16世紀半ばの日本列島が群雄割拠の戦国時代に突入する中、九州南部に位置する薩摩、大隅、日向の三国(三州)もまた、激しい戦乱の渦中にあった。この地域では、守護大名である島津氏、日向国中部から勢力を拡大する伊東氏、そして大隅半島に深く根を張る肝付氏という三つの勢力が、互いに領土と覇権を巡って熾烈な抗争を繰り広げていた。
島津氏内部では、宗家(奥州家)と分家である薩州家、相州家などが入り乱れた内紛、いわゆる「三州大乱」を経て、相州家出身の島津貴久が第15代当主として宗家を継承し、分裂した一族の再統一と領国経営の安定化に乗り出した時期であった 1 。しかし、その支配はいまだ盤石とは言えず、薩摩・大隅には菱刈氏や肝付氏といった独立志向の強い国人領主が割拠し、貴久の覇業の前には幾多の障壁が立ちはだかっていた 3 。
とりわけ、日向国南部の要衝である飫肥城(おびじょう、現在の宮崎県日南市)は、島津氏と伊東氏にとって百年にわたり争奪の的となってきた最前線であった 5 。この地の支配は、豊かな山林資源と海上交通の拠点である油津港の掌握に繋がり、日向経営の帰趨を決するほどの戦略的価値を有していたのである 7 。
本報告書で詳述する島津忠親(しまづ ただちか)は、まさにこの南九州の動乱期に、島津氏の東方、すなわち対伊東氏の最前線たる飫肥城主として、その生涯の大部分を捧げた武将である。彼の存在は、単なる一城主にとどまらず、島津宗家が薩摩・大隅の平定に専念するための「防壁」として、極めて重要な戦略的役割を担っていた。彼の生涯を追うことは、戦国時代の九州における地域紛争の熾烈さと、大勢力間の力学に翻弄される一門衆の宿命を理解する上で、不可欠の作業と言えよう。本報告は、史料に基づき、この悲劇的でありながらも剛毅な武将の生涯を、その出自から戦歴、周辺勢力との関係、そして晩年に至るまで、徹底的に解明するものである。
島津忠親の生涯を理解する上で、その複雑な出自と家督相続の経緯は避けて通れない。彼は二つの有力な島津氏分家をその一身で繋ぐという、特異な立場にあった。
島津忠親は、永正9年(1512年)、日向国都城(現在の宮崎県都城市)の領主であり、島津氏の有力分家である北郷氏の第9代当主・北郷忠相(ほんごう ただすけ)の長男として生を受けた 8 。北郷氏は島津宗家第4代当主・島津忠宗の子、資忠(すけただ)を祖とする名門であり、南北朝時代から都城盆地一帯を治めてきた 10 。母は、同じく島津氏の分家で、当時、日向飫肥を本拠としていた豊州(ほうしゅう)島津家第2代当主・島津忠廉(ただかど)の娘であった 8 。この血縁関係が、後に忠親の運命を大きく左右することになる。
父・忠相は、豊州家と緊密に連携しながら、宿敵・伊東氏や、当時志布志を領有していた新納氏と戦い、都城盆地の統一を成し遂げた武将であった 11 。忠親もまた、父と共に各地を転戦し、若き日から武将としての経験を積んだとされている 12 。
豊州島津家は、島津宗家第8代当主・久豊の三男、季久(すえひさ)を祖とする分家である。季久が豊後守を称したことから「豊州家」の名がついた 13 。当初は薩摩国帖佐(現在の鹿児島県姶良市)を領していたが、2代忠廉の代から日向飫肥に移り、伊東氏との攻防の最前線に立っていた 13 。
天文15年(1546年)、この豊州家に大きな転機が訪れる。第4代当主・島津忠広の養子であった賀久(島津忠隅の子)が若くして亡くなり、跡継ぎが不在となる事態に陥ったのである 8 。かねてより伊東氏の激しい攻勢に悩まされていた忠広は、島津宗家当主・貴久の許可を得て、協力関係にあり、かつ血縁でもある北郷家の嫡男・忠親を養子として迎えることを決断した 11 。
この養子縁組は、単なる家督相続問題の解決にとどまるものではなかった。忠親は、自らが北郷家を継ぐのではなく、自身の長男である時久(ときひさ)に北郷家の家督を継がせ、自らは豊州家に入ったのである 8 。そして天文18年(1549年)、養父・忠広の隠居に伴い、忠親は正式に豊州家第5代当主となった 8 。
この一連の家督相続が持つ戦略的意味は極めて大きい。これにより、日向南部の都城盆地を拠点とする北郷家(当主:時久)と、飫肥・志布志を拠点とする豊州家(当主:忠親)が、実の父子によって率いられることになった。これは、対伊東氏、対肝付氏の防衛線において、二つの有力分家が一体となって動く、極めて強力な連携体制の構築を意味した 11 。
忠親の豊州家相続は、個別の家の事情を超えた、島津氏全体の東方戦略における一大再編であったと言える。伊東氏の圧力が強まる中、豊州家はより強力な指導者を必要とし、北郷家は豊州家との連携を不可分のものとする必要があった。両者の利害が一致した結果、忠親を「結節点」とする南日向島津勢力という一大軍事ブロックが形成されたのである。この体制の確立により、島津宗家は東方の憂いをこの父子に託し、薩摩・大隅の平定事業に戦力を集中させることが可能となった。天文21年(1552年)に島津貴久が島津一門の諸将と交わした誓約書には、7名の連署者のうちに北郷忠相(忠親の実父)、忠親、時久(忠親の実子)の3名が含まれており、当時の島津一門におけるこの父祖三代の影響力の大きさを如実に物語っている 11 。事実上、島津忠親は、この時から島津氏の東方方面軍司令官とも言うべき重責を担うことになったのである。
人物 |
所属・立場 |
島津忠親との関係 |
主要な役割 |
島津 忠親 |
北郷氏9代当主 → 豊州家5代当主 |
- |
本報告書の中心人物。飫肥城主として伊東氏と対峙。 |
北郷 忠相 |
北郷氏8代当主 |
実父 |
忠親を豊州家に養子に出し、両家の連携を画策。 |
北郷 時久 |
北郷氏10代当主 |
実子 |
忠親の跡を継ぎ北郷家当主。第九飫肥役で父の援軍に向かう。 |
島津 忠広 |
豊州家4代当主 |
養父 |
跡継ぎを失い、忠親を養子に迎える。 |
島津 貴久 |
島津宗家15代当主 |
宗家当主 |
忠親の養子縁組を許可。三州統一を進める。 |
島津 義弘 |
島津貴久の次男 |
一時的な養子 |
伊東氏牽制のため、一時的に忠親の養子として飫肥城に入る。 |
伊東 義祐 |
日向伊東氏当主 |
宿敵 |
忠親の生涯にわたる最大の敵。飫肥城を執拗に狙う。 |
肝付 兼続 |
大隅の有力国人 |
敵対勢力 |
当初は島津氏と姻戚関係にあったが、後に伊東氏と結ぶ。 |
島津忠親が当主となった豊州家の本拠・飫肥城は、単なる一つの城ではなく、島津氏と伊東氏の百年にわたる因縁が凝縮された地であった。忠親の城主としての日々は、この宿命の地を守り抜くための絶え間ない戦いの連続であった。
飫肥城は、日向国南部の政治・経済の中心であり、海上交通の要衝である油津港にも近いため、その支配権は日向経営の鍵を握っていた 7 。文明16年(1484年)に伊東祐堯が初めて飫肥に侵攻して以来、この地は島津氏と伊東氏の間で血で血を洗う争奪戦の舞台となった 5 。当初は新納氏、文明18年(1486年)からは豊州島津家が城主を務めたが、伊東氏の攻撃は断続的に続き、所有者が何度も入れ替わる不安定な状況にあった 5 。
忠親が家督を継承した天文18年(1549年)頃、伊東氏では伊東義祐が当主として勢力を伸張させており、父祖の代からの悲願であった飫肥奪取への執念を再び燃やしていた 5 。忠親の城主としてのキャリアは、この宿敵との対決という、極めて過酷な状況下で始まったのである。
伊東氏の圧力が増大の一途をたどる中、永禄3年(1560年)、忠親は島津宗家との連携をさらに強化するための策を講じる。宗家当主・島津貴久の次男であり、後に「鬼島津」と恐れられることになる猛将・島津義弘を養子として迎え、飫肥城の守備を任せたのである 8 。当時、義弘は忠平と名乗っており、この養子縁組は、伊東氏に対する強力な軍事的・政治的牽制であった。宗家の「切り札」を最前線に投入することで、戦いの重要性を内外に示し、伊東氏の侵攻を躊躇させる狙いがあった。同時に、万が一の事態に備え、豊州家の血脈を宗家に繋ぎとめるための保険という側面も持っていた。
義弘は飫肥に入ると、3年間にわたって在番し、伊東氏の攻勢を防いだ 21 。しかし、この体制は長くは続かなかった。永禄5年(1562年)、島津宗家が本拠地で大隅の有力国人・肝付氏による激しい攻撃に晒されるようになると、貴久は義弘に帰還を命令した 8 。宗家にとって、日向の防衛線よりも本拠地周辺の安定が喫緊の課題となったためである。義弘は飫肥を去り、忠親との養子縁組も事実上白紙に戻された 24 。
この義弘の養子縁組と、その唐突な解消は、島津忠親が置かれた立場を象徴している。彼は島津氏の東方防衛に不可欠な存在でありながら、その運命は常に宗家の戦略的都合によって左右されるという、戦国時代の分家当主が持つ構造的な脆弱性を浮き彫りにした。義弘という強力な後ろ盾を失った忠親は、再び単独で伊東氏の強大な脅威に直面することになったのである。彼の奮戦は、宗家が薩摩・大隅平定に専念するための「時間稼ぎ」という側面を、この時から色濃く帯びることとなった。
島津義弘という最大の抑止力を失った飫肥城に、伊東義祐が狙いを定めるのは必然であった。しかし、ここからの島津忠親の行動は、彼が単なる守りの将ではなく、不屈の闘志と戦術的機知を兼ね備えた武将であったことを証明している。
島津義弘が飫肥を去った直後、伊東義祐はこの千載一遇の好機を逃さなかった。永禄5年(1562年)、義祐は自ら大軍を率いて飫肥城に殺到した 8 。宗家からの大規模な援軍が期待できない絶望的な状況下で、忠親は籠城戦の不利を悟り、一つの決断を下す。同年2月20日、義祐と和睦し、一旦は城を明け渡したのである 8 。これは、無益な消耗を避け、再起の機会を窺うための、苦渋に満ちた戦略的判断であった。
しかし、忠親の闘志は潰えていなかった。城を明け渡してからわずか数ヶ月後、彼は伊東方の油断を突き、電撃的な夜襲を敢行。見事に飫肥城を奪還するという離れ業をやってのけたのである 8 。
この夜襲の具体的な戦術に関する詳細な史料は限定的であるが、その背景を推察することは可能である。城を明け渡したことで伊東方の守備に油断が生じ、警戒が手薄になった瞬間を狙ったものと考えられる。夜陰に紛れて城に接近し、守兵が最も疲労し、警戒が緩む時間帯に奇襲をかける「夜討ち」は、寡兵が大軍に勝利するための常套手段であった 27 。この成功は、忠親が敵の心理を読み、決行の機を逃さない優れた情報収集能力と戦術眼を持っていたことを示唆している。
この永禄5年の夜襲による飫肥城奪還は、島津忠親の武将としての評価を決定づける画期的な出来事であり、彼の生涯における最大の軍事的功績と言って過言ではない。客観的に見て絶望的な状況から、短期間で戦局を覆したこの勝利は、忠親が単に宗家に依存するだけの城主ではなく、自らの判断で戦局を動かす能力を持った、独立した指揮官であったことを力強く証明している。この一件は、彼の人物像を単なる「悲劇の敗将」から、「粘り強く戦った智勇兼備の武将」へと引き上げる上で、決定的に重要なエピソードである。
永禄5年(1562年)の飫肥城奪還は忠親の武勇を示すものであったが、日向を巡る大局的な力関係を覆すには至らなかった。伊東義祐は雪辱を期し、より周到な準備を進めていた。そして永禄11年(1568年)、両者の因縁に終止符を打つ、最大かつ最後の戦いの火蓋が切られる。
この頃、島津氏を取り巻く情勢はますます厳しさを増していた。大隅の有力国人であった肝付氏は、当主が兼続から子の良兼へと代わると、それまでの島津氏との対立関係を先鋭化させ、宿敵であった伊東氏との同盟を強化した 29 。伊東義祐の娘が肝付良兼に嫁いだことで、両家は強固な姻戚関係で結ばれ、対島津の共同戦線が確立されたのである 15 。
これにより、島津方は日向で伊東氏、大隅で肝付氏という二つの強大な敵に同時に対応する必要に迫られた 15 。特に豊州島津家と北郷家は、東に伊東、西に肝付という挟撃の形となり、戦略的に極めて困難な状況に追い込まれていた 1 。
永禄11年(1568年)1月、伊東義祐は満を持して総勢2万とも号する大軍を動員し、飫肥城への総攻撃を開始した 8 。長きにわたる飫肥攻防戦の通算9度目の大規模な戦役とされることから、これは「第九飫肥役」と呼ばれる 32 。
伊東軍は1月21日から飫肥城を完全に包囲し、昼夜を問わず猛攻を加えた 32 。忠親は籠城して奮戦するが、城内の兵力は伊東軍に比べて圧倒的に少なく、兵糧の備蓄も乏しいという絶望的な状況であった 5 。
籠城する忠親は、都城にいる実子・北郷時久に急使を送り、救援を要請した。時久は父の窮地を救うべく、手勢6千(一説には忠親の軍7千と合わせ1万3千)を率いて出陣し、飫肥城の西約5キロメートルに位置する酒谷城(さかたにじょう)に着陣した 5 。
2月21日、時久は飫肥城へ兵糧を搬入するため、主力を前進させた。しかし、伊東義祐はこの動きを完全に読んでいた。飫肥近郊の「小越(おごえ)」と呼ばれる隘路に伏兵を配置し、進軍してきた北郷軍を待ち伏せ、包囲殲滅したのである 5 。この「小越の戦い」で北郷・島津連合軍は大敗を喫し、800人以上が討ち死にしたと記録されている 32 。援軍は壊滅し、酒谷方面へと敗走した 34 。
援軍の壊滅という報は、籠城する忠親にとって最後の望みを断ち切るものであった。飫肥城は完全に孤立し、兵糧も尽き果て、落城はもはや時間の問題となった 5 。
この事態を受け、島津宗家(この時、当主は貴久から長男の義久へと代替わりしていた)は、苦渋の決断を下す。菱刈氏など薩摩・大隅の国人衆の平定もいまだ道半ばであり、これ以上、勝ち目の薄い日向方面に兵力を割くことは、三州統一という大戦略全体を危険に晒すと判断し、飫肥を放棄することを決定したのである 5 。
同年5月、忠親は宗家の決定に従い、包囲網を抜けて城を脱出した。そして、20年以上にわたって守り抜いてきた飫肥城は、ついに宿敵・伊東義祐の手に落ちた 8 。忠親の、そして豊州島津家の飫肥城主としての歴史は、ここに終わりを告げたのである。
この第九飫肥役における忠親の敗北は、個人の力量不足というよりも、構造的な要因が複合した結果であった。伊東・肝付同盟という敵方の巧みな外交戦略、島津宗家の戦略的優先順位の変更、そして本拠地から遠く補給線が伸びきるという地理的劣勢。これらが重なり、忠親は戦略的に孤立させられた上で、圧倒的な物量の前に屈したのである。彼の敗北は、戦国時代の戦いが一武将の武勇や一戦場の勝敗だけでなく、外交、兵站、そして大局的な戦略眼によって決まることを示す好例であり、彼は島津氏という巨大な組織の戦略的判断の犠牲となった悲劇の武将であったと言えよう。
第九飫肥役で本拠地を失った島津忠親の人生は、静かな終焉を迎える。しかし、彼が残した血脈と、その生涯を賭した戦いが歴史に与えた影響は、決して小さなものではなかった。
飫肥城を脱出した忠親は、実家である北郷氏の領地、庄内(現在の宮崎県都城市)に身を寄せた 8 。豊州家の当主として戦い続けた彼が、その最期の日々を生まれ故郷である北郷家の地で過ごしたことは、彼の人生の原点への回帰を象徴している。
落城から3年後の元亀2年6月12日(1571年7月4日)、忠親は同地で病のため静かにこの世を去った 8 。享年68(数え年)。波乱に満ちた生涯であった。
忠親の墓は、宮崎県都城市都島町に現存する都城島津家墓地(龍峯寺跡)にある 8 。この龍峯寺は、忠親の実父である北郷忠相が、その母(忠親の祖母)の菩提を弔うために創建した寺院であり、以来、北郷家(後の都城島津家)代々の菩提寺となった由緒ある場所である 35 。豊州家当主として生涯を終えた忠親が、この北郷家ゆかりの地に葬られたという事実は、彼がその魂において、生まれ故郷である北郷家の許に還ったことを物語っているかのようである。その墓碑には、戒名「天香寺殿齢岡永寿居士」が刻まれている 8 。
忠親の血は、二つの有力な家系を通じて後世に受け継がれていった。
島津忠親は、最終的に本拠地・飫肥城を失ったことから、単なる「敗将」として語られがちである。しかし、その生涯を詳細に検証する時、その評価は大きく変わらざるを得ない。
彼は、島津氏の最重要課題であった三州統一事業において、東方の最前線を20年以上にわたって死守し続けた。永禄5年の夜襲による飫肥城奪還は、彼の武将としての非凡な才覚と不屈の精神を証明している。彼の粘り強い抵抗がなければ、伊東氏の圧力はより直接的に薩摩・大隅の中枢に及び、島津宗家の統一事業は大幅に遅延、あるいは頓挫していた可能性すら否定できない。
彼の敗北は、個人の能力の限界ではなく、大勢力間の戦略と外交の力学の中で、分家当主として宿命づけられた悲劇であった。彼は、島津家という巨大な城の「東門」を守り続けた、忠実かつ有能な「防人(さきもり)」としてこそ、再評価されるべき人物であろう。
島津忠親の生涯は、九州の戦国時代における地域紛争の熾烈さと、その中で生きる武将の過酷な運命を凝縮したものであった。彼は、島津氏の有力分家である北郷家と豊州家を結びつける「結節点」として、南日向における一大勢力圏を現出し、その生涯を宿敵・伊東氏との戦いに捧げた。
彼の奮闘は、伊東氏の力を長年にわたって日向南部に釘付けにし、結果として島津宗家による薩摩・大隅平定を側面から支援する形となった。皮肉なことに、忠親の敗北と飫肥の喪失は、伊東義祐にその生涯の絶頂期をもたらしたが、それは同時に伊東氏の慢心を誘い、わずか4年後の元亀3年(1572年)の「木崎原の戦い」での大敗、そして「伊東崩れ」と呼ばれる一族の没落へと繋がる遠因ともなったのである 18 。
その意味において、島津忠親は単なる一地方城主ではなく、島津氏の九州統一への道程において、不可欠ながらも悲劇的な役割を担った重要人物として、歴史にその名を記憶されるべきである。彼の戦いと敗北は、後の島津氏の飛躍の礎の一つとなったと言えるのかもしれない。