戦国時代の薩摩は、島津一族内の熾烈な権力闘争と、それに伴う領国の再編という激動の時代であった。この時代、一人の武将の生涯が、島津宗家による三州(薩摩・大隅・日向)統一事業の本質を映し出している。その人物こそ、川上忠克(かわかみ ただかつ)である。
当初、島津宗家と敵対する薩州島津家に属し、串木野城主として宗家に弓を引いた忠克は、降伏、配流という苦難の道を歩む。しかし、その運命は一転し、敵将であった島津貴久によって赦免されるのみならず、家老という藩政の中枢を担う重職に抜擢されるという異例の待遇を受けた 1 。
本報告書は、この川上忠克の波乱に満ちた生涯を、現存する断片的な史料を統合・分析することで、徹底的に再構築するものである。彼の人生の軌跡は、単なる一個人の立身出世物語ではない。それは、敵対勢力に属した在地領主が、いかにして戦国大名の強固な家臣団に組み込まれ、その中で忠節を尽くすに至ったかを示す貴重な事例である。忠克の生涯を深く掘り下げることは、島津氏、特に島津貴久の巧みな領国経営術と、戦国時代の武士が生き残りをかけて繰り広げた生存戦略の実像を明らかにすることに繋がる。彼の物語は、武力のみならず、度量と実利をもって領国を統一しようとした島津氏の先進的な統治思想を解き明かす鍵となるであろう。
川上忠克の行動原理を理解するためには、まず彼の出自と、在地領主としての基盤を理解する必要がある。彼は単なる一介の武士ではなく、由緒ある家柄と自らの所領を持つ、誇り高き一族の当主であった。
川上氏は、島津宗家5代当主・島津貞久の庶長子である頼久を祖とする、島津一門の中でも名門とされる庶流である 4 。この一族は代々島津宗家に仕え、薩摩国内に勢力を扶植してきた。忠克が属する家系は、その中でも文明年間(1469年~1487年)に串木野城主となった川上忠塞(ちゅうさい)を祖とする分家である 7 。この家系は『川上忠塞一流家譜』という家譜を残しており、その記述は忠克とその一族の動向を知る上で極めて重要な史料となっている 10 。この出自は、忠克が島津一族としての自負を持ちつつも、宗家とは一定の距離を保つ自立した領主であったことを示唆している。
川上忠克は、永正4年(1507年)に川上栄久の子として生を受けた 1 。兄に道堯がいたものの、病身であったため家督を継ぐことはなく、忠克が家を継承した 3 。これは、当時の武家社会において、単なる長幼の序だけでなく、当主としての責務を全うできる能力や健康状態が家督相続の重要な要素であったことを示す一例である。
家督を継いだ忠克は、祖父・忠塞以来の拠点である串木野城(別名:亀ヶ城)の城主となり、周辺の三十町の所領を支配した 3 。串木野は薩摩半島の西岸に位置する要衝であり、忠克はこの地で在地領主としての確固たる基盤を築いていた。
彼が当初、島津宗家ではなく、その対抗勢力である薩州島津家に与した背景には、この地理的条件が大きく影響していたと考えられる。串木野は、島津宗家の本拠地である鹿児島よりも、薩州家の本拠地・出水に地理的に近かった 13 。戦国時代の在地領主は、自領の安堵と一族の存続を最優先事項としており、そのためには遠方の宗家よりも、近隣の有力な勢力と結びつく方が現実的な生存戦略であった。忠克の選択は、こうした戦国武将の合理的な判断に基づいていたと解釈できる。
16世紀前半の薩摩は、島津宗家の権威が揺らぎ、一族内で激しい主導権争いが繰り広げられていた。川上忠克もこの争乱の渦中に身を投じることとなる。
島津宗家第14代当主・島津勝久の治世、宗家は深刻な内紛に見舞われていた。勝久は寵臣を重用し、歴代の家臣と対立するなどして家中をまとめることができず、その権威は著しく低下していた 14 。この政治的混乱を好機と捉えたのが、出水を拠点とする有力分家・薩州家の当主、島津実久であった 13 。実久は、自らの武力を背景に宗家の家督を簒奪しようと画策し、島津一族は分裂の危機に瀕した 16 。この宗家と薩州家の対立構造が、忠克のその後の運命を決定づける舞台となった。
こうした状況下で、川上忠克は薩州家の島津実久と手を結ぶ。その最も直接的な要因は、忠克の次女が実久の継室(後妻)として嫁いだことであった 1 。この婚姻により、両者は単なる政治的同盟者ではなく、強固な姻戚関係で結ばれることとなった。これにより、忠克の立場は明確となり、実久方の有力武将として、伊作を拠点に宗家の再興を目指す島津忠良・貴久父子と全面的に対立することになる 2 。
忠克は、単に兵を率いて戦うだけの武将ではなかった。彼は実久の舅という立場から、その政治工作においても中心的な役割を担った。大永7年(1527年)、実久がクーデターを起こした際、忠克は一度守護職を退いていた島津勝久のもとへ使者として赴き、守護職への復帰を説得している 14 。これは、実久が貴久から守護職の正統性を奪うための重要な政治的駆け引きであり、その大役を忠克が任されたことは、彼が実久から軍事・政治の両面で深く信頼されていたことを物語っている 19 。
島津実久に与し、宗家と敵対した川上忠克であったが、戦局はやがて忠良・貴久父子に有利に傾いていく。忠克の人生は、降伏という屈辱を経て、予期せぬ大きな転機を迎えることとなる。
天文8年(1539年)、島津忠良・貴久父子の攻勢は激しさを増し、薩州方の拠点であった市来城などが次々と攻略され、実久方の敗色は濃厚となった 13 。同年8月、忠克は自らの本拠地である串木野城において、ついに貴久に降伏した 1 。この降伏は、単なる敗走ではなく、正式な手続きに則ったものであった。『串木野郷地略誌』などの史料によれば、忠克は嫡男である虎徳丸を人質として貴久のもとへ差し出すことで、恭順の意を示したと記録されている 22 。これは、一族の存続をかけた、領主としての苦渋の決断であった。
降伏した忠克に下された処分は、薩摩半島の西に浮かぶ甑島列島への3年間の配流(流刑)であった 1 。これは、敵対勢力の中心人物に対する厳しい処罰であり、彼の政治生命は一度ここで絶たれたかに見えた。しかし、一族郎党もろとも誅殺されることも珍しくない戦国の世において、命を奪われなかったという点に、島津貴久の後の処遇への布石が見て取れる。忠克が甑島でどのような生活を送ったのか、その具体的な様子を伝える伝承や記録は、残念ながら現存する史料からは確認できない 3 。
3年間の配流生活を終え、天文11年(1542年)頃、忠克は罪を許される。驚くべきことに、彼は単に帰参を許されただけでなく、島津家の家政を司る最高幹部である家老職に抜擢されるという、破格の待遇を受けたのである 2 。
この処遇は、戦国時代の常識から見れば極めて異例であった。降伏した敵将を、自らの家臣団の頂点に据えるという貴久の決断の裏には、深い政治的意図があったと考えられる。第一に、忠克の武将としての経験や能力が、敵であった貴久からも高く評価されていたことは間違いない 19 。しかし、それ以上に重要なのは、この人事が他の在地領主や旧薩州方家臣に対する強力なメッセージとなった点である。
当時の貴久にとって最大の課題は、薩摩・大隅・日向の三州統一であった。そのためには、旧敵対勢力を物理的に滅ぼすのではなく、いかに円滑に自らの家臣団へ再編するかが鍵となる。敵方の重臣であった忠克を赦し、あえて重用することで、「島津宗家に忠誠を誓うならば、過去の罪は問わず、能力次第で厚遇する」という明確な方針を内外に示したのである。配流という「罰」によって主君の権威を示し、家老登用という「賞」によって度量の大きさを示す。この巧みなアメとムチの使い分けは、無用な抵抗を抑え、多くの国人衆の帰順を促すための、極めて効果的な「恩赦の政治的活用」であった。忠克の登用は、一個人の人事にとどまらず、島津氏の領国統一事業を加速させるための高度な統治術だったのである。
一度は敵として刃を交えた主君・島津貴久から破格の待遇で迎えられた川上忠克は、その恩義に報いるかのように、後半生を島津家の忠臣として捧げた。彼の活躍は、軍事、政務、そして次世代の育成という多岐にわたった。
表1:川上忠克 略年譜
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
典拠・備考 |
1507年 |
永正4年 |
1歳 |
川上栄久の子として誕生。 |
1 |
不詳 |
- |
- |
兄・道堯が病身のため家督を相続し、串木野城主となる。 |
3 |
天文年間 |
天文年間 |
- |
次女が薩州家当主・島津実久の継室となり、実久方に与する。 |
3 |
1539年 |
天文8年 |
33歳 |
島津貴久に降伏。嫡男・虎徳丸を人質として差し出す。甑島へ配流となる。 |
2 |
c. 1542年 |
天文11年頃 |
36歳 |
3年間の配流を終え赦免される。島津家の家老に抜擢される。 |
2 |
1554年 |
天文23年 |
48歳 |
岩剣城攻めにて、島津義久・義弘・歳久ら三兄弟の傅役(目付役)を務める。 |
19 |
1556年以降 |
弘治2年以降 |
50歳以降 |
老中として伊集院忠朗らと共に連署状に名を連ねるなど、政務に深く関与。 |
24 |
1568年 |
永禄11年 |
62歳 |
次男・久朗が、大口城攻めで主君・島津義弘を守り戦死する。 |
25 |
1592年 |
文禄元年 |
86歳 |
死去。法号は意釣。 |
1 |
家老(史料によっては老中とも記される)に就任した忠克は、島津氏の最高意思決定機関の一員として、領国経営に深く関与した 26 。弘治2年(1556年)に発給されたとみられる連署状には、伊集院忠朗ら他の重臣たちと共に忠克の花押が記されており、海外渡航船の禁制といった具体的な政務に携わっていたことが確認できる 24 。また、谷山(現在の鹿児島市谷山地区)の地頭にも任じられるなど 10 、軍事だけでなく行政面でもその手腕を発揮し、貴久の領国支配を支える重要な柱の一人となった。
忠克が貴久から寄せられた信頼の厚さを示す最も象徴的な逸話が、貴久の子弟たちの傅役(ふやく、教育係・後見人)を任されたことである。天文23年(1554年)、島津氏の勢力拡大における重要な戦いであった岩剣城攻めの際、忠克は初陣に臨む貴久の息子たち、すなわち義辰(後の義久)、忠平(後の義弘)、歳久の目付役(監督・指導役)を命じられた 19 。
戦場で若き三兄弟に発破をかける忠克の姿が、後世の記録に伝えられている 19 。これは、貴久が忠克の豊富な実戦経験と戦術眼を高く評価し、自らの後継者たちの命と将来を託すに足る人物であると認めていたことの何よりの証左である。かつての敵将に、自らの息子たちの初陣という極めて重要な局面の監督を委ねるという行為は、最大限の信頼の表明に他ならない。この任命は、忠克が配流を経て完全に島津宗家への忠誠を誓い、貴久もそれを確信していたことを示している。同時に、貴久が息子たちに対し、出自や過去にとらわれず、能力のある人間を正当に評価し尊重する姿勢を身をもって教えようとした、という教育的な意図も読み取れる。
忠克の功績として、領地であった串木野において「白山権現の再興に尽くした」という伝承が残っている。今回の調査で、忠克自身が再興に直接関わったことを示す一次史料は確認できなかった 6 。しかし、この伝承の背景を考察することは、彼の領主としての一面を理解する上で重要である。
串木野近郊の霊山である冠岳には、古くから山岳信仰の対象として熊野権現と共に白山権現が祀られていた記録が『三国名勝図会』などに残されている 28 。戦国時代の領主にとって、領内の有力な寺社を保護し、社殿の造営や祭礼の復興を行うことは、単なる個人的な信仰心の発露に留まらなかった。それは、領民の信仰心と求心力を掌握し、自らの支配の正当性と権威を高めるための重要な統治政策の一環であった 31 。
忠克が串木野の領主であったこと、そしてその地に白山信仰が存在したことを踏まえれば、彼が領主として白山権現の保護・再興に関与した可能性は極めて高いと言える。この行為は、在地領主として地域の宗教的中心を庇護することで、領民の心を掴み、自らの支配基盤を強化するという、当時の武士としてごく自然な行動であったと推察される。
幾多の戦乱と政治的変転を乗り越えた川上忠克は、戦国武将としては稀有な長寿を全うした。そして、彼が島津家に尽くした忠誠は、その子らにも確かに受け継がれていった。
忠克は、文禄元年(1592年)、86歳でその生涯を閉じた 1 。織田信長や豊臣秀吉といった天下人が活躍した時代まで生き抜いたことになり、当時の平均寿命を考えれば驚異的な長寿であった。晩年には出家し、「意釣(いぎょ)」と号したことが記録されている 1 。彼の長い生涯は、激動の時代を生き抜くための優れた政治的判断力と、敵将からも認められる確かな実力を兼ね備えていたことの証と言えよう。
忠克が島津家に示した忠節は、息子たちの生き様にも色濃く反映された。彼には忠頼と久朗という息子がいた 1 。
長男の忠頼は嫡男であったが、史料には若くして亡くなったと記されているのみで、詳しい事績は伝わっていない 18 。
家督は次男の久朗(ひさあき)が継いだ。久朗は父・忠克に劣らぬ智勇兼備の将器として早くから頭角を現した。その才能は島津忠良や当主・義久からも高く評価され、天文22年(1553年)、わずか17歳の若さで家老職および谷山地頭に任命されるという、父同様の異例の抜擢を受けた 25 。その後の蒲生氏攻めや肝付氏との合戦でも数々の武功を挙げ、将来を大いに嘱望された 25 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。永禄11年(1568年)1月、菱刈氏が籠る大口城攻めの際、久朗は主君・島津義弘(貴久の次男)の危機を救うために奮戦。敵中に孤立しながらも主君を守り抜いたが、その際に全身に13ヶ所もの深手を負った 25 。この傷が元で、鹿児島に帰還したものの翌月3日に死去。享年32というあまりにも早い死であった 25 。
この久朗の死は、川上家の悲劇であると同時に、島津家に対する忠誠を決定的な形で証明する出来事となった。かつて父・忠克を赦免し、家老に登用した島津貴久の恩義に対し、その息子である久朗が、貴久の子・義弘のために命を捧げて応えたのである。貴久が忠克に投じた「信頼」という名の投資は、二世代にわたる揺るぎない忠誠という形で、島津家にとって計り知れない果実をもたらした。久朗の壮絶な死は、川上家の島津家中における家格を不動のものとし、父子の物語を武士の主従関係の理想として完結させたと言えるだろう。
川上忠克の生涯は、戦国時代という激動の時代における一地方領主の生き様を鮮やかに描き出している。彼は、島津氏の庶流という出自を持ちながらも、当初は宗家と敵対する薩州方に与し、自らの存続をかけて戦った。これは、当時の在地領主としてごく自然な選択であった。
しかし、彼の人生が歴史的に重要な意味を持つのは、降伏後の劇的な転身にある。敵将であった島津貴久による赦免と家老への抜擢という異例の処遇は、忠克個人の運命を変えただけでなく、島津氏の領国統一戦略における画期的な一歩であった。貴久は、忠克を登用することで、旧敵対勢力を粛清するのではなく、能力ある者を積極的に家臣団へ統合していくという明確な方針を示した。この現実的かつ合理的な人材登用策は、島津氏が強固な家臣団を形成し、やがて九州を席巻するほどの強大な戦国大名へと成長していく上で、不可欠な要素であった。
忠克自身もまた、その期待に応え、後半生を通じて島津家への忠節を尽くした。政務においては老中として領国経営を支え、軍事においては次代を担う義久ら若き当主たちの傅役を務めた。そして、その忠誠心は息子の久朗へと受け継がれ、主君のための自己犠牲という最も劇的な形で結実した。
川上忠克は、島津四兄弟のような華々しい英雄ではないかもしれない。しかし、彼の生涯は、戦国大名・島津氏の権力形成の過程と、その統治の巧みさを理解するための、まさに鍵となる人物である。敵将から忠臣へ、そしてその忠誠を次代に繋いだ彼の物語は、戦国乱世における主従関係の一つの理想形として、高く評価されるべきであろう。