徳川家康の天下統一を支えた家臣団の中でも、平岩親吉(ひらいわ ちかよし)は特異な存在として記憶されている。一般に彼は、主君・家康の絶大な信頼を受け、その長男・松平信康、そして九男・徳川義直の傅役(もりやく)を務めた「温厚篤実」な人物として知られる 1 。この評価は、彼の生涯の一側面を的確に捉えている。しかし、その忠誠の生涯を深く掘り下げると、単なる温厚な傅役という人物像に収まらない、より複雑で多面的な武将の姿が浮かび上がってくる。
親吉は、徳川家康の幼少期からその最期まで、文字通り生涯を共にした伴走者であった 1 。徳川家の黎明期を支えた功臣を顕彰する「徳川十六神将」の一人に数えられ、その生涯は戦場の武将として、領国を治める為政者として、そして徳川家の次代を育む後見人として、目まぐるしくその役割を変えていった 1 。彼の人生の軌跡は、戦国の動乱を生き抜いた一人の武将の物語であると同時に、徳川家という組織が、三河の小豪族から天下を治める巨大な統治機構へと変貌を遂げる過程そのものを映し出す鏡でもある。
本報告書は、平岩親吉の出自からその死に至るまでの生涯を、具体的な行動と決断、そしてそれらが置かれた歴史的文脈と共に丹念に追うものである。彼の武勇、統治、そして後見という三つの側面を詳細に分析することで、彼が徳川家康の天下統一と江戸幕府の基盤構築において果たした真の役割と、その歴史的意義を再検証することを目的とする。
平岩親吉の生涯を貫く絶対的な忠誠心は、その出自と、何よりも徳川家康と共有した過酷な幼少期にその源流を求めることができる。主従という関係を超えた、運命共同体としての絆は、この時代に形成された。
平岩氏の祖先は、古代の有力氏族である物部氏の末裔、弓削氏(ゆげし)に遡ると伝えられる 3 。一族は河内国(現在の大阪府東部)を本拠としていたが、やがて三河国へ移住。額田郡坂崎村にあった巨岩に因んで「平岩」を姓としたという伝承が残る 5 。親吉から四代前の平岩重益(しげます)の代より、徳川家の前身である松平宗家に仕える譜代の家臣となった 3 。
親吉は天文11年(1542年)、三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)で、平岩親重の子として生を受けた 7 。奇しくもこの年は、後の主君・徳川家康(幼名:竹千代)が誕生した年と同じである 9 。この同い年という偶然は、二人の運命を固く結びつけることになる。親吉は幼少の頃から竹千代に近侍し、家臣というよりも「幼馴染み」や「竹馬の友」と呼ぶべき親密な関係を築いた 1 。
この絆を絶対的なものにしたのが、共に過ごした人質時代であった。天文16年(1547年)、わずか6歳の竹千代が父・松平広忠の策略により織田信秀の人質として尾張へ送られた際、親吉もこれに付き従った 9 。さらに天文18年(1549年)、今川氏と織田氏の間で人質交換が行われ、竹千代が今度は今川義元の人質として駿府へ移されると、親吉は再びこれに随行した 8 。主君が何の権力も持たず、命の保証すらない最も困難な時期を、片時も離れず共に過ごしたこの経験は、二人の間に利害を超えた深い相互理解と、生涯揺らぐことのない信頼関係を育んだ。後年、家康が親吉に示す破格の厚遇は、この苦難を分かち合った「原体験」にその根源を見出すことができる。それは、他の多くの功臣たちとの主従関係とは一線を画す、極めて個人的で強固な結びつきであった。
青年期に入ると、親吉は三河武士として本格的にそのキャリアを歩み始める。永禄元年(1558年)、今川方の武将として寺部城(現在の愛知県豊田市)を攻めた戦いが、家康と共に彼の初陣となった 9 。永禄3年(1560年)、歴史を揺るがす桶狭間の戦いが勃発。今川義元が織田信長に討たれると、家康は長年の人質生活から解放され、独立への道を歩み出す。親吉はこの時、家康が大高城へ兵糧を運び込む危険な任務を遂行する際に護衛を務め、主君の独立戦争の第一歩を支えた 11 。その後、岡崎城を拠点とした家康の三河統一戦において、親吉は各地を転戦し、着実に武功を重ねていった 12 。
親吉の忠誠心が真に試されたのは、永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆であった。この一揆は、松平氏の支配強化に反発した浄土真宗本願寺派の門徒たちが蜂起したもので、徳川家臣団を二分する深刻な内乱へと発展した。本多正信をはじめ、多くの家臣が信仰を理由に家康に背いたのである。親吉自身も熱心な浄土真宗の門徒であったが、彼は信仰よりも主君への忠義を選んだ 1 。一揆側に与することなく、家康方として断固として戦ったのである。この戦いで矢を受けて負傷し、昏倒したところを家康自身に救われたという逸話も残っている 9 。
当時の武士にとって、信仰は自らのアイデンティティの根幹をなすものであり、それを超えて主君への忠誠を貫くという親吉の決断は、家康に彼の忠義が絶対的なものであることを証明した。この一件は、主家のために全てを捧げることを理想とする「三河武士道」の精神を、親吉が自らの行動をもって体現した象徴的な出来事であり、後の度重なる重用へと繋がる決定的な転機となったのである。
家康からの絶対的な信頼を得た親吉には、徳川家の未来そのものを託される重責が与えられる。それは、嫡男・松平信康の傅役という栄光の職務であった。しかし、その先には彼の生涯で最も過酷な悲劇が待ち受けていた。
永禄10年(1567年)、徳川家康の嫡男・松平信康が元服するにあたり、親吉はその傅役(守役)に任命された 3 。当時26歳であった親吉にとって、これは単なる教育係を意味するものではなかった。傅役とは、主君の後継者の人格形成から政治・軍事の補佐まで、その全てに責任を負う立場である。徳川家の次代を担う若君の将来をその双肩に託されたことは、家臣として最高の栄誉であり、家康がいかに親吉を深く信頼していたかを示す何よりの証であった 4 。
元亀元年(1570年)、家康が本拠を岡崎城から浜松城へ移すと、信康が後任の岡崎城主となった。親吉は信康の側近として岡崎に留まり、我が子のように慈しみながらその後見を務めた 3 。姉川の戦いや三方ヶ原の戦いといった主要な合戦の際、家康が遠江で武田氏と対峙する間、親吉は信康と共に岡崎城の守りを固め、徳川家の本領を盤石に保つ役割を担ったと考えられる 7 。天正元年(1573年)には信康の初陣にも付き従い、その武将としての成長を間近で見守った 15 。
傅役としての務めを果たす一方で、親吉は主君の「懐刀」として、非情な任務も遂行しなければならなかった。天正3年(1575年)の長篠の戦いの後、家康の母・於大の方の兄、すなわち家康の伯父にあたる水野信元に、武田方への内通疑惑が持ち上がる 1 。この疑惑を問題視した同盟者・織田信長は、家康に信元の処断を厳命した。
主君の親族、しかも織田家との同盟締結における功労者を手に掛けるという、この極めて困難な任務の実行者に選ばれたのが、親吉と石川数正であった 8 。家康がこの「汚れ役」に、温厚篤実で知られる親吉をあえて加えたのは、彼の「私心のない」性格を熟知していたからに他ならない。私的な野心や怨恨で動くことのない親吉だからこそ、純粋に「主命」としてこの非情な任務を完遂できると判断したのである。天正4年(1576年)1月、親吉らは徳川家の菩提寺である三河の大樹寺に信元を誘い出し、謀殺した 8 。しかし、その遺骸を抱きしめ、「信元殿に私怨はないが、主君の命ゆえにやむを得なかった」と涙ながらに詫びたと伝えられており、彼の温情と、忠義ゆえの深い苦悩が窺える 1 。
親吉の忠臣としてのキャリアは順風満帆に見えたが、天正7年(1579年)、彼の人生を根底から揺るがす悲劇が起こる。傅役として心血を注いで育ててきた松平信康に、武田氏への内通をはじめとする謀反の嫌疑がかけられたのである。この事件の背景には、信康の正室であり信長の娘である徳姫との夫婦間の不和や、姑である築山殿との確執があったとされる 3 。
信長の厳しい追及を受け、家康が我が子・信康の処断という苦渋の決断を下すと、親吉は衝撃を受け、すぐさま家康の下に駆けつけた。そして、傅役としての全責任は自分にあるとして、こう嘆願したと『三河物語』は記している。「若君に腹を切らせれば、後々まで悔やむことになりましょう。万事、この私の不行き届きが故です。どうか私の首を信長公に差し出し、若君の御命をお助けください」 8 。
この命を懸けた嘆願は、戦国時代の傅役が負う責任の重さを物語っている。傅役は若君と一心同体であり、その過ちは自らの過ちであった 19 。親吉の申し出は単なる感情的な行動ではなく、自らの命をもって主家の最大の危機を回避しようとする、傅役としての責務を全うするための、当時の武家社会の規範に則った論理的な行動であった。
しかし、その悲痛な願いも虚しく、信康は二俣城にて自刃を遂げた。我が子同然に育てた若君を守れなかった絶望と、傅役としての責任を痛感した親吉は、自ら職を辞して蟄居(謹慎)してしまう 1 。この行動は、彼の強烈な責任感と信康への深い愛情の証左である。後に家康からの再三の要請を受け、信康の遺臣たちを預けられるという形で、親吉は再び表舞台へと復帰するが、この事件が彼の心に残した傷は計り知れないほど深かったに違いない 3 。
信康事件という悲劇を乗り越えた親吉は、そのキャリアを大きく転換させる。戦場での武勇だけでなく、領国を経営する為政者・行政官としての卓越した能力を開花させ、家康の天下統一事業において新たな、そして不可欠な役割を担っていくことになる。
天正10年(1582年)、本能寺の変で織田信長が横死すると、甲斐・信濃(いわゆる「天正壬午の乱」)を巡る争奪戦が勃発。これを制した家康は、武田氏の旧領をその支配下に置いた。翌天正11年(1583年)、家康は親吉を甲斐国郡代に任命し、岡部正綱と共にその統治を委ねた 8 。これは、親吉の為政者としてのキャリアの本格的な始まりであった。
甲斐の統治は、旧武田家臣団という、誇り高く、戦闘経験豊富な集団をいかにして徳川の支配体制に組み込むかという、極めて高度な政治課題を含んでいた。家康は、親吉の誠実で私心のない人柄こそが、彼らの心を掴み、領国を安定させるのに最適だと判断したのである。親吉はその期待に応え、武田遺臣たちを巧みに慰撫し、徳川家臣団へと統合していく。さらに、武田信玄が定めたとされる甲州金や甲州枡といった独自の制度を尊重し、そのまま継承するという柔軟な政策をとった 8 。これは、現地の文化や伝統を理解し、力による支配だけでなく、民心を安定させることを重視した優れた行政手腕の表れであった。
同時に、家康の命を受けて、甲斐支配の新たな拠点となる甲府城の築城に着手した 8 。この大規模な築城事業と安定した領国経営は、親吉が単なる武将ではなく、卓越した行政官僚としての才幹をも併せ持っていたことを天下に示した。親吉の甲斐統治は、家康が推し進める「戦国大名から近世大名への脱皮」という、より大きな国家構想の実践であり、その成功は徳川家の統治能力の高さを証明するモデルケースとなった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げる。この小田原征伐において、親吉は岩槻城(現在の埼玉県さいたま市)攻めなどで奮戦し、47もの首級を挙げる武功を立てた 9 。
戦後、家康は秀吉の命により、先祖代々の地である三河・遠江から関東への移封を命じられる。この国替えに伴い、家康は配下の家臣たちに新たな所領を与えた。親吉はこれまでの戦功と忠誠を高く評価され、上野国厩橋(こうずけのくにうまやばし、現在の群馬県前橋市)に3万3千石の所領を与えられ、厩橋城主となった 3 。この3万3千石という石高は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政といった徳川四天王に次ぐ、家臣団の中で第6位という破格の待遇であった 3 。これは、彼が名実ともに関東における徳川家臣団の中核をなす存在と位置づけられたことを意味する。
厩橋は、北関東の要衝であり、信濃の真田氏や越後の上杉氏といった、いまだ豊臣政権に完全に従属していない勢力に対する抑えとなる、極めて重要な戦略拠点であった。家康がこの地に親吉を配置したのは、彼の武功や統治能力はもちろんのこと、その絶対的な忠誠心を信頼し、広大な関東支配を盤石にするための「楔(くさび)」としての役割を託したからに他ならない。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康本隊が西上する中、親吉は厩橋城に留まり、上杉景勝の南下を警戒し、関東の留守を守るという重責を果たした 24 。
関ヶ原の戦いを経て天下人となった家康は、徳川による盤石な統治体制の構築に着手する。その壮大な構想の中で、親吉には彼の生涯の集大成とも言うべき、最後の、そして最も重要な奉公が託されることになった。それは、将軍家に次ぐ権威を持つ御三家筆頭・尾張徳川家の礎を築くという大事業であった。
関ヶ原の戦いの論功行賞として、慶長6年(1601年)、親吉は甲斐国に戻り、甲府6万3千石の城主へと加増移封された 9 。そして慶長8年(1603年)、家康の九男であり、後の尾張徳川家初代藩主となる徳川義直(当時わずか4歳)が甲斐25万石の藩主となると、親吉は再び傅役(後見人)に任命された 3 。信康の悲劇を経験した親吉にとって、再び主君の子を預かることは、万感の思いがあったであろう。
慶長12年(1607年)、義直が尾張清洲藩主へ転封となると、親吉もそれに従って尾張へ移った。義直はまだ幼く、駿府の家康の下で養育されていたため、親吉は附家老(つけがろう)として清洲城、後の名古屋城に入り、事実上の藩主代理として尾張一国の国政を執行した 3 。この附家老という役職は、将軍家の一門である御三家の藩政を安定させ、幕府の意向を反映させるための重要な統治システムであり、その筆頭には藩主を凌ぐほどの権威と実力、そして将軍からの絶対的な信頼が求められた。親吉は、信康の傅役としての経験、甲斐統治で見せた行政手腕、そして家康との比類なき信頼関係という、この重責を担うにふさわしい全ての資質を兼ね備えていたのである。
この時、親吉は自身の所領として尾張犬山城と12万3千石(一説に9万3千石)という、並の大名を遥かに凌ぐ破格の領地を与えられた 3 。これは、彼に託された役割の重要性を示すものであった。親吉は、名古屋城の築城や城下町の整備において総指揮官として辣腕を振るい、文字通りゼロから尾張藩の基礎を築き上げた 11 。
輝かしい経歴を重ねる一方で、親吉には一つの悩みがあった。彼には実子がいなかったのである。戦国時代から江戸初期にかけて、家の存続は武士にとって至上の命題であった。親吉ほどの功臣の家系が途絶えることを惜しんだ家康は、慶長4年(1599年)、異例の措置をとる。自らの八男である松平仙千代(まつちよ、または仙千代)を、親吉の養嗣子として与えたのである 3 。主君の実子を養子に迎えることは、家臣にとってこれ以上ない栄誉であり、家康が親吉に寄せていた信頼の深さを物語る唯一無二の事例であった。
しかし、運命はまたも親吉に過酷な試練を与える。最愛の養子・仙千代は、翌慶長5年(1600年)にわずか5歳で夭折してしまった 3 。信康に続き、再び育てていた若君を失った親吉の悲しみは察するに余りある。そして、この悲劇の後、親吉は新たな養子を迎えることをきっぱりと断った 4 。これは、一度主君の子を後継ぎとして迎えた以上、もはや他の者を立てることはできないという彼の固い忠義心の表れか、あるいは二人の若君を失った深い失意の表れであったとも解釈できる。この決断により、大名家としての平岩家は、親吉一代で断絶することが運命づけられた。
慶長16年12月30日(西暦1612年2月1日)、親吉は名古屋城の二の丸御殿にて、その70年の生涯に幕を閉じた 8 。一説には、最期の時が迫ると「主君である義直公の城で息絶えるのはあまりに畏れ多い」と述べ、病の身を押して城下の家臣の邸に移ってから亡くなったと伝えられており、最期まで主君への配慮を忘れなかった彼の性格が偲ばれる 3 。
彼の死に際して残された遺言は、その生涯を貫いた「私心なき忠誠」の集大成であった。親吉は、犬山城主として与えられた12万石を超える広大な所領と財産の全てを、主君である徳川義直に返上するよう命じたのである 8 。自らの「家」の存続という私的な願望よりも、育て上げた義直が率いる尾張徳川家の安泰と繁栄という「公」を、彼は最後の最後まで優先した。この遺領の返上によって尾張藩の財政基盤はより強固なものとなり、彼の遺臣たちの多くは義直の直臣として召し抱えられ、尾張藩の中核を担っていくことになった 8 。
親吉の死後、その菩提を弔うために名古屋に平田院が建立された 13 。彼の墓所は現在、名古屋市千種区の平和公園内にある平田院墓域に静かに眠っている 30 。
平岩親吉の70年の生涯は、徳川家康のそれとほぼ完全に重なり、まさに二人三脚の軌跡であった。人質というどん底の時代から始まり、三河統一の苦難、領土拡大の興奮、そして天下泰平の礎を築く幕府創設期まで、徳川家が歩んだ全てのステージにおいて、親吉は常に家康の傍らにあり、その時々に必要とされる役割を完璧に果たし続けた。彼は戦場の勇士であり、有能な為政者であり、そして慈愛深い教育者でもあった。
彼の全ての行動を貫く原理は、一貫して「私心なき忠誠」であった。その人柄を象徴する逸話は数多く残されている。伏見城の築城祝いの際に豊臣秀吉から内密に贈られた黄金を、「主君から禄を頂いている身で、これ以上賜る理由はない」と固辞した話 8 。また、自らの弟が若き日の榊原康政と諍いを起こした際には、才能ある康政の将来を重んじ、「人に斬られる程度の我が弟は役に立たぬ無駄飯食いである」として弟を処罰し、康政を擁護したという話 10 。これらの逸話は、彼が単なる人の良い温厚な人物なのではなく、常に「徳川家にとって何が最善か」という理性的で強固な信念に基づき、私情や身内の情実を排して行動していたことを示している。
信康事件における苦悩、水野信元誅殺という汚れ役の遂行、そして自家の断絶と引き換えに尾張藩の礎を固めた最後の決断。これら全てが、彼の忠誠の深さと純粋さを物語っている。徳川四天王のような華々しい武勇伝は少ないかもしれないが、平岩親吉の存在なくして、盤石な尾張徳川家の成立はなかったであろうし、徳川の天下はより不安定なものになっていたかもしれない。
彼の生涯は、徳川家康がいかに多様な人材を適材適所に配置し、個人の武勇に頼る集団から、永続性のある巨大な統治機構を築き上げたかを示す、最良の事例である。平岩親吉は、徳川の天下を内側から、そして未来へと支え続けた、真の「功臣」であった。その私心なき生き様は、まさに「三河武士の鑑」として、後世に語り継がれるにふさわしい。
西暦 (和暦) |
年齢 |
主要な出来事・役職 |
関連地 |
典拠 |
1542 (天文11) |
1歳 |
三河国額田郡坂崎村にて誕生。父は平岩親重。 |
三河国坂崎村 |
8 |
1547 (天文16) |
6歳 |
徳川家康(竹千代)に同行し、織田氏の人質となる。 |
尾張国 |
9 |
1549 (天文18) |
8歳 |
家康と共に今川氏の人質として駿府へ移る。 |
駿府 |
9 |
1558 (永禄元) |
17歳 |
寺部城の戦いに参加し、初陣を飾る。 |
三河国寺部城 |
9 |
1560 (永禄3) |
19歳 |
桶狭間の戦いに参加。家康の今川氏からの独立に従う。 |
尾張国、三河国岡崎城 |
9 |
1563 (永禄6) |
22歳 |
三河一向一揆で家康方として戦う。 |
三河国 |
1 |
1567 (永禄10) |
26歳 |
家康の嫡男・松平信康の傅役に任命される。 |
三河国岡崎城 |
3 |
1570 (元亀元) |
29歳 |
姉川の戦いに参陣。 |
近江国 |
9 |
1573 (天正元) |
32歳 |
三方ヶ原の戦いに参陣。 |
遠江国 |
9 |
1575 (天正3) |
34歳 |
長篠の戦いに参陣。 |
三河国長篠 |
9 |
1576 (天正4) |
35歳 |
家康の命で水野信元を誅殺。 |
三河国大樹寺 |
8 |
1579 (天正7) |
38歳 |
松平信康が自刃。責任を感じて蟄居するも、後に復帰。 |
遠江国二俣城 |
8 |
1583 (天正11) |
42歳 |
甲斐国郡代に就任。甲府城の築城を開始。 |
甲斐国甲府 |
8 |
1585 (天正13) |
44歳 |
第一次上田合戦に参陣。 |
信濃国上田城 |
9 |
1590 (天正18) |
49歳 |
小田原征伐で戦功。上野国厩橋城主(3万3千石)となる。 |
上野国厩橋城 |
3 |
1594 (文禄3) |
53歳 |
家康の八男・仙千代を養子に迎える。 |
- |
3 |
1599 (慶長4) |
58歳 |
養子の仙千代(松千代)が夭折。 |
- |
6 |
1601 (慶長6) |
60歳 |
甲斐国甲府城主(6万3千石)となる。 |
甲斐国甲府城 |
9 |
1603 (慶長8) |
62歳 |
家康の九男・徳川義直の傅役(後見人)となる。 |
甲斐国甲府城 |
3 |
1607 (慶長12) |
66歳 |
義直の尾張移封に伴い、犬山城主(12万3千石)となる。 |
尾張国犬山城 |
3 |
1611 (慶長16) |
70歳 |
12月30日、名古屋城にて死去。 |
尾張国名古屋城 |
8 |