最終更新日 2025-06-24

島津忠長(島津忠持の子)

播磨の驍将・島津忠長(1501-1534)―その生涯と越前島津氏の盛衰―

序章:対象人物の明確化と比較

日本の戦国時代史において、「島津忠長」という名は複数存在する。本報告書が対象とするのは、文亀元年(1501年)に生まれ、天文3年(1534年)に没した、播磨国(現在の兵庫県南西部)を本拠とした島津氏一門の武将である 1 。彼は、薩摩の島津本宗家から分かれた越前島津氏の第15代当主であり、父は島津忠持、官位は左近将監を称したと伝えられる 1

彼の生涯と一族の歴史を詳述するにあたり、まず最も重要なことは、後世の歴史においてより著名な同姓同名の人物二人と明確に区別することである。一人は、島津義久・義弘兄弟の従兄弟にあたり、薩摩藩の家老として九州平定や文禄・慶長の役で活躍した宮之城島津家の島津忠長(1551-1610) 3 。もう一人は、江戸時代前期の薩摩藩主・島津光久の三男で、都城島津家を継いだ島津忠長(1645-1670)である 6

これら三者は生きた時代も場所も、そして歴史における役割も全く異なる。本報告書の主題である播磨の島津忠長は、戦国時代前期の播磨国を舞台に、守護赤松氏の家臣として下剋上の動乱に翻弄された地方領主であった。彼の生涯を追うことは、薩摩で勢力を拡大した本宗家とは全く異なる道を歩んだ分家の運命を浮き彫りにし、戦国という時代の多層的な実像を理解する上で極めて重要である。

読者の理解を助け、混同を未然に防ぐため、以下に三人の島津忠長を比較する表を提示する。

表1:島津忠長・同名人物比較表

項目

島津忠長(播磨家)

島津忠長(宮之城家)

島津忠長(都城家)

家系(通称)

越前島津氏(播磨島津氏)

宮之城島津家(相州家分家)

都城島津家(本宗家分家)

生没年

1501年 - 1534年

1551年 - 1610年

1645年 - 1670年

島津忠持

島津尚久

島津光久(薩摩藩2代藩主)

活動拠点

播磨国(現・兵庫県)

薩摩国(現・鹿児島県)

日向国都城(現・宮崎県)

主君

赤松晴政

島津義久、義弘、家久

島津光久

主な官位・通称

左近将監

図書頭、左馬頭

外記、摂津介

主要な事績

朝日山の合戦で浦上景宗軍と戦い討死。

九州平定、文禄・慶長の役で活躍。薩摩藩家老。関ヶ原後の徳川家との和平交渉で使者を務める。

喜入氏を経て都城島津家(北郷氏)を継承。江戸で病没。

出典

1

3

6

本報告書は、この表の左列に示された播磨の島津忠長に焦点を当て、その出自から最期、そして彼の一族が辿った数奇な運命について、史料に基づき徹底的に解明するものである。

第一部:越前島津氏の系譜と播磨への進出 ― 遠国の在地領主化

島津忠長の生涯を理解するためには、まず彼が属した「越前島津氏」が、いかにして成立し、なぜ本拠地である薩摩から遠く離れた播磨国に根を下ろすに至ったのか、その歴史的背景を解明する必要がある。

第一章:越前島津氏の起源 ― 鎌倉期の栄光と分家

越前島津氏の歴史は、鎌倉時代初期に遡る。島津氏の始祖である島津忠久は、源頼朝に仕え、南九州に広大な島津荘を与えられたことでその名を興した 8 。忠久の武功は南九州に留まらず、承久3年(1221年)に起こった承久の乱において、幕府方として戦功を挙げた。その恩賞として、忠久は薩摩・大隅・日向の三州守護職に加え、新たに越前国(現在の福井県)の守護職にも任じられたのである 2 。これにより島津氏は、鎌倉幕府の有力御家人の中でも異例の四ヶ国守護という地位を確立した 8

この時、忠久の次男であった島津忠綱が、父の代理として越前国に赴き、守護代に任命された 9 。これが「越前島津氏」の始まりである。同時期、忠久の嫡男・忠時は若狭国守護であったことから、島津氏は南九州のみならず、北陸地方においても重要な拠点を有する一大勢力であったことが窺える 9

第二章:本拠の播磨移転 ― 「越前」から「播磨」へ

越前島津氏の歴史において決定的な転機となったのが、その活動拠点の移転である。弘安2年(1279年)、越前島津氏の2代目にあたる島津忠行(忠綱の嫡男)が、母である越後局から播磨国下揖保荘(しものいぼのしょう、現在の兵庫県たつの市揖保町・揖保川町一帯)の地頭職を相続した 9 。これを機に忠行は同地へ移住し、以後、その子孫は播磨国の在地領主として根を下ろしていくことになった。このため、彼らは「播磨島津氏」とも称される 9 。彼らの拠点となったのが、立岡山に築かれた石蜘蛛城(立岡山城)であった 14

ここに、この一族の特異な性格が表れている。すなわち、家の名称と実態との乖離である。彼らは播磨に本拠を移してからも、その祖が越前守護代であったことを示す「越前島津氏」という由緒ある家名を保持し続けた。武家社会において、家の「格」や「由緒」は極めて重要な意味を持つ。初代が幕府から拝領した「越前」の名を冠することは、他の在地領主に対する優位性や自家の正統性を内外に示すための強力な権威の象徴であった。

しかし、その一方で、時代が下るにつれて越前国との直接的な関係は希薄化し、彼らは播磨の国人領主として、地域の政治情勢に深く組み込まれていった。この名称と実体の乖離は、鎌倉時代に成立した全国規模の武士団が、室町・戦国時代を通じて次第に在地化し、その性格を変質させていくという、中世武家社会の大きな潮流を象徴する事例と言える。

この播磨島津氏の歴史は、国の重要文化財に指定されている『越前島津家文書』によって、南北朝時代に足利尊氏に従って活躍した第7代当主・島津忠兼の時代から、本報告書の主題である第15代当主・島津忠長の戦死に至るまで、詳細に追うことができる 9 。この文書の存在こそが、彼らが歴史の中に埋もれることなく、その足跡を今日に伝えることを可能にしているのである。そして皮肉なことに、この「越前」という由緒ある名は、一族が播磨で事実上断絶した約200年後、遠く薩摩の地で政治的な意図をもって再興されるという数奇な運命を辿ることになる。

第二部:島津忠長の生涯と時代背景 ― 下剋上の奔流の中で

島津忠長が生きた16世紀前半の播磨国は、まさに下剋上の嵐が吹き荒れる動乱の時代であった。彼の生涯は、守護大名家の衰退と新興勢力の台頭という、戦国時代の典型的な権力闘争の渦中で、一人の地方領主が如何に生き、そして散っていったかを物語っている。

第一章:播磨の動乱と忠長の登場

島津忠長は、文亀元年(1501年)に、播磨島津氏の当主・島津忠持(孫左衛門尉)の子として生まれた 1 。彼が家督を継いだ頃、播磨国では守護であった赤松氏の権威が著しく低下していた。本来、守護の家臣であるべき守護代の浦上氏が実権を掌握し、主家を凌ぐ勢いを見せていたのである。

特に浦上村宗は、主君である赤松義村を傀儡とし、ついには大永元年(1521年)に義村を攻め滅ぼすという下剋上を断行した 17 。これにより、播磨・備前・美作の三ヶ国は事実上、浦上氏の支配下に置かれた。このような主従関係が逆転した混乱状況こそが、忠長の生涯を規定する時代背景であった。

第二章:赤松晴政の家臣として

主君・義村を殺害された赤松氏であったが、その子・赤松晴政(当初は政村)は、主家の再興を目指して浦上氏への反撃の機会を窺っていた。享禄4年(1531年)、細川氏の内紛に介入した浦上村宗が摂津国で戦死(大物崩れ)すると、晴政はこれを好機と捉え、実権回復に乗り出す 20

この時、島津忠長は主家再興を目指す赤松晴政の麾下に馳せ参じ、その家臣として仕えた 1 。忠長の居城は、前述の通り播磨国立岡山城(石蜘蛛城)であり、彼はこの城を拠点に、播磨の国人領主として赤松方の一翼を担った 1

忠長の行動を分析すると、彼が一個の独立した勢力として戦略を立てていたというよりは、あくまで赤松氏の家臣として、主家の運命と自家の存亡を一体化させていたことがわかる。彼の敵は、個人的な怨恨によるものではなく、主君・赤松晴政の敵、すなわち浦上村宗亡き後の浦上氏一族であった。これは、戦国時代の地方領主、いわゆる「国人」の典型的な姿である。彼らは守護大名のような広域を支配する権力者ではなく、特定の地域に根差した領主であり、より大きな勢力間の争いに否応なく巻き込まれ、時にはその駒として消耗していく宿命にあった。

奇しくも同じ「島津」の名を冠する薩摩の本宗家が、島津忠良・貴久父子のもとで三州統一事業を着々と進め、自らの力で戦国大名へと飛躍していく過程とは実に対照的である。播磨の島津氏は、主家である赤松氏の衰退と共に、没落の道を歩むことになった。同じ一族でありながら、置かれた地理的・政治的環境がいかに異なる運命をもたらすかを示す、興味深い事例と言えよう。

第三章:朝日山の合戦 ― 悲壮なる最期(天文3年8月26日)

島津忠長の生涯は、天文3年(1534年)8月26日、朝日山の合戦における壮絶な戦死によって、34年の短い幕を閉じる 1 。この戦いは、赤松晴政と、浦上村宗の子・浦上政宗、そしてその一族である浦上景宗との間で繰り広げられた、播磨の覇権を巡る激しい抗争の一幕であった 20

合戦の直接の引き金は、室津(現在のたつの市御津町)を拠点とする浦上景宗が、赤松方である島津忠長の居城・立岡山城に攻撃を仕掛けたことに始まる 1 。当時の軍記物である『播陽古城記』は、その時の様子を次のように伝えている。

「忠長ハ龍野赤松村秀ト赤松範実ト不和君臣□□戦ヒ天文三年八月二十六日室津浦上景宗下知ヲナシ立岡山ヲ攻メ取ラントス 忠長ハ景宗ト戦ウ龍野赤松村秀聞キ付ケ直チニ兵ヲ遣ハシ忠長ヲ援ク送リトイヘドモ城兵カワキ忠戦シテ朝日山大日寺麓ニ討死ス」 1

この記述から、戦闘の経緯を再構築することができる。浦上景宗の大軍に対し、立岡山城での籠城は不利と判断した忠長は、城から打って出て、南東約1キロメートルに位置する朝日山(標高88メートル)に陣を構え、敵を迎え撃つ決断を下した 1 。これは、地の利を活かして敵の勢いを削ごうとする、決死の野戦であったと考えられる。

龍野城主の赤松村秀が援軍を差し向けようとしたものの、間に合わなかった。忠長の軍勢は奮戦したが、衆寡敵せず、ついに忠長は朝日山の麓にあった大日寺の辺りで討死を遂げた 1 。享年34。その死は、主家のために命を捧げた忠臣としての最期であった。彼の法名は高清、戒名は月峯院殿明阿高清大居士と伝えられている 1

この壮絶な戦いの記憶は、地域に深く刻まれた。朝日山山麓の大日寺には、現在、忠長の墓そのものは残されていない。しかし、寺の伝承として「朝日山の合戦では大将格の人物が戦死した」と語り継がれており、住職によって毎年、戦没者の供養が続けられているという 1 。一人の武将の死が、地域の歴史の一部として今なお息づいているのである。

第三部:忠長の死後と播磨島津氏の行方 ― 断絶と意外な再興

島津忠長の戦死は、播磨における越前島津氏にとって決定的な打撃となった。しかし、一族の物語はそこで終わるわけではない。嫡男による束の間の抵抗、そして事実上の断絶を経て、その家名は約200年の時を超え、遠く離れた薩摩の地で数奇な運命を辿ることになる。

第一章:嫡男・忠之の時代 ― はかなき抵抗

父・忠長の死後、家督を継いだのは嫡男の島津忠之であった 1 。父の戦死により、播磨島津氏の本領であった播磨国布施郷と下揖保庄は、一時的に主家の赤松氏によって没収(闕所)されたと考えられる 13 。しかし、それから20年後の天文23年(1554年)12月27日、主君・赤松晴政の奉行である難波泰興によって、これらの地頭職は忠之に返付された 23 。これは、父・忠長の忠義が認められ、忠之による家督相続が赤松氏から公式に承認されたことを意味する重要な出来事であった。

しかし、播磨の動乱は依然として続いていた。赤松宗家と龍野赤松氏、そして小寺氏などが入り乱れて争う中、忠之もまたその渦中に身を投じる。伝承によれば、彼は永禄12年(1569年)に勃発した「青山合戦」において、龍野城主・赤松政秀方として御着城主・小寺政職の軍勢と戦い、討死したとされる 11

ここで、史料の解釈を巡る歴史研究の複雑さに触れておく必要がある。忠之の最期については異説が存在する。天正3年(1575年)に小寺政職と戦って戦死した「島津新九郎」という人物を、この忠之と同一人物と見なす説である 22 。両者が別人であれば、忠之の死後も一族の誰かが抵抗を続けていたことになり、同一人物であれば、その没年には複数の説があることになる。

さらに、播磨島津氏の研究者である島津宣史氏は、より根本的な問題を提起している。同氏は論文「越前島津氏の再興と播磨島津氏」(『神戸史談』286号)において、忠之を忠長の子とする江戸時代中期に作成された系図そのものの成立過程に疑問を呈し、その信憑性を慎重に検討すべきであると論じている 24

これらの情報の錯綜は、戦国時代の地方領主に関する記録が、後世の編纂物によって「整理」される過程で、必ずしも正確ではない情報が混入する危険性を如実に示している。忠之(あるいは新九郎)の死によって、播磨島津氏の嫡流は、その詳細な終焉の様相に幾ばくかの謎を残しつつも、歴史の表舞台から姿を消すこととなったのである。

第二章:一族の断絶と再興 ― 薩摩における「越前」の名跡

播磨島津氏の嫡流は事実上断絶したが、その「家」の記憶と正統性の象徴である系図や古文書は、奇跡的に後世に伝えられた。所伝によれば、忠之(新九郎)が戦死した際、その妻が幼い子(義弘と伝えられる)を連れて下揖保荘に隠れ住み、後に一族の再興を願って、家宝であるこれらの文書を薩摩の本宗家へ持ち込んだとされる 10 。別の記録では、これらの文書は寛永年間(1624年-1644年)に大隅国鹿屋の寺家にもたらされ、最終的に薩摩藩主家の手に渡ったという 10

そして、島津忠長の死から約200年の歳月が流れた元文2年(1737年)、この古文書が思わぬ形で歴史の表舞台に再登場する。当時の薩摩藩第4代藩主・島津吉貴は、第5代藩主であった兄・継豊の弟、島津忠紀に対し、この播磨から伝来した『越前島津家文書』と系図を与え、断絶していた「越前島津家」の名跡を継がせたのである 9 。こうして、1万4千石余の所領を持つ「重富島津家」が、藩主一門の中でも筆頭格の家として創設された 9

この一連の出来事は、近世武家社会における「歴史の政治的利用」という側面を鮮やかに示している。薩摩藩が越前島津家を再興した目的は、血縁的な継承ではなく、明確な政治的意図に基づいていた。第一に、藩主の弟に相応しい、由緒正しい高い家格の家を新たに創設する必要があった。第二に、島津氏の始祖・忠久の次男に連なる名家を再興することは、島津本宗家そのものの権威と歴史の深さを内外に示す効果があった。

この再興が単なる名目だけのものとならないよう、薩摩藩は周到な準備を行っている。『越前島津家文書』をその正統性を担保する物的証拠として最大限に活用し、さらに元文年間にはわざわざ播磨国の旧領(たつの市周辺)へ家臣を派遣して現地調査を行い、残存する一族の確認まで試みている 9 。これは、家の創設が歴史的根拠に基づいていることを示すための、極めて意識的な演出であった。

島津忠長の戦死によって一度は潰えたかに見えた「越前島津」という家名は、その歴史的権威ゆえに、全く異なる場所と目的で「再利用」されたのである。これは、武家の「家」という概念の永続性と、歴史的記憶がいかに後世の政治に影響を与えうるかを示す、極めて興味深い事例と言えるだろう。

結論:戦国期における国人領主の典型として

播磨の武将、島津忠長(1501-1534)の生涯は、戦国時代という激動の時代における地方領主、すなわち国人の典型的な姿を映し出している。彼は、薩摩の本宗家が築き上げたような巨大な権力を持つことなく、播磨国という限定された地域で、主家である赤松氏の浮沈と自家の運命を共にし、下剋上の荒波の中で若くしてその命を散らした。

彼の人生は、自らの戦略で天下を動かす「英雄」の物語とは対極にある。それは、より大きな権力構造、すなわち守護・赤松氏と守護代・浦上氏の間の熾烈な覇権争いに翻弄され、主家の駒として戦い、そして斃れていった者の物語である。朝日山の合戦における彼の悲壮な最期は、自家の存続と主君への忠義のために戦い、そして消えていった数多の無名の国人領主たちの運命を象徴している。

薩摩の島津氏が着実に領国を拡大し、戦国大名として飛躍を遂げた同時期に、播磨の島津氏は主家の衰退と共に没落の道を辿った。この対照的な歴史は、同じ「島津」という名を冠していても、置かれた地理的・政治的条件がいかに一族の運命を左右するかを明確に示している。

さらに、忠長の一族の物語は、彼の死後、思わぬ展開を見せる。彼が率いた播磨島津氏が事実上断絶した後、その家名と由緒は「越前島津家」という歴史的権威として記憶され、約200年の時を経て薩摩藩によって政治的に再興された。これは、武家社会において「家」の血脈が途絶えても、その「名跡」や「由緒」がいかに重要な価値を持ち続け、後世の権力者によって利用されうるかを示す好例である。

結論として、島津忠長の生涯を探求することは、単に一人の武将の伝記を追うことに留まらない。それは、戦国時代を「英雄」の視点からだけでなく、地方で必死に生きた「在地領主」の視点から複眼的に理解することを可能にする。彼の物語は、日本史の大きな流れの中に埋もれがちな地域史の重要性と、歴史的記憶が持つ複雑で永続的な力を我々に再認識させる、貴重な歴史の一断面なのである。

引用文献

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