最終更新日 2025-06-23

島津忠直

信濃の孤塁、北国の雄将:島津忠直の生涯

序章:薩摩より信濃へ — 信濃島津氏の黎明

戦国時代の信濃国にその名を刻んだ武将、島津忠直。彼の生涯を理解するためには、まずその出自と、彼が拠った信濃島津氏の歴史的背景を紐解く必要がある。彼の家系は、単なる信濃の在地領主にとどまらない、由緒ある血脈に連なっていた。

一. 氏の源流と太田荘への入部

信濃島津氏は、九州南部に一大勢力を築いた薩摩国の島津氏の庶流である 1 。その祖は、鎌倉幕府の有力御家人であった島津氏の家祖・島津忠久の三男、忠直に遡るとされる 1 。この血統は、信濃島津氏に「信州家」という別称を与え、戦国期においてもその権威の源泉となった 2

信濃における島津氏の歴史は、忠久の曾孫にあたる島津光忠が、信濃国水内郡に位置する太田荘の地頭職に補任されたことに始まる 2 。太田荘は摂家近衛家の荘園であり 2 、鎌倉幕府の御家人であった島津氏がその管理を任されたのである。

時代が下り、南北朝の動乱期に入ると、信濃島津氏は中央の支配から自立する動きを強めていく。初代の信濃島津氏当主とされる長沼国忠は、在地領主として周辺の高梨氏らと連携し、幕府から派遣された守護・斯波氏の守護代である二宮氏に武力で抵抗した。これは「嘉慶の乱」として知られ、国人一揆の力で守護を交代させるほどの勢力を示した事件であった 5 。この一連の動きは、信濃島津氏が単なる地頭代官から、在地に深く根を張り、自らの武力と判断で行動する独立した国人領主へと変貌を遂げたことを示している。この在地領主としての自立性と、周辺国人との連携の伝統こそが、後の戦国時代における島津忠直の行動原理を形成する基盤となった。

二. 長沼島津家と赤沼島津家

戦国時代、甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(後の上杉謙信)という二大勢力が信濃を舞台に激突すると、多くの国人領主は生き残りをかけて厳しい選択を迫られた。信濃島津氏も例外ではなく、一族は二つに分裂する 6

本稿の主題である島津忠直は、長沼郷を本拠とし、代々惣領家として一族を率いた「長沼島津家」の当主である 1 。彼は淡路守を称し、一貫して反武田・親上杉の立場を取った 4

一方、赤沼郷を拠点とした分家「赤沼島津氏」は、武田信玄に与する道を選んだ 7 。島津泰忠(孫五郎、左京亮)に代表されるこの一派は、武田方につく見返りとして、本領168貫文に対して新恩として707貫文という破格の加増を受けている 8 。これは、武田氏が敵対する惣領家・忠直への楔として、また在地支配の協力者として赤沼島津氏をいかに重視していたかを示すものである。

しかし、一族内における力関係は、惣領家である長沼島津氏が圧倒的に優勢であった。後に上杉景勝が忠直に与えた所領が約6,600貫文という広大なものであったのに対し 9 、赤沼島津氏の所領はそれに遠く及ばない。この事実は、忠直が単なる一国人ではなく、北信濃の反武田連合の中核をなす有力領主であったことを物語っている。一族を二つに分けるという選択は、どちらの勢力が勝利しても家名を存続させようとする、戦国国人のしたたかな生存戦略であったと解釈できる。

第一章:武田信玄の侵攻と故郷喪失(弘治年間)

16世紀半ば、甲斐の武田信玄による信濃侵攻は、北信濃の勢力図を根底から覆す一大事件であった。独立領主としてこの地に君臨していた島津忠直も、この巨大な渦に飲み込まれていく。

一. 北信濃の独立領主として

武田氏の圧力が本格化する以前、島津忠直は信濃国水内郡長沼を本領とし、長沼城を拠点とする独立した国人領主であった 1 。彼は単独で存在していたわけではなく、北信濃の雄であった村上義清や、隣接する高梨政頼といった国人衆と強固な連携関係を結び、「反武田連合」の一翼を担っていた 1

忠直が居城とした長沼城は、善光寺平の北端に位置し、越後への玄関口を押さえる戦略上の要衝であった 7 。この地理的条件が、彼を反武田連合の重要な構成員たらしめ、同時に武田信玄にとって、善光寺平を完全に掌握し、さらに越後を窺う上で攻略せねばならない標的としたのである。

二. 長沼城の攻防と落城

武田信玄の侵攻は熾烈を極めた。弘治3年(1557年)2月、信玄は上杉軍が雪で動けない時期を狙い、善光寺平の西側を守る上杉方の重要拠点、葛山城を急襲し、これを攻略した 6 。この葛山城の陥落は、善光寺平における反武田連合の防衛線に致命的な亀裂を生じさせた。

西方の守りを失ったことで、平地に位置する長沼城は武田軍の脅威に直接晒されることとなった。戦略的に孤立した忠直は、長沼城での籠城戦を断念。北方約5kmにある山城、詰めの城である大倉城へと退却を余儀なくされた 1 。これは、戦わずして本拠地を放棄せざるを得なかった戦略的撤退であった。

長沼城を失った後、忠直は武田氏によって徹底的に利用されることになる。武田方は、忠直の同族である赤沼島津氏の島津尾張守忠吉に命じ、戦乱で離散した長沼の民を呼び戻させ、城下町の再建を図った 6 。さらに、弘治元年(1555年)から永禄11年(1568年)にかけて、名将・馬場信春らの手によって三度にわたる大規模な改修が行われ、長沼城は武田氏の対上杉における最前線基地、そして越後侵攻の拠点として生まれ変わった 10 。特に永禄11年には、武田軍の北信濃における司令部機能が海津城(後の松代城)から長沼城に移されたとされ、その戦略的重要性が窺える 10 。故郷が敵の牙城と化したことは、忠直にとって痛恨事であったに違いない。

三. 越後への亡命と上杉謙信への臣従

大倉城での抵抗も限界に達し、島津忠直はついに故郷を捨て、越後の上杉謙信を頼って亡命する道を選んだ 1 。これは、彼一人だけの境遇ではなかった。信濃守護の名門・小笠原長時や、北信濃最強と謳われた村上義清もまた、信玄に領地を追われ、謙信の下に身を寄せていた 17

しかし、彼らのその後の運命は大きく分かれる。信濃守護であった小笠原長時は、ついに旧領を回復することなく会津で客死 18 。村上義清もまた、越後の根知城主として遇されはしたものの、故郷の土を再び踏むことなくこの世を去った 17

これに対し、島津忠直は亡命国人という境遇から、自らの力と才覚で旧領を回復し、さらに上杉家中で重臣としての地位を築き上げるという、稀有な成功を収めることになる。この違いはどこから生まれたのか。その答えは、謙信死後の上杉家の内乱「御館の乱」における彼の的確な判断と、武田氏滅亡という時代の転換点を逃さなかった機敏な行動、そして何よりも新当主・上杉景勝からの厚い信頼にあった。

第二章:上杉家臣としての雌伏と再起(永禄〜天正年間)

故郷を失い、越後に身を寄せた島津忠直であったが、彼の闘志は衰えることを知らなかった。上杉謙信の家臣として、彼は旧領回復という悲願を胸に、雌伏の時を過ごしながら再起の機会を窺い続ける。

一. 川中島の戦いにおける役割

上杉家臣となった忠直は、早速、謙信と信玄が雌雄を決する川中島の戦いに身を投じる 1 。彼の参戦は、単なる家臣としての義務ではなく、失われた長沼城を奪還するという強い個人的動機に突き動かされたものであった。

第三次合戦(弘治3年、1557年)では、謙信の出陣に呼応し、忠直(当時は号である「月下斎」の名で呼ばれることが多い)は別働隊として戸屋城に入り、武田軍の背後を脅かす遊撃的な役割を担った 19 。これは、彼が北信濃の地理に精通し、謙信から一定の軍事裁量権を与えられていたことを示している。

さらに、史上最も激しい戦いとなった第四次合戦(永禄4年、1561年)においては、同じく信濃を追われた村上義清や高梨政頼らと共に、上杉軍の先陣を務めるという栄誉を担った 3 。旧領回復への意欲が最も高い彼らを先陣に立てることは、上杉軍全体の士気を高める狙いがあったと考えられる。しかし、数次にわたる川中島の戦いでも決着はつかず、忠直の旧領回復の夢は、この時点では叶わなかった 3

二. 御館の乱での動向

忠直の運命を大きく好転させる転機が、天正6年(1578年)に訪れる。主君・上杉謙信が急死し、その後継を巡って養子の上杉景勝と上杉景虎が争う内乱「御館の乱」が勃発したのである 21

多くの国人衆が、関東の雄・北条氏を後ろ盾に持つ景虎方につくか、あるいは形勢を日和見する中で、島津忠直は子の義忠と共に、いち早く景勝方への支持を表明した 3 。これは、彼の生涯における最も重要な政治的決断であった。武田氏と結ぶ可能性のある景虎の勝利は、武田に故郷を追われた忠直にとって、旧領回復の道が完全に閉ざされることを意味した。景勝を支持することは、彼の一貫した政治的立場と合致する、極めて合理的な選択だったのである。

忠直・義忠親子はこの乱で大いに戦功を挙げ、景勝から三度にわたり感状を受けたとされる 3 。特に子の喜七郎義忠は、その功により越後国内の「村岡之地」を恩賞として与えられている 9 。この内乱における迅速な決断と軍功は、景勝政権が成立した後に、忠直が絶大な信頼を得るための決定的な布石となった。

三. 天正壬午の乱と長沼城復帰

天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、北信濃は織田家臣・森長可の支配下に入った 7 。長可は忠直に対し、自らの組下に入るよう強要したが、忠直はこれを断固として拒否。同じく武田旧臣であった芋川親正らと連携し、上杉景勝の支援のもと、反織田の一揆を蜂起したのである 1

この一揆は、森長可の苛烈な反撃に遭い、凄惨な結末を迎える。一揆勢は飯山城を攻めるも敗退し、逆に長沼城を落とされ1,200人余りが討死。さらに大倉城に籠城していた婦女子約1,000人が撫で斬りにされるという大敗北を喫した 7 。忠直は再び越後へ逃れることを余儀なくされた。

しかし、同年6月、事態は劇的に動く。京都で「本能寺の変」が起こり、織田信長が横死したのである。後ろ盾を失った森長可は信濃から撤退。この権力の空白を好機と見た上杉景勝は、直ちに軍を動かし北信濃四郡を制圧した 7

この時、景勝軍の先鋒として故郷に戻ったのが島津忠直であった。弘治3年(1557年)に城を追われてから実に25年の歳月を経て、彼はついに悲願であった長沼城への復帰を果たしたのである 1 。凄惨な敗北を乗り越え、千載一遇の好機を逃さなかった忠直の執念が、ついに実を結んだ瞬間であった。

第三章:北信濃の統治者 — 河北郡司としての権能

25年ぶりに故郷・長沼城への帰還を果たした島津忠直は、もはや単なる一城主ではなかった。主君・上杉景勝の厚い信頼のもと、北信濃の統治を担う重要人物として、そのキャリアの頂点を迎えることになる。

一. 上杉景勝の北信支配体制

天正10年(1582年)7月、北信濃四郡(埴科・更科・高井・水内)を制圧した上杉景勝は、新たな支配体制の構築に着手した。彼はこの地域を、海津城を中心とする「海津組」と、長沼城を中心とする「長沼組」に二分したのである 6

そして、海津城将には北信濃の旧名門・村上義清の嫡男である山浦(村上)景国を任じる一方、長沼城将には島津忠直を任命した 6 。これは、在地勢力に影響力を持つ旧名門を名目上のトップに据えつつ、御館の乱以来の功臣であり、在地の実情にも通じた忠直に実質的な統治を委ねるという、景勝の巧みな人事戦略であった。忠直は、単なる城主としてではなく、上杉家の北信濃経営の根幹を担う存在として、この重要な役割に抜擢されたのである。

二. 郡司の職掌と知行

忠直に与えられた地位は、城主にとどまらなかった。彼は同時に、管轄地域の行政権を掌握する「河北郡司」にも任命された 7 。その管轄範囲は「葛山・大倉より山中」と定められ 23 、職務には長沼城の普請、軍事輸送のための伝馬・宿送りの人馬徴発、領内の治安維持や資源管理など、軍事・行政にまたがる強力な権限が含まれていた 9 。特に、上杉家の朱印状を持たない者の伝馬利用を差し止めたり、普請役を逃れようとする在地領主を地頭に命じて従わせたりする権限は、彼が景勝に直属し、方面軍司令官ともいうべき統治権を委任されていたことを示している 9

この重責に見合うように、忠直は景勝から破格の待遇を受けた。天正10年7月13日付の宛行状によれば、忠直には長沼・津野といった旧領に加えて、旧武田領を含む29ヶ所、合計約6,600貫文にも及ぶ広大な所領が与えられた 9 。さらに文禄3年(1594年)の記録では、その知行高は6,190石、軍役負担は371人とされており、上杉家中でも屈指の大身であったことがわかる 3 。これは、忠直が信濃の一国人領主から、上杉家の領国経営を分担する大名級の家臣へと、完全に飛躍を遂げたことを意味する。

時代・年代

主君

拠点・居城

役職・立場

知行(判明分)

備考

〜弘治3年 (1557)

独立領主

信濃国 長沼城

北信濃の国人領主

不明

武田信玄の侵攻により城を追われ、越後へ亡命。

弘治3年〜天正10年 (1557-1582)

上杉謙信→景勝

越後国内

上杉家客将・家臣

不明(子の義忠は村岡之地を与えられる)

川中島の戦いに従軍。御館の乱で景勝方に与し戦功。

天正10年〜慶長3年 (1582-1598)

上杉景勝

信濃国 長沼城

長沼城主、河北郡司

約6,600貫文(天正10年)、6,190石(文禄3年)

25年ぶりに旧領回復。北信濃統治の要を担う。

慶長3年〜慶長5年 (1598-1600)

上杉景勝

陸奥国 長沼城

長沼城代

7,000石

主家の会津移封に従う。

慶長6年〜慶長9年 (1601-1604)

上杉景勝

出羽国 米沢

米沢藩士

不明(家は800石)

主家の米沢減転封に従う。移住後、死去。

三. 上杉家臣団との連携

北信濃の統治者として、忠直は他の上杉家臣団と緊密に連携し、主家の戦略を実行していった。

天正11年(1583年)、旧領回復を狙う小笠原氏が侵攻してきた際には、子の義忠が同僚の岩井信能(民部少輔)と協力してこれを撃退している(麻績合戦) 9 。この功により、忠直は直江兼続と狩野秀治の連署による感状を受けている 9

また、天正13年(1585年)に真田昌幸が徳川家康と対立し、上杉方に付いた際には、忠直は岩井信能、栗田永寿らと共に軍勢や人夫を動員し、真田氏の拠点である上田城の普請を支援した 26 。これらの活動は、忠直が景勝の外交・軍事戦略を理解し、北信濃方面軍の中核として忠実に実行していたことを示している。さらに、信濃の有力国人であった葛山衆二十一騎を与力として配下に加えられており 9 、他の国人衆を指揮下に置く軍団長としての地位にあったことも窺える。

第四章:会津、そして米沢へ — 激動の晩年と後世への遺産

北信濃の統治者として栄華を極めた島津忠直であったが、その晩年は主君・上杉家と共に、再び流転の日々を送ることとなる。彼の生涯は、戦国の終焉と近世の幕開けという時代の大きな転換点の中で幕を閉じた。

一. 会津への移封と陸奥長沼城

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津120万石へと移封された。25年の歳月をかけて取り戻した故郷・信濃長沼の地であったが、忠直は私情を捨て、主君に従い信濃を離れる決断を下す 1 。この行動は、彼がもはや独立した国人領主ではなく、上杉家と運命を共にする大名家臣としての意識を確立していたことを明確に示している。

会津においても、景勝の忠直への信頼は揺るがなかった。彼は陸奥国岩瀬郡に、信濃時代と同じ「長沼」の名を持つ長沼城(現在の福島県須賀川市)を与えられ、7,000石の城代に任じられた 3 。この陸奥長沼城は、伊達氏や関東方面への抑えとなる重要な戦略拠点であり、景勝が新領国においても忠直の軍事的能力を高く評価し、要衝の守りを託したことの証左である 28

二. 家督相続の危機

会津へ移ったまさにその年、島津家を最大の危機が襲う。家督を継いでいた嫡男の義忠が病により早世してしまったのである 1 。跡継ぎを失い、家名断絶の窮地に立たされた忠直を救ったのは、信濃時代から苦楽を共にしてきた同僚との絆であった。

忠直は、上杉家の重臣であった岩井信能の次男・利忠(幼名・勢三)を、亡き義忠の娘の婿養子として迎え、島津家の家督を継承させた 1 。この縁組は、上杉家臣団、特に信濃出身の武将たちの間に強固な相互扶助の関係が存在したことを物語っている。危機に際し、最も信頼できる同僚の家から後継者を迎えることで、島津家はその血脈と家名を未来へと繋ぐことができたのである。

三. 関ヶ原以降と米沢藩での島津家

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発。西軍に与した上杉景勝は、戦後に徳川家康から会津120万石から出羽国米沢30万石への大減封を命じられた 3 。忠直は、この主家の浮沈にも動じることなく従い、一族を率いて米沢へと移住した 3

そして、米沢藩の基礎が固まり始めた慶長9年(1604年)8月1日、島津忠直はその波乱に満ちた生涯に幕を下ろした 1 。戒名は「忠広院殿嶋全翁大居士」という 1 。故郷を追われ、25年の雌伏を経て旧領を回復し、再び主君と共に流転の道を歩んだその生涯は、戦国乱世を生き抜いた武将の忠義と執念の物語そのものであった。

四. 後代への遺産

島津忠直が遺したものは、後世にまで確かな足跡を残している。

彼の系統である長沼島津家は、江戸時代を通じて米沢藩の上級家臣「侍組分領家」の一つとして重きをなした 2 。その家禄は800石とされ、時には家老職を務めるなど、藩政の中枢で活躍した 31

一方で、戦国期に武田氏に与した分家の赤沼島津家も、武田氏滅亡後に上杉氏に仕え、米沢藩士として存続した。しかし、その家禄は250石と、長沼島津家とは明確な差がつけられていた 31 。これは、戦国時代の忠誠のあり方が、江戸時代の家格にまで決定的な影響を及ぼしたことを示す好例である。一貫して上杉家に忠誠を尽くした忠直の選択は、子孫の代にまで続く家の繁栄の礎となったのである。

また、忠直が深く関わった信濃国長沼の地にも、その記憶は息づいている。長沼にある曹洞宗の寺院・玅笑寺(みょうしょうじ)は、島津氏の菩提寺と伝えられ、寺には長沼城の門扉であったとされるものが現存する 14 。寺の伝承によれば、天正8年(1580年)に「長沼城主」であった忠直の招きによって現在地に移転したとされる 33 。史実として忠直が長沼城に復帰するのは天正10年(1582年)であるため、この2年のズレは、単なる伝承の誤りか、あるいは忠直が公式に城主となる以前から、越後から在地へ何らかの影響力を行使し、寺院の保護などを行っていた可能性を示唆しており、歴史研究の興味をかき立てる。

度重なる千曲川の洪水により、長沼城の遺構の多くは失われてしまったが 6 、島津忠直という一人の武将の不屈の生涯は、米沢藩の家譜と信濃の地の伝承の中に、今なお鮮やかに生き続けている。

引用文献

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  2. 信濃島津氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F
  3. 島津忠直 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/ShimadzuTadanao.html
  4. 島津忠直 (信濃島津氏)とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%9B%B4+%28%E4%BF%A1%E6%BF%83%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%B0%8F%29
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