16世紀前半、日本の南端に位置する薩摩国(現在の鹿児島県西部)は、長きにわたりこの地を治めてきた守護大名・島津宗家の権威が大きく揺らぎ、一族の庶家や各地の国人衆が自立化の動きを強める、混沌とした動乱の時代を迎えていた。この群雄割拠の中から、後に九州統一に迫る強大な戦国大名・島津氏が誕生することになる。その産みの苦しみともいえる激しい内乱の中心にいたのが、本報告書で詳述する薩州島津家当主、**島津実久(しまづ さねひさ)**である 1 。
島津実久の名は、歴史上、宗家の家督を簒奪しようと目論み、島津氏中興の祖とされる島津忠良・貴久親子に戦いを挑んで敗れ去った「反逆者」として語られることが多い 2 。この物語は、内乱を制して勝者となった宗家の視点から編纂された史書によって形作られてきた通説である。しかし、近年の研究は、一次史料の丹念な分析を通じて、この単純な構図に異を唱えている。実久の行動は単なる個人的な野心によるものではなく、弱体化した宗家内部の深刻な対立に根差した、家臣団に擁立された「正統な後継者」としての側面を持つクーデターであった可能性が指摘されているのである 3 。
本報告書は、こうした通説と新説を多角的に比較検討し、現存する史料に基づきながら、島津実久という人物の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。彼の出自から、宗家を巡る権力闘争の頂点、そして敗北と晩年に至るまでの軌跡を追い、彼が薩摩の歴史、ひいては戦国大名島津氏の成立に与えた影響を立体的に再構築するものである。
島津実久が歴史の表舞台に登場する背景には、彼が率いた薩州島津家の成り立ちと、当時の薩摩国における複雑な政治情勢が深く関わっている。
薩州島津家は、島津宗家(奥州家)の8代当主・島津久豊の次男である用久が、応永32年(1425年)に薩摩国北部の出水(いずみ)を本拠として創始した、宗家にとって最も有力な分家の一つであった 5 。
本拠地である出水は、肥後国(現在の熊本県)との国境に接する地政学的に極めて重要な拠点であった 6 。この立地は、薩州家が常に外部勢力との緊張関係に置かれることを意味し、結果として軍事的に自立し、独自の外交を展開する必要性を生んだ。代々「薩摩守」を名乗ったことからも、薩州家が単なる宗家の一家臣ではなく、半ば独立した勢力としての強い自負と実力を持っていたことが窺える 7 。彼らは国境の守り手として、宗家の権威から一定の距離を保ちつつ、独自の勢力圏を築き上げていたのである。
島津実久は、この薩州家の4代当主・島津忠興の子として生を受けた 9 。彼を巡る血縁関係は、後の権力闘争の伏線となる極めて複雑なものであった。
第一に、実久の祖父である薩州家3代当主・島津成久は、娘の一人を分家の伊作家から相州家を継いだ島津忠良に嫁がせていた。そして、この忠良と成久の娘との間に生まれたのが、後に実久の最大のライバルとなる島津貴久であった。つまり、 実久と貴久は従兄弟 という、近親でありながらも家格の異なる競合相手という関係にあった 9 。
第二に、そしてより決定的なのが、 実久の姉が、当時弱体化していた島津宗家14代当主・島津勝久の正室であった という事実である 11 。この姻戚関係は、実久が宗家の家督問題に深く介入するための、またとない足掛かりとなった。
当時の島津宗家は、12代忠治、13代忠隆と当主の早世が相次ぎ、14代を継いだ勝久も若年であったため、その統率力は著しく低下していた 3 。この宗家の権力の空白は、国境地帯で強大な実力を蓄え、かつ宗家当主の義兄という立場にあった実久にとって、自らの影響力を飛躍的に拡大させる絶好の機会となったのである。
16世紀前半の薩摩国を揺るがした内乱は、単なる二者間の対立ではなく、複数の勢力の思惑が複雑に絡み合った権力闘争であった。その中心には常に島津実久の存在があった。
領国経営に行き詰まった宗家当主・島津勝久は、薩摩半島南部に確固たる勢力を持つ伊作・相州家の島津忠良に助けを求めた。そして大永6年(1526年)、忠良の嫡男である貴久を養子に迎え、守護職と家督を譲るという決断を下した 14 。
この決定は、薩摩国内のパワーバランスを大きく揺るがした。義兄である勝久の後継者の座を自らが継ぐべきと考えていた実久は、この養子縁組に激しく反発。かねてより彼と連携していた加治木の伊集院重貞や帖佐の島津昌久といった有力国人たちを味方につけ、ただちに叛旗を翻したのである 3 。
従来、この一連の動きは、後世の勝者である宗家側の史書(『島津国史』など)に基づき、実久による一方的な「謀反」として解釈されてきた 3 。しかし、近年の古文書研究は、この通説の裏に隠された、より複雑な政治力学を明らかにしている。
事の発端は、宗家内部の深刻な対立にあった。当主・勝久は、父祖代々の家老(老中)たちを罷免し、自らに近い側近を重用するなど、強引な人事を行っていたため、家臣団との間に深刻な亀裂が生じていた 3 。勝久に罷免された伊集院重貞ら旧来の家老たちは、勝久と忠良・貴久親子の連携に強く反発し、対抗勢力として実力者である実久と結託したのである 3 。
彼らは大永7年(1527年)に実久を担いで挙兵し、一度は貴久を鹿児島から追放することに成功する。さらに、勝久と家老団の対立は解消されるどころか一層深刻化し、天文4年(1535年)、ついに家老団は 実久を新たな宗家当主・守護職として鹿児島に迎え入れる というクーデターを敢行した。これにより、逆に勝久が薩摩を追放されるという事態に至った 3 。
この結果、実久は天文4年(1535年)から数年間にわたり、大隅・日向の国人衆からも支持を受け、名実ともに島津氏の当主・守護職として領国を支配した時期が存在したことが、近年の研究で有力視されている 18 。これは、彼の行動が単なる「反逆」ではなく、宗家の家臣団という正統な手続きを経て擁立された「当主」としての側面を持っていたことを強く示唆するものである。
この家督争いの複雑さは、当事者たちの離合集散に顕著に表れている。当初、貴久を養子とした勝久であったが、実久が挙兵し形勢が不利になると、今度は貴久との養子縁組を一方的に反故にし、自らの守護職復帰を宣言した 3 。しかし、もはや家臣団の支持を完全に失っていた勝久は、実久によって薩摩から追放される。その後は忠良・貴久親子と手を組むなど再起を図るが、いずれも成功せず、最終的には母方の実家である豊後国(現在の大分県)の大友氏のもとへ亡命し、その地で客死した 14 。
勝久の脱落により、薩摩の覇権を巡る争いは、 「家臣団に擁立され、一時的に守護職に就いた」実久 と、 「旧守護・勝久の養子」という名分を持つ忠良・貴久親子 との間で争われることになった。この対立は、守護職という旧来の「権威」と、家臣団や国人衆の支持という「実力」のどちらが領国支配の正統性の源泉となるかを問う、まさに守護大名から戦国大名への移行期を象徴する闘争であった 4 。
家 |
人物 |
関係性 |
島津宗家(奥州家) |
島津勝久(14代当主) |
・貴久を一時養子とするが後に解消 ・実久の姉を正室とする(義兄) ・家臣団と対立し、実久に追放される |
薩州島津家 |
島津実久 (5代当主) |
・勝久の義弟 ・貴久の従兄 ・宗家の家臣団に擁立され、一時守護職に就く |
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島津義虎(実久の子) |
・後に宗家・義久の娘(御平)を娶る |
相州家・伊作家 |
島津忠良(日新斎) |
・貴久の父 ・実久の叔父(ただし、忠良の妻は実久の叔母でもあるため、複雑な姻戚関係) |
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島津貴久(15代当主) |
・忠良の嫡男 ・勝久の養子となり家督を継承 ・実久の従弟 |
守護職を巡る政治闘争は、やがて薩摩の統一を賭けた全面的な軍事衝突へと発展した。この戦いの帰趨が、その後の島津氏の運命を決定づけることとなる。
鹿児島を追われ、薩摩半島南部の伊作や加世田に退いた忠良・貴久親子であったが、その地で着実に支持基盤(「南方衆」と呼ばれる国人たち)を固め、反撃の機会を窺っていた 4 。
そして天文8年(1539年)、忠良・貴久親子は満を持して攻勢に転じる。実久方の重要拠点であった加世田城、市来城などを次々と攻略し、実久の勢力圏を切り崩していった 19 。
同年、両軍の雌雄を決する戦いが、鹿児島郊外の**紫原(むらさきばる)**で勃発した。この決戦において、忠良・貴久連合軍は実久軍に決定的な勝利を収める 16 。この「紫原の戦い」は、単なる一戦闘の勝敗に留まらず、薩摩国内の勢力図を根底から塗り替える地政学的な転換点となった。薩摩の政治・経済の中心地である鹿児島を失った実久は、その支配の正統性の象徴を失い、薩州家の本領である北薩の出水へと撤退を余儀なくされたのである。
紫原での手痛い敗北により、実久の勢力は大きく減退した 19 。しかし、彼はすぐには屈服しなかった。薩摩の北辺に追いやられながらも、なお執念の抵抗を続ける。
天文11年(1542年)、実久は祁答院氏、菱刈氏、入来院氏といった、かねてより島津宗家と対立関係にあった北薩の国人たちと連合し、貴久方の加治木城を攻撃するなど、巻き返しを図った。この戦いは一時的な和睦を挟みつつも、決着には至らなかった 22 。この事実は、実久が完全に支持を失ったわけではなく、地域的な利害関係に基づいて彼を支持する勢力が依然として存在したことを示している。
しかし、大局は覆せなかった。この頃から、大隅国の守護代であった本田氏など、これまで実久を支持していた有力国人が次々と貴久方へと鞍替えを始め、実久は次第に孤立を深めていった 11 。この国人たちの離反は、軍事力だけでなく、有力者を味方につける政治・調略戦においても、貴久が実久を上回っていたことを物語っている。
紫原の戦い以降、勢力を失った島津実久の晩年については、史料によってその描かれ方が大きく異なり、彼の人物像を評価する上で重要な論点となっている。
一つは、江戸時代に編纂された『島津国史』などに代表される**通説(降伏・隠棲説)**である。これによれば、度重なる敗戦で勢力を失った実久は、ついに貴久に降伏し、本拠地である出水に逼塞して静かに余生を送ったとされる 2 。これは、内乱を収束させ秩序を回復した勝者(宗家)の視点から描かれた、いわば「公式見解」である。
しかし、もう一つの説として、近年の研究者から提起されているのが**新説(生涯抗戦説)**である。この説の最大の根拠は、 実久が死去するまで貴久に降伏、あるいは臣従したことを直接的に示す信頼性の高い一次史料(同時代の文書など)が存在しない ことにある 18 。この視点に立てば、実久は出水に追いやられながらも、最後まで自らを「島津氏当主」とみなし、貴久との対立関係を続けたまま生涯を終えたことになる。
この生涯抗戦説を裏付ける重要な行動が、実久の死の直前に見られる。天文22年(1553年)閏1月、実久は上洛し、京で室町幕府13代将軍・ 足利義輝に拝謁 しているのである 18 。
この行動の目的は、単なる儀礼的な挨拶ではなかった。当時、ライバルである貴久もまた、将軍義輝から偏諱(「義」の字)を賜るなど、幕府との関係を強化することで、自らの領国支配の正統性を補強しようと活発に動いていた 12 。実久の上洛は、これに真っ向から対抗し、
将軍という中央の最高権威から直接、自らの正統性にお墨付きを得ようとする、起死回生を狙った最後の政治的賭け であったと考えられる 18 。これは、武力で敗れた後も、政治的な手段で最後まで抗争を続けようとした、彼の執念深い闘争者としての一面を浮き彫りにしている。
しかし、この最後の望みも叶うことはなかった。実久は上洛の帰途に病を発し、同年7月7日、本拠地・出水にてその波乱の生涯を閉じた 18 。彼の墓は、現在も鹿児島県出水市野田町の龍光寺跡に、薩州島津家歴代の墓とともに静かに佇んでいる 7 。彼の死によって、大永6年(1526年)から約27年間にわたって薩摩を二分した長き内乱は、ようやく真の終結を迎えたのである。
父・実久の死は、薩州島津家にとって大きな転機となった。残された一族は、宗家との新たな関係を模索し、戦国乱世を生き抜いていくことを迫られた。
実久の死後、薩州家の家督は嫡男の**島津義虎(しまづ よしとら)**が継いだ 18 。父の代からの抗争を継続するのか、あるいは宗家との和解を選ぶのか、義虎は重大な決断を迫られた。
彼が宗家に臣従した正確な時期については、父・実久の敗北後すぐとする説と、実久の死後、義虎の代になってからとする説があり、見解が分かれている 18 。父・実久の生涯抗戦説に立てば、後者の説がより説得力を持つ。
いずれにせよ、義虎は最終的に宗家との和解の道を選んだ。そして、その関係を確固たるものにするため、宗家当主となった 島津義久(貴久の子)の長女・御平(おひら)を正室として迎えた のである 26 。この婚姻は、戦国時代における最も重要な同盟・和睦の手段であり、これにより薩州家は、かつての敵対関係を清算し、宗家を中心とする新たな支配体制の中に組み込まれることになった。
宗家に臣従したとはいえ、義虎は単なる一介の家臣に甘んじることはなかった。彼は、宗家の支配下にあっても、薩州家としての独自の地位と自立性を保とうと試みる。
その象徴的な行動が、永禄6年(1563年)の上洛である。義虎は父と同じく京に赴き、将軍・足利義輝に拝謁。「義」の一字を賜り、名を 義俊 (後に 義虎 )と改めた 18 。これは、宗家を介さずに中央の権威と直接結びつくことで、他の分家や家臣とは一線を画す、別格の存在であることを内外に示そうとする意図があったと考えられる。
宗家が推し進める三州統一事業においては、肥後方面の相良氏に対する備えとして出水城を守るなど、国境の守り手として重要な役割を担った 28 。しかし、その関係は常に順風満帆ではなかった。島津義久の家老・上井覚兼が記した『上井覚兼日記』によれば、天正2年(1574年)、義虎に謀反の疑いがかけられ、宗家の義久に対して何度も弁明の使者を送るという緊迫した事態が起きている 29 。
この事件は、一度は宗家と敵対した薩州家に対する根強い警戒感が宗家側にあったこと、そして義虎の自立的な行動が、父・実久の反乱の記憶と重なり、宗家にとって潜在的な脅威と映ったことを示している。これは、島津氏の領国統一が完了した後も、宗家と有力分家との間には常に緊張関係が存在し、完全な中央集権化には至っていなかった戦国大名権力の過渡的な姿を浮き彫りにするものである。
島津実久の生涯は、旧来語られてきた「宗家の家督を狙った反逆者」という単純なレッテルでは到底捉えきれない、多角的で複雑なものであった。彼は、守護の権威が失墜し、実力が全てを決定する戦国という時代の転換期に、宗家の家臣団に擁立され、一度は「守護」として薩摩に君臨した人物である。彼の行動は、守護大名がその権威を失い、家臣団や国人衆の支持なくしては領国を治めえなくなった時代の流れを、まさに体現していた。
彼の敗北は、単に一個人の野望の挫折を意味するだけではない。彼との長きにわたる内乱を勝ち抜く過程で、ライバルであった島津忠良・貴久親子は、旧来の守護・守護代体制を解体し、在地領主や家臣団を直接掌握する、より強固な権力構造を築き上げる必要に迫られた。この内乱の経験こそが、島津宗家の権力基盤を鍛え上げ、名目的な守護大名から、実力主義の戦国大名へと脱皮させる大きな原動力となったのである 4 。
その意味で、島津実久は、意図せずして、自らが激しく敵対した島津宗家の飛躍の礎を築いた、極めて逆説的な役割を果たした人物として、日本戦国史の中に再評価されるべきであろう。彼の執念の戦いは、歴史の敗者として幕を閉じたものの、その存在は勝者である島津氏の歴史、ひいては九州の戦国史に、消えることのない深い刻印を残したのである。
西暦(和暦) |
島津実久・薩州家の動向 |
島津宗家・相州家の動向 |
薩摩・日本の動向 |
不詳 |
島津実久、薩州家4代当主・島津忠興の子として誕生 9 。 |
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1526年(大永6) |
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宗家14代・勝久、相州家の島津貴久を養子とし家督を譲る 14 。 |
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1527年(大永7) |
貴久の家督継承に反発し、伊集院重貞らと挙兵 3 。 |
貴久、鹿児島に入るが実久方に追われ伊作へ退く。勝久は貴久との養子縁組を解消 3 。 |
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1535年(天文4) |
宗家の家臣団に擁立され、鹿児島に入り守護職に就く。勝久を追放 3 。 |
忠良・貴久親子は薩摩半島南部で勢力を固める。 |
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1539年(天文8) |
加世田・市来の戦い、紫原の戦いで忠良・貴久親子に敗北。鹿児島を失い出水へ撤退 19 。 |
鹿児島を奪還し、薩摩統一の主導権を握る。 |
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1542年(天文11) |
祁答院氏ら北薩の国人と連合し、貴久方と戦う 22 。 |
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1543年(天文12) |
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ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が伝来する 22 。 |
1545年(天文14) |
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貴久、豊州家や北郷氏ら一門・庶家から「三国守護」として承認される 4 。 |
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1549年(天文18) |
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フランシスコ・ザビエルが鹿児島に来航し、キリスト教を伝える 22 。 |
1550年(天文19) |
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貴久、伊集院から鹿児島に居城を移し、内城を築く 19 。 |
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1553年(天文22) |
閏1月、上洛し将軍・足利義輝に拝謁。7月、帰国後に出水で病死 18 。 |
貴久、嫡男・義久(当時義辰)が将軍・義輝から偏諱を賜ることに成功 12 。 |
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1536年-1585年 |
嫡男・島津義虎の生涯 25 。 |
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1565年(永禄8) |
義虎、宗家・島津義久の娘(御平)を正室に迎える 26 。 |
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1571年(元亀2) |
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島津貴久、死去 14 。 |
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1573年(天正元) |
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島津勝久、亡命先の豊後で客死 14 。 |
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1574年(天正2) |
義虎に謀反の嫌疑がかけられる(『上井覚兼日記』) 30 。 |
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