最終更新日 2025-06-27

平盛長

「平盛長」の画像

戦国武将・平盛長(芳知)の生涯と実像 ― 畠山家臣から豊臣政権下の国人、そして高野山へ

序章:平盛長とは誰か

人物の特定と本報告書の視座

本報告書が対象とするのは、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて、大和国(現在の奈良県)を拠点に活動した武将、 平芳知(たいら よしとも)である。彼は通称を三郎左衛門尉(さぶろうさえもんのじょう)と称し、諱(いみな)としては盛長(もりなが) 、あるいは知茂(ともしげ)の名も伝わっている 1 。本稿では、史料上の表記の多様性を踏まえつつ、ユーザーの照会に基づき、主に「平盛長(芳知)」として言及を進める。

歴史を紐解く上で、同名異人の存在はしばしば研究者を悩ませるが、「もりなが」という名もその例外ではない。本報告書の主題である戦国期の平盛長(芳知)を正確に理解するためには、まず歴史上著名な他の「もりなが」と明確に区別する必要がある。

第一に、鎌倉時代初期に活躍した**安達盛長(あだち もりなが)**が挙げられる。彼は源頼朝の流人時代から側近として仕え、鎌倉幕府成立後は十三人の合議制の一員に名を連ねた有力御家人である 2 。藤原氏をルーツに持つ安達氏は、本報告書の平盛長(芳知)とは時代も出自も全く異なる。

第二に、平安時代末期の平家方の武将、**平盛嗣(たいら の もりつぐ)**の子に「盛長」という人物が見られる 5 。しかし、これもまた時代が大きく隔たっており、本稿の対象人物とは直接的な関係はない。

これらの混同を排した上で、本報告書は、戦国時代の動乱を生き抜いた一人の在地領主、すなわち国人としての平盛長(芳知)の生涯を、断片的に残された史料から丹念に再構築することを目的とする。彼の人生は、河内・紀伊守護であった畠山氏の被官として始まった。しかし、主家の衰亡と滅亡という激震を経て、織田信長、そして豊臣秀吉・秀次という新たな天下人に仕える道を選ぶ。その過程は、まさしく旧来の守護大名体制が崩壊し、強力な中央集権体制へと移行していく時代の縮図であった。

本報告書では、畠山家臣としての出自と大和国宇智郡における彼の立場、主家滅亡後に織田・豊臣という巨大権力へ臣従していく過程、そして最後の主君である関白豊臣秀次の悲劇的な最期に伴い、彼がたどった高野山への隠棲という結末までを時系列に沿って詳細に追う。これにより、戦国乱世における一国人領主の巧みかつ苦渋に満ちた生存戦略と、その実像に深く迫ることを目指す。

主要関連人物相関表の提示

平盛長(芳知)の生涯を理解する上で、彼を取り巻く主要な人物や勢力との関係性を把握することは不可欠である。以下の表は、本報告書で頻出するキーパーソンと盛長との関係を概観し、読者の理解を助けるために提示するものである。彼の行動原理は、これらの複雑に絡み合った人間関係と勢力図の中で形成されていった。

人物・勢力名

立場・役職

盛長(芳知)との関係

畠山高政・秋高

河内・紀伊守護

旧主君。盛長は畠山氏の奉行人として仕えた。秋高の代に主家は滅亡する 1

遊佐信教

畠山氏守護代

主君・秋高を弑逆した下剋上の人物。盛長にとっては主家の仇敵であり、織田信長に降る直接的な原因となった 6

織田信長

天下人

主家滅亡後に仕えた新たな主君。宇智郡の支配権をめぐり、盛長の訴えを一度は認めるも、後に覆すなど、その関係は複雑であった 1

高野山金剛峯寺

宗教勢力

盛長の本拠地・宇智郡の支配権をめぐり、長年にわたり対立した。信長の高野攻めでは、盛長は信長方として戦った 1

羽柴(豊臣)秀吉

天下人

信長亡き後の天下人。盛長は秀吉に仕え、その支配体制に組み込まれていった 1

豊臣秀次

関白・秀吉の養子

盛長が最後に仕えた主君。秀吉との関係悪化により切腹に追い込まれ、盛長の運命にも決定的な影響を与えた 1

三箇頼照

河内のキリシタン武将

盛長の妻の兄、すなわち義理の兄弟にあたる。この姻戚関係は、盛長の畿内における人脈の基盤となっていた可能性がある 1

第一部:畠山家臣としての平氏

第一章:大和国宇智郡の在地領主

平盛長(芳知)の出自を理解するためには、まず彼の一族が根を下ろした大和国宇智郡(現在の奈良県五條市周辺)と、その主家であった畠山氏との関係から見ていく必要がある。平氏は、室町時代を通じて河内・紀伊の守護職を世襲した名門、畠山氏の家臣団に名を連ねる一族であった。単なる一兵卒ではなく、主家の統治機構において「小守護代」や「奉行人」といった重要な行政職を担う家柄であり、その地位は決して低いものではなかった 1

盛長(芳知)の時代、平氏の具体的な活動拠点となっていたのが大和国宇智郡である。大和国は守護不設置の国として知られ、興福寺などの寺社勢力が強い影響力を持っていたが、宇智郡は地理的に河内・紀伊と接することから、守護である畠山氏が直接的な支配を及ぼしていた地域であった 10 。その中で平氏は、郡全体の行政を代行する「郡代的立場」にあったと推測されており、在地における有力な領主、すなわち国人としての地位を確立していた 1

盛長(芳知)個人が歴史の表舞台に登場するのは、天文16年(1547年)頃のことである。それまで「平三郎左衛門尉」を名乗っていた一族の平盛知(もりとも)が、畠山氏の重臣であった丹下氏の名跡を継いで「丹下備中守盛知」と改名したのを機に、芳知が新たに「平三郎左衛門尉」を称するようになった 1 。この「三郎左衛門尉」という名乗りは、単なる通称ではなく、宇智郡平氏の惣領格、あるいは地域を代表する者としての公的な地位を示すものであったと考えられる。

その影響力を如実に示すのが、弘治4年(1558年)2月に結成された「宇智郡国人一揆」における彼の役割である。この時期、宇智郡の国人衆が団結して作成した連判状(誓約書)には、盟主として「平殿」の名が記されており、これが盛長(芳知)を指すことは間違いない 1 。一揆とは、血縁や地縁に基づき、共通の目的のために結ばれた武士たちの同盟組織である。その盟主に推戴されたという事実は、盛長が単に主家である畠山氏の権威を背景とするだけでなく、彼自身の指導力と人望によって、周辺の国人衆から「第一人者」として認められていたことを雄弁に物語っている。彼の権力基盤は、主家からの下賜だけでなく、在地社会に深く根差したものであった。この自立性こそが、後に主家が滅亡するという未曾有の危機に際して、彼が生き残るための重要な礎となったのである。

第二章:「平一揆」の伝説と実態

平盛長(芳知)の出自について、ユーザーが提示した情報には「鎌倉時代に活躍した平一揆の首領の末裔」という伝承が含まれている。この「平一揆」という言葉は、盛長の人物像を考察する上で極めて重要なキーワードであるが、その実態は慎重に検証する必要がある。

歴史上、「平一揆」として最も著名なのは、南北朝時代に関東で名を馳せた「武蔵平一揆」である 13 。これは、桓武平氏の流れを汲む秩父氏一族を中心に、武蔵国・相模国などの平姓武士団が血縁を軸に結集した強力な国人一揆であった 14 。しかし、この一揆が活動したのは14世紀の関東地方であり、16世紀に畿内の大和国で活動した盛長(芳知)との間に、直接的な血縁関係や組織的な連続性を証明する確かな史料は存在しない。戦国時代の武将が、自らの家格や武威を高めるために、過去の著名な武士や武士団に系譜を繋げることは珍しくなかった。盛長の家系にまつわるこの伝承も、そうした由緒の権威付けの一環として、後世に形成された可能性が極めて高い。

一方で、盛長(芳知)自身が「平一揆」を率いていたとする記述も存在する。それは、江戸時代に成立した軍記物語『後太平記』に見られる逸話である 16 。物語によれば、三好義継と松永久秀が畠山氏の居城である高屋城を攻めた際、城方であった「平三郎左衛門尉盛長」が、わずか「平一揆五〇余騎」を率いて出撃し、三好方が築いた3000の兵が守る付城(攻城用の砦)を奇襲によって奪取したという 1 。この記述は、盛長の武勇を讃えるものであり、『後太平記』は、この「平一揆」を、かの有名な楠木正成の一族であるとし、その圧倒的な強さは正成が信仰した愛染明王の加護によるものだと神秘的に語っている。さらに、わずか50余騎の軍勢が、敵には「億万騎」に見えたという、軍記物特有の誇張表現も用いられている 1

この逸話は、盛長(芳知)の武名を後世に伝える上で大きな役割を果たしたが、史料として扱うには注意を要する。『後太平記』は文学的脚色を多く含むため、その記述を鵜呑みにすることはできない。実際、より信頼性の高い史料とされる『信長公記』の記述から、この逸話の元となった出来事は、高屋城攻防戦ではなく、元亀3年(1572年)に交野城(かたのじょう)をめぐる戦いの中で起きた出来事であった可能性が指摘されている 1

では、盛長(芳知)と「平一揆」の関係をどう理解すべきか。これは二重の機能を持っていたと解釈できる。第一に、彼が実際に率いていたのは、宇智郡の平氏一族とその郎党からなる、小規模ながらも精強な私的武力集団、すなわち彼自身の「一揆(=手勢)」であった。第二に、その手勢に、歴史的に名高い「平一揆」の名を冠することで、彼は自らの軍団を一種の「ブランド化」していたのである。これは、単なる自称にとどまらず、敵に対する心理的な威圧効果と、自らの武威を内外に喧伝するための巧みな自己演出であった。かつての偉大な武士団の末裔であるという伝説と、自ら率いる「平一揆」の奇跡的な勝利の物語は、「在地領主・平盛長」という強力なアイデンティティを構築するための、表裏一体の戦略であったと言えよう。

平盛長(芳知)関連年表

西暦

和暦

盛長(芳知)の動向

関連する出来事

主要関連人物

典拠

c. 1547

天文16年

一族の平盛知に代わり、「平三郎左衛門尉」を称する。

畠山尾州家内部での権力構造の変化。

平盛知

1

1558

弘治4年

大和国宇智郡の国人一揆の盟主「平殿」として連判状に署名。

在地領主としての影響力を確立。

宇智郡国人衆

1

c. 1572

元亀3年

『後太平記』によれば、高屋城(一説に交野城)の戦いで「平一揆」を率いて三好方の付城を攻略。

畠山氏と三好氏・松永氏の抗争。

三好義継, 松永久秀

1

1573

元亀4年

主君・畠山秋高が守護代・遊佐信教に殺害される。主家が事実上滅亡。

織田信長と足利義昭の対立激化。

畠山秋高, 遊佐信教

6

1574

天正2年

織田信長に降伏し、その家臣となる。

信長による畿内平定の進展。

織田信長

1

1574-1580

天正2-8年

本拠地・宇智郡の支配権をめぐり高野山と対立。当初は信長に支配を認められるも、後に覆される。

信長の宗教勢力に対する政策の転換。

織田信長, 高野山

1

1581

天正9年

信長の高野攻めに織田方として参加。

信長と高野山の全面対決。

織田信長

1

1582

天正10年

本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉に仕える。

織田政権の崩壊と秀吉の台頭。

豊臣秀吉

1

1584

天正12年

小牧・長久手の戦いにおいて、高野山からの挙兵要請を拒否し、秀吉への忠誠を示す。

秀吉と家康・信雄の対決。

豊臣秀吉, 徳川家康

1

c. 1585-

天正13年-

豊臣秀次の家臣となる。

秀次が近江八幡城主となる。

豊臣秀次

1

1595

文禄4年

主君・秀次が秀吉から謀反の嫌疑をかけられ切腹(秀次事件)。

豊臣政権内部の権力闘争。

豊臣秀吉, 豊臣秀次

8

1595-

文禄4年-

秀次の死後、高野山に登り隠棲。以降の消息は不明。

秀次家臣団の粛清と解体。

-

1

第二部:激動の時代と主家の変転

第三章:主君・畠山秋高の最期

平盛長(芳知)が仕えた畠山尾州家は、足利将軍家の一門として室町幕府の管領を輩出した名門であったが、戦国時代に入るとその権威は大きく揺らいでいた。同族である畠山総州家との百年に及ぶ内紛(畠山氏の内訌)に加え、畿内において三好長慶をはじめとする新興勢力が台頭したことで、河内・紀伊における支配力は著しく低下していた 19

盛長が直接仕えた最後の主君は、畠山高政の弟である秋高であった。高政の代に三好長慶との戦いに敗れて河内を追われるなど、すでに畠山氏は存亡の危機に瀕していた 6 。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、秋高は信長に協力することで河内半国の支配を安堵され、高屋城への復帰を果たしたが、その支配基盤は極めて脆弱なものであった 6

この不安定な状況に終止符を打ったのが、主家に対する守護代・遊佐信教の下剋上であった。元亀4年(1573年)6月、信教は主君である畠山秋高を殺害するという暴挙に出る 1 。この事件の背景には、当時顕在化していた織田信長と将軍・足利義昭の対立があった。信教は義昭方に与し、信長と敵対する三好一族の三好康長を高屋城に迎え入れたのである 7

この主君殺害は、盛長の生涯における最大の転換点であった。それは単なる主君の交代ではなく、暴力的な簒奪であり、河内国の政治勢力図を根底から覆すものであった。殺害された秋高の家臣であった盛長は、新たな支配者となった遊佐信教とその同盟者である三好康長から見れば、旧体制の残党であり、粛清されるべき敵対勢力に他ならなかった。忠誠を誓うべき主家は、その家臣の手によって滅ぼされた。この瞬間、盛長は忠義を尽くす対象を失い、自らの命と一族の存続をかけた選択を迫られることになったのである。彼の選択肢は、簒奪者に滅ぼされるか、あるいはより強大な権力に庇護を求めて生き残るかの二つしかなかった。

第四章:織田信長への帰順

主君・畠山秋高が非業の死を遂げ、その仇である遊佐信教が河内の実権を握る中、平盛長(芳知)に残された道は限られていた。翌天正2年(1574年)末、彼は畿内における最大の実力者であった織田信長に降伏し、その家臣団に加わった 1 。これは、主家を失った多くの国人領主たちが、新たな秩序の中で生き残るために選択した現実的な道であった 23

しかし、信長への臣従は安泰を意味するものではなかった。盛長は早速、新たな試練に直面する。長年の本拠地であった大和国宇智郡の支配権をめぐり、隣接する強大な宗教勢力、高野山金剛峯寺との間で深刻な紛争が生じたのである。当初、盛長は信長に直接訴え出ることで、宇智郡の支配権を認めさせることに成功する 1 。これは、新たな主君が彼の旧来の権益を保障したことを意味し、臣従した国人に対する信長の一般的な方針に沿うものであった。

ところが、状況は天正8年(1580年)に一変する。信長は突如として方針を転換し、高野山に対して宇智郡の知行を安堵する朱印状を発給したのである 1 。これは盛長にとって、自らの本拠地を事実上没収されるに等しい、極めて厳しい裁定であった。この信長の決定の背後には、一個人の国人領主の利害よりも、高野山という巨大な宗教・軍事勢力との関係を優先する、天下統一に向けた大局的な戦略があった。

この一件は、信長政権下における国人領主の precarious(不安定)な立場を浮き彫りにしている。信長は保護者であると同時に、その壮大な構想のためには個々の家臣の利益を容赦なく切り捨てる冷徹な支配者でもあった。盛長のような中小領主は、中央権力者の気まぐれとも言える方針転換に常に翻弄される存在だったのである。

そして、この苦境はさらなる忠誠の試練へと繋がる。翌天正9年(1581年)、信長と高野山は全面的な対立状態に陥り、信長は大規模な軍勢を動員して「高野攻め」を開始する。この時、盛長は織田軍の一員として、かつて自らの領地を奪った高野山との戦いに参加した 1 。信長の命令に背くことは即座に滅亡を意味するため、彼に選択の余地はなかった。これは、自らの利害と主君の命令が矛盾する中で、生き残るために忠誠を示し続けなければならない国人領主の苦しい立場を象徴する出来事であった。彼は、信長という新たなパトロンに対して、自らの有用性を必死に証明しようとしていたのである。

第三部:豊臣政権下での道

第五章:秀吉、そして秀次へ

天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が横死すると、天下の覇権は目覚ましい速さで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の手に移っていった。この権力の移行期において、盛長(芳知)もまた、多くの畿内の国人領主たちと同様に秀吉に仕える道を選んだ 1

彼の秀吉への忠誠が試されたのが、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いである。この戦いで秀吉が徳川家康・織田信雄連合軍と対峙した際、家康と連携した高野山から、盛長のもとへ秀吉に反旗を翻すよう促す書状が送られた 1 。かつて信長の高野攻めに参加した盛長にとって、高野山は旧敵であったが、同時に地理的に近接する一大勢力でもあった。しかし、彼はこの誘いに応じず、秀吉への帰属を明確にした。これは、天下の趨勢が秀吉にあることを見極めた、彼の現実的な判断を示す行動であった。

その後、盛長は秀吉の養子であり、後継者として位置づけられていた豊臣秀次(当時は羽柴秀次)に配属されることになった 1 。天正13年(1585年)、秀次が近江八幡に43万石という広大な領地を与えられた際、秀吉は自らの信頼する重臣たち(田中吉政、中村一氏、堀尾吉晴など)を宿老(付家老)として秀次に付け、その統治を補佐させた 18 。盛長は、こうした秀吉譜代の宿老たちとは異なる出自を持つが、旧畠山家臣として畿内の地理や人脈に精通している点が評価され、秀次の家臣団に組み込まれたと考えられる。

尾張・美濃出身者が多い豊臣政権にとって、盛長のような畿内に深い根を持つ国人の存在は、在地支配を円滑に進める上で戦略的な価値があった。彼の価値は、単なる武将としての能力以上に、在地情報や人間関係のネットワークにあったのである。そのネットワークをさらに強化していたのが、彼の姻戚関係であった。

淡輪家所蔵の『三箇氏系図』によれば、盛長(芳知)の妻は、河内国三箇城主であった三箇頼照(さんが よりてる)の妹であったと記録されている 1 。三箇頼照は、洗礼名をサンチョといい、畿内における初期の有力なキリシタン武将として知られる人物である。彼は三好長慶、織田信長に仕え、畿内のキリシタンたちの庇護者として、宣教師たちの記録にもその名が頻繁に登場する 9 。この三箇氏との婚姻関係は、盛長に河内から大和にかけての国人社会における独自の政治的・社会的ネットワークをもたらした。天下人にとって、このような在地に根差したネットワークを持つ家臣は、地方統治と情報収集の両面で非常に有用な存在であった。盛長が、主家滅亡後も信長、秀吉、秀次と、三代の天下人に仕え続けることができた背景には、こうした彼の持つ在地性、すなわち地域に根差した専門家としての価値があったと推察される。

第六章:秀次事件と晩年

豊臣政権下で秀次の家臣として仕えた盛長(芳知)であったが、彼の武家としてのキャリアは、主君の悲劇的な運命によって突然の終焉を迎える。

文禄2年(1593年)、豊臣秀吉に待望の実子・秀頼が誕生すると、それまで後継者として関白の地位にあった養子・秀次との関係は急速に冷え込み、悪化していった 18 。そして文禄4年(1595年)7月、秀吉は秀次に対して謀反の嫌疑をかけ、関白の職を剥奪。弁明の機会も与えぬまま、高野山へ追放し、最終的に切腹を命じたのである 8 。この「秀次事件」は、豊臣政権を揺るがす一大政変であった。

秀次の死は、彼一人の悲劇では終わらなかった。秀吉による粛清は凄惨を極め、秀次の幼い子供たち(若君4名と姫君)をはじめ、正室、側室、侍女に至るまで三十数名が京都の三条河原に引き出され、次々と斬首された 8 。この中には、盛長の義理の兄弟である三箇頼照の縁者、和泉の国人・淡輪氏の娘(小督局)も含まれていた 8 。秀次の家臣団もまた壊滅的な打撃を受け、切腹を命じられる者、改易・所領没収となる者、追放される者が相次いだ。

この絶体絶命の状況下で、盛長(芳知)は一つの道を選ぶ。主君・秀次の死後、彼は高野山に登り、俗世を捨てて隠棲したと伝えられている 1 。生没年が不明であるため、これが史料上で確認できる彼の最後の消息となる。

盛長の高野山への「隠棲」は、単なる平穏な引退ではなかった。それは、粛清の嵐が吹き荒れる中での、必死の政治的逃避であったと解釈すべきである。「謀反人」とされた秀次の直臣であった以上、彼の命も風前の灯火であったことは想像に難くない。処刑を免れ、隠棲が許されたという事実は、彼が秀次の側近中の側近という中枢にいたわけではなかった可能性を示唆するが、いずれにせよ彼の武士としての政治生命は、この事件によって完全に絶たれた。

ここで注目すべきは、彼が逃避先に選んだのが、かつて織田信長のもとで領地を争い、戦火を交えた高野山であったという事実である。この皮肉な結末は、高野山が戦国時代において、単なる宗教施設ではなく、政治的な敗者が庇護を求める駆け込み寺、すなわち一種の聖域(アジール)としての機能を持っていたことを示している。高野山の高僧であった木食応其は、秀吉と深い関係を持ち、秀次が高野山へ追放された際の受け入れ役も務めていた 30 。盛長がこの聖域に身を寄せることができた背景には、こうした高野山の持つ特殊な政治的地位や、あるいは彼自身の長年にわたる在地領主としての何らかの繋がりがあったのかもしれない。宇智郡の領主として信長と戦い、天下人の家臣として中央政界に関わった彼の人生は、奇しくも再び地域の宗教勢力の懐に帰着することで、その幕を閉じたのである。

結論:乱世を生き抜いた国人領主の肖像

平盛長(芳知)の生涯を追うことは、戦国時代から安土桃山時代という、日本史上最もダイナミックな社会変動期を生きた一人の地方武士の姿を浮き彫りにする作業である。彼の人生は、守護大名という旧来の権威が崩壊し、織田・豊臣という新たな中央集権体制が確立されていく時代の、まさしく縮図であった。

彼は、大和国宇智郡という限定された地域に深く根を下ろした国人領主として、そのキャリアをスタートさせた。畠山氏の奉行人、そして地域武士団である国人一揆の盟主として、在地社会に確固たる基盤を築いていた。しかし、時代の奔流は、彼に安住を許さなかった。主家・畠山氏の滅亡は、彼に最初の大きな決断を迫り、彼は織田信長という新たな権力者への臣従を選択する。信長政権下では、高野山との領地紛争に翻弄され、一個人の国人領主の利害がいかに巨大な政治戦略の前に無力であるかを痛感させられた。

信長の死後、豊臣政権下で彼は生き残りの道を見出し、ついには天下人の後継者である豊臣秀次の家臣団に名を連ねる。しかし、その安寧も長くは続かなかった。最後の主君・秀次の悲劇的な末路は、彼の武士としての人生にも終止符を打った。高野山への隠棲という結末は、中央政界の苛烈さから逃れ、再び地域社会の庇護下へと回帰する、彼の人生の円環を象徴しているかのようである。

平盛長(芳知)は、信長や秀吉のような、歴史を動かした英雄ではない。彼の物語は、華々しい成功譚ではなく、むしろ激動の時代に翻弄されながらも、必死に生き残りを図った無数の地方武士たちの一例である。しかし、だからこそ彼の生涯は、我々に重要な視座を与えてくれる。主家滅亡後の巧みな処世術、在地領主としての権益を保持しようとする粘り強い試み、そして最終的な政治の舞台からの退場。これら一連の動向は、戦国から近世へと移行する時代の転換点において、地方の武士たちが中央の激動にいかにして適応し、あるいは飲み込まれていったかを示す、極めて貴重な歴史の証言である。平盛長(芳知)の人生は、壮大な天下統一の物語の陰で繰り広げられた、一人の国人領主のリアルな生存戦略と、そこに宿る悲哀を、現代の我々に静かに伝えている。

引用文献

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  2. 安達盛長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%9B%9B%E9%95%B7
  3. 安達盛長(あだちもりなが)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E9%81%94%E7%9B%9B%E9%95%B7-25782
  4. 安達盛長(あだちもりなが)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/70841/
  5. 平盛嗣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%9B%9B%E5%97%A3
  6. 畠山秋高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%A7%8B%E9%AB%98
  7. 戦国!室町時代・国巡り(7)河内編|影咲シオリ - note https://note.com/shiwori_game/n/n78a9cc8d3909
  8. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  9. 三箇頼照 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AE%87%E9%A0%BC%E7%85%A7
  10. 丹下盛知とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E7%9B%9B%E7%9F%A5
  11. 五條の歴史年表 https://www.city.gojo.lg.jp/soshiki/bunka/1_1/4/1962.html
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  17. 『太平記』参考文献・大全 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/sankou.html
  18. 豊臣秀次(トヨトミヒデツグ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1-19045
  19. 高屋城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/613/memo/4293.html
  20. 畠山氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E6%B0%8F
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  22. 遊佐 信教(ゆさ のぶのり) - 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/bishu-hatakeyama/yusa-nobunori/
  23. 【外様大名40家】(2)織豊政権期のパラダイム転換 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/04/28/112512
  24. 豊臣政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9
  25. 秀吉を支えた奉行たち 増田長盛と長束正家を中心に https://koka-kanko.org/wordpress/wp-content/uploads/2019/10/%E3%80%90%E5%85%AC%E9%96%8B%E7%89%88%E3%80%91%E7%A7%80%E5%90%89%E3%82%92%E6%94%AF%E3%81%88%E3%81%9F%E5%A5%89%E8%A1%8C%E3%81%9F%E3%81%A1.pdf
  26. 豊臣秀次と関わりが深い人々 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/hosa.htm
  27. キリシタン城址巡り 河内キリシタン編 その3|Werner W. - note https://note.com/lively_hare437/n/na91897a39bb7
  28. 大東市三住町あたりには、16世紀頃に教会があったと聞いたことがある。この教会について分かる資料はある... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000279927
  29. 豊臣秀頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
  30. 関 白 秀 次 失 脚 自 刃 事 件 と 木 食 応 其 上 人 - 奈良工業高等専門学校 https://www.nara-k.ac.jp/nnct-library/publication/pdf/h27kiyo7.pdf
  31. 豊臣秀吉の「人の殺し方」は狂気としか呼べない…秀吉が甥・秀次の妻子ら三十数名に行った5時間の仕打ち 結果として関ヶ原につながる家臣の分裂を招いた (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74863?page=3
  32. 淡輪重政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%A1%E8%BC%AA%E9%87%8D%E6%94%BF
  33. 木食応其 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%A3%9F%E5%BF%9C%E5%85%B6