島津義弘は、日本の戦国時代において最も傑出した武将の一人としてその名を轟かせている。生涯において52回以上もの合戦に出陣したとされ 1 、その武勇、戦略的洞察力、そして不屈の精神は、同時代人だけでなく後世にも大きな影響を与えた。彼の名は、九州の覇権を巡る激しい戦い、そして日本全土を巻き込んだ天下分け目の戦いにおいて、常に最前線で語られる存在であった。
戦国時代は、約1世紀半にわたり、日本各地で大名たちが覇を競い、社会構造が大きく変動した激動の時代であった。このような混乱期にあって、島津義弘は薩摩(現在の鹿児島県西部)の島津氏の一翼を担い、一族の勢力拡大、ひいては九州統一という壮大な目標に向けて、その生涯を戦いに捧げた。彼の活躍は、単に一地方武将の興隆に留まらず、豊臣秀吉による天下統一、そして徳川家康による江戸幕府の成立という、日本の歴史における大きな転換点にも深く関わっていくことになる。
本報告では、島津義弘の多岐にわたる生涯を詳細に検証する。島津氏の台頭における彼の中心的な役割、数々の伝説的な合戦における武勲、豊臣秀吉や徳川家康といった天下人との複雑な関係、そして武人として、また文化人としての側面も持つ彼の永続的な遺産について深く掘り下げていく。義弘の人生は、単なる戦闘の連続ではなく、地方の統一から中央集権体制の確立へと向かう日本の大きな歴史的潮流を映し出す鏡であり、彼個人の物語は、彼が生きた時代の力学を理解する上で不可欠な要素と言えるであろう。彼が数多くの戦いを経験した事実は 1 、当時の恒常的な戦乱状態を物語っている。島津氏による九州統一の試み 2 や、その後の秀吉・家康との関わり 1 は、義弘の生涯が当時の主要な歴史的動向と密接に結びついていたことを示している。
島津義弘の波乱に満ちた生涯を理解するために、まず彼の人生における主要な出来事を時系列で概観する。
表1:島津義弘 年表
年代(和暦/西暦) |
義弘の年齢(数え) |
主要な出来事・合戦 |
概要・意義 |
天文4年 (1535) |
1歳 |
薩摩国伊作(現在の鹿児島県日置市)にて誕生 |
島津貴久の次男として生まれる 1 。幼名は虎寿丸と伝わる 5 。 |
天文18年 (1549) |
15歳 |
フランシスコ・ザビエル鹿児島に来航 |
父・貴久と共にザビエルと面会。西洋文化や鉄砲の知識に触れる 5 。 |
天文23年 (1554) |
20歳 |
大隅合戦・岩剣城の戦いにて初陣 |
父・貴久に従い初陣。白銀坂に布陣し数千の敵を破る戦功をあげる 1 。 |
弘治3年 (1557) |
23歳 |
蒲生氏攻めにて初めて敵将を討ち取る |
5本の矢を受け重傷を負いながらも奮戦 6 。 |
永禄9年 (1566) |
32歳 |
兄・義久が家督を継承 |
義弘は兄を軍事面で支え、島津家の拡大に尽力 5 。 |
元亀3年 (1572) |
38歳 |
木崎原の戦い |
約300の兵で伊東軍約3,000を破る。「釣り野伏せ」戦法を駆使し、「九州の桶狭間」と称される勝利 7 。 |
天正6年 (1578) |
44歳 |
耳川の戦い |
大友宗麟軍を破り、大友氏衰退の契機となる。島津氏の九州における覇権を大きく前進させる 7 。 |
天正12年 (1584) |
50歳 |
沖田畷の戦い |
島津家久(義弘の弟)が龍造寺隆信を破る。島津氏の九州制覇が目前となる 11 。 |
天正14-15年 (1586-1587) |
52-53歳 |
豊臣秀吉による九州平定 |
秀吉の大軍に抵抗するも降伏。薩摩・大隅・日向諸県郡のみ安堵される 1 。 |
文禄元年 (1592) |
58歳 |
文禄の役(朝鮮出兵) |
準備の遅れから遅参し秀吉の不興を買う。長男・久保が朝鮮で病没 1 。 |
慶長2年 (1597) |
63歳 |
慶長の役(朝鮮再出兵) |
再び朝鮮へ渡海。 |
慶長3年 (1598) |
64歳 |
泗川の戦い |
約7,000の兵で明・朝鮮連合軍(数万~20万説あり)を撃破。「鬼石曼子(鬼島津)」の異名をとどろかせる 1 。 |
慶長5年 (1600) |
66歳 |
関ヶ原の戦い |
西軍に属し参戦。敗戦濃厚の中、敵中突破「島津の退き口(捨て奸)」を敢行し薩摩へ生還 1 。 |
慶長7年 (1602) |
68歳 |
徳川家康との交渉により本領安堵 |
兄・義久の交渉により、島津家は改易を免れ、所領を維持 7 。 |
慶長11年 (1606) |
72歳 |
隠居 |
帖佐から平松城へ、翌年加治木屋形へ移る 1 。 |
元和5年7月21日 (1619年8月30日) |
85歳 |
大隅国加治木にて死去 |
享年85(満84歳没) 1 。 |
島津義弘は、天文4年(1535年)頃、薩摩国伊作(現在の鹿児島県日置市吹上町)の伊作城にて、島津氏第15代当主・島津貴久の次男として生を受けた 1 。母は入来院重聡の娘である雪窓夫人 17 。幼名は虎寿丸(とらじゅまる)と伝えられている 5 。
幼少期より、父・貴久から「島津の子として成長することの意味」を教え込まれ、「いずれは九州を治める大名となるのだ」という父の野望を胸に刻んだ 5 。兄の義久、弟の歳久と共に武芸に励む日々を送った。義弘が4歳の頃、父・貴久は島津宗家内部の伊作家・薩州家・相州家などとの複雑な家督争いに巻き込まれながらも、徐々に頭角を現し、反対勢力を制圧しながら薩摩統一への道を切り開いていた 5 。
義弘の成長期における特筆すべき出来事の一つは、14歳であった天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル一行の鹿児島来航である。父・貴久と共にザビエルと面会した義弘は、西洋の文化、そして何よりも鉄砲という新たな兵器の存在に強い衝撃を受けた 5 。島津家はいち早く鉄砲の有用性に着目し、義弘自身もこの新兵器と異国の知識に強い興味を抱いた。父・貴久の「武は単なる力ではない。新しきものを取り入れる知恵こそが、真の武だ」という教えは、後の義弘の戦術や思考に大きな影響を与えたと考えられる 5 。日本の辺境とも言える薩摩からでも世界を見ることができると知ったこの経験は、伝統的な武士の価値観に加え、新しいものを取り入れる柔軟性を義弘に植え付けた。この適応能力こそが、彼の長い戦歴を支える重要な要素となったと言えるだろう。青年期には又四郎(またしろう)や忠平次(ただひらじ)といった名も用いられた 5 。
島津義弘の初陣については諸説あるが、有力なのは天文23年(1554年)、19歳の時の大隅合戦における岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いである 1 。この戦いで義弘は、父・貴久や兄・義久らと共に、大隅・日向へと勢力を拡大する島津軍の一翼を担った 5 。特に、白銀坂に陣取り数千の敵を討ち滅ぼすという大きな戦功を挙げたと記録されている 1 。この岩剣城の戦いは、義弘にとって大きな転機となり、彼の武将としてのキャリアが本格的に始まった戦いであった 1 。
その後も、薩摩国内の反抗勢力の鎮圧や、大隅・日向への遠征に従軍し、実戦経験を積み重ねていった 5 。27歳頃(1562年頃)には、南九州の伊東氏、肝付氏、相良氏といった諸勢力との抗争に積極的に参加。初めて敵将の首級を挙げた時の、恐怖と高揚感が入り混じった感覚、そして「人の命を奪う」という行為の重みを鮮明に記憶していたと伝えられている 5 。
弘治3年(1557年)、蒲生氏を攻めた際には、初めて敵の首級を挙げたものの、自身も5本の矢を受けて重傷を負うという激戦を経験している 6 。このような前線での勇猛果敢な戦いぶりは、若き日の義弘の特徴であった。
兄弟との関係においては、兄であり永禄9年(1566年)に事実上の当主となった義久が政治手腕に長けていたのに対し、義弘は戦場での指揮にその才能を発揮した 5 。互いの長所を活かし、短所を補い合うことで、島津家は南九州における地位を盤石なものとしていった。義久の「戦を好むな。必要な時にのみ剣を抜け」という言葉は、義弘の心に深く刻まれたという 5 。この兄との補完的な関係は、島津家が後の飛躍を遂げる上での強固な基盤となった。義弘の初期の軍歴は、実践的な経験、個人的な勇気、そして戦争の厳しい現実への理解を深める過程であり、これが後の「鬼島津」と恐れられる指揮官としての素地を形成したのである。
島津義弘の武将としての才能は、島津家が薩摩・大隅・日向の三州統一、さらには九州制覇へと突き進む中で遺憾なく発揮された。
島津氏は鎌倉時代以来、三州の守護に任じられた名門であり、この三州を完全に掌握することは一族の悲願であった 1 。父・貴久、そして兄・義久の下で、主に軍事面を担当した義弘は、この勢力拡大の中心人物として数々の戦いに身を投じた 1 。
島津家の躍進を支えた要因の一つに、鉄砲の早期導入とその効果的な運用が挙げられる。義弘が初陣を飾った岩剣城の戦い(1554年)や、その後の大隅平定戦において鉄砲が使用された記録があり、これは日本史上でも初期の実戦使用例とされている 1 。新しい技術を積極的に取り入れ、戦術に組み込む島津家の先進性が、周辺勢力に対する優位性を確立する上で重要な役割を果たした。義弘の軍事的指導力と、新兵器の戦略的活用が組み合わさることで、島津家は着実に領土を拡大し、三州統一という目標へと近づいていった。この地域的統一の達成は、島津家がさらに大きな野望を抱くための強固な権力基盤となった。
元亀3年(1572年)、日向の伊東義祐は、肥後の相良義陽と連携し、家臣の伊東祐安に約3,000の兵を預け、島津領の加久藤城(かくとうじょう)攻略へと向かわせた 8 。この方面の守りを固めていた飯野城(いいのじょう)の島津義弘の手勢は、わずか300名足らずであった 7 。なお、攻撃目標となった加久藤城には、義弘の妻である広瀬夫人(宰相殿と呼ばれた)が居住しており、城代の川上忠智らが数十名の寡兵で伊東軍の初期攻撃を撃退している 8 。
この圧倒的な兵力差にもかかわらず、義弘は後に島津家の得意戦法として知られる「釣り野伏せ(つりのぶせ)」を駆使し、歴史的な勝利を収める。
この巧みな戦術により伊東軍は大混乱に陥り、総大将の伊東祐安をはじめ多くの将兵が討ち死にした。伊東氏はこの敗戦によって壊滅的な打撃を受け、以後衰退の一途をたどることになる 8 。この戦いは「九州の桶狭間」とも称され、寡兵で大軍を破った義弘の戦術家としての評価を不動のものとした 8 。
戦後、義弘は敵味方の戦死者を弔うために六地蔵塔を建立したと伝えられており、これは島津氏が大きな戦いの後にしばしば行う慣習であった 19 。また、この戦いでは義弘の乗る栗毛の愛馬が、一騎討ちの際に膝を曲げて敵の攻撃をかわし、義弘の命を救ったという逸話も残っている 1 。木崎原の戦いは、単に兵力差を覆した戦術的勝利に留まらず、敵の心理を巧みに操り、地形を利用した義弘の卓越した戦術眼を示すものであった。この勝利は島津氏の勢力拡大に大きく貢献し、ライバルであった伊東氏を没落させる決定的な一撃となった。
天正6年(1578年)、豊後の大友宗麟は、木崎原の戦いで島津氏に敗れた伊東義祐を庇護し、伊東氏の日向復帰と島津氏の北上阻止を目的として、3万とも4万ともいわれる大軍を率いて日向へ侵攻を開始した 9 。熱心なキリシタンであった宗麟は、日向にキリスト教の理想郷を建設しようという意図も持っており、進軍の過程で神社仏閣を徹底的に破壊したため、大友家臣団との間に不協和音が生じていた 9 。
大友軍は当初、日向北部を制圧し、島津勢力を耳川以南に後退させるなど優勢に戦を進めた 9 。島津方が石之城(いしのじょう)奪還を試みた石城合戦では、島津軍は副将川上範久が討死し、総大将島津忠長が重傷を負うなど500名以上の死傷者を出し敗北している 9 。
しかし、大友軍が高城(たかじょう)を包囲し膠着状態に陥ると、島津義久・義弘・家久らの援軍が到着し、両軍は高城川原(宮崎県木城町)で対峙した 10 。大友軍は内部の統制が乱れたまま決戦に臨み、島津軍の前に大敗北を喫した。島津軍は、ここでも得意の「釣り野伏せ」戦法を用いたとされ 7 、敗走する大友軍を耳川まで十数キロにわたり追撃し、壊滅的な打撃を与えた 1 。折からの雨で増水していた耳川が大友軍の退路を阻み、多くの将兵が溺死または討ち取られた 1 。
この耳川の戦いでの大敗により、大友氏は多くの有能な武将を失い、以後急速に勢力を弱めることとなった 9 。この戦いは九州の勢力図を大きく塗り替えるものであり、島津氏の覇権確立に向けた重要な転換点であった。義弘は飯野城に26年間在番し、ここを拠点として大口の菱刈氏攻略や日向平定を進め、後の九州制覇の足掛かりを築いた 1 。大友氏の内部対立や戦略的失策を巧みに突き、決戦で圧倒的な勝利を収めたことは、島津兄弟の連携と軍事的能力の高さを示すものであった。
島津義弘自身が直接指揮を執ったわけではないが、島津家の九州統一事業における重要な戦いとして、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いが挙げられる。この戦いは、肥前島原半島(長崎県)において、当時九州で島津氏と覇を競っていた龍造寺隆信軍と、有馬晴信・島津家久(義弘の末弟)連合軍との間で勃発した 11 。
龍造寺隆信は、有馬氏の離反を受けて大軍を率いて島原に侵攻。これに対し、有馬氏の救援要請を受けた島津氏は、家久を総大将とする約3,000の兵を派遣した 12 。有馬軍と合わせても連合軍の兵力は5,000~6,000程度であり、龍造寺軍の約25,000(一説には5万以上とも 11 )に対して圧倒的に不利な状況であった 11 。
家久は決戦の地として沼沢の多い湿地帯である沖田畷を選び、本陣を置いた 12 。龍造寺隆信は島津・有馬連合軍の陣容を貧弱と侮り、中央突破を狙って総攻撃をかけたが、これこそ家久の狙いであった 12 。家久は、島津氏伝統の「釣り野伏せ」戦法を用い、大軍を不利な地形に誘い込み、伏兵による挟撃で龍造寺軍を大混乱に陥れた 11 。この戦いで龍造寺隆信は川上忠堅によって討ち取られ、龍造寺氏は当主を失い大敗した 11 。
沖田畷の戦いは、義弘が直接関与せずとも、島津一族の優れた軍事的能力と、「釣り野伏せ」という戦術体系が共有されていたことを示している。家久によるこの目覚ましい勝利は、九州におけるもう一つの強大な勢力であった龍造寺氏を大きく弱体化させ、島津氏による九州統一をほぼ決定的なものとした。これは、島津家の集団的な強さと戦術的な一貫性が、個々の武将の能力を超えて機能していたことを物語っている。
島津氏が九州統一を目前にした頃、中央では豊臣秀吉が天下統一事業を急速に進めていた。島津氏の台頭は、秀吉の構想にとって無視できない存在となり、両者はやがて衝突することになる。
天正14年(1586年)までに、島津義久を当主とし、義弘を主要な軍事指揮官とする島津氏は、九州のほぼ全土を平定する勢いであった 1 。義弘自身も豊後国に侵攻し、大友領を侵食していた 1 。しかし、島津氏に追いつめられた大友宗麟が豊臣秀吉に救援を求めたことにより、事態は一変する 1 。
天下統一を目指す秀吉は、島津氏と大友氏に停戦を命令したが、自らの力に自信を持つ島津氏は当初これを拒否 3 。当主・義久は、島津家は源頼朝以来の名門であり、秀吉のような「成り上がり者」を関白として礼遇する意思はないと表明したとさえ伝えられる 3 。これに対し秀吉は、天正15年(1587年)、20万ともいわれる大軍を九州へ派遣し、島津征伐を開始した 1 。義弘は義久・家久らと共に約2万の兵で抵抗し、最前線で奮戦したが 1 、兵力・物量に勝る豊臣軍の前に各地で敗北を重ねた。
日向根白坂(ねじろざか)の戦いでの敗北が決定的となり 6 、義久は剃髪して川内の泰平寺にて秀吉に降伏した 1 。義弘も兄・義久と相談の上、一族の存続のため降伏を受け入れた。その際、義久は「義弘、一時の屈辱よりも、長く生き残ることを選ぶのだ」と諭したという 5 。
降伏の結果、島津氏は新たに獲得した領地の大部分を没収されたが、薩摩・大隅の両国と日向国諸県郡(もろかたぐん)の所領は安堵された 1 。義弘個人には大隅国(秀吉蔵入地・伊集院忠棟領一郡を除く)と日向諸県郡が与えられ、その子・久保(後の島津忠恒とは別人、早世した長男)には諸県郡のうち真幸院(まさきいん)が与えられた 3 。
九州平定は、中央集権化を進める豊臣政権の圧倒的な力を示すものであった。島津氏の抵抗は勇猛であったが、最終的には巨大な力の前に屈せざるを得なかった。しかし、降伏という現実的な選択により、島津氏は本拠地を失うことなく存続することができた。この出来事は、義弘が地方の覇者から、天下人の支配下にある一大名へと立場を変える転換点となった。それでもなお、中核となる領土を維持できたことは、島津氏のそれまでの武威と、秀吉が彼らの武力を将来的に利用価値ありと判断した可能性を示唆している 15 。
豊臣秀吉の臣下となった島津義弘は、秀吉が引き起こした二度の朝鮮出兵、すなわち文禄の役(1592-1593年)と慶長の役(1597-1598年)に従軍した 1 。義弘は総大将として1万の兵を率いたとされる 14 。
文禄の役(第一次朝鮮出兵)
文禄元年(1592年)に始まった第一次朝鮮出兵において、義弘は苦難に見舞われた。国元からの物資や船の準備が整わず、出港が大幅に遅れたため、秀吉の不興を買った 1。さらに、朝鮮の巨済島(コジェとう)において、同行していた長男で嫡子の島津久保(ひさやす)が21歳の若さで病没するという悲劇に見舞われた 1。これは義弘個人にとっても、島津家にとっても大きな痛手であった。日本軍全体としても、兵站の確保や疫病との戦いなど、戦場以外での苦労も多かった 5。
慶長の役(第二次朝鮮出兵)
慶長2年(1597年)からの第二次朝鮮出兵では、義弘はその武名を朝鮮・明連合軍に轟かせることになる。特に慶長3年(1598年)の泗川(しせん/サチョン)の戦いは、彼の軍事的才能を象徴する戦いとなった。島津軍約7,000の寡兵で、20万とも(より現実的な数字としては3万~4万程度 2)伝えられる明・朝鮮連合軍が守る城に総攻撃を仕掛けてきた 1。義弘は敵を引きつけて鉄砲を集中させる戦術や、奇襲、食糧焼き払いなどを駆使し、敵軍の火薬庫の爆発による混乱に乗じて打って出て大軍を崩壊させた 1。この戦いで討ち取った敵兵は38,717人にのぼると記録されており、義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ/鬼島津)」と敵から恐れられるようになった 1。当時、義弘は63歳であり、他の多くの武将が30代前後であった中で、数少ない歴戦の老将として戦いに臨んでいた 1。
しかし、秀吉の死により日本軍が朝鮮から撤退する際、露梁(ろりょう/ノリャン)海戦(1598年)で島津軍は苦戦を強いられた。孤立していた小西行長軍の救出に向かったものの、李舜臣(イ・スンシン)率いる朝鮮水軍の前に艦隊の大半を失い、義弘自身も九死に一生を得る思いで生還した 5 。多くの部下を失ったこの苦しい撤退戦は、皮肉にも後に「退き口の名人」としての評価につながることになる 5 。
陶磁器の導入(薩摩焼)
朝鮮出兵からの帰国に際し、義弘は多くの朝鮮人陶工を薩摩に連れ帰った。彼らは各地に窯を開き、後の薩摩焼として知られる鹿児島の伝統陶芸の基礎を築いた 1。これは、戦争という破壊的な行為の中から生まれた、予期せぬ文化的遺産であった。
高野山供養碑
慶長4年(1599年)、義弘は子の忠恒(後の家久)と共に、高野山奥の院に「高麗陣敵味方供養碑」を建立した 15。これは朝鮮出兵における敵味方双方の戦死者を弔うものであり、戦いの過酷さや、兵士たちによる略奪行為(乱妨取りや人狩り)といった「業」に対する義弘の複雑な心情を反映しているものと考えられる 15。
朝鮮出兵は、義弘にとって個人的な悲劇と多大な困難を伴うものであったが、同時に彼の軍事的名声を最高潮に高める舞台ともなった。そして、薩摩焼という形で日本の文化に永続的な影響を残すことにも繋がった。高野山の供養碑は、「鬼島津」という勇猛なイメージの裏にある、戦争の悲惨さとその犠牲者への想いを抱えていた人間・島津義弘の一面を垣間見せるものである。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が先鋭化し、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。島津義弘はこの歴史的な戦いに、西軍の一員として名を連ねることになるが、その経緯と戦場での行動は特異なものであった。
表2:関ヶ原の戦いにおける島津軍
項目 |
詳細 |
典拠例 |
西軍参加の理由 |
当初東軍加勢の意向も、伏見城の鳥居元忠に入城を拒否され孤立。やむなく西軍に合流。 |
4 |
当初の兵力 |
約1,000~1,500名。兄・義久の増援派遣なし、庄内の乱の影響も。 |
1 |
主要指揮官 |
島津義弘、島津豊久(甥) |
4 |
戦闘への参加(または不参加) |
戦闘開始後も長時間動かず、石田三成の再三の要請を無視。 |
1 |
「捨て奸」戦術詳細 |
敗戦濃厚となり敵中突破を決意。敵本陣方向へ突撃し、小部隊が次々と殿(しんがり)を務め犠牲となり本隊の撤退路を確保。 |
4 |
主な犠牲者 |
島津豊久(殿を務め討死、または義弘の影武者として戦死)、有馬晴信の子など多数の家臣。 |
1 |
生還者数 |
数十名(50~80余名説あり)。 |
1 |
退却経路 |
関ヶ原 → 伊勢街道 → 堺 → 海路で薩摩へ。 |
1 |
島津義弘は、関ヶ原の戦いの直前、伏見に滞在していた 2 。徳川家康と石田三成の対立が表面化する中、義弘は当初、家康方に与する意向であったとも言われる。家康の要請を受け、西軍に攻囲されていた伏見城の守将・鳥居元忠の救援に向かったが、元忠は義弘の来援を知らされていなかったか、あるいは疑念を抱いたためか、入城を拒否した 4 。周囲には既に西軍諸将が集結しており、完全に孤立無援となった義弘は、やむを得ず石田三成率いる西軍に加わることになった 4 。
関ヶ原に参陣した島津軍の兵力は、わずか1,000~1,500名程度と極めて少数であった 1 。これは、当主である兄・島津義久が、義弘からの増援要請に応じなかったためである 4 。また、当時島津領内では家臣の伊集院家との内紛(庄内の乱)が終結したばかりで、国元も疲弊しており、大規模な派兵が困難な状況であったことも影響している 1 。
西軍首脳部との関係も円滑ではなかった。合戦前夜の軍議において、義弘が提案した東軍本陣への夜襲策は石田三成らに退けられ、義弘は不満を抱いたと伝えられる 28 。慶長5年9月15日(1600年10月21日)の合戦当日、島津隊は戦場中央付近に布陣したが、戦闘が開始されても動かず、石田三成からの再三の出撃要請を無視し続けた 1 。これは、島津隊が戦局を傍観していたとも、あるいはその勇猛さ故に東軍も容易に攻めかかれなかったためとも言われる 2 。
義弘が西軍に与したのは、積極的な意思よりも状況に流された結果であり、国元からの十分な支援も得られず、さらに西軍指導部との連携も欠いたまま、極めて不利な状況で決戦の日を迎えた。この背景を理解することは、その後の彼の驚くべき行動を評価する上で不可欠である。
小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍が総崩れとなると、島津義弘の小部隊は戦場で孤立し、東軍の大軍に包囲される危機に陥った 1 。絶体絶命の状況下で、義弘は切腹も覚悟したが、甥の島津豊久らに諫められ、生き延びる道を選んだ 24 。そして、常識を覆す撤退作戦を決断する。後方へ逃れるのではなく、敵の大軍の真っ只中、あろうことか徳川家康の本陣を目指して正面突破を敢行したのである 1 。この時、義弘は「たとえ討たれると言えども、敵に向かって死すべし」と叫んだと伝えられる 6 。また、この決断に際して「いそぐなよ また急ぐなよ 世の中の 定まる風の 吹かぬかぎりは」と詠んだともされ 29 、単なる玉砕ではなく、生き延びて再起を期すという強い意志が込められていた可能性もある。
この壮絶な撤退戦は「島津の退き口(しまづののきくち)」として知られ、その際に用いられた戦術が「捨て奸(すてがまり)」であった。これは、本隊を逃がすために、小部隊が次々と殿(しんがり)となって追撃する敵軍に立ち向かい、全滅するまで戦い続けるという、文字通り命を捨て駒とする非情な戦法であった 4 。一つの部隊が壊滅すると、また次の部隊が足止め役となり、義弘本体の血路を開いた。
「島津の退き口」は、単なる撤退ではなく、絶望的な状況から生還するための攻撃的な防御戦術であった。敵の総大将の本陣へ向かって突撃するという前代未聞の行動は、東軍に大きな衝撃と混乱を与えた。「捨て奸」という戦術は、島津家家臣の主君への絶対的な忠誠心と、義弘の生き残りに賭ける冷徹な決断力を示している。この出来事は、島津武士の勇猛さと不屈の精神を象徴する伝説として、後世に語り継がれることになった。
この決死の撤退行は、多大な犠牲の上に成り立った。義弘の甥であり、義弘に生き延びることを強く勧め、あるいはこの敵中突破策を献策したとも言われる島津豊久は、殿軍として奮戦し、あるいは義弘の影武者となって討ち死にした 1 。他にも有馬晴信の子など、多くの有能な家臣たちが義弘を生かすために命を落とした。
島津隊は、福島正則隊や井伊直政隊、本多忠勝隊といった東軍の猛将たちの追撃を受けながらも、伊勢街道方面へと突破した 4 。追撃した井伊直政はこの際に負傷している。義弘と生き残った者たちは、関ヶ原から伊勢路を経て堺(大阪)に辿り着き、そこから海路で薩摩へと帰還を果たした 1 。
関ヶ原に1,000~1,500名で参陣した島津軍のうち、生きて薩摩の土を踏むことができたのは、わずか数十名(50~80余名という説が多い)であったと伝えられている 1 。 2 には夥しい数の戦死者名が列挙されており(ただし重複や誤記の可能性あり)、その犠牲の大きさを物語っている。
薩摩への生還は、まさに奇跡的であり、その代償は計り知れないものであった。しかし、豊久をはじめとする家臣たちの自己犠牲は、島津家の忠誠と武勇の伝説を不動のものとした。この絶望的な状況下での生還劇は、皮肉にも、後の徳川家康との交渉において、島津氏の立場をある意味で強化する要因となった。敵中突破という壮絶な戦いぶりは、島津氏の恐るべき戦闘力と結束力を天下に示し、家康に薩摩侵攻の困難さを強く印象付けたのである 7 。
関ヶ原の戦いから生還した島津義弘であったが、西軍に与した島津家の立場は極めて厳しいものであった。しかし、巧みな交渉と、島津武士の武勇への畏敬の念が、一族の運命を左右することになる。
関ヶ原の戦後、西軍に与した大名の多くが改易(領地没収)や減封(領地削減)の厳しい処分を受けた。島津家も例外ではなく、徳川家康は当初、島津氏討伐も視野に入れていたとされる 7 。
この危機的状況において、交渉の前面に立ったのは当主である兄・島津義久であった。義久は、義弘の関ヶ原参戦は個人的な行動であり、島津家の総意ではないと主張(「弟がそこに居ただけ。島津家の総意ではない」 31 )。家康からの再三の上洛命令にも、病気や資金不足などを理由に応じて引き延ばし、徹底した非協力・遅延戦術をとった 31 。
家康としても、関ヶ原での島津軍の戦いぶりは鮮烈な印象を残しており、遠く九州の薩摩に大軍を派遣して島津氏と事を構えるのは、多大な犠牲と費用を要する危険な賭けであった 30 。島津氏は関ヶ原で兵力の多くを失ったとはいえ、本国には依然として強固な軍事基盤と、死をも恐れぬ武士団が存在していた。
結局、慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いから2年近くに及ぶ粘り強い交渉の末、家康は島津氏の所領(薩摩・大隅・日向の一部)を安堵し、義弘の西軍参加も不問とするという破格の条件で和議に応じた 3 。これは、島津氏にとって大きな外交的勝利であり、江戸時代を通じて最大級の外様大名として存続する基盤となった。義弘が関ヶ原で見せた壮絶な「負け戦」が、結果的に島津家の存続に貢献したという事実は、戦国末期の複雑な政治力学を象徴している。武勇の評判と、それを背景とした巧みな外交術が、時として戦場での勝敗以上の結果をもたらし得ることを示している。
関ヶ原の戦い後、帖佐(現在の鹿児島県姶良市)に戻った義弘は、慶長11年(1606年)に隠居し、平松城へ、翌年には加治木(かじき)屋形に移り住み、そこで余生を送った 1 。元和5年(1619年)に85歳(満84歳)でその生涯を閉じた 1 。
隠居後も、義弘は当主となった子(甥であり養子)の島津忠恒(後の家久、義弘の弟の家久とは別人)をよく補佐し、領国経営に積極的に関与した 1 。
義弘は単なる武人ではなく、学問や産業振興にも秀でた文化人でもあった。茶道は千利休に直接師事し、豊臣秀吉が主催した茶会では主賓として遇されるほどの腕前であった 1 。彼の晩年は、戦場での勇猛さとは異なる、領国の発展と文化の振興に尽力する為政者としての一面を強く示している。特に薩摩焼の育成は、その後の薩摩藩の経済と文化に大きな影響を与えた。
島津義弘の人物像は、その勇猛さから「鬼島津」と恐れられた一方で、家臣や領民を深く思いやる慈悲深い一面も持ち合わせていた。
朝鮮出兵の際、厳寒の中で日本軍に凍死者が続出したが、島津隊からは一人も出なかった。これを不思議に思った加藤清正が義弘の陣営を訪れると、身分に関係なく兵士たちが一緒に暖を取り、義弘自身も兵士たちと寝食を共にし、夜毎陣中を見回って火の管理に気を配っていた。清正はこの光景に感心したと伝えられている 1 。このような人情味あふれる人柄が、家臣たちの絶対的な忠誠心を引き出し、「捨て奸」のような自己犠牲も厭わない戦いを可能にしたのであろう 1 。
また、木崎原の戦いの後や朝鮮出兵の後には、敵味方の区別なく戦死者の供養塔を建立しており 1 、武人としての厳しさの裏に、生命への畏敬の念を持っていたことが窺える。
有名な逸話として、朝鮮出兵の際に7匹の猫を陣中に連れて行き、猫の瞳孔の開き具合で時刻を推測したというものがある 22 。この真偽はともかく、鹿児島市の仙巌園にある猫神神社には、この時朝鮮から生還した2匹の猫が祀られており 34 、義弘の意外な一面を伝える話として親しまれている。
義弘は部下や後進に対し、数々の教訓も残している。
これらの言葉からは、彼の戦略家として、またリーダーとしての深い洞察が読み取れる。豊臣秀吉に対しては、その圧倒的な力を認め、一族存続のために臣従の道を選んだが、その誇り高い武将としての葛藤も抱えていた 5 。関ヶ原での徳川家康に対する「家康の首を獲る」という叫び 36 は、絶望的な状況下での武人の意地を示すものであったろう。義弘の人物像は、単なる猛将ではなく、部下を慈しみ、文化を愛し、そして極めて現実的な判断力も備えた、複雑で奥行きのあるものであった。
島津義弘の活躍は、彼の兄弟たちとの連携と、時には緊張をはらんだ関係性の中で展開された。島津貴久の子である義久(長男)、義弘(次男)、歳久(三男)、家久(四男)の四兄弟は、いずれも優れた能力を持ち、島津家の勢力拡大に大きく貢献した 2 。
島津四兄弟は、それぞれが持つ能力を活かし、一丸となって島津家の勢力拡大に貢献したが、時代の大きなうねりの中で、その関係性は協力と対立、栄光と悲劇が交錯するものとなった。義弘の武功は、このような兄弟間のダイナミズムの中でこそ、より大きな意味を持つと言えるだろう。
島津義弘は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将として、日本の歴史に鮮烈な足跡を残した。彼の歴史的評価は、その卓越した軍事的能力、島津家への貢献、そして武人としての枠を超えた多面的な人物像によって形成されている。
義弘の軍事指揮官としての能力は疑いようがない。「鬼島津」の異名が示す通りの勇猛さに加え、「釣り野伏せ」に代表される巧妙な戦術、そして関ヶ原の戦いにおける伝説的な「島津の退き口」は、彼の戦略眼と部下を率いるカリスマ性、そして不屈の精神を如実に示している。これらの戦いは、彼を戦国屈指の猛将として位置づけるに十分である。
島津家に対する貢献も計り知れない。兄・義久を軍事面で支え、三州統一から九州制覇寸前まで勢力を拡大する原動力となった。さらに重要なのは、関ヶ原の戦いという絶望的な敗戦の後、その勇名と決死の撤退戦が、結果的に徳川家康をして島津家討伐を躊躇させ、本領安堵という破格の処置を引き出す一因となったことである。これは、島津家の存続にとって決定的な意味を持った。
しかし、義弘の評価は戦場での活躍に留まらない。隠居後は領国経営に力を注ぎ、薩摩焼の基礎を築くなど産業振興に貢献し、茶の湯を嗜む文化人としての一面も持っていた。部下を思いやり、その信頼を得ていたことは数々の逸話が証明しており、これが「捨て奸」のような極限状況下での家臣たちの自己犠牲的精神に繋がったと考えられる。
その一方で、朝鮮出兵における「鬼石曼子」としての勇名は、同時に敵にとっては恐怖の対象であり、戦場での過酷な行為や、それに伴う精神的な葛藤(高野山供養碑にその一端が窺える)も彼の評価から切り離すことはできない。
島津義弘は、戦国乱世という激動の時代が生んだ英雄の一人である。彼は、武士としての勇猛さと戦略性を兼ね備え、危機的状況下で一族を救い、さらには領国の発展にも寄与した。その生涯は、武勇、忠誠、慈悲、そして時には非情な決断といった、武士道に通じる多様な側面を内包しており、後世の薩摩藩、ひいては明治維新へと繋がる日本の歴史に、直接的・間接的に大きな影響を与えたと言えるだろう。彼の名は、単なる一地方武将としてではなく、日本の歴史を動かした重要な人物の一人として、今後も語り継がれていくに違いない。彼の武名と一族の結束力は、敗北すらも交渉の材料に変え、他の多くの大名が辿った運命とは異なる道を島津家にもたらした。この強靭な生存力こそが、島津義弘とその一族の最も特筆すべき遺産かもしれない。