島津以久(しまづ もちひさ、天文19年 - 慶長15年、1550年 - 1610年)は、島津氏が九州の覇権を争い、やがて天下の動乱に飲み込まれていく激動の時代を生きた、一門の重鎮である。彼の生涯は、勇猛な武将としての軍功、知行地を転々とせざるを得なかった政治的境遇、そして近世大名・佐土原藩の創始者としての足跡という、三つの異なる側面から光を当てることができる。初名を幸久(ゆきひさ)、次いで同音の征久と改め、後に以久と名乗った 1 。一般に「以久」を「ゆきひさ」と読むのは、旧名に由来する誤読である 1 。本報告書は、これらの側面を詳細に解き明かし、島津氏の歴史において特異な位置を占める以久という人物の実像に迫るものである。
以久の出自は、島津氏の有力な分家である相州家(そうしゅうけ)に遡る 1 。相州家は、島津宗家9代当主・島津忠国の庶長子である友久が「相模守」を称したことに始まる家系である 2 。以久の祖父にあたる島津忠良(日新斎)は、伊作(いざく)島津家から相州家の養子となり、その嫡男である貴久が島津本宗家15代当主の座を継承したことで、相州家は本宗家と極めて密接な関係を築いた 2 。
以久の父・忠将(ただまさ)は、その本宗家当主・貴久の実弟であり、兄に代わって相州家を継いだ人物であった 3 。この血縁により、以久は島津家の九州統一を主導した「島津四兄弟」(義久、義弘、歳久、家久)とは従兄弟の関係にあたり、一門の中核をなす極めて近しい存在であった 7 。彼の生涯は、この本宗家との強固な紐帯によって規定され、また支えられていくことになる。
永禄4年(1561年)、父・忠将は、大隅国を巡る宿敵・肝付(きもつき)氏との廻城(めぐりじょう)合戦において、突出した味方を救おうとして敵の攻撃を受け、陣没した 1 。当時12歳であった以久は、この戦いで後ろ盾を失うこととなったが、伯父である本宗家当主・貴久と、その跡を継いだ従兄の義久によって養育された 1 。
父・忠将の戦死は、若き以久の運命に二重の刻印を遺した。それは個人的な悲劇であると同時に、彼の武将としてのキャリアを形成する原点となったのである。若くして家督を継いだ彼は、本宗家の庇護下に入ることを余儀なくされた。これは、独立した領主としての自由を制約した一方で、島津家の中枢で当主から直接薫陶を受けるという、またとない機会をもたらした。彼の生涯を通じて見られる本宗家への忠誠心と、一門の重鎮として重用される背景には、この少年期の経験が色濃く反映されている。父の死という逆境は、彼を単なる分家の当主ではなく、島津家全体の命運を担う「島津家の武将」として成長させる土壌を育んだ。父の仇である肝付氏との戦いは、彼に武将としての明確な動機を与え、同時に本宗家との強固な結びつきを運命づけたのである。彼の生涯は、この個人的な背景と、島津家全体の戦略という公的な要請が交錯する中で展開していく。
年代(西暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
天文19年(1550) |
1歳 |
6月20日、薩摩国永吉にて、島津忠将の子として誕生。幼名は堯仁坊。 |
1 |
永禄4年(1561) |
12歳 |
7月、父・忠将が肝付氏との廻城合戦で戦死。伯父・貴久、従兄・義久に養育される。 |
1 |
永禄8年(1565) |
16歳 |
大隅国帖佐郷を与えられる。後に父の旧領であった清水城を襲封。 |
1 |
天正元年(1573) |
24歳 |
島津義弘に従い、父の仇である肝付氏を攻める。翌年、肝付氏は降伏。 |
1 |
天正6年(1578) |
29歳 |
11月、日向国・高城川の戦い(耳川の戦い)で大友軍の側面に突撃し、勝利のきっかけを作る。第一の軍功と賞される。 |
1 |
天正12年(1584) |
35歳 |
3月、沖田畷の戦いに長男・彰久と共に島津家久軍の一員として参陣した記録がある。 |
13 |
天正15年(1587) |
38歳 |
豊臣秀吉の九州平定により島津氏が降伏。領国が再編される。 |
1 |
天正19年(1591) |
42歳 |
種子島・屋久島・口永良部島の一万石を領する。 |
1 |
文禄元年(1592) |
43歳 |
義弘に従い朝鮮へ渡海(文禄の役)。翌年帰国。 |
1 |
文禄4年(1595) |
46歳 |
長男・彰久が朝鮮の唐島にて病没する。 |
15 |
慶長2年(1597) |
48歳 |
居城を清水から種子島へ移す。 |
1 |
慶長4年(1599) |
50歳 |
3月、義弘より大隅国垂水11,687石を与えられ、種子島から移る。 |
1 |
慶長8年(1603) |
54歳 |
関ヶ原の戦いで戦死した島津豊久の旧領、日向国佐土原3万石を与えられ、初代佐土原藩主となる。 |
1 |
慶長13年(1608) |
59歳 |
駿府城普請の功により、徳川家康から賞誉の御書を受ける。 |
1 |
慶長15年(1610) |
61歳 |
丹波国篠山城の普請のため上洛するが、4月9日、京都の伏見屋敷にて病没。 |
1 |
伯父・貴久、従兄・義久の庇護下で成長した以久は、永禄8年(1565年)に大隅国帖佐郷を与えられ、長じて父・忠将の旧領であった大隅の要衝・清水城を継承した 1 。清水城は、大隅国府に近く、宿敵である肝付氏や日向の伊東氏に対する備えとして極めて重要な拠点であった 3 。ここを本拠とした以久は、島津氏による三州(薩摩・大隅・日向)統一戦争の渦中へと本格的に身を投じていく。
彼の武将としてのキャリアを明確に始動させたのは、天正元年(1573年)の肝付氏攻めである。島津四兄弟の次兄で、勇将として名高い島津義弘の軍に従い、父の仇である肝付氏と対峙した 1 。この戦いは翌年に肝付氏の降伏という形で決着し、以久は父の無念を晴らすとともに、島津一門の武人としての確固たる評価を勝ち取った。
以久の名を島津家中のみならず、九州全土に轟かせたのは、天正6年(1578年)11月の日向国・高城川の戦い(通称、耳川の戦い)であった。この戦いは、キリシタン大名・大友宗麟が、島津氏に敗れて亡命してきた伊東氏を日向に復帰させるという名目で、3万から4万ともいわれる大軍を率いて侵攻してきたことに端を発する 16 。対する島津軍は、兵力で劣勢に立たされていた 18 。
大友軍は山田有信が守る高城を包囲し、島津軍本隊はこれを救援すべく進軍。両軍は高城川(現在の小丸川)を挟んで対峙した 18 。島津義久は、得意の「釣り野伏せ」戦法を基本としつつ、軍を複数に分けて配置した。以久はこの時、伏兵部隊の一隊を率いるという重要な役割を担っていた 10 。
合戦当日、島津本隊が巧みに後退して大友軍主力を引きつけると、戦況は一気に動いた。勝ちに乗じて深追いしてきた大友軍の側面に対し、以久は機を逃さず猛然と突撃を敢行した 1 。この予期せぬ側面からの攻撃は、大友軍の指揮系統を完全に麻痺させ、総崩れのきっかけとなった。この以久の奮戦が突破口となり、島津軍は歴史的な大勝利を収めるに至ったのである。
この功績は、総大将・義久から「第一の軍功」として認められ、以久の官職名である右馬頭(うまのかみ)の唐名「典厩(てんきゅう)」にちなんで、その果敢な突撃は「典厩の横入り」と称賛されたと伝わる 1 。この戦いの詳細な布陣や経緯については、後に以久自身が碁盤を用いて家臣に解説したことから、「盤上の図」と呼ばれる合戦図が後世に伝わることとなった 21 。
耳川の戦い以降も、以久は島津氏が推し進める九州統一戦争の主要な局面で活躍を続けた。天正12年(1584年)、肥前の龍造寺隆信を破った沖田畷の戦いでは、総大将を務めた従弟の島津家久(貴久四男)の軍勢に、長男の彰久と共に名を連ねている記録が残る 13 。
また、島津家の老中(家老)であり、貴重な一次史料『上井覚兼日記』の著者である上井覚兼(うわいかくけん)は、時に以久の副将として行動を共にしており、その日記には以久が「幸久」という名で度々登場する 23 。これは、以久が島津家の軍事行動において、常に中核的な役割を担っていたことを示している。
以久のこれらの軍功は、単なる一個人の武勇伝として捉えるべきではない。島津四兄弟がそれぞれ総大将として各地の戦線を指揮する中、以久のような血縁が近く信頼のおける一門衆は、彼らの手足として、また戦局の膠着を打破する「遊撃部隊」として、極めて重要な戦略的価値を持っていた。耳川の戦いにおける「横入り」は、その役割を最も象徴的に示す事例である。総大将・義久が描く全体戦略の下、義弘や家久といった方面軍司令官が戦線を構築・維持し、以久のような機動力と戦術眼に優れた部隊が決定的な一撃を加える。この有機的な連携こそが、戦国最強と謳われた島津軍団の強さの源泉の一つであった。したがって、以久の武将としての真価は、島津家の組織的な軍事行動の中に位置づけることで正しく評価できる。彼は、大軍を率いて方面戦線を一手に担うタイプの将というよりは、本宗家の戦略的意図を深く理解し、戦場の機微を捉えて決定的な行動を起こせる、極めて質の高い「戦術家」であり、その存在は島津氏の強固な一族結束の象徴でもあった。
Mermaidによる関係図
耳川の戦い、沖田畷の戦いを経て九州統一に王手をかけた島津氏であったが、その覇業は中央の天下人、豊臣秀吉によって阻まれる。天正15年(1587年)、秀吉が自ら率いる20万を超える大軍を九州へ差し向けると、さしもの島津軍も抗しきれず、当主・義久は剃髪して降伏した 1 。
この九州平定により、島津氏の領国は秀吉の裁定によって再編されることとなった。いわゆる「国割り」である。この過程で義久は、薩摩・大隅の本領は安堵されたものの、巧みに島津家の力を削ごうとする秀吉の政治力に直面する。秀吉は、島津氏の家臣団を分断し、本宗家の力を相対的に低下させるため、有力な国人や一門に直接所領を与える政策を採った。その一環として、長年にわたり種子島を支配してきた種子島氏を薩摩国の知覧へ移封するという、大胆な配置転換が行われた 1 。
天正19年(1591年)、この国割りによって空いた種子島・屋久島・口永良部島の一万石は、以久に与えられることとなった 1 。慶長2年(1597年)には、以久は本拠地を大隅清水城から正式に種子島へと移している 1 。
この知行替えは、以久の生涯において極めて重要な転機であった。彼の種子島領有は、単に島津義久からの下賜という形式に留まらなかった。彼は豊臣秀吉から直接その所領を安堵する朱印状を与えられたのである 28 。これにより以久は、島津家中で絶大な権勢を誇った伊集院忠棟(こうかん)や、日向の有力国人である北郷(ほんごう)氏らと共に、島津本宗家を介さず秀吉と直接結びつく「御朱印衆」という特異な立場となった 29 。
以久の知行地の変遷は、彼の政治的役割の変化を如実に物語っている。清水城主時代は、対肝付氏の最前線を担う純粋な「武将」であった。しかし、種子島領主となった彼は、新たな政治的力学の渦中に身を置くこととなる。種子島は、鉄砲伝来の地として知られるだけでなく、琉球や明との交易における玄関口としての戦略的価値も高かった。ここに信頼できる一門の重鎮を配置することは、対外的にも、また国内の他の国人衆を統制する上でも、義久にとって重要な意味を持っていた。一方で、秀吉が以久を「御朱印衆」とした背景には、島津本宗家の力を牽制し、家臣団を分断しようとする明確な意図があった。以久は、島津一門としての本宗家への忠誠を堅持しつつ、天下人である豊臣政権とも直接渡り合わなければならないという、極めて繊細で困難な舵取りを要求される立場となったのである。
豊臣政権下の大名として、以久もまた朝鮮出兵の義務を負った。文禄元年(1592年)、彼は義弘に従い朝鮮へ渡海するが、翌年には帰国している 1 。この出兵には、正室・池上(北郷時久の娘)との間に生まれた長男・彰久(あきひさ)も従軍した。しかし、彰久は文禄4年(1595年)、朝鮮の唐島(からしま)にて病に倒れ、29歳の若さでこの世を去った 1 。嫡男を異郷の地で失ったことは、以久にとって大きな悲嘆であったに違いない。
天下の情勢が再び不穏となる中、以久の知行地は再び動く。関ヶ原の戦いが目前に迫った慶長4年(1599年)3月5日、以久は義弘より大隅国の垂水(たるみず)11,687石を与えられ、長年離れていた薩摩・大隅の本国へと帰還した 1 。これは、かつて知覧に移されていた種子島氏が旧領に復帰したことに伴う措置と考えられ 26 、来るべき天下の決戦に備え、島津家が一門の結束を固め、中核となる武将を本国近辺に呼び戻すという戦略的意図の表れであった。以久の役割は、再び純粋な軍事的中核へと回帰したのである。
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。島津義弘率いる部隊は西軍に属して戦ったが、西軍の諸将が次々と裏切りや敗走に追い込まれる中、戦場に取り残される形となった。義弘隊は、敵である徳川家康の本陣前を突っ切って退却するという、前代未聞の敵中突破を敢行する 31 。この壮絶な退却戦は「島津の退き口」として後世に語り継がれるが、その代償は大きかった。殿(しんがり)を務めた部隊は、追撃する東軍を食い止めるため「捨て奸(すてがまり)」という壮絶な戦法で次々と命を落とした。この時、義弘の甥であり、かつて日向佐土原を領した島津家久の子・豊久も奮戦の末に討死した 1 。
西軍に与した島津氏の処遇を巡り、勝利した徳川家康との戦後交渉は極めて緊迫したものとなった。家康は島津義久に上洛を命じたが、義久は病などを理由にこれを拒絶し続けた 34 。これは、恭順の意を示しつつも軍備を解かず、不利な条件を呑まないという「武備恭順」の構えであり、島津氏のしたたかな交渉術であった 36 。家康もまた、九州の南端で強大な軍事力を保持する島津氏との全面対決は避けたいという思惑があり、交渉は長期化した 34 。
最終的に、慶長7年(1602年)、家康は島津氏の本領安堵を認める形で和議が成立した 32 。この交渉の過程で、関ヶ原で嗣子なく戦死した島津豊久の旧領・日向佐土原3万石の帰趨が、重要な議題の一つとなった。豊久の所領は、当主が徳川方に敵対して戦死したため、一旦幕府によって没収され、庄田安信という代官が置かれる状態となっていた 37 。
この佐土原領の返還を求め、島津方から徳川方へ活発な働きかけが行われた。その中心となったのが、次期当主である島津忠恒(後の家久)と、一門の長老格である以久であった 39 。
この働きかけが功を奏し、慶長8年(1603年)、徳川家康は島津以久に佐土原3万石を与えることを決定した 1 。これにより、日向国那珂郡・児湯郡を領地とする外様大名・佐土原藩が立藩し、以久はその初代藩主となったのである 43 。彼は長年本拠とした大隅垂水を離れ、新たな領地である佐土原城へと入った。
この以久の佐土原藩主就任は、徳川家康の「島津氏を完全に敵に回さず、しかしその力を削ぎ、幕府の統制下に置きたい」という深慮と、島津本宗家の「一門の領地を失わず、かつ幕府との関係を再構築したい」という戦略が交差した、絶妙な政治的妥協の産物であった。徳川方から見れば、敵将・豊久の領地を無条件で親族に継がせることは、幕府の権威に関わる。そこで一度没収した上で、改めて一門の別人に「恩賞」として与える形を取ることで、佐土原は島津氏固有の世襲領ではなく、あくまで徳川家から与えられた領地であることを明確にする狙いがあった。
一方、島津方にとって、佐土原は失うことのできない重要な土地であった。豊久に最も近い血縁者である弟の忠仍(ただなお)は病身を理由に相続を辞退しており 44 、代わりの候補者として、数々の戦功を持ち、豊臣政権下では「御朱印衆」として中央との交渉経験もある一門の長老・以久を立てることは、徳川方にとっても受け入れやすい現実的な落としどころであった。以久自身も、この機を捉えて一国一城の主となるべく積極的に動いたとされ 39 、彼が単なる駒ではなく、自らの政治的キャリアの集大成としてこの機会を主体的に活かしたことがうかがえる。
初代藩主となった以久は、藩政の基礎固めに着手した。佐土原城を中心とした城下町の整備や、領内の検地の実施など、近世大名としての統治体制の構築を進めたと考えられる 45 。しかし、その船出は必ずしも平穏ではなかった。佐土原藩の家臣団は、豊久の父・家久の代からの譜代の家臣たちと、以久が垂水から新たに引き連れてきた松木氏などの新参家臣とで構成されていた。この二つの派閥の存在は、後の藩政において深刻な門閥対立の火種となり、以久の死後、お家騒動へと発展していくことになる 40 。
以久の佐土原藩主就任は、彼の血脈が二つの有力な家系へと分岐する直接的な契機となった。以久には複数の男子がいたが、長男・彰久は朝鮮出兵の際に病没しており 1 、次男の重時は早くに入来院氏へ養子に出ていた 1 。
このため、以久の家系の嫡流は、長男・彰久の遺児である孫の島津久信(ひさのぶ)であった。以久が佐土原へ移るにあたり、彼がそれまで領有していた大隅垂水の所領は、この嫡孫・久信に譲られた 1 。これにより、久信を初代とする「垂水島津家」が成立し、薩摩藩主(島津本宗家)に仕える一門家臣として、筆頭格の家柄を誇ることになる 48 。
慶長15年(1610年)、初代藩主・以久が京都で急死すると、創設間もない佐土原藩は後継者問題に直面した 1 。この時、徳川家康は、以久の嫡流である垂水島津家当主の久信に佐土原藩を継がせる意向を示し、相続の打診を行った 30 。3万石の大名家の家督相続は、幕府の裁可を必要とする重要事項であり、家康が嫡孫である久信を後継者と見なしたのは、血筋の上では自然な流れであった。
しかし、久信はこの申し出を辞退したのである 30 。この決断により、佐土原藩の家督は以久の三男であった島津忠興(ただおき)が継承することとなり、彼は佐土原藩2代藩主に就任した 1 。
この一連の経緯の結果、島津以久の血筋は、
という、二つの異なる立場の家系に分かれて存続することになった 41 。公式な席次や格式の上では、城主大名である佐土原島津家が上となる。しかし、血筋の正統性(嫡流)は垂水島津家にあるという、複雑な関係が生まれた。後世の薩摩藩の史料では、垂水島津家こそが以久の嫡流であるという認識が明確に示されており、藩内での序列意識をうかがわせる 51 。
久信が3万石の大名の座をなぜ辞退したのか、史料にその明確な理由は記されていない。しかし、当時の状況からその深層を推察することは可能である。第一に、久信自身の立場とアイデンティティが挙げられる。彼は既に垂水領主であり、薩摩藩内において一門筆頭という極めて高い地位にあった。彼の母は本宗家16代当主・義久の次女・新城であり、妻は猛将・島津家久の娘で関ヶ原で散った豊久の妹・宗鉄である 40 。彼は島津本宗家と幾重にも血縁で結ばれた「薩摩藩の重鎮」としての強い自負を持っていた。
第二に、リスクとリターンの計算があったと考えられる。佐土原藩主となれば、独立大名として幕府に直接仕える立場となり、77万石を誇る薩摩藩という巨大な後ろ盾から切り離されることを意味する。藩内には旧臣と新参の家臣団の対立という火種も抱えており、小藩の経営は多大な困難が予想された 40 。不安定な3万石の小大名の座よりも、薩摩藩内で重きをなし続ける方が、実質的な影響力も家の安泰も大きいと判断した可能性は高い。
第三に、薩摩藩本宗家の思惑も無視できない。当時の薩摩藩主・忠恒にとって、血統的にも正統性が高く、一門内に大きな影響力を持つ久信が、隣国で独立大名となることは、潜在的な脅威となりかねない。久信が藩内に留まることは、忠恒の権力基盤の安定に大きく寄与した。久信の辞退の背景には、本宗家の意向が働いていた可能性も十分に考えられる。
結論として、久信の辞退は単なる謙遜ではなく、近世初期における大名家の存続戦略と、藩内における自らの政治的地位を天秤にかけた、高度に戦略的な判断であったと見ることができる。これにより、以久の血脈は「薩摩藩内の嫡流」と「独立した大名家」という二重の形で後世に残り、島津一門の層の厚さを物語る稀有な事例となったのである。
佐土原藩主として藩政の基礎を築いていた以久であったが、その治世は長くは続かなかった。慶長15年(1610年)、以久は徳川幕府が諸大名に命じた「天下普請」の一つである、丹波篠山城の築城手伝いを命じられる 1 。これは、大名の財力を削ぎ、その力を幕府の権威の下に示すための重要な政策であった。以久はこの公務のために京都へ上り、伏見の藩邸に滞在した。
しかし、その地で以久は病に倒れ、同年4月9日、61年の生涯を閉じた 1 。初代藩主の突然の客死は、成立間もない佐土原藩に大きな衝撃を与えた。
この以久の突然の死については、単なる病死ではなく暗殺されたのではないか、という噂も後世に生まれた 10 。この暗殺説を直接的に証明する確たる史料は存在しない。しかし、なぜそのような憶測が生まれたのか、その背景を分析することは、当時の島津氏が置かれた複雑な状況を理解する上で重要である。
第一に、その死のタイミングが挙げられる。徳川の天下が盤石になりつつある中、幕府の公務である天下普請の最中での死であったこと。第二に、以久自身の政治的立場である。彼は島津一門の長老格であり、その存在は本宗家の家督や権力構造にも影響を与えうる立場にあった。特に、この時期、島津本宗家では前当主・義久と現当主・忠恒の関係が悪化していたとされ 35 、義久の外孫である嫡孫・久信を擁する以久の存在が、忠恒にとって政治的に껄끄러しい(やっかいな)ものであった可能性は否定できない。
第三に、比較対象となる前任者の存在である。以久の従弟であり、同じく佐土原城主であった猛将・島津家久もまた、天正15年(1587年)に秀吉に降伏した直後に41歳で急死しており、その死因については毒殺説が根強く囁かれている 37 。有力な島津一門の武将が、佐土原という地で相次いで不審な死を遂げたという印象が、以久の死にも同様の憶測を呼ぶ土壌となったと考えられる。これらの状況証拠は、近世初期の島津氏が、依然として戦国時代以来の緊張感を内包していたことを示唆している。
以久の遺体は、京都の四条寺町にあった大雲院(現在は東山区に移転)に手厚く葬られた 1 。この葬儀に際して、大雲院の住職から受けた懇切な配慮に深く感銘を受けた佐土原島津家は、代々信仰してきた曹洞宗から、大雲院の宗派である浄土宗に宗旨替えを行ったと伝えられている 1 。この縁は後々まで続き、佐土原藩主は参勤交代で上洛する際には、伏見の藩邸から大雲院の以久の墓前に代参することが慣例となった 58 。また、領国の佐土原には、以久の戒名「高月院殿照誉崇恕大居士」にちなんだ菩提寺として、高月院が建立された 59 。
島津以久は、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、島津一門の中核として駆け抜けた人物であった。父を早くに亡くすという逆境にありながら、伯父・貴久、従兄・義久の下で武将として頭角を現し、数々の戦功、特に耳川の戦いにおける「典厩の横入り」と称された活躍で、島津氏の三州統一に大きく貢献した。その武勇が語り継がれる一方、情に厚い人柄であったとも伝わっている 20 。
豊臣、徳川という中央集権化の奔流の中では、知行地を転々としながらも、一門の重鎮、そして「御朱印衆」として、時代の変化に対応する政治的嗅覚を発揮した。その生涯の集大成として、関ヶ原後の混乱を巧みに乗り越え、3万石の大名・佐土原藩の初代藩主の座を射止めたのである。
彼の生涯は、戦国武将としての勇猛さ、時代の転換期を生き抜く政治的力量、そして一門の安泰と自家の存続を両立させようとした苦心の跡を見事に体現している。彼が築いた佐土原藩、そして彼から分かれた垂水島津家は、共に幕末までその血脈を伝え、島津氏全体の層の厚さと複雑性を支える一翼を担い続けた。島津以久は、島津四兄弟のような華々しい主役ではなかったかもしれないが、彼らの時代を支え、次代へと繋ぐ上で不可欠な、まさに「一門の重鎮」と呼ぶにふさわしい生涯を送った人物であった。