島崎氏、三男の家幹(いえもと)が麻生(あそう)氏、四男の幹政(もとまさ)が玉造(たまつくり)氏の祖となった。この四家は「行方四頭(なめがたしとう)」と称される同族連合を形成し、当初は惣領家である小高氏を中心に結束していた 3 。
しかし、時代が下り戦国乱世が深まるにつれて、一族内の力関係は変化する。島崎氏は次第に頭角を現し、行方四頭の中で主導的な地位を確立していった 3 。その過程は、必ずしも平和的なものではなかった。14代当主・忠幹(ただもと、安国)の時代には、大永2年(1522年)に同族の長山城主・長山幹綱を攻め滅ぼし、さらに天正12年(1584年)には、最後の当主・安重(義幹)が同じく行方四頭の一角である麻生城主・麻生之幹を滅ぼすなど、積極的な軍事行動によって勢力を拡大した 3 。これにより、島崎氏は名実共に行方郡における最大の勢力となったのである。
島崎氏の急速な台頭を支えたのは、軍事力だけではなかった。その本拠地である島崎城が位置する地理的条件が、彼らに強大な経済力をもたらした。島崎城は、日本で二番目に大きい湖である霞ヶ浦と、それに連なる北浦という二つの広大な内水面に挟まれた、半島状の台地の先端に築かれていた 13 。この地形は、三方を水に囲まれた天然の要害であり、陸路からの攻撃を困難にさせた。
それ以上に重要だったのは、この立地が水上交通の要衝を抑えている点であった。当時の水運は、大量の物資を効率的に輸送する最も重要な手段であり、霞ヶ浦・北浦水系は関東各地を結ぶ一大流通網を形成していた。島崎氏は、この水運を掌握し、人や物資の流れを支配することで莫大な富を築いたと考えられている 13 。その経済力は、戦国時代の指標である石高に換算して実に4万5千石にも及んだとされ、これは常陸南部の国人領主としては破格の規模であった 15 。この強大な経済力こそが、鹿行地方最大級と評される島崎城を築き、維持し、さらには周辺勢力を圧倒する軍事行動を可能にした根源的な要因であった。島崎氏は単なる土地の領主ではなく、水運ネットワークを支配する地域経済の覇者でもあったのである。
「南方三十三館の仕置」で非業の死を遂げた島崎氏最後の当主。彼の名は、史料によって「安重」「義幹」「安定」など様々に記録されており、その人物像を特定する上で最初の課題となる。
ユーザーが提示した「安重」という名は、確かに所伝の一つとして確認できる 16 。一方で、より多くの資料で散見されるのが「義幹(儀幹)」という名である 3 。さらに、「安定(やすさだ)」という名も広く伝わっており、特に父・安定大炊助が勇猛な武将であったという記述も見られる 9 。
これらの名は、同一人物を指す別名、あるいは諱(いみな、実名)と通称の違いである可能性が高い。例えば、「安定」は弟の利幹が改名した名であるという系図も存在する 17 。戦国期の武将が複数の名を持つことは珍しくないが、島崎氏最後の当主に関しては特に情報が錯綜している。
この名前の混乱は、単なる記録の曖昧さに起因するものではない。それは、彼の死と共に島崎氏という家が完全に滅亡し、自らの視点から公式な記録を編纂し、後世に伝える主体が永遠に失われたことの直接的な結果である。残されたのは、勝者である佐竹氏側の記録、利害関係のない第三者である寺社の記録、そして地域の人々の記憶が変容した伝承のみであった。これらは互いに整合性を取る必要がなく、それぞれが異なる呼称を伝えたため、複数の名前が並立する状況が生まれたと考えられる。この「記録の断絶」こそが、島崎氏の滅亡がいかに決定的で悲劇的なものであったかを象徴している。本報告では、史料の多様性を反映させるため、これらの呼称を併記する。
錯綜する伝承の中で、最も信頼性の高い一次史料として、水戸市六地蔵寺に現存する過去帳の記述が挙げられる 19 。この過去帳には、佐竹氏による謀殺事件の犠牲者について、極めて具体的で生々しい記録が残されている。
そこには、「天正十九年辛卯於上ノ小河横死」(天正19年(1591年)、上ノ小川にて非業の死を遂げる)した人物として、島崎氏当主の法名である「桂林杲白禅定門(けいりんこうはくぜんじょうもん)(シマザキ)」の名が明確に記されている。さらに、その子息についても「春光禅定門(しゅんこうぜんじょうもん)(シマザキ)号一徳丸於上ノ小川生害」(徳一丸と号す、上ノ小川にて殺害される)とあり、当主が息子の徳一丸(とくいちまる)と共に殺害されたという事実が、動かぬ証拠として確認できる 16 。この過去帳の記録は、後述する謀殺事件の核心を裏付ける、最も重要な史料と言える。
第17代当主とされる安重(義幹・安定)は、決して無力な領主ではなかった。天正12年(1584年)には、同じく行方四頭の一角であった麻生城主・麻生之幹を攻め滅ぼしている 8 。また、天正17年(1589年)には小高城を攻め、坂氏兄弟を戦死させるなど、その勢力拡大への意欲は極めて旺盛であった 17 。彼の代において、島崎氏はその武威と所領を最大化し、名実ともに「南方三十三館」の筆頭格としての地位を不動のものにしたのである。しかし、その強大化こそが、常陸統一を目指す佐竹氏の警戒心を煽り、悲劇の引き金となったことは想像に難くない。
島崎氏が築き上げた権力と武威を、最も雄弁に物語るのが、その本拠地であった島崎城である。この城の構造を詳細に分析することは、島崎氏が単なる地方の土豪ではなく、高度な軍事技術とそれを支える財力を有した、洗練された戦国領主であったことを明らかにする。
島崎城は、現在の茨城県潮来市島須にその遺構を残しており、霞ヶ浦と北浦に挟まれた鹿行(ろっこう)地方において最大規模を誇る中世城郭跡として知られている 12 。その築城は、室町時代の応永年間(1394年~1428年)に、11代当主であった島崎成幹(しげもと)によって行われたと伝えられている 3 。以来、約200年にわたって島崎氏歴代の居城として機能し、一族の盛衰と運命を共にした。
島崎城の縄張り(城の設計)は、戦国時代の築城術の粋を集めた、極めて巧妙かつ堅固なものであった。
これらの特徴は、島崎氏が中央の最新の軍事技術動向に精通し、それを自らの城に具現化するだけの高度な情報網、技術力、そして財力を有していたことを示している。「4万5千石の国人領主の城とは思えないほど考え抜かれた縄張り」 6 との評価もあるように、島崎城の遺構は、彼らが「国人」という言葉の響きから連想されるような田舎の土豪ではなく、洗練された戦国領主であったことの何よりの物証なのである。
島崎城跡では、1980年代から複数回にわたる学術的な発掘調査が実施され、その成果は報告書として刊行されている 26 。これらの調査によって出土した陶磁器などの遺物は、量・質ともに豊富であり、水運を通じて京や瀬戸内など遠隔地とも交易があったことを示唆している。これは、島崎氏が強力な経済力を有する豪族であったという、文献史料や地理的条件からの推測を考古学的にも裏付けるものである 13 。
島崎氏の運命を最終的に決定づけたのは、彼ら自身の動向以上に、日本全体を巻き込む巨大な政治的変動であった。豊臣秀吉による天下統一事業と、それに呼応した佐竹氏の領国拡大政策という二つの奔流が交錯する中で、島崎氏のような独立性の高い国人領主は、その存在自体が許されなくなっていく。
天正15年(1587年)、関白となった豊臣秀吉は、九州平定に続き、関東・奥羽の諸大名に対して「惣無事令(そうぶじれい)」を発令した。これは、大名・国人領主間の私的な合戦を全面的に禁止し、領土紛争の裁定権をすべて秀吉自身に委ねさせるという、画期的な法令であった 29 。
この法令は、武力による自力救済を存在の原則としてきた戦国の世の論理を根底から覆すものであった。関東の国人領主たちは、秀吉への完全服従か、あるいは当時関東に覇を唱えていた後北条氏に与して抵抗するかの、究極の二者択一を迫られることになった 5 。もはや、中立や日和見という選択肢は許されなかったのである。
この天下の動向に、誰よりも早く、そして巧みに対応したのが常陸の佐竹氏であった。当主・佐竹義重と、その嫡男・義宣(よしのぶ)は、早くから秀吉との連携を深め、中央政権の権威を自己の領国統一の道具として利用する戦略を採った 2 。
天正18年(1590年)、秀吉が後北条氏を討つために小田原征伐の軍を起こすと、佐竹義重・義宣父子はこれにいち早く参陣した。その結果、戦後、秀吉から常陸国一国、約54万石に及ぶ広大な領地の支配権を公的に安堵される 3 。これは、常陸国内に割拠する他の国人領主たちに対して、佐竹氏が絶対的な優位に立ったことを意味した。もはや、彼らは対等な競争相手ではなく、佐竹氏の支配下に入るべき存在と位置づけられたのである。
小田原征伐後の豊臣政権が全国的に推し進めたのが、大名の領国内における知行地の再編、すなわち「大名知行制」の確立であった 32 。これは、かつては半独立の領主であった国人衆の所領を、大名が一旦すべて召し上げ(没収し)、その上で大名の家臣として改めて知行地を与えるという、支配関係の根本的な変革であった。
このプロセスにおいて、国人領主たちは二つの道しか残されていなかった。一つは、独立領主としての地位を放棄し、大名の家臣団に組み込まれる道。もう一つは、それに抵抗し、支配体制の障害となる「反抗勢力」として淘汰される道である 35 。島崎氏を待ち受けていた悲劇は、この全国規模で進行していた、中世的秩序から近世的秩序への移行作業の過程で起きた、一つの象徴的な事件であった。
佐竹氏による「南方三十三館」の粛清は、単なる領土的野心から発せられたものではない。それは、豊臣政権が志向する新たな支配秩序を、常陸国において代行する役割を担っていた。佐竹氏は、秀吉から与えられた「常陸国主」という大義名分を最大限に活用し、旧来の国人領主たちを一掃することで、自らを中世的な武士団の盟主から、一元的な支配権を持つ「近世大名」へと脱皮させようとしたのである。この事件は、佐竹氏個人の謀略であると同時に、豊臣政権による全国支配体制構築の一環という、二重の歴史的性格を帯びていた。
島崎安重(義幹)の運命を決定づけた最大の分岐点は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に、彼がどう対応したかという点にある。しかし、この極めて重要な行動について、史料の記録は矛盾しており、事件の真相を解明する上で最大の謎となっている。
有力な説の一つは、島崎氏が秀吉方に味方し、小田原に参陣したというものである。ある史料では、島崎氏は佐竹氏や真壁氏などと共に、秀吉に味方した勢力として明確に分類されている 5 。
この説を強力に裏付けるのが、ユーザーが初期情報として把握していた「秀吉から所領を安堵された」という事実である。豊臣政権の基本方針として、小田原に参陣しなかった大名や国人は、その大小を問わず、原則として所領を没収(改易)された 4 。したがって、もし島崎氏が所領を安堵されていたとすれば、それは彼が秀吉の命令に応じて参陣したことの動かぬ証拠となる。
この「参陣・所領安堵」説に立つならば、その後の佐竹氏による謀殺は、極めて背信的な行為として浮かび上がる。秀吉という天下人から直接その地位を保証された領主を、わずか1年足らずのうちに騙し討ちにしたことになるからである。これは、佐竹氏の行為が、豊臣政権の意向とは無関係な、純粋な権力闘争であったことを示唆する。
一方で、これと真っ向から対立するのが「不参陣」説である。ある編纂物は、「儀幹は小田原攻めに参陣しなかったため、佐竹義宣によって常陸太田城で誘殺され」たと、明確に記している 17 。
この説は、佐竹氏による謀殺に「秀吉の意向に背いた者への正当な懲罰」という大義名分を与える。参陣しなかった島崎氏は、本来であれば改易されるべき存在であり、佐竹氏は常陸国主として、豊臣政権の代理でその処分を実行したに過ぎない、という論理が成り立つ。
しかし、この「不参陣」説には慎重な検討が必要である。この記述を含む史料は、事件から時代が下った後世の編纂物である可能性が高い。そのため、残虐な謀殺という事実を正当化するために、加害者である佐竹氏の側から意図的に流布された言説が、そのまま記録された可能性を否定できない。同じ常陸南部の雄であった大掾氏一族が、不参陣を理由に佐竹氏によって滅ぼされたという事実 4 と、島崎氏の運命が混同されたか、あるいは意図的に重ね合わされた可能性も考えられる。
当時の常陸南部は、大掾氏をはじめとして伝統的に後北条氏と関係の深い勢力も多く、情勢は複雑であった 5 。行方郡の覇者として佐竹氏と対抗しうる実力を持っていた島崎氏が、どちらの陣営につくか、ぎりぎりまで日和見的な態度をとっていた可能性は十分にある。
しかし、最終的な政治判断として、佐竹氏と同じく秀吉方につくことで自らの地位を保全しようと考えたとしても、何ら不自然ではない。むしろ、それが最も合理的な選択であったとも言える。
総合的に判断すると、史料間の矛盾は、事件の正当性をめぐる後世の歴史的評価の対立を反映していると見るべきである。つまり、佐竹氏の行為を「豊臣政権の意向に沿った正当な処分」と見なすか、「天下人の権威を悪用した残忍な権力闘争」と見なすかで、島崎氏の行動の解釈が180度変わってしまうのである。しかし、豊臣政権の基本的な政策と照らし合わせるならば、「小田原に参陣し、一度は所領を安堵された。しかし、佐竹氏が自らの常陸一国支配を確固たるものにする上で、障害となる島崎氏を謀略によって排除した」というシナリオが、最も高い蓋然性を持つと結論付けられる。
小田原征伐から一年も経たない天正19年2月9日(西暦1591年4月2日)、島崎氏をはじめとする常陸南部の国人領主たちを、根絶やしにするための周到に計画された作戦が実行された。後世「南方三十三館の仕置」と呼ばれるこの事件により、数百年にわたってこの地を支配してきた旧来の勢力は、わずか一日でその指導者層を失った。
佐竹義宣は、「新たな知行割(所領の再配分)を行う」という、国人領主たちにとって極めて重要な名目を掲げ、鹿島・行方両郡の主要な領主たちを、自らの居城である太田城(現在の常陸太田市)に招集した 3 。
この呼びかけに応じ、参集した島崎安重(義幹)・徳一丸父子をはじめとする諸将は、歓迎の酒宴の席に招かれた。しかし、宴がたけなわとなった頃、突如として佐竹方の兵が襲いかかり、油断していた国人領主たちを一挙に惨殺したと伝えられている 3 。これは、敵対勢力の指導部を一度に無力化する、冷徹な「斬首作戦」であった。
しかし、この惨劇の舞台は太田城だけではなかった可能性が、複数の史料や伝承から強く示唆されている。
最も重要な証拠は、一次史料である水戸市六地蔵寺の過去帳である。そこには、島崎父子が殺害された場所として「於上ノ小川」と記されている 19 。「上ノ小川」は現在の常陸大子町に比定される地名であり、太田城からは大きく離れている。この事実は、謀殺が一か所で行われたのではなく、より広範囲で実行された可能性を示している。
この推測を裏付けるように、他の犠牲者についても、太田城とは異なる場所で殺害されたという伝承が各地に残されている。例えば、鹿島城主の鹿島清秀父子は山方城(常陸大宮市)で 5 、中居城主の中居秀幹は里野宮村(常陸太田市)で、烟田城主の烟田通幹は常福寺村(常陸太田市)で、それぞれ討たれたという 5 。
これらの伝承を総合すると、太田城での酒宴は陽動作戦、あるいは作戦の一部に過ぎず、実際には佐竹領内の広範な地域において、周到に計画された同時多発的な粛清作戦が展開されたという、恐るべき全体像が浮かび上がってくる。
この事件で標的とされた勢力は、「南方三十三館」と総称される。しかし、これは実際に33の城館があったという意味ではない。水戸から見て南方に位置する鹿島・行方両郡に、多数の国人領主が割拠していたことを強調するための、佐竹氏側からの政治的な呼称(ラベリング)であったと考えられる 20 。これにより、彼らを一個の反抗勢力ブロックとして見なし、一掃する口実としたのであろう。
寺社の過去帳などの史料に基づき、この日に命を落とした主要な犠牲者を整理すると、以下の表のようになる。
【表1】「南方三十三館の仕置」における主要な犠牲者一覧
氏族名 |
当主名(伝承含む) |
子・兄弟 |
居城 |
殺害場所(伝承含む) |
典拠史料 |
嶋崎(島崎)氏 |
島崎安定(義幹・安重) |
徳一丸(子) |
行方郡・島崎城 |
上ノ小川(大子町) |
19 |
鹿島氏 |
鹿島清秀 |
子(名不詳) |
鹿島郡・鹿島城 |
山方城(常陸大宮市) |
5 |
玉造氏 |
玉造重幹(通幹) |
子(名不詳) |
行方郡・玉造城 |
大窪正伝寺(日立市) |
5 |
中居氏 |
中居秀幹 |
- |
鹿島郡・中居城 |
里野宮村(常陸太田市) |
20 |
烟田(釜田)氏 |
烟田通幹 |
弟(五郎) |
鹿島郡・烟田城 |
常福寺村(常陸太田市) |
19 |
小高氏 |
行方治部少輔 |
子(名不詳) |
行方郡・小高城 |
太田城 |
5 |
手賀氏 |
手賀刑部大輔(景国) |
民部大輔(高幹) |
行方郡・手賀城 |
太田城 |
5 |
武田氏 |
武田七郎五郎(信房) |
- |
行方郡・木崎城 |
太田城 |
5 |
相賀(アウカ)氏 |
相賀義元(入道) |
三郎四郎(子) |
行方郡・相賀城 |
(義元は逃亡、子が自害) |
20 |
この表は、事件の規模と計画性を明確に示している。当主だけでなく、その後継者である嫡男や兄弟までが同時に標的とされている点に、佐竹氏の国人勢力を根絶やしにしようとする強い意志が読み取れる。また、殺害場所とされる地名が広範囲に分散していることは、この事件が単なる宴席での騙し討ちではなく、佐竹氏の領国全域で実行された、大規模な軍事作戦であったことを物語っている。
当主とその後継者を同時に失った南方三十三館の諸氏は、もはや組織的な抵抗を続ける術を持たなかった。佐竹氏の謀略は、悲劇の第二幕へと移行する。
島崎父子の謀殺という情報が伝わるや否や、佐竹義宣はかねてより準備していた軍勢を、ただちに鹿島・行方両郡へと進撃させた 3 。指揮官を失った城々は、混乱の中で次々と佐竹軍の攻撃に晒された。
島崎氏の本拠、島崎城も例外ではなかった。主亡き城で家臣たちがどれほどの抵抗を示したか、その詳細は明らかではない。しかし、潮来市の広報誌などに残る記述によれば、佐竹の軍勢が攻め寄せ、激しい戦いの末に、難攻不落を誇った城にも火の手が上がり、次々と燃え落ちていったと伝えられている 13 。この落城をもって、鎌倉時代から約400年にわたりこの地を治めた名族・島崎氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消した。そして、その権勢の象徴であった壮麗な城も、二度と再建されることなく廃城となったのである 3 。
主家を失った家臣や一族の多くは、過酷な運命を辿ることになった。戦国時代の敗者の典型的な姿として、彼らは二つの道を選択せざるを得なかった。一つは武士の身分を捨てて土地に根差して生きる「帰農」の道、もう一つは新たな主君を求めて流浪する道である。
島崎氏の家臣については、その多くが旧領内の島崎、上戸、潮来、延方といった集落に土着し、武士から豪農へと姿を変えて生き延びた、という伝承が残っている 17 。この事実は、彼らが主君への忠誠よりも、生活の基盤である土地との結びつきを優先したことを示唆している。これは、大名の譜代家臣とは異なり、もともとその土地の有力者であることが多い「国人領主」の家臣団の性格をよく表している。彼らにとって、島崎氏は領主であると同時に地域の盟主であり、その盟主が滅んでも、生活の場である故郷を離れるという選択はしにくかったのであろう。
一方で、一部の者が他家に仕官した可能性も考えられる。例えば、後の大坂の陣(1614-1615年)において、尾張徳川家の家臣団の中に「島崎」という姓の武士の名が見えるが 38 、これが旧島崎氏の一族と直接関係があるかは不明である。また、皮肉なことに、島崎氏を滅ぼした佐竹氏は、関ヶ原の戦い(1600年)における曖昧な態度を徳川家康に咎められ、常陸から出羽国秋田へと移封される 39 。この際、旧島崎氏の関係者や遺臣が、何らかの形で佐竹氏に従い、秋田藩士となった可能性も皆無ではないが、それを裏付ける直接的な史料は乏しい 40 。
佐竹氏は、島崎氏をはじめとする国人領主の当主の血筋は徹底的に断ったものの、その一族郎党や家臣のすべてを抹殺したわけではなかったとされる 5 。多くの家が、武士の身分を失いながらも、その血筋自体は各地でひっそりと保ち続けたのである。
史実としての島崎氏の滅亡は、そのあまりの悲劇性ゆえに、後世の地域社会において様々な記憶と伝承を生み出した。人々は、理不尽な暴力によって失われた旧主を偲び、その物語を語り継ぐことで、歴史の記憶を風化させまいとしてきた。
島崎城跡とその周辺には、一族の滅亡にまつわる象徴的な伝説が二つ残されている。「お投げの松」と「白い蛇」の伝説である。
ある伝承によれば、落城の際、殿様が大切にしていた盆栽の松を城から投げ落としたところ、それが城下の地にしっかりと根付き、やがて大木に成長したという 14 。この「お投げの松」の伝説は、しばしば「白い蛇」の物語と結びつけて語られる。それによれば、ある時、家来が神の化身である白い蛇を誤って殺してしまった。殿様はそのことをひどく後悔しており、落城の際に蛇を殺した場所めがけて松を投げたのだ、という 14 。
この伝承は、単なる昔話として片付けることはできない。白い蛇は、日本の各地で土地の神や家の守り神、あるいは幸運の象徴として神聖視されてきた存在である 42 。その神聖な存在を殺してしまったという「過ち」が、一族の滅亡という破局的な結果を招いた、という物語の構造は、極めて示唆に富んでいる。
史実における滅亡の原因は、佐竹氏による理不尽な謀略という、純粋に「人為的」な暴力であった。しかし、事件後に佐竹氏(及びその後の水戸徳川家)の支配下に置かれた地域社会において、公然と支配者を「非道な殺人者」として非難する物語を語り継ぐことは、極めて困難であった。そこで、人々は悲劇の原因を、直接的な加害者への非難ではなく、「神の祟り」という形而上学的な領域に求めたのではないか。この物語は、表面的には島崎氏側の「過ち」を語りながら、その深層では、彼らが「神に愛されるほどの正統な主君」であり、その滅亡が「本来あってはならない神をも恐れぬ所業による悲劇」であったことを暗示している。これは、政治的に抑圧された状況下で、旧主への同情と事件の非道さを後世に伝えようとした、地域住民による「沈黙の抵抗」であり、歴史の記憶を継承するための巧みな文化的装置であったと解釈できる。
鎌倉時代から続いた島崎氏の歴史は、天正19年(1591年)の謀殺と落城によって幕を閉じた。しかし、彼らが遺したものは完全に消え去ったわけではない。権勢の象徴であった島崎城跡は、現在、潮来市の史跡として指定され、その見事な遺構は良好な状態で保存されている 23 。さらに、地元の有志によって「島崎城跡を守る会」が結成され、史跡の清掃活動や歴史的価値の情報発信が活発に行われている 13 。これは、島崎氏の悲劇が、単なる過去の出来事ではなく、地域のアイデンティティを形成する重要な歴史遺産として、現代に生き続けていることを示している。
島崎安重(義幹)の生涯と死は、戦国時代という一つの時代の終わりを象徴している。それは、中世的な自立性を保っていた国人領主たちが、豊臣政権という中央集権化の巨大な波と、その権威を借りて領国拡大を推し進める戦国大名の戦略の前に、容赦なく淘汰されていく過程の典型的な縮図であった。彼の悲劇は、個人の資質や判断ミスといったミクロな要因以上に、時代の構造転換というマクロな力学によって引き起こされたものである。そしてそれは、中世の終焉と近世大名による一元的支配体制の確立が、極めて暴力的かつ非情なプロセスを経て成し遂げられたという、日本史の厳然たる事実を雄弁に物語る、一つの歴史的証言なのである。