最終更新日 2025-05-18

島津忠恒(島津義弘の子)

島津忠恒(家久)公の生涯と事績:薩摩藩初代藩主の実像と多岐にわたる治世

はじめに

本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将、島津忠恒(しまづ ただつね)公について詳述するものである。忠恒公は天正4年(1576年)に生まれ、後に徳川家康より「家」の一字を賜り「家久」(いえひさ)と改名した 1 。本報告書においては、煩雑を避けるため、原則として初名の「忠恒」で統一し、改名後の重要な事績については適宜「家久」を併記する。

特に留意すべきは、忠恒公の叔父にあたる島津家久(島津貴久四男、1547年生)との混同である 2 。この叔父・家久もまた勇猛な武将として知られ、両者の事績、特に戦歴や逸話の帰属を正確に区別することは、忠恒公の実像を明らかにする上で不可欠である。

本報告書の目的は、島津忠恒公の出自、家督相続の経緯、文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いといった重要な戦役における動向、薩摩藩初代藩主としての藩政の確立、琉球侵攻、そしてその人物像に至るまでを多角的に検証し、近世薩摩藩の礎を築いた歴史的意義を明らかにすることにある。その生涯は、激動の時代を生き抜き、一藩の基礎を固めた大名の苦心と決断に満ちている。

第一章:島津忠恒の出自と家督相続への道

第一節:誕生と家系

島津忠恒公は、天正4年11月7日(西暦1576年11月27日)に生を受けた 3 。父は島津四兄弟の次兄として勇名を馳せた島津義弘公、母は義弘公の正室である実窓夫人(広瀬助宗養女、園田実明娘)である 3 。義弘公の子であるという事実は、後の関ヶ原の戦いにおける父の西軍参加という困難な状況下で、忠恒公が家督を継承し、徳川家との折衝に臨むという重責を担う背景となる。

幼名は米菊丸(よねぎくまる)、通称は又八郎(またはちろう)と称した 1 。兄弟姉妹には、兄の鶴寿丸(早世)、久保、姉のお屋地、弟の万千代丸、忠清、妹の御下などがいる 3

忠恒公の生涯と島津家における位置づけを理解するため、以下に略歴年表と簡易家系図を示す。

表1:島津忠恒公 略歴年表

年代(和暦)

年代(西暦)

出来事

典拠

天正4年(1576年)

1576年

11月7日、島津義弘の三男として誕生。幼名、米菊丸。

3

文禄2年(1593年)

1593年

兄・島津久保が朝鮮にて病死。豊臣秀吉により後継者に指名される。

1

慶長3年(1598年)

1598年

慶長の役、泗川の戦いで父・義弘と共に奮戦。

5

慶長4年(1599年)

1599年

家老・伊集院忠棟を誅殺。2月、伯父・義久より家督を継承。

3

慶長4年~5年

1599~1600年

庄内の乱。伊集院忠真の反乱を鎮圧。

5

慶長5年(1600年)

1600年

関ヶ原の戦い。父・義弘は西軍に参加。

6

慶長7年(1602年)

1602年

伏見城にて徳川家康に謝罪、所領安堵。鹿児島城(鶴丸城)起工。伊集院忠真を誅殺。

7

慶長11年(1606年)

1606年

徳川家康より「家」の字を賜り、「家久」と改名。慶長内検を実施。

1

慶長14年(1609年)

1609年

琉球へ出兵し、尚寧王を捕虜とする。

1

慶長15年(1610年)

1610年

家老・平田増宗を暗殺。

5

元和3年(1617年)

1617年

徳川秀忠より松平姓を下賜される。

5

寛永元年(1624年)

1624年

藩主妻子を江戸に送る(参勤交代の先駆け)。

1

寛永15年(1638年)

1638年

2月23日、死去。享年62。

3

表2:島津忠恒公 関連簡易家系図

コード スニペット

graph TD
Takahisa[島津貴久] --> Yoshihisa[島津義久];
Takahisa --> Yoshihiro[島津義弘];
Yoshihisa -.-> Kameju[亀寿<br>(義久三女)];
Yoshihiro --> Hisayasu[島津久保<br>(義弘次男)];
Yoshihiro --> Tadatsune[島津忠恒/家久<br>(義弘三男)];
Tadatsune --- Kameju;
Tadatsune --> Mitsuhisa[島津光久<br>(忠恒次男)];
Yoshihisa -.養子.-> Tadatsune;

  • 注:久保は亀寿の最初の夫。久保の死後、亀寿は忠恒に再嫁した 3

第二節:後継者としての浮上

忠恒公の運命が大きく転換したのは、文禄2年(1593年)、朝鮮出兵(文禄の役)に従軍していた次兄の島津久保が現地で病死したことによる 1 。長兄・鶴寿丸は既に夭折しており、久保の死によって島津家の後継者問題が急浮上した。この状況下で、豊臣秀吉自らが又八郎(忠恒)を島津家の後継者として指名したのである 5 。これは、中央政権である豊臣家の意向が、有力大名である島津家の家督継承に直接的な影響を及ぼした事例として注目される。

興味深いことに、後継者として指名される以前の忠恒公は、蹴鞠や酒色にふける日々を送っていたと記録されている 5 。しかし、後継者としての立場が定まると、父・義弘や伯父・義久らと同様に、本来備わっていたとされる優れた武勇を発揮するようになる 5 。この変化は、単に若き日の奔放さが改まったというだけでなく、責任ある立場が個人の潜在能力を引き出し、あるいは自覚を促した可能性を示唆している。あるいは、周囲の期待に応えようとする意識的な努力の表れであったのかもしれない。この点は、忠恒公の多面的な性格を理解する上で重要な手がかりとなる。

第三節:島津義久との関係と家督相続

島津家の家督相続において、忠恒公と伯父・島津義久公との関係は極めて重要である。義久公には男子がおらず、弟である義弘公の子、すなわち忠恒公が養嗣子として迎えられた 11 。これは、島津宗家の家督継承の正当性を補強し、一族の結束を内外に示す意味合いがあったと考えられる。

さらに、忠恒公は義久公の三女である亀寿(かめじゅ)を正室に迎えている 3 。亀寿は、初め忠恒公の兄である久保と結婚していたが、久保の死後、忠恒公と再婚した経緯がある 3 。これもまた、島津家内の結束を強化するための政略結婚としての側面が強かったと推察される。

慶長4年(1599年)2月20日、忠恒公は義久公より島津家相伝の重宝である「時雨の軍旗」を授与され、正式に島津本宗家の家督を継承した 5 。これにより、忠恒公は名実ともに島津家の当主となったのである。

しかしながら、義久公と忠恒公の関係は、養父と養子、舅と婿という二重の絆で結ばれていながらも、必ずしも平穏なものではなかった可能性が指摘されている。特に、忠恒公と正室・亀寿との夫婦仲は不和であったと伝えられており 5 、これが義久公との関係にも影響した可能性がある。さらに、義久公が自身の外孫である島津久信を忠恒公の次の後継者に据えようとした動きがあったとの記録も存在する 11 。これらの事実は、隠居後もなお家中に大きな影響力を保持していた義久公と、藩主として実権を完全に掌握したい忠恒公との間に、潜在的な緊張関係や権力構造を巡る複雑な思惑が存在したことをうかがわせる。義久公の存命中、忠恒公が側室を置くことを遠慮したという逸話 3 も、義久公の影響力の大きさと、両者の間の微妙な力関係を物語っていると言えよう。

第二章:武将としての島津忠恒

第一節:初陣について

島津忠恒公(1576年生)自身の初陣がいつ、どの戦いであったかについては、現存する主要な記録からは明確な情報を確認することが困難である 5

ここで特に注意を要するのは、忠恒公の叔父にあたる島津家久(島津貴久四男、1547年生)との混同である。この叔父・家久は、永禄4年(1561年)の大隅国肝付氏との廻坂の合戦において15歳で初陣を飾り、敵将・工藤隠岐守を討ち取るという武功を挙げている 2 。両者は同名であるため、史料の解釈には細心の注意が必要であり、本報告書においてもこの点を明確に区別する。

第二節:文禄・慶長の役

島津家の後継者として指名された後、忠恒公は文禄・慶長の役において朝鮮へ渡海し、軍功を挙げた 1 。特にその武名が高まったのは、慶長の役における慶長3年(1598年)の泗川(しせん/サチョン)の戦いである。この戦いで忠恒公は、父・島津義弘に従い、わずか8,000の寡兵をもって数万と号する明・朝鮮連合軍を破るという目覚ましい活躍を見せた 5

軍記物である『絵本太閤記』には、この泗川の戦いにおける忠恒公の奮戦ぶりが描かれている。それによると、董一元率いる明の大軍4万余りが城に攻め寄せた際、忠恒公は1千の兵を率いて城外に討って出て縦横無尽に槍を振るい、多数の明兵を討ち取ったとされる。これに呼応して城を守っていた大将の義弘公も兵5千を率いて城外へ出撃し、明兵の首3万を討ち取ったと伝えられている 5 。また、別の記録によれば、この戦いでの明軍の戦死者は3万8千人以上にのぼったともいう 6 。この泗川での大勝利は、島津軍の勇猛さを示すとともに、忠恒公自身の武将としての評価を大いに高め、後の島津家内における彼の発言力強化に繋がったと考えられる。

この戦功に対し、慶長4年(1599年)1月、忠恒公は五大老より5万石の加増を受け、従五位下左近衛少将に叙任された 5 。これ以降、彼は「羽柴薩摩少将殿」とも呼ばれるようになる 5

しかしながら、その武勇の一方で、朝鮮出兵中の忠恒公の振る舞いには問題があったことを示唆する記録も存在する。彼の横暴な態度に苦しんだ雑兵たちが、朝鮮側に逃亡したというのである 5 。泗川の戦いにおける華々しい武功と、部下に対するこのような厳しい、あるいは理不尽とも取れる態度は、忠恒公の性格の複雑な一面を浮き彫りにしている。英雄的な側面と、指導者としての負の側面を併せ持っていた可能性が考えられ、後の伊集院氏粛清などに見られる冷徹さとも通底する部分があるかもしれない。

第三節:庄内の乱(慶長4年/1599年 - 慶長5年/1600年)

文禄・慶長の役から帰国後、忠恒公は島津家内部の権力闘争に直面する。その発端となったのが、慶長4年(1599年)閏3月、京都伏見の島津邸において、忠恒公自らが家老の伊集院忠棟を誅殺した事件である 3 。伊集院忠棟は、伯父・義久の筆頭家老として重きをなし、豊臣秀吉からも直接都城に8万石の所領を与えられるなど、島津家中にあって絶大な権勢を誇っていた 8 。忠恒公が忠棟誅殺に踏み切った理由としては、忠棟が主家を蔑ろにする態度をとったこと、島津宗家を乗っ取ろうとしているとの風聞があったこと、さらには朝鮮の役における補給不足の責任が忠棟にあると考えたことなどが挙げられている 3 。忠恒公にとって、自らの権力基盤を固める上で、伊集院忠棟は排除すべき存在と認識された可能性が高い。

忠棟の嫡子である伊集院忠真は、父の横死を知ると国許の庄内(現在の宮崎県都城市周辺)にて兵を挙げ、島津氏に反旗を翻した(庄内の乱) 5 。これに対し、忠恒公は徳川家康の承諾を得て急遽帰国し、伯父・義久と共に反乱鎮圧の指揮を執った 5

乱は約1年に及んだが、慶長5年(1600年)、徳川家康の仲介もあって伊集院忠真は島津家に降伏し、庄内の乱は終結した 5 。この伊集院忠棟誅殺とそれに続く庄内の乱の鎮圧は、忠恒公が島津家内部の有力な反対勢力を排除し、自身の権力を確立していく上での最初の大きな試練であり、これを乗り越えたことは彼の自信と実績に繋がったと言える。また、一連の過程で徳川家康の承認や仲介を得ている点は、忠恒公が中央政権との連携を意識し、自らの行動の正当性を確保しようとしていたことを示している。

第四節:関ヶ原の戦いと戦後処理

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いにおいて、忠恒公の父・島津義弘は西軍に与し、敗色濃厚の中で敵中突破を敢行し、世に名高い「島津の退き口」を成功させた 4

一方、家督を継いでいた忠恒公の国元における具体的な動向については、詳細な記録が乏しい。義弘公からの軍勢催促に対し、伯父・義久がこれを拒んだとする記録があり 15 、当時既に家督を継承していた忠恒公もこの決定に深く関与、あるいは同調していた可能性が高い。義弘公が関ヶ原へは僅かな家臣を伴って上洛したとの記述 6 からも、島津家全体としては中央の戦乱に大規模な兵力を投入することを避け、領国経営と防衛を優先する姿勢を取ったと考えられる。この方針決定において、忠恒公が主導的な役割を果たしたか、少なくともこれを強く支持したことは想像に難くない。ただし、国元での具体的な兵站維持活動、領内警戒体制、情報収集といった任務遂行の詳細については、さらなる史料の発見が待たれる。

関ヶ原の戦後、西軍に与した島津家は改易の危機に瀕したが、ここでも忠恒公は重要な役割を果たす。父・義弘が桜島にて謹慎する中、伯父・義久と共に徳川家康との困難な交渉に臨んだのである 7 。徳川方では井伊直政や本多正信らが交渉を担当したが、島津方は容易に屈せず、武備を整え恭順の意を示すという「武備恭順」の構えを堅持し続けた 7 。また、関ヶ原合戦後の交渉においては、黒田孝高(如水)や福島正則といった大名が義弘の赦免に動き、家康からの窓口としては旗本の山口直友が懇切な書状を送るなど、多方面からの働きかけがあったことも記録されている 17

粘り強い交渉の結果、慶長7年(1602年)、忠恒公は伏見城において家康に直接拝謁して謝罪し、島津家の本領安堵を勝ち取ることに成功した 7 。これは西軍に参加した主要大名の中では異例のことであり、「所領を守りきったのは島津のみである」と評されるほどの成果であった 6 。この成功は、忠恒公の交渉能力の高さを示すと同時に、島津家が有する潜在的な軍事力(「武備恭順」の背景にあるもの)や、日明貿易・対琉球貿易の仲介者としての価値が、徳川方に対して一定の影響力を持ったことの証左と言えよう。

第三章:薩摩藩初代藩主としての治世

第一節:藩体制の基盤確立

関ヶ原の戦後処理を乗り切り、島津家の存続を確定させた忠恒公は、薩摩藩初代藩主として近世的な藩体制の基盤確立に着手する。その象徴的な出来事の一つが、慶長11年(1606年)6月17日、徳川家康より「家」の一字を拝領し、名を「忠恒」から「家久」へと改めたことである 1 。さらに元和3年(1617年)には、二代将軍徳川秀忠より松平の名字を与えられた 5 。これらは、徳川幕府への従属と忠誠を明確に示し、外様大名としての島津家の地位を安定させる上で極めて重要な意味を持った。

領国経営においては、まず慶長7年(1602年)より鹿児島城(鶴丸城)の築城を開始し、新たな政治的中心地としての城下町の整備を進めた 1 。また、慶長11年(1606年)には領内において大規模な検地(慶長内検)を実施し 1 、石高を確定させるとともに年貢収取体制の基礎を固めた。この検地は、後に琉球を支配下に置いた後、琉球においても実施されている 18

さらに、薩摩藩独自の支配体制として知られる外城制度(とじょうせいど)の整備も忠恒公の治世下で進められた 1 。これは、領内各地に武士を配置し、軍事的な拠点とするとともに地方支配を強化するもので、江戸幕府による一国一城令 19 に対する巧みな対応策としての側面も有していた。この外城制度と並行して、農村支配の基本単位であり、薩摩藩の社会構造を特徴づける門割制度(かどわりせいど)も確立されていった 5

これら一連の藩政改革、すなわち鹿児島城の築城、検地の実施、外城制度および門割制度の確立は、戦国大名島津氏から近世大名薩摩藩への体制移行を決定づけるものであった。これらの諸制度は、後の薩摩藩の強固な結束力と軍事力の基盤となり、幕末における薩摩藩の雄飛を支える遠因となったと評価できる。

第二節:家臣団の再編と権力集中

忠恒公は、藩体制の確立と並行して、藩主権力の強化と家臣団の再編にも力を注いだ。その過程で、時には苛烈とも言える手段が用いられた。

庄内の乱後、降伏していた伊集院忠真に対しては、慶長7年(1602年)、忠恒公が日向国野尻(現在の宮崎県小林市野尻町)で催した狩りの際に同行させ、これを射殺した 8 。表向きは誤射とされたものの、実際には計画的な暗殺であった可能性が高いと見られている 8 。これにより、かつて島津家中で最大級の勢力を誇った伊集院氏は事実上滅亡し、忠恒公の権力基盤は一層強化された。

さらに、慶長15年(1610年)には、伯父・義久の家老であった平田増宗を暗殺した 5 。この背景には、家督相続問題が絡んでいたとされ、増宗は義久の外孫である島津久信を後継者として推していたと言われている 5 。増宗の誅殺に留まらず、その子孫も寛永11年(1634年)までに皆殺しにされたという 5

これらの伊集院氏や平田氏といった有力家臣に対する相次ぐ粛清は、忠恒公が自らの権力に反対する可能性のある勢力を徹底的に排除し、藩主権力を絶対的なものにしようとした冷徹な決断の表れであった。この強硬な権力集中策は、短期的には藩内の統制を強化し、忠恒公の指導力を確立する上で効果的であったかもしれない。しかし、その手法の苛烈さは、藩内に恐怖政治的な側面をもたらし、家臣団の忠誠心のあり方や藩政の運営に長期的な影響を与えた可能性も否定できない。薩摩藩の強固な結束というイメージの裏には、こうした厳しい統制の歴史があったことを示唆している。

第三節:琉球侵攻(慶長14年/1609年)

忠恒公の治世における最大の対外行動は、慶長14年(1609年)の琉球侵攻である。この軍事行動は、薩摩藩の歴史、ひいては近世日本の対外関係において重要な意味を持つ。

侵攻の背景には複数の要因が挙げられる。まず、徳川家康が忠恒(当時は家久に改名済み)に対し、琉球出兵を許可したことが大きい 1 。これは慶長11年(1605年)のことで、家久への改名とほぼ同時期であった。幕府がこれを承認した理由の一つとして、当時途絶していた明との国交回復や貿易再開の足がかりとして、琉球を介した交渉ルートを確保する狙いがあったとの指摘がある 22 。薩摩藩側にも、関ヶ原の戦い後の財政的困窮を打開し、琉球を通じた貿易利権を確保したいという強い動機があった 22 。一方で、この琉球への強硬策は、琉球との融和的な関係を模索していた父・義弘の方針とは対立するものであったとされ 5 、隠居していた伯父・義久もこの出兵には非協力的であったと伝えられている 15

樺山久高を総大将とする島津軍約3,000の兵は 1 、慶長14年3月、奄美大島、徳之島を経て沖縄本島へと進軍した 9 。徳之島では島民による抵抗があったものの、これを制圧 9 。沖縄本島では、那覇港に鉄鎖が張られるなどの抵抗の構えも見られたが、太平橋での小規模な戦闘の後、島津軍は首里城へと迫った 9 。琉球側は「大した抵抗も出来ないまま」降伏したとの記述もあるが 25 、浦添親方の子息らが奮戦し、島津方の武将を討ち取るなどの局地的な抵抗も見られた 9

最終的に、琉球国王尚寧は捕虜となり、鹿児島へ、さらには江戸へと連行され、駿府で家康に、江戸城で秀忠に謁見した 1 。この結果、島津氏による琉球の支配権が幕府によって正式に承認され、奄美群島は薩摩藩の直轄地として割譲された 9 。尚寧王らは、「琉球は古来島津氏の附庸国である」といった内容の起請文への署名を強要され、これを拒んだ三司官の一人、謝名利山(じゃな りざん)は斬首されている 9 。侵攻後、薩摩藩は琉球において検地を実施し、新たな貢納制度を確立した 18

この琉球侵攻は、薩摩藩に莫大な経済的利益をもたらし、その後の藩財政を大きく支えることになった。しかし、琉球王国にとっては独立を脅かされ、屈辱的な支配を受け入れることになった事件であり、その歴史的評価は今日に至るまで議論の対象となっている。

第四節:経済政策

忠恒公の治世における経済政策の根幹は、琉球侵攻によって得られた貿易利権の活用にあった。琉球を介した中国(明)との中継貿易は、薩摩藩にとって重要な収入源となり、藩財政の強化に大きく貢献した 20

砂糖の専売制については、後の天保改革期に家老・調所広郷によって本格的に強化されたことが知られているが 27 、忠恒公の時代にどの程度着手されていたかについては、提供された資料からは断定的な情報を得ることは難しい。琉球侵攻によって奄美群島が薩摩藩の直轄地となったこと 9 、そして奄美がサトウキビ栽培に適した気候であることから、この時期にサトウキビ栽培の奨励や、藩による買い上げといった専売制の萌芽的な取り組みが始まった可能性は考えられる。実際に、「大島、徳之島の島民らに甘蔗の栽培を強制し、生産された砂糖は藩が一手に独占」したとの記述もあるが 27 、これが忠恒公の治世から始まったものか、あるいは後の時代の状況を指すのかは判然としない。本格的な制度としての確立は、やはり後の時代を待つ必要があったと見るのが妥当であろう。

密貿易への関与についても、調所広郷の時代に藩財政再建の一環として行われたことが知られているが 29 、忠恒公自身が具体的にどのような形で関与したかを示す直接的な証拠は、現時点では確認されていない。薩摩藩が地理的条件や琉球支配という特殊な立場を利用し、幕府の公式な統制が及びにくい形で海外との交易を行っていた可能性は否定できず、それが広義の「密貿易」と見なされる余地はある 30 。しかし、忠恒公が積極的に違法な密貿易を主導したと断定するには、より詳細な史料の検討が必要である。

第五節:文化・教育への関与

忠恒公自身は、武人としての側面だけでなく、文化的な素養も持ち合わせていた。和歌や連歌、茶の湯を嗜み、特に剣術は薩摩の剣術流派「示現流」の流祖として知られる東郷重位に師事したと伝えられている 3 。鹿児島湾の別名である「錦江湾」という風雅な名称も、忠恒公が詠んだ「浪のおり かくる錦は 磯山の 梢にさらす 花の色かな」という和歌に由来するとされている 3

島津家には、15代当主・島津貴久の父である島津忠良(日新斎)が定めた「いろは歌」を教育の基本とするなど、学問を重んじる伝統があった 31 。また、忠恒公の祖父・貴久の兄にあたる島津忠昌の時代には、桂庵玄樹が薩摩に招かれて朱子学を広め、これは後に「薩南学派」と呼ばれる学統の基礎となった 15 。忠恒公も、こうした島津家の学問的風土の中で育ち、その影響を受けた可能性は高い。

しかしながら、忠恒公が特定の儒学者に師事したという具体的な記録や、藩主として体系的な文教政策を推進したという詳細な記録は、提供された資料からは乏しい 5 。藩主として領内の教学振興に関心を持たなかったとは考えにくいものの、その具体的な施策については、郷中教育の奨励といった間接的な関与に留まったのか、あるいは記録が散逸しているのか、現時点では不明な点が多い。

第四章:徳川幕府との関係

第一節:初期の関係構築と従属姿勢

関ヶ原の戦いにおいて父・義弘が西軍に与したという事実は、島津家にとって極めて深刻な事態であった。しかし、忠恒公は伯父・義久と共に巧みな戦後交渉を展開し、本領安堵を勝ち取ったことは既に述べた通りである。この危機を乗り越えた後、忠恒公は徳川幕府との間に安定した関係を築くことに腐心した。

その表れとして、慶長11年(1606年)に徳川家康から「家」の字を賜り「家久」と改名し、さらに元和3年(1617年)には二代将軍秀忠から松平の姓を下賜されたことは、幕府への恭順の意を明確に示すものであった 1 。そして、寛永元年(1624年)には、諸大名に先駆けて藩主の妻子を江戸に送っており、これは後の参勤交代制度の先駆けとも言える行動であった 1 。これらの措置は、幕府に対する人質提供の意味合いも持ち、島津家の忠誠を疑わせないための戦略的な判断であった。

忠恒公は、父の行動によって生じた幕府との間の潜在的な不信感を払拭し、迅速かつ明確な恭順姿勢を示すことで、外様大名でありながらも徳川幕府体制下における薩摩藩の存続と地位の安定に成功したと言える。

第二節:幕府からの役務負担

江戸時代の大名は、幕府から様々な公役負担を命じられるのが常であった。その代表的なものに、江戸城やその他の城郭、河川改修などの大規模土木工事への参加を命じられる「手伝普請」(てつだいぶしん)がある。

忠恒公の治世下において、薩摩藩が具体的にどのような規模・内容の手伝普請を幕府から命じられたかについては、提供された資料からは詳細を明らかにすることは難しい。ある資料では、江戸城の普請を担った大名の一人として島津忠恒の名が挙げられているが 33 、その具体的な時期や規模は不明である。宝暦年間の木曽三川治水工事(宝暦治水)は島津家にとって大きな負担となった有名な手伝普請であるが、これは忠恒公の時代よりかなり後、島津重年・重豪の時代のことである 27

外様大名、特に西軍に与した過去を持つ薩摩藩が、何らかの形で幕府の公役負担を免れることは考えにくいため、忠恒公の時代にも手伝普請などの負担はあったと推測される。しかし、その具体的な内容や規模、藩財政への影響などについては、さらなる史料の調査が求められる。

第三節:他の有力大名との関係

徳川幕府との関係構築が最優先課題であったことは論を俟たないが、忠恒公が他の有力大名とどのような関係を築いていたかについては、提供された資料からは限定的な情報しか得られない。

伊集院忠棟の誅殺や琉球侵攻といった重要な行動に際しては、徳川家康の承認や計らいがあったとされており 3 、幕府との連携が重視されていたことがうかがえる。また、参勤交代の途上で大坂に立ち寄る際の「船除」という特権の維持に関して、徳川家康・秀忠との由緒を根拠に幕府と交渉した記録もある 35 。これは幕府との直接的な関係に依拠したものであり、他の大名との水平的な連携を示すものではない。

婚姻関係については、家臣である樺山善久との間に姻戚関係があったことが記されているが 36 、これは藩内の結束に関わるものであり、他の有力大名家との外交的な婚姻政策とは性質が異なる。

江戸初期の政治状況を考えると、諸大名間の直接的な同盟や対立は幕府によって厳しく統制されていた。そのため、他の有力外様大名(例えば伊達氏や前田氏など)との関係は、幕府を介した間接的なものや、儀礼的な交流、あるいは共通の利害に基づく非公式な情報交換などに留まっていた可能性が高い。この点についても、具体的な記録は乏しいのが現状である。

第五章:島津忠恒の人物像と逸話

第一節:家族関係

島津忠恒公の家庭生活は、必ずしも平穏なものではなかった。正室である亀寿(伯父・義久の三女)との関係は不仲であったと伝えられており、二人の間には実子がいなかった 5 。このことは、忠恒公の後継者問題にも影を落とすことになる。亀寿が亡くなった際に忠恒公が詠んだとされる和歌「あたし世の 雲かくれ行(いく) 神無月 しぐるる袖の いつはりもかな」(はかない世の中よ、亀寿はこの神無月に亡くなってしまった。悲しみに濡れる私の袖も、偽りの涙なのであろうか)からは 3 、愛憎の入り混じった複雑な心情がうかがえる。実際に亀寿の墓を建てなかったことや、島津家歴代の墓所において夫婦の墓が並んでいないことも、二人の不和を裏付けるものと考えられている 37

伯父であり義父でもある義久の存命中には遠慮していたと言われるが、義久の死後、忠恒公は多くの側室(8人いたとされる)を抱え、33人もの子女を儲けた 3 。これらの子女を、島津家の分家や有力家臣の養子としたり、妻として嫁がせたりすることで、自身の権力基盤の強化と藩内の結束を図った 3

後継者問題に関しては、正室・亀寿との間に実子がいなかったことから、幕府との関係強化も視野に入れ、二代将軍徳川秀忠の子である国松丸(後の駿河大納言徳川忠長)を養子に迎えようと画策したこともあった 3 。これは極めて大胆な構想であったが、実現には至らなかった。最終的に家督は、側室(島津忠清の娘)との間に生まれた次男・島津光久が継承することになる 3

また、側室の一人である島津忠清の娘の生母(堅野カタリナ)が隠れキリシタンであることが発覚し、その一族と共に種子島へ流罪となるという事件も起こっている 37 。これは、当時のキリスト教禁令下における藩主家の内情を垣間見せる出来事である。

第二節:文化的素養と嗜好

忠恒公は、勇猛な武将としての側面だけでなく、豊かな文化的素養も持ち合わせていた。和歌や連歌、茶の湯を嗜んだことは既に述べた通りである 3

特に剣術においては、薩摩藩を代表する剣術流派である示現流の流祖・東郷重位に直接師事したと伝えられている 3 。これは、単なる武芸の習得に留まらず、藩主自らが武を重んじる姿勢を示すことで、藩士たちの士気高揚にも繋がったと考えられる。

第三節:その他の逸話

忠恒公に関する逸話として有名なものの一つに、大坂の陣における真田信繁(幸村)の活躍を評して、「真田日本一の兵(さなだひのもといちのつわもの)」という言葉を手紙に残したというものがある 3 。島津軍は大坂冬の陣・夏の陣いずれにも参加していないが 37 、伝え聞く信繁の勇猛果敢な戦いぶりに感銘を受け、高く評価していたことがうかがえる。この言葉は、敵将の武勇を称える潔さと、武人としての鋭い観察眼を示していると言えよう。

これらの逸話や記録から浮かび上がる忠恒公の人物像は、極めて多面的である。ある時は冷徹な判断を下す権力者であり、ある時は戦場で勇猛を誇る武将であり、またある時は和歌や茶の湯を愛する文化人であった。そして家庭生活においては、正室との不和や多くの側室と子女を持つなど、複雑な一面も抱えていた。これらの多様な側面が、彼の政治判断や行動様式にどのように影響を与えたのかを考察することは、忠恒公という人物を深く理解する上で不可欠である。

第六章:晩年と歴史的評価

第一節:晩年の活動

島津忠恒公の晩年における具体的な政治活動や、特筆すべき大きな事件に関する記録は、提供された資料からは比較的少ない 5 。薩摩藩初代藩主として確立した藩体制の維持と安定、そしてさらなる強化に引き続き努めていたものと考えられる。

外交面では、隣接する日向国飫肥藩との間で境界線を巡る論争が継続していたことが記録されている 5 。これは、近世初期における大名領国間の境界画定の困難さを示す一例と言えよう。

第二節:死没

島津忠恒(家久)公は、寛永15年2月23日(西暦1638年4月7日)にその生涯を閉じた 3 。享年は62歳であった 1

墓所は、鹿児島県鹿児島市にある島津家の菩提寺の一つ、福昌寺に設けられている 3 。忠恒公の死に際しては、9名の家臣が殉死したと伝えられている 5 。殉死者の存在は、忠恒公がある程度の求心力を持ち、家臣から敬慕されていたことを示す一方で、近世初期に見られた主君に対する忠誠の表現形式の一つでもあった。

第三節:歴史的評価

島津忠恒(家久)公の歴史的評価は、その事績の多岐にわたる側面から、肯定的側面と批判的・議論のある側面の両方から論じられる。

肯定的側面 としては、まず薩摩藩初代藩主として、近世薩摩藩の政治・社会・経済体制の基礎を確立した点が挙げられる。鹿児島城(鶴丸城)の築城と城下町の整備、外城制度や門割制度といった薩摩藩独自の支配体制の確立、そして領内検地の実施などは、その代表的な功績である 1 。また、関ヶ原の戦いという困難な状況を乗り切り、巧みな交渉によって徳川幕府との関係を安定させ、島津家の存続と外様大名としての地位を確保した手腕も高く評価される。さらに、琉球侵攻は、その是非は別として、結果的に薩摩藩に大きな経済的利益をもたらし、後の藩の発展の重要な礎を築いたと言える 20 。武将としても、文禄・慶長の役における泗川の戦いなどでの軍功は顕著である。

一方で、 批判的・議論のある側面 も存在する。最大のものは琉球侵攻の是非であろう。これは琉球王国側から見れば明らかな軍事的侵略であり、その独立と主権を著しく侵害するものであった。国王の捕囚や重臣の処刑 9 など、侵攻の過程における苛烈な措置も批判の対象となる。また、藩主権力を強化するための家臣団統制の手法、特に伊集院氏や平田氏といった有力家臣一族の粛清 5 については、権力集中のためにはやむを得なかったとする見方がある一方で、その手段の冷酷さや非情さを指摘する声も根強い。朝鮮出兵時の部下に対する横暴な振る舞いの記録 5 も、彼の人間性の一面を示すものとして考慮されるべきであろう。

総じて、島津忠恒公の評価は、その冷徹なまでの現実主義と、時に苛烈な手段をも辞さない強い権力志向、そして薩摩藩という一大雄藩の基礎を築き上げたという揺るぎない実績との間で、多角的に考察されるべきである。彼の生涯と行動は、戦国乱世の終焉から近世初期へと移行する時代の転換期において、大名が如何にして自家の存続を図り、新たな支配体制を構築していったかという、歴史のダイナミズムを色濃く反映していると言えよう。

おわりに

島津忠恒(家久)公の生涯は、安土桃山時代から江戸時代初期という、日本史における大きな変革期と重なっている。島津義弘の子として生まれ、兄の早世によって予期せず島津家の後継者となり、文禄・慶長の役での武功、関ヶ原の戦後の困難な局面の打開、そして薩摩藩初代藩主としての藩政の確立と、その道のりは決して平坦なものではなかった。

忠恒公は、鹿児島城の築城、検地の実施、外城制度や門割制度の整備を通じて、近世薩摩藩の統治機構の基礎を築き上げた。また、琉球侵攻によって薩摩藩の経済的基盤を強化し、これが後の薩摩藩の発展、ひいては幕末における日本の歴史を動かす原動力の一つとなったことは否定できない。

一方で、その権力集中の過程で見せた伊集院氏や平田氏に対する粛清といった苛烈な手段や、琉球に対する軍事侵攻は、今日的な視点から見れば批判を免れない側面もあろう。しかし、それらは戦国時代の遺風が色濃く残る時代の転換期において、一人の大名が自家の存続と領国の安定を図るために下した、苦渋に満ちた、あるいは冷徹な現実主義に基づく決断であったとも解釈できる。

武勇に優れ、和歌や茶の湯を嗜む文化人としての一面も持ち合わせていた忠恒公の人物像は、一面的に捉えることは難しい。彼の多岐にわたる事績と、その背景にある複雑な人間性は、近世初期の大名の実像を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。島津忠恒公が築いた薩摩藩の礎は、その後の日本の歴史に大きな影響を与え続けることになるのである。

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