島津成久は薩州島津家3代当主。娘を島津忠良に嫁がせ貴久の外祖父となる一方、孫の実久を後見し宗家家督を巡り忠良・貴久と争う。薩州家の覇権を狙うも、死後薩州家は衰退。
島津成久(しまづ しげひさ、1464-1536)は、戦国時代の薩摩国を揺るがした島津一族の内乱期において、極めて重要な役割を果たしながらも、その実像が多く語られてこなかった人物である 1 。彼は、後に「島津家中興の祖」と称される島津貴久の外祖父であると同時に、その貴久と島津家の覇権を巡り激しく争った島津実久の後見人でもあった 1 。この二律背反的な立場は、彼を理解する上での鍵となる。
本報告書は、現存する史料や研究成果を横断的に分析することで、島津成久の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。特に、勝者である島津貴久・忠良父子(相州家)の視点で編纂された後世の記録 4 において、なぜ彼の役割が矮小化されているのかという問いを立て、その「歴史の影」に光を当てることで、彼の真の姿と、彼が生きた時代の複雑な力学を解明する。
島津成久という個人を理解するための前提として、彼が属した「薩州島津家」の成り立ちと、当時の南九州における島津一族の権力構造を明らかにする。
鎌倉時代以来、薩摩・大隅・日向の三国守護職を担ってきた島津氏は、室町時代に入ると宗家が総州家と奥州家に分裂し、内乱を繰り返した 7 。この争いは、最終的に奥州家が宗家としての地位を確立することで一応の決着を見るが、その過程で宗家8代当主・久豊や9代当主・忠国の子らが各地に分家を立て、それぞれが独自の勢力圏を形成した 8 。
薩摩守を称した薩州家、豊後守を称した豊州家、相模守を称した相州家、出羽守を称した羽州家、伯耆守を称した伯州家などがこれにあたり、彼らは宗家を支える有力庶家であると同時に、常に宗家の地位を脅かしうる潜在的なライバルでもあった 11 。この複雑で脆弱な権力構造が、15世紀から16世紀にかけての南九州を絶え間ない混乱に陥れる根源となったのである 12 。
薩州家の祖は、島津宗家8代当主・久豊の次男である島津用久(もちひさ)である 8 。彼は薩摩守を称したことから「薩州家」と呼ばれるようになった 8 。用久は、兄である9代当主・忠国が家臣団の支持を失った際に、家老たちに擁立されて一時的に守護代、あるいは事実上の守護職として宗家の実権を握った形跡がある 11 。これは、薩州家がその成立当初から、宗家と比肩しうる高い潜在能力と野心を秘めていたことを示唆している。
用久は享徳2年(1453年)、肥後国との国境に近い薩摩国出水(いずみ)に亀ヶ城(出水城)を築き、ここを本拠とした 8 。この地理的位置は、薩摩国内における影響力の確保のみならず、肥後の相良氏など国外勢力との外交・軍事関係においても、薩州家にとって重要な戦略的拠点となった 17 。
薩州家2代当主は、用久の子・国久である 14 。国久の姉(用久の娘・芳雲夫人)は宗家10代当主・立久に嫁いでおり、当初両家は密接な姻戚関係にあった 8 。立久に男子がなかなか生まれなかった際には、国久がその後継者として指名されたほどである(後に立久に実子が生まれたため辞退) 8 。
しかし、立久の子・忠昌が11代当主となると、国久は相州家や豊州家といった他の分家と結び、宗家に対して大規模な反乱を起こすなど、島津一族は再び内乱状態に陥った(三州大乱) 18 。この一連の動きは、薩州家が単なる宗家の従属勢力ではなく、独自の判断で同盟や対立を選択する独立した政治勢力であったことを明確に示している。薩州家は、その初代・用久が兄・忠国を追放して実権を握った経緯から始まり、2代・国久も宗家に反旗を翻すなど、一貫して宗家と対等、あるいはそれを凌駕しようとする強い意志を持つ家系であった。成久の代の行動も、この「反骨の伝統」の延長線上に位置づけることができる。
島津成久は寛正5年(1464年)、国久の嫡男として生まれる 1 。彼が家督を継いだ明応7年(1498年)以降も、薩摩国内の混乱は続いていた。成久は父の死後まもなく、嫡男の忠興と共に、加世田城の島津忠福を攻め、これに加勢した伊作島津家の当主・伊作久逸を討ち取っている 1 。伊作久逸は、後に島津宗家を継ぐことになる島津貴久の曾祖父にあたる人物であり、この戦いは、後の薩州家と相州家(伊作家を継承)の間に横たわる深い因縁の始まりと見なすことができる。
この章では、島津成久が武力だけでなく、巧みな婚姻政策によっていかにして薩摩国内に影響力を浸透させ、島津一族の権力構造の中心に躍り出たかを分析する。
成久の数ある政治的決断の中でも、最も重要なものの一つが、三女・御東(おひがし、後の寛庭夫人)を、当時伊作島津家を継ぎ、後に相州島津家をも継承する島津忠良に嫁がせたことである 1 。当時の相州家(およびその母体である伊作家)は、薩州家と並ぶ有力な分家であり、その当主・忠良は知勇兼備の名将として知られていた 8 。この婚姻は、弱体化する宗家(奥州家)を横目に、薩摩国内の二大勢力が手を結んだことを意味する、極めて戦略的な同盟であったと考えられる。
この婚姻により、永正11年(1514年)、島津貴久が誕生する 2 。成久は、後に島津宗家を継ぎ、戦国大名としての島津氏の礎を築くことになる貴久の母方の祖父となった。この血縁関係は、後の宗家家督争いにおいて、極めて複雑な人間関係と、彼自身の立場を二律背反的なものにする政治的力学を生み出すことになる。
成久の婚姻政策は相州家だけに留まらなかった。彼は、複数の子女を用いて薩摩国内に重層的な姻戚ネットワークを張り巡らせていった。
成久の婚姻政策は、娘を外部の有力分家(相州家)に嫁がせることで「対外的な同盟」を確保しつつ、別の娘を自らの孫(薩州家次期当主)に嫁がせることで「内部の結束」を固めるという、二重の保険戦略であったと解釈できる。これは、どちらの家が最終的に覇権を握っても、自らの血脈がその中枢に残ることを意図した、極めて老獪な長期的戦略であったと言えよう。
表1:島津成久の婚姻ネットワークと主要人物関係図
成久との関係 |
氏名 |
婚姻・縁組先 |
生まれた子(特に重要な人物) |
備考 |
本人 |
島津成久 |
島津忠廉(豊州家)の長女 |
忠興、御東、上之城など |
薩州家3代当主 1 |
長男 |
島津忠興 |
相良氏の娘 |
島津実久 |
成久より先に病没 1 |
三女 |
御東(寛庭夫人) |
島津忠良(相州家) |
島津貴久、島津忠将 |
貴久は後の島津宗家15代当主 1 |
五女 |
上之城(妙朝) |
島津実久(孫) |
島津義虎 |
叔母と甥の婚姻。薩州家の結束強化 1 |
長女 |
(名不詳) |
菱刈重副(菱刈氏) |
菱刈重州 |
北薩摩の有力国人との連携 1 |
この表は、成久を中心とした複雑な血縁関係を一目で理解可能にする。特に、「貴久の外祖父」と「実久の祖父兼義祖父」という彼の二重の立場を視覚的に示すことで、第三章で詳述する宗家家督争いの根本的な人間関係の構図を読者が直感的に把握する助けとなる。
成久は家督を嫡男の忠興に譲り、自身は隠居して後見役となっていた 1 。しかし、大永5年(1525年)、その忠興が成久に先立って病没してしまう 1 。この悲劇が、歴史の歯車を大きく動かすことになる。
忠興の早世により、成久は忠興の嫡男、すなわち孫である島津実久(当時14歳)の直接の後見人として、再び薩州家の全権を掌握せざるを得なくなった 1 。もし忠興が長命であれば、成久は後見として穏やかな晩年を送った可能性が高い。しかし、若年の実久を当主として戴くことになった薩州家の家内体制は不安定化し、それを乗り越えるために、老練な成久がより強力なリーダーシップを発揮する必要に迫られた。この危機感が、彼を島津宗家の家督争いの渦中へと引き戻し、守勢から攻勢への転換を促す直接的な引き金となったのである。
この章では、本報告書の核心である宗家家督争いにおける島津成久の役割を、史料の記述の「裏」を読み解きながら考察する。
島津宗家では当主の早世が相次ぎ、永正16年(1519年)、島津忠昌の三男・勝久がわずか14歳で14代当主となる 9 。しかし、若年の勝久には分裂と反乱に揺れる領国をまとめる力がなく、宗家の権威は地に落ちていた 9 。この状況を打開するため、勝久は有力分家である相州家の島津忠良を頼り、大永6年(1526年)、忠良の嫡男である貴久を養子として迎え、家督を譲るという異例の決断を下す 9 。
この決定に対し、もう一方の雄である薩州家は猛反発した。大永7年(1527年)、薩州家は軍事行動を起こし、一度は隠居した勝久を再び担ぎ出すことで大義名分を得て、忠良・貴久父子を本拠地である鹿児島から追放することに成功する 10 。
その後、担ぎ出した勝久がその気まぐれで無能な統治により家臣の信頼を失うと 26 、天文4年(1535年)、今度は実久が国老らと共に挙兵してその勝久を追放。自らが「屋形(やかた)」として島津宗家の実権を完全に掌握した 11 。この時、実久が正式に守護職に就いたとする説もある 11 。
後世の公式な記録では、この一連の動きはすべて若き当主・島津実久(クーデター開始時15歳)が単独で主導したことになっている 11 。しかし、これには大きな疑問が残る。
一連のクーデターにおいて、実久の後見人であるはずの成久の名は、後世に編纂された島津氏の公式史書(『島津国史』や『薩藩旧記雑録』など)ではほとんど登場しない 24 。この不自然なまでの「沈黙」こそが、逆に彼の重要性を物語っている。状況証拠は、経験豊富な成久こそがこのクーデターの真の立案者・指導者であったことを強く示唆している。
第一に、当時まだ15歳の若者に過ぎない実久が、知将として名高い島津忠良を相手に、これほど周到かつ大胆なクーデターを独力で計画・実行できたとは到底考えにくい 24 。第二に、若年の当主がこれほどの大事を起こすにあたり、その後見人である成久が全く関与しないことはあり得ない 1 。
最も決定的なのは、これらの歴史書が最終的な勝者である貴久の家系によって編纂されたという事実である。儒教的価値観が重んじられた時代において、貴久が実の祖父である成久と骨肉の争いを繰り広げたという事実は、勝者の歴史にとって極めて都合の悪いものであった。そのため、意図的に成久の存在を歴史の表舞台から消し、全ての責任を「宗家簒奪者」という汚名を着せた実久一人に負わせることで、歴史の再構築を図った可能性が極めて高い 24 。
これらの状況証拠を統合すると、「島津成久こそが、孫の実久を旗印に立て、島津宗家の覇権掌握を計画・実行した真の黒幕であった」という仮説が成り立つ。彼の行動は、単なる後見に留まらず、薩州家を島津氏の頂点に立たせるための、生涯最後の大勝負だったのである。
薩州家が薩摩の覇権を握り、相州家との対立が続く最中の天文5年(1536年)3月4日、島津成久は73歳でこの世を去る 1 。
この死は、薩州家にとって計り知れない打撃となった。長年の経験に裏打ちされた老練な指導者であり、一族の精神的支柱でもあった成久を失ったことで、薩州家の結束と戦略遂行能力は大きく低下したと考えられる。成久の死からわずか3年後の天文8年(1539年)に、相州家が決定的な勝利を収める紫原の戦いが起きるが 32 、この時間的近接性は偶然ではない。成久という「頭脳」を失った薩州家は、忠良・貴久父子の組織的な反撃に有効な手を打てず、急速に衰退への道を転がり落ちていったのである。
この章では、成久の死後、彼が築き上げた薩州家の覇権がどのように崩壊し、そして一族がどのように生き残りを図ったかを追う。
成久の死後、島津忠良・貴久父子は攻勢を強めた。天文8年(1539年)、まず南薩摩における薩州家の重要拠点であった加世田城を攻略し、出水の本拠地との連絡線を断つことに成功する 28 。
そして同年3月、貴久は満を持して鹿児島に軍を進め、谷山の紫原(むらさきばる)で薩州家方の軍勢と激突した(紫原の戦い) 32 。この戦いで相州家は決定的な勝利を収め、勢いに乗って谷山城、神前城などを次々と攻略。薩州家の勢力を鹿児島から完全に一掃した 30 。この敗北により、両家の力関係は完全に逆転したのである 32 。
紫原の戦い以降も、島津実久は本拠地・出水で抵抗を続けたとされる 3 。彼が貴久に正式に降伏したことを示す直接的な記録は見当たらず、天文22年(1553年)に亡くなるまで、島津氏当主としての立場を主張し続けた可能性がある 23 。
しかし、薩摩・大隅・日向の三国守護職は天文14年(1545年)には貴久のものとなり、一族や国人衆からもその地位を承認されたことで 2 、薩州家が島津氏の覇権争いから脱落したことは決定的となった。
実久の死後、家督を継いだのは、その嫡男であり、成久の曾孫にあたる島津義虎であった 3 。義虎は父・実久の徹底抗戦路線を転換し、島津宗家(貴久の家系)との融和を図るという現実的な道を選択する。
その象徴的な出来事が、貴久の長男・義久の長女である御平(おひら)を正室に迎えたことであった 3 。かつての敵対関係を清算し、薩州家が宗家の一翼を担う存在として再出発したことを示すこの婚姻により、両家の長い戦いはようやく終止符が打たれた。以後、義虎は宗家の九州統一戦において、肥後方面の主力部隊として活躍するなど、島津家中で重要な役割を果たしていくことになる 3 。
島津成久は、単に「貴久の外祖父」「実久の後見人」という肩書で語られるべき人物ではない。彼は、15世紀末から16世紀初頭にかけての南九州の動乱期を生き抜き、巧みな婚姻政策と、老練な政治・軍事戦略によって、一分家に過ぎなかった薩州家を島津氏の覇権を争う地位にまで押し上げた稀代の戦略家であった。彼の生涯は、戦国時代という激動の時代における地方権力者の生存戦略と野望を鮮やかに映し出している。
彼の生涯はまた、勝者の視点から書かれた歴史がいかに一面的であるかを我々に物語っている。後世の公式記録における彼の存在の希薄さは、彼の実際の役割が小さかったことを意味するのではなく、むしろ彼が勝者にとってあまりに重要かつ不都合な存在であったことの証左である。史料に残された「沈黙」や「歪曲」を批判的に読み解くことで初めて、成久のような「影のキーパーソン」の真の姿が浮かび上がってくる。彼の事例は、歴史研究における史料批判の重要性を改めて示す好例と言えよう。
成久が抱いた薩州家による覇権掌握の野望は、自身の死と共に潰えた。しかし、彼が仕掛けた深謀遠慮は、皮肉な形で結実する。薩州家は覇権争いに敗れたが、成久の血筋は二つの形で生き残った。一つは、娘・御東を通じて勝者である島津貴久の血統に流れ込み、戦国大名として飛躍し、江戸時代を通じて九州南部を治め、明治維新に至るまで続く島津宗家本流の礎となったこと。もう一つは、曾孫・義虎が貴久の孫娘と結婚することで、薩州家自体が宗家の有力な姻戚として存続したことである。
彼の血は、勝者と敗者の両方に流れ込み、結果的に島津氏全体の結束を再構築する礎となった。皮肉にも、彼の最も永続的な遺産は、彼が打倒しようとした家系の中にこそ、今なお受け継がれているのである。