平戸ポルロは肥前の宣教師とされるが、史料上実在しない。ヤジロウの平戸での活動と、パウロ三木の殉教、長崎のサントス堂の記憶が融合した集合的記憶の産物。平戸のキリシタン史は栄光と受難の歴史。
本報告書は、日本の戦国時代における「平戸ポルロ」という人物に関する詳細かつ徹底的な調査を目的として提出された依頼に応えるものである。依頼者が提示した「肥前の宣教師」「サントス堂」「受洗大名・大村純忠、有馬晴信」といったキーワードは、16世紀半ばから17世紀初頭にかけての肥前国(現在の長崎県および佐賀県の一部)におけるキリスト教の栄枯盛衰を象徴する、重要な歴史的要素を含んでいる。
しかしながら、ルイス・フロイスの『日本史』をはじめとするイエズス会関係の一次史料や、関連する学術研究を網羅的に調査した結果、「平戸ポルロ」という固有名詞を持つ宣教師、あるいはそれに類する人物が歴史上に実在したという記録は、現在のところ確認できない。この事実は、本調査が単一の人物の伝記を追跡する作業ではなく、より複雑な歴史的記憶の構造を解き明かす試みであることを示唆している。
したがって、本報告書は「平戸ポルロ」という人物が実在しなかったという前提に立ち、その名称がいかなる歴史的事実や人物像の複合によって形成されたのかを解明する、一種の「歴史的謎解き」のアプローチを採用する。具体的には、以下の三つの柱に沿って論考を進める。第一に、物語の舞台となった肥前平戸の歴史的文脈、特に南蛮貿易とキリスト教受容の関係性を深く掘り下げる。第二に、「ポルロ」という名称の言語学的・歴史的分析を行い、その洗礼名を帯びた可能性のある複数の人物を特定し、その生涯と活動を検証する。第三に、依頼者が持つイメージの断片(サントス堂、キリシタン大名など)が、平戸の歴史とどのように結びつき、あるいは混同されたのかを分析する。
この「平戸ポルロ」という謎は、単なる個人の記憶違いという表層的な問題に留まらない。それは、戦国期キリシタン史における平戸と長崎の地理的・歴史的な関係性、宣教師と日本人信徒が果たした多様な役割、そして「パウロ」という洗礼名が持つ象徴性といった、複数の歴史的レイヤーが複雑に絡み合った、重層的な文化的記憶の表れである可能性を秘めている。本報告書は、この謎を解き明かす過程を通じて、戦国日本のキリスト教受容のダイナミックな実像に、より深く迫ることを目指すものである。
「平戸ポルロ」の物語が展開する舞台、すなわち肥前国平戸は、日本のキリスト教史において極めて重要な位置を占める。なぜこの地が布教の最初の重要拠点となり、そしてその地位はどのように変化していったのか。その歴史的背景を詳細に描写することは、謎を解くための第一歩となる。
平戸におけるキリスト教の歴史は、1550年(天文19年)、イエズス会創設者の一人である聖フランシスコ・ザビエルが、コスメ・デ・トーレス神父、イルマン(修道士)のファン・フェルナンデスらを伴ってこの地を訪れたことに始まる 1 。鹿児島での布教の後、ザビエル一行は平戸に来航し、これが肥前におけるキリスト教布教の歴史的な起点となった 3 。
一行は、在地武士であった「木村」という人物の屋敷に滞在したと記録されている 1 。そして、当時の平戸領主であった松浦隆信(道可)から布教の許可を得て、活動を開始した 4 。このザビエルを宿主として迎え入れた木村一族の信仰は篤く、その孫の代からは、後に日本二十六聖人の一人として殉教するレオナルド木村や、日本初の邦人司祭となるセバスチャン木村といった重要な人物が輩出されており、平戸における初期信仰の揺り籠となったことが窺える 6 。
ザビエルが平戸を布教地として選んだ背景には、当時すでに来航が始まっていたポルトガル船との南蛮貿易がもたらす経済的利益に対する、領主・松浦隆信の強い期待があった 7 。このように、平戸におけるキリスト教の受容は、その黎明期から経済的動機と不可分に結びついていたのである。
平戸領主・松浦隆信のキリスト教に対する態度は、複雑かつ二面的なものであった。彼は、南蛮貿易がもたらす富を藩の財源とするため、宣教師の滞在やポルトガル船の入港を歓迎した 7 。しかし、彼自身が洗礼を受けることは生涯なく、また領内に古くから存在する寺社も同様に保護し続けた 5 。
この松浦氏の姿勢は、平戸に隣接する大村領の領主・大村純忠のそれとは明確な対照をなす。大村純忠は日本初のキリシタン大名として知られ、自ら洗礼を受けただけでなく、領地の一部をイエズス会に寄進し、領民にも積極的に改宗を促した 8 。有馬晴信もまた、有力なキリシタン大名の一人であった。依頼者の記憶にある「受洗する大名も多かった」という事実は、主にこの大村や有馬の状況を指しており、平戸自体の歴史とは厳密には区別されるべきものである。
平戸のキリシタン史は、領主が信仰の受容と世俗的な実利の間で常にバランスを取ろうとする、いわば「グレーゾーン」の中で展開したという顕著な特徴を持つ。この領主のアンビバレントな政策が、後の宣教師との軋轢や、キリシタン共同体と在地仏教勢力との間の緊張関係を生む伏線となっていく。平戸が、後の長崎のような純然たるキリシタンの町へと発展しなかった根本的な原因は、この領主の姿勢に求めることができる。
松浦氏と宣教師との間に潜在していた緊張関係は、1561年(永禄4年)に「宮ノ前事件」として表面化する。この事件は、平戸港の宮ノ前(七郎宮のそば)にあった露店で、ポルトガル商人と日本の商人との間の絹糸取引をめぐる些細な口論から始まった 9 。
口論は殴り合いの乱闘へと発展し、仲裁に入った日本の武士を、ポルトガル側が敵の助太刀と誤解。船に戻って武装し、町人や武士団を襲撃するという大規模な騒乱となった 9 。この結果、ポルトガル船の船長フェルナン・デ・ソウサ以下14名が死傷し、ポルトガル船は平戸港から脱出する事態に至った 10 。
この事件は、平戸の歴史における一つの大きな転換点となった。事件をきっかけに松浦氏と宣教師の関係は急速に悪化し、当時平戸で布教活動をしていたガスパル・ヴィレラ神父は一時追放の憂き目に遭う 9 。そしてより重要なことは、安全かつ安定した貿易港を求めたポルトガル人が、キリスト教に対してより好意的な大村純忠を頼り、その拠点を大村領の横瀬浦(現在の長崎県西海市)へと移したことである 12 。これは、南蛮貿易とキリスト教布教の中心地が、平戸から、後の長崎開港へと繋がる大村領へと決定的にシフトする歴史的瞬間であった。平戸は「始まりの地」ではあったが、その中心地としての地位は、この事件を境に比較的短期間で失うことになったのである。
ザビエルの来航後、平戸の港町には「天門寺」と呼ばれる教会堂が建てられた記録が残っている 14 。ザビエルが日本を去った後は、コスメ・デ・トーレスがこの教会の最初の主任司祭を務めた 2 。しかし、この教会も宮ノ前事件後の混乱の中で破壊された可能性が示唆されている 16 。
一方で、依頼者が言及する「サントス堂」という名称の教会が、平戸に存在したという史料は見当たらない。この謎を解く鍵は、平戸から長崎へと視点を移すことにある。1569年(永禄12年)、大村純忠の許可を得て長崎に創建されたイエズス会の教会は、ポルトガル語で「諸聖人の教会」を意味する「トードス・オス・サントス教会」と名付けられていた 1 。この教会はガスパル・ヴィレラ神父によって建てられ、後にはセミナリヨ(小神学校)やコレジヨ(大学)も併設されるなど、名実ともに長崎におけるキリスト教の中心施設として発展した 17 。
以上の点から、依頼者の記憶にある「サントス堂」とは、この長崎の「トードス・オス・サントス教会」である可能性が極めて高いと結論付けられる。平戸で活動した宣教師のイメージと、同じ肥前国の中心都市であった長崎の代表的な教会の名前が、「肥前キリシタン史」という大きな枠組みの中で結びつき、一つの文化的記憶として形成されたものと推測されるのである。
謎の核心である「ポルロ」という名称を分析し、その正体として考えられる複数の候補者をプロファイリングする。それぞれの人物が、依頼者の持つ「肥前の宣教師」というイメージとどの程度合致するのかを徹底的に比較検討することで、「平戸ポルロ」の正体に迫る。
「ポルロ」という音韻は、ポルトガル語の男性名「Paulo」の当時の日本語音写に由来するものと考えられる。史料によれば、「Paulo」は「ポオロ」または「ポウロ」と表記されており 19 、「ポルロ」はこれらの音が伝聞の過程でわずかに変化した形と見るのが自然である。特に、後述する日本二十六聖人の一人であるパウロ三木が、当時の記録で「三木ポオロ」と明確に記されていることは、この推論を強力に裏付けるものである 19 。
聖パウロは、イエスの死後、その教えを地中海世界の異邦人に広めた最大の伝道者であり、「異邦人の使徒」と称される。彼の劇的な回心と不屈の宣教活動は、キリスト教の歴史において普遍的な模範とされてきた。そのため、故郷を離れ、異文化圏での布教に生涯を捧げることを志す宣教師や、熱心な信徒が、その偉大な先達にあやかり「パウロ」という洗礼名を戴くことは極めて一般的であった 21 。戦国時代の日本においても、宣教師のみならず、多くのキリシタン大名や武士がこの名を選んでおり、「パウロ」は当時のキリシタン社会において特別な響きを持つ、象徴的な洗礼名だったのである 22 。
「パウロ」という洗礼名を持ち、かつ「平戸」や「肥前の宣教師」というキーワードと関連しうる人物は、歴史上複数存在する。ここでは主要な候補者を挙げ、その人物像を検証する。
戦国時代には、土佐の元国主・一条兼定(ドン・パウロ)、豊後の勇将・志賀親次(ドン=パウロ)、織田信長の孫・織田秀則(パウロ)など、「パウロ」を洗礼名とする武将が多数存在した 22 。これは、聖パウロが持つ「戦う伝道者」としてのイメージが、武士たちの気風と共鳴した結果かもしれない。しかし、これらの人物は「宣教師」ではなく、また平戸を主たる活動拠点としていないため、「平戸ポルロ」の直接のモデルである可能性は低いと言える。だが、この事実は、「パウロ」という名前が当時のキリシタン社会においていかに重要で、広く受容されていたかを示す有力な傍証となる。
本節の結論を明確にするため、各候補者の特徴を以下の表にまとめる。
洗礼名・日本名 |
活動時期 |
主な活動地 |
平戸との関連 |
「宣教師」像との関連 |
「ポルロ」との音韻的関連 |
総合評価 |
パウロ・デ・サンタ・フェ(ヤジロウ) |
1540年代後半- |
鹿児島、平戸、山口 |
非常に強い (ザビエルと共に滞在) 6 |
中 (宣教師の協力者、布教の立役者) |
中 (パウロ) |
地理的要素のモデルとして有力 |
パウロ三木 |
1580年代-1597年 |
畿内、長崎 |
間接的に強い (肥前・長崎で殉教) 20 |
強い (助修士として布教、殉教者として象徴的存在) |
非常に強い (「ポオロ」と呼ばれた) 19 |
名称と殉教者イメージのモデルとして最有力 |
ドン・パウロ(一条兼定など) |
戦国時代後期 |
土佐、豊後など |
弱い |
弱い (キリシタン大名・武将) |
中 (パウロ) |
直接のモデルの可能性は低い |
この比較検討から、単一の人物が「平戸ポルロ」のモデルとなったのではなく、ヤジロウが持つ「平戸」という地理的記憶と、パウロ三木が持つ「ポオロ(ポルロ)」という名前および「肥前での殉教者」という役割の記憶が、分かちがたく結びついた可能性が強く示唆される。
平戸におけるキリスト教の歴史は、ザビエル来航に始まる栄光の時代だけではない。「肥前の宣教師」という言葉が持つイメージには、輝かしい開拓者の姿と共に、迫害と殉教の悲劇性が色濃く刻まれている。その過酷な運命を追うことは、歴史の記憶が持つ多層的な意味合いを理解するために不可欠である。
平戸藩のキリシタン共同体において、精神的・物理的な支柱となっていたのが、藩主・松浦氏の縁戚でもあった籠手田(こてだ)一族であった。彼らは熱心なキリシタンとなり、自らの所領であった平戸島西部の春日集落や、隣接する生月(いきつき)島において、宣教師を庇護し、教会の活動を支えた 25 。ガスパル・ヴィレラ神父やロレンソ了斎といった宣教者たちは、籠手田氏の知行地で特に熱心に活動し、多くの武士や領民が洗礼を受けた 25 。領主である松浦氏の政策が信仰と実利の間で揺れ動く中、籠手田氏の存在は、平戸地方のキリシタンにとって最後の砦ともいえるものであった。
しかし、1587年(天正15年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を発布すると、藩内の空気は一変する。当初、キリスト教に比較的寛容であった松浦隆信(道可)が1599年(慶長4年)に亡くなると、後を継いだ息子の松浦鎮信(法印)は、藩の安定を優先し、キリスト教の禁教へと大きく舵を切った 14 。そしてその政策の最初の標的となったのが、藩内最大のキリシタン勢力であった籠手田一族であった。鎮信は籠手田氏に棄教を迫り、これを拒んだ一族約600名を所領から追放し、長崎へと追いやったのである 26 。
この「籠手田氏追放事件」は、平戸のキリシタン史における決定的な転換点であった。強力な庇護者を失った信者たちは、これ以降、藩による直接的かつ組織的な弾圧の波に晒されることになり、平戸は栄光の時代から長く厳しい受難の時代へと、その様相を大きく変えていく。
1614年(慶長19年)、徳川幕府は全国にキリスト教禁教令を発布し、全ての宣教師に国外退去を命じた。しかし、多くの宣教師はそれに屈することなく、死を覚悟で日本へ密かに再潜入し、潜伏する信者たちを励まし、布教を続けた。イタリア・カラブリア出身のイエズス会士、カミロ・コンスタンツォ神父もその一人であった 29 。
一度マカオへ追放されたコンスタンツォは、1621年に再び日本へ潜入。平戸や生月島、五島列島などで密かに活動していたが、翌1622年に宇久島で捕縛されてしまう 29 。彼は平戸に送られ、平戸城を対岸に望む田平の丘で、見せしめとして生きたまま火あぶりに処せられた。この処刑地は、その悲劇から「焼罪(やいざ)」と呼ばれるようになった 30 。コンスタンツォは炎の中でも祈りの言葉を唱え続けたと伝えられ、その殉教は平戸における弾圧の苛烈さを象徴する事件となった 32 。
さらに、悲劇は連鎖した。コンスタンツォ神父を匿い、その活動を助けた生月島の信者たちも次々と捕らえられ、彼らは沖合に浮かぶ無人島・中江ノ島へと連行され、斬首刑に処された 33 。このコンスタンツォ神父と彼を支えた信者たちの殉教は、「肥前の宣教師」という言葉に、ザビエルのような輝かしい開拓者だけでなく、死を恐れず信仰を貫いた殉教者の姿をも色濃く投影させることになった。
藩による宗門改めや絵踏みが厳格化するにつれ、平戸のキリシタンたちは、もはや公に信仰を表明することが不可能となった。彼らは生き延びるために、表向きは仏教徒や神社の氏子として振る舞いながら、その信仰を心の奥深く、そして共同体の内部に秘匿する「潜伏キリシタン」としての道を歩み始める 26 。
250年にも及ぶ禁教の時代、彼らは驚くべき工夫と忍耐をもって信仰を継承した。例えば、家の奥の間や納戸に「納戸神」と呼ばれる祭壇を設け、代々伝わるマリア観音やロザリオ、メダイといった聖具を隠して祀るという信仰形態が生まれた 26 。また、コンスタンツォが殉教した「焼罪」や、信者たちが処刑された「中江ノ島」、あるいは古来の山岳信仰と結びついた「安満岳」といった場所を聖地として崇拝し、そこから汲んだ水を聖水として洗礼に用いるなど、キリスト教の教義と日本の土着的な信仰が融合した、世界にも類を見ない独特の信仰文化を育んだ 26 。
この潜伏の伝統は、明治時代に信教の自由が認められた後も、カトリック教会に復帰することなく、先祖伝来の独自の信仰形態を続ける「かくれキリシタン」として、平戸や生月島の一部で現代まで継承されている 35 。平戸の春日集落や聖地・中江ノ島は、この類稀な信仰の伝統を物語るものとして、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の重要な構成資産にも認定されている 37 。戦国時代から江戸初期にかけての平戸のキリシタン史は、単に過去の出来事として終結したのではなく、現代にまで繋がる生きた歴史として、その重層的な姿を我々に見せているのである。
本報告書における多角的な検証の結果、「平戸ポルロ」という名の単一の歴史的人物は、史料上存在しないことが確実となった。この名称は、特定の個人を指すものではなく、戦国時代から江戸時代初期にかけての肥前キリシタン史における複数の傑出した人物像や象徴的な出来事が、長い年月を経て人々の記憶の中で分かちがたく融合し、再構築された**「集合的記憶の産物」**であると結論付けるのが最も妥当である。
「平戸ポルロ」という幻の人物像は、主に以下の四つの歴史的要素から構成されていると考えられる。
したがって、「平戸ポルロ」とは、 「パウロ三木の名前」と「ヤジロウや他の宣教師たちが活動した平戸という場所」 、そして**「長崎の教会の記憶」**などが三位一体となって形成された、歴史の記憶が紡ぎ出した幻の人物像であると言える。依頼者が抱いていた一つの謎を解き明かすための調査は、結果として、特定の個人の伝記を超え、戦国時代の肥前におけるキリスト教の、栄光と悲劇が交錯する複雑でダイナミックな歴史そのものを浮き彫りにする旅となったのである。