川崎時盛は戦国時代の越前の武芸者で、東軍流の創始者。富田勢源に師事し、剣術・柔術・軍学を含む総合武術を確立。東軍流は全国に広まり、現代まで継承される。
戦国時代は、絶え間ない戦乱が実戦的な技術の発展を促し、多種多様な武術流派が勃興した「るつぼ」であった。明日をも知れぬ過酷な環境下で、武士たちは生き残るための術を必死に模索し、その中から数多の剣豪や兵法家が生まれた。彼らは既存の流派を修め、あるいは独自の工夫を加えて新たな流派を創始し、その技と理念を後世に伝えた。本報告書の主題である川崎鑰之助時盛(かわさきかぎのすけときもり)もまた、この激動の時代が生んだ卓越した武芸家の一人である。
川崎時盛本人に関する同時代の一次史料は極めて乏しく、その生涯の多くは謎に包まれている。我々が彼の人物像を知る上で依拠するのは、主に江戸時代中期に日夏繁高によって著された『本朝武芸小伝』や、東軍流をはじめとする各流派の伝書といった後世の編纂物である 1 。これらの史料は、時として伝説的な色彩を帯び、内容に相違も見られる。したがって、本報告書では、これらの断片的な記録や伝承を丹念に比較検討し、その共通点と矛盾点を分析することで、可能な限り史実に基づいた川崎時盛の人物像を再構築することを目的とする。
時盛の物語を紐解く上で、一つの重要な力学が存在する。それは、流派の「創始者」である川崎時盛と、その流派を世に広め「大成者」となった四代目の川崎宗勝との関係性である 4 。多くの史料が指摘するように、東軍流の名が全国に轟いたのは、創始者である時盛の時代ではなく、その子孫である宗勝の劇的な武勇伝と、その後の華々しい経歴によるものであった 4 。一部では宗勝を「実際の開祖」と見なす説すら存在する 5 。この事実は、一つの流派や伝統がどのようにして確立され、後世に受け継がれていくのかという普遍的な問いを投げかける。創始者の独創的な業績だけでは不十分であり、その遺産を継承し、時代の要請に合わせて発展させる後継者の存在があって初めて、その流れは盤石なものとなる。本報告書は、時盛を孤立した存在としてではなく、彼の創始した東軍流という壮大な物語の第一章を担う重要人物として捉え、その遺産が子孫によっていかにして大成されたかという、世代を超えたダイナミズムの中にその生涯を位置づけることで、より深く多角的な理解を目指すものである。
川崎時盛、通称を鑰之助は、戦国時代の越前国(現在の福井県)に生まれた 6 。その生没年は詳らかではないが、諸記録から天文年間(1532-1555)に活躍した人物と推定されている 4 。彼の父は、越前の戦国大名であった朝倉氏の御用人(主君の側近として雑務や取次ぎを担う役職)を務めた川崎時定という人物であった 4 。時定自身も鞍馬八流の達人であったと伝えられており、時盛は武芸の素養が豊かな家系に生を受けたことになる 4 。
主家である朝倉氏は、本拠地の一乗谷に京を模した壮麗な城下町を築き、武芸のみならず和歌や茶の湯といった文芸も厚く保護したことで知られる。このような文化的土壌が、若き時盛の人間形成に何らかの影響を与えた可能性は十分に考えられる。
武芸の家に生まれた時盛は、13歳頃から父・時定より鞍馬八流の剣術を学び、その才能の芽を育んだ 4 。その後、彼はさらなる高みを目指し、当時、中条流を継承し天下にその名を馳せていた富田家の門を叩く。ここで彼は、槍術を富田牛生に、そして剣術を盲目の剣士としても名高い富田勢源に師事した 4 。
この師弟関係は、時盛と彼が創始する東軍流の歴史的価値を理解する上で極めて重要である。時盛は、何もないところから突如として現れた孤高の剣士ではなかった。彼の武芸の背景には、日本剣術史における輝かしい「黄金の系譜」が存在する。師である富田勢源は、中条流という由緒ある流派の正統な継承者であり、その門下からは、後に一刀流の祖となる伊藤一刀斎の師、鐘捲自斎といった高弟も輩出されている 4 。つまり、時盛は日本武術界の主流ともいえる系譜に連なることで、当代最高峰の技術と理論を吸収したのである。彼が後に創始する東軍流は、全くの独創ではなく、中条流や鞍馬流といった日本屈指の武術体系を礎とした、正統な発展形であった。この権威ある系譜は、彼の流派に当初から高い信頼性を与え、後世における全国的な普及の大きな要因となったと考えられる。東軍流は、日本武芸という大樹から伸びた孤立した枝ではなく、その幹から力強く生じた重要な一枝であった。
時盛の若き日の武勇を伝える逸話として、「朝倉の鬼若三勇士」の伝説が残されている。これは、17歳の時盛が、真柄真基(十郎三郎)、村上長孝(庄蔵)という二人の若武者と共に、その武勇を称えられて呼ばれたというものである 4 。
この逸話の史実性を直接証明する史料はないものの、若き日の時盛が優れた武芸者として周囲から一目置かれる存在であったことを示唆する伝承として興味深い。特に、共に名を連ねる真柄氏は、姉川の戦いにおいて五尺三寸(約160cm)もの大太刀「太郎太刀」を振るって奮戦したことで知られる豪傑一族であり、そのような人物と並び称されたという事実は、時盛の武勇のイメージを一層際立たせる 9 。
時盛が自身の流派を創始するに至る経緯には、いくつかの伝承が存在する。最も広く知られているのは、父・時定が何らかの理由で朝倉家を離れ浪人となった後、時盛が比叡山の僧「東軍権僧正(とうぐんごんのそうじょう)」に預けられ、そこで刀術の奥義を授かったという説である 1 。元亀2年(1571年)に織田信長によって焼き討ちされる以前の比叡山延暦寺は、数千の僧兵を擁する強大な武装勢力であり、武芸に秀でた僧侶が多数存在したことは歴史的な事実である 10 。この説は、当時の時代背景と照らし合わせても十分に説得力を持つ。
一方で、『本朝武芸小伝』などには、上州白雲山(現在の群馬県・妙義山)の神に祈願し、霊感を得て一流を開悟したという神託説も記されている 13 。これは、天真正伝香取神道流の飯篠長威斎など、他の多くの武術流派の創始神話にも見られる典型的な形式であり、流派の神秘性と権威を高めるための象徴的な物語と解釈できる。
流派の名称である「東軍」の由来についても、二つの説が伝えられている。一つは、師である僧「東軍権僧正」の名に由来するという直接的な説 15 。もう一つは、時盛が剣術のみならず軍学にも深く通じていたため、人々が彼を「東軍者(とうぐんもの)」、すなわち「天下第一の軍学者・武芸者」を意味する尊称で呼んだことに由来するという説である 7 。
この「東軍流」という名称は、単なる標識ではなく、それが生まれた時代の精神を映し出す強力な象徴であった。二つの由来説は、一見すると異なるが、実は相互に補完し合う関係にあると考えられる。すなわち、武勇に優れた高僧が「東軍者」という尊称で呼ばれ、それが事実上の名となり、その弟子である時盛がその名を流派名として受け継いだ、という解釈が可能である。重要なのは、「東軍(軍事力)」と「権僧正(宗教的権威)」という二つの要素の融合である。戦国時代において、延暦寺のような宗教機関が同時に巨大な軍事力を持っていたという現実が、この名前に凝縮されている。それは、東軍流が単なる身体的な技法に留まらず、戦略、規律、そしてより深い哲学的・精神的な基盤を持つ武術であることを示唆している。
東軍流は、単一の剣術流派としてではなく、より広範な技術体系を持つ「総合武術(そうごうぶじゅつ)」として伝えられている 17 。その内容は、剣術を中核としながらも、薙刀術、柔術(相手を制圧・殺傷する「殺法」と、蘇生・治療を行う「活法」を含む)、さらには砲術、馬術、そして軍学までを網羅していた 5 。この包括的なカリキュラムは、戦国乱世のあらゆる状況に対応し、生き抜くための実戦性を徹底的に追求した結果であったと推察される 1 。
東軍流の極意は「無明切(むみょうぎり)」と称される 15 。この技の詳細は詳らかではないが、その名称と伝承から、その思想的背景を窺い知ることができる。「無明」とは仏教用語であり、悟りを妨げる根源的な迷いや煩悩を意味する。したがって「無明を切る」という言葉は、単に物理的に敵を斬る行為を超え、自らの内なる迷いを断ち切り、澄み切った不動の心で敵に臨むという、高い精神的境地を示している。
これは、相手の動きや殺気を事前に察知し、それに呼応して動くことで先手を取って相手を制する「後の先」の思想を体現したものであったと考えられる 15 。力や速さに頼るのではなく、精神的な洞察力と瞬時の状況判断を重視するこの理念は、東軍流が単なる戦闘技術ではなく、人間形成を目指す道であったことを物語っている。そして、この仏教的な思想は、時盛が「東軍権僧正」という僧侶に師事したという伝承の信憑性を補強するものでもある。
創始者・時盛によって産声を上げた東軍流が、一つの流派として不動の地位を確立し、全国にその名を轟かせるに至ったのは、彼の代から三代後(諸説あり、四代目とも五世の孫ともされる)の川崎宗勝(かわさきむねかつ)、通称・次郎太夫の功績によるところが大きい 1 。
宗勝の名を一躍有名にしたのは、武者修行の途上で起きた武蔵国忍(現在の埼玉県行田市)での一件である。彼はある試合で相手を殺害してしまい、その復讐のために襲来した門人十数名を相手に、負傷しながらも見事に切り抜けた 1 。この凄まじい武勇が、当時の忍藩主・阿部忠秋の目に留まり、宗勝は藩に召し抱えられることとなった。この出来事が、それまで一地方の流派であったかもしれない東軍流が、世に知られる大きな転機となったのである。
その後、宗勝は江戸に道場を開き、その名は「柳生新陰流」や「小野派一刀流」といった当代一流の流派と並び称され、一時は「天下五大流儀」の一つに数えられるほどの隆盛を誇った 4 。晩年は忍藩を辞し、信州松代藩の真田家、ついで小諸藩の青山家に仕えたと伝えられている 1 。
宗勝の活躍と、彼が育成した優れた弟子たちの尽力により、東軍流は江戸時代を通じて全国の諸藩へと広まっていった。記録によれば、水戸藩、古河藩、篠山藩、赤穂藩、岡山藩、鳥取藩、中津藩、対馬藩など、その伝播の範囲は極めて広範にわたる 5 。
この広範な普及の背景には、東軍流の持つ特性が江戸時代の武士社会のニーズと合致していたという側面がある。戦国時代が終わり、泰平の世となった江戸時代において、武士の役割は戦場の兵士から、藩を治める行政官へと変化していった。そのため、藩が武士の子弟を教育する藩校では、個人の決闘技術だけでなく、組織を率いるための統率力や戦略的思考が求められた。東軍流は、剣術、槍術、柔術といった個人武術に加え、馬術、砲術、そして何よりも軍学という包括的なカリキュラムを備えていた 5 。これは、文武両道を理想とする武士兼行政官を育成するための教育システムとして、まさに理想的であった。藩の安全保障と武士の育成を担う上級家臣であった大石内蔵助がこの流派を学んだことも、その実用性と格式の高さを物語っている。東軍流の総合的な内容は、平和でありながらも武備を怠らないという江戸時代の社会構造に、見事に適合したのである。
特に有名なのは、赤穂藩の家老であった大石内蔵助良雄が東軍流を学んでいたことである 15 。後に「忠臣蔵」として語り継がれる歴史的事件の指導者が修めた流派として、東軍流の名は武芸史のみならず、日本の文化史においても特別な響きを持つことになった。
藩 (Domain) |
藩校 (Domain School) |
主要な伝承者・関連人物 (Key Practitioners/Masters) |
特記事項 (Notes) |
典拠 (Source) |
忍藩 (Oshi) |
- |
川崎宗勝 (Kawasaki Munekatsu) |
宗勝が阿部忠秋に召し抱えられ、流派が世に出るきっかけとなった地。 |
5 |
松代藩 (Matsushiro) |
文武学校 (Bunbu Gakkō) |
川崎宗勝、石倉源五左衛門 |
宗勝が晩年に仕官。藩校では弓術の一流派としても教えられた。 |
5 |
赤穂藩 (Akō) |
- |
大石内蔵助良雄 (Ōishi Kuranosuke Yoshio) |
忠臣蔵で知られる家老が学んだことで、流派の知名度を飛躍的に高めた。 |
5 |
岡山藩 (Okayama) |
- |
平井稔(後代) |
後に光輪洞合気道を創始する平井稔が、この地で東軍流を学んだ。 |
5 |
鳥取藩 (Tottori) |
尚徳館 (Shōtokukan) |
戸田一歩 |
藩の武術流派の一つとして伝承された記録がある。 |
1 |
中津藩 (Nakatsu) |
- |
富永應助(師範) |
藩の主要な剣術流派の一つとして、長刀術と共に稽古された。 |
5 |
篠山藩 (Sasayama) |
- |
川崎重勝 (Kawasaki Shigekatsu) |
宗勝の養子・重勝が青山家に仕え、藩の剣術師範家となった。 |
5 |
その他 |
水戸、古河、吉田、高松、対馬など |
- |
江戸時代を通じて、全国の多くの藩に伝わっていたことが記録されている。 |
5 |
東軍流の影響は、江戸時代に留まらない。その柔術や組討の技法は、岡山でこの流派を学んだ平井稔によって研究され、後に彼が創始する光輪洞合気道の成立に影響を与えたとされる 5 。
そして何よりも特筆すべきは、川崎時盛から始まる流派の道統が、断絶することなく現代にまで受け継がれている点である。歴史作家として広く知られる加来耕三氏(本名:川崎耕一)が、東軍流の第十七代宗家を継承している 5 。これにより、東軍流は単なる歴史上の遺物ではなく、四百年以上の時を超えて今に息づく「生きた伝統」として存在しているのである。
川崎鑰之助時盛は、その生涯の多くが謎に包まれながらも、断片的な記録から浮かび上がる姿は、一人の求道的で卓越した武芸家のそれである。彼は、鞍馬流という武芸の血脈に生まれ、富田勢源という当代一流の師の下でその才能を開花させた。そして、戦国の実戦経験と、比叡山に象徴される宗教的な精神性を融合させ、軍学をも含む総合武術として東軍流を創始した。彼の生涯は、日本の武芸が単なる殺人術ではなく、深い精神性を追求する道であったことを示している。
東軍流の歴史は、創始者である時盛が活躍した戦国時代から、その名を高めた宗勝が生きた江戸時代へと続く過程そのものが、日本の武術の変遷を象徴している。時盛が生きた時代、武術は戦場で生き残るための実用的な戦闘技術、すなわち「武術(bujutsu)」であった。しかし、徳川幕府による泰平の世が訪れると、武術の目的は変化する。戦闘での有効性は依然として重視されつつも、それは武士階級の精神を鍛え、人格を陶冶し、そのアイデンティティを維持するための修養の道、「武道(budō)」へと昇華されていった。東軍流の極意「無明切」が、敵を斬る物理的な行為だけでなく、自らの内なる煩悩を断ち切るという哲学的な意味合いを持つことも 15 、この変遷を裏付けている。東軍流の物語は、一つの流派の歴史に留まらず、日本の武術が戦場の技術から自己完成の道へと進化を遂げた、壮大な歴史の縮図なのである。
一人の剣豪の探求から始まった流れは、弟子たちによって受け継がれ、時代の要請に応じてその役割を変えながら、全国へと広がっていった。そして、四百年以上の時を経た今もなお、その道統が継承されているという事実は、驚嘆に値する。川崎時盛と彼が創始した東軍流の物語は、日本の武芸が持つ歴史の重みと、その伝統を未来へと繋いでいこうとする人々の情熱、そしてその強靭な生命力を、我々に雄弁に物語っているのである。