天正11年(1583年)、豊臣秀吉の天下取りの行方を決定づけた賤ヶ岳の戦い。この合戦で武功を挙げた秀吉子飼いの若武者たちは、「賤ヶ岳の七本槍」としてその勇名を天下に轟かせた 1 。加藤清正、福島正則といった面々は、その後、数十万石を領する大大名へと駆け上がり、豊臣政権の武威を象徴する存在となった。しかし、同じ栄誉に浴しながら、彼らとは全く異なる道を歩んだ武将がいた。平野長泰、その人である。
長泰は、七本槍の中でも突出した武功を立てながら、その生涯を通じて得た知行はわずか五千石に留まり、大名の列に加わることはなかった 2 。この対照的なキャリアは、彼を歴史の舞台において「出世競争に乗り遅れた不遇の武将」という地味な役回りに押し込めがちである。しかし、その評価はあまりに一面的ではないだろうか。
本報告書は、この通説に根本的な再検討を試みるものである。平野長泰の出自から晩年に至るまでの生涯を、現存する史料や逸話に基づき丹念に追跡し、彼の選択と行動の背後にある論理を解き明かす。そこから見えてくるのは、単なる不遇の物語ではない。むしろ、戦国の乱世から徳川の泰平の世へと移行する時代の激しい奔流の中で、武士としての矜持を失うことなく、一族を安泰な未来へと導いた、極めて合理的かつ巧みな生存戦略である。彼の生涯は、激動の時代における「武士の矜持」と「家の存続」という二つの命題を巡る、深遠なケーススタディと言えよう。これは、「出世できなかった七本槍」ではなく、「最後まで生き残った七本槍」としての平野長泰の真価を再発見する試みである。
平野長泰という人物の複雑な性格と生涯を理解する上で、その出自は極めて重要な鍵を握る。彼の家系は、武門の系譜と公家の血脈が交差する、戦国期特有の流動性を象徴するものであった。
平野氏のルーツには、複数の説が伝えられている。一つは、鎌倉幕府の執権として権勢を誇った北条氏の庶流、横井氏のさらに分家にあたるというものである 4 。この説によれば、平野氏は桓武平氏の流れを汲む武門の家柄ということになる 4 。北条氏の家紋である「三つ鱗」を平野家が用いていることも、この説を補強する材料とされる 5 。
しかし、より直接的で重要視されるのが、長泰の父・平野長治が公家の舟橋家から養子として入ったという系譜である 4 。舟橋家は学問の家として知られ、本姓を清原氏という 9 。長治の実父は舟橋宣賢、あるいは業賢とされ、『清原系図』にもその名が記されているという 8 。つまり、長泰は血筋の上では北条氏(平氏)ではなく、公家である清原氏の末裔ということになる。戦国期の武家が、武力だけでなく、伝統的な文化的権威を取り込むことで家の格を高めようとした戦略的な動きが、この複雑な出自の背景には見て取れる。
平野長泰は永禄2年(1559年)、この平野長治の三男として、尾張国津島(現在の愛知県津島市)に生を受けた 4 。通称は権平(ごんべい)、初めは長勝と名乗った 4 。
彼の祖父にあたる養家の平野賢長(萬久入道)は、織田信長によって所領を失い、一時は加賀へ逃れたり、小田原の北条氏康に仕えたりと、流浪の生涯を送った人物であった 5 。このような不安定な家の来歴は、長泰が生きる時代の厳しさを物語っている。武士としてのアイデンティティと家の存続が常に脅かされる中で、彼は自己を形成していったのである。この武門(平氏北条流)の家に公家(清原氏舟橋家)の血が流れ込むというハイブリッドな背景は、彼の人物像に深く影響を与えたと考えられる。後年見られる彼の武勇と、茶の湯や和歌、能楽といった文化的素養の高さ 14 は、この「武」と「文」が融合した出自にその源流を求めることができるだろう。
天正7年(1579年)、21歳の長泰は、父・長治と同様に若くして羽柴秀吉に仕えることとなる 4 。彼が最初に就いた役職は、大将の側近にあって警護や伝令、さらには決戦兵力として機能するエリート部隊「馬廻衆」であったと伝えられている 8 。馬廻衆は単なる護衛ではなく、主君に近侍する吏僚的な役割も担う親衛隊であり、武芸に秀でた者だけが選抜される名誉ある職務であった 15 。このことは、長泰が仕官当初から秀吉の信頼を得て、その中核的な家臣団の一員と見なされていたことを明確に示している。彼は単なる叩き上げの兵卒ではなく、一定の家柄と文化的資本を背景に、秀吉政権の中枢に近い場所からそのキャリアをスタートさせたのである。
平野長泰の名を不朽のものとしたのが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。この戦いでの活躍は、彼に栄光をもたらすと同時に、その後の彼の武将としてのイメージを決定づける重要な転換点となった。
本能寺の変で織田信長が横死した後、その後継者の地位と織田家の実権を巡って、羽柴秀吉と筆頭家老の柴田勝家との対立は決定的となった 7 。両者は近江国賤ヶ岳で対峙し、天下の趨勢を決する一大決戦に臨んだ。この戦いは、単なる勢力争いではなく、秀吉が信長の築いた権力と体制を継承し、天下人への道を切り開く上で絶対に避けられない試練であった 17 。戦いは、両軍が多数の陣城を築いて睨み合う大規模な築城合戦の様相を呈した 18 。
戦局が大きく動いたのは、秀吉が大垣城へ向かった隙を突いて柴田方の佐久間盛政が奇襲をかけ、秀吉軍が「美濃大返し」と呼ばれる驚異的な速度で帰還した後の追撃戦であった 19 。この激戦の最中、平野長泰は秀吉の本陣近くに控える馬廻衆の一員として参陣していた 13 。
いざ追撃が始まると、長泰は弟の長重らと共に真っ先に敵陣へ突撃した 13 。後世の軍記物である『太平記英勇伝』などによれば、彼は柴田方の武将・佐久間政頼を追い詰め、また柴田家の旗奉行・小原新七と槍を交えるなど、獅子奮迅の働きを見せたという 13 。この戦いにおける彼の活躍は際立っており、「一番槍の巧名を顕した」と高く賞賛された 4 。
この戦いで特に目覚ましい働きを見せた福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、糟屋武則、そして平野長泰の7名は、後に「賤ヶ岳の七本槍」として称揚されることとなる 1 。この武功により、長泰は河内国において3,000石の知行と、秀吉直々の感状を与えられた 4 。
しかし、「七本槍」という呼称は、単なる戦功の記録以上の意味を持っていた。実際には、この戦いで感状を受けた武将は9名いたが、そのうち石川兵助と桜井佐吉の2名は秀吉の直臣ではなく、弟・秀長や養子・秀勝の家臣であったため、最終的に7名に絞られたという説がある 19 。これは、秀吉が自らの子飼いである直系家臣団の武功を意図的に、そして選択的に喧伝し、彼らを新たな支配体制の象徴として世に知らしめるための、高度な政治的プロパガンダであったことを強く示唆している。
長泰がこの「七本槍」というブランドの一員に選ばれたことは、彼が秀吉の中核家臣団に属していたことの紛れもない証左である。だが皮肉なことに、この輝かしい栄誉が、後の彼のキャリアに影を落とす一因ともなった。華々しく喧伝されたことで、七本槍のメンバーはその後の働きぶりを常に比較される運命を背負うことになった。他のメンバーが破格の出世を遂げる中で、長泰の「伸び悩み」はより一層際立って映り、後の不遇のイメージを決定づける遠因となったのである。栄光の始まりが、後の評価の分岐点でもあったのだ。
賤ヶ岳での華々しいデビューとは裏腹に、平野長泰の豊臣政権下でのキャリアは、他の七本槍のメンバー、特に武断派の筆頭と目される加藤清正や福島正則とは大きく異なる軌跡を辿った。彼の武功は決して劣るものではなかったが、その知行は五千石に留まり、ついに万石以上の大名となることはなかった。その背景には、彼の特異な性格と、秀吉との人間関係における根本的な「ミスマッチ」が存在した。
賤ヶ岳の後も、長泰は武将としての役割を果たし続けた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀次が敗走する苦しい戦況の中、敵陣に突進して首級を挙げる功績を立てている 4 。しかし、彼の武功が知行の大幅な増加に結びつくことはなかった。
文禄4年(1595年)、賤ヶ岳の戦いから12年後、その旧功が再び賞されるという形で二千石が加増され、大和国十市郡田原本(現在の奈良県田原本町)において合計五千石の知行を得た 4 。この時、秀吉から与えられた朱印状の感状は、田原本町の文化財として現存している 14 。しかし、この時点で福島正則は尾張清洲で24万石、加藤清正も肥後で約20万石の大名となっており、その差は歴然であった 23 。慶長3年(1597年)には豊臣姓を下賜され、従五位下遠江守に叙任されるなど 4 、一定の評価は受けていたものの、彼の出世は明らかに停滞していた。
長泰のキャリアが伸び悩んだ最大の要因は、能力不足ではなく、主君・秀吉との性格的な不一致、すなわち「相性」の問題にあったと伝えられている 3 。この点を如実に物語る逸話が残されている。
ある日、長泰の不遇を案じた友人の加藤嘉明が、秀吉の機嫌の良い時を見計らって長泰の処遇について尋ねた。すると秀吉は笑いながらこう答えたという。「なるほど、権平(長泰の通称)は、まだ五千石であったか。加増しない理由は特にないが、つまり権平とはそういう奴じゃ。権平に加増するのが惜しいのは、加増してやってもあの顔つきで物喜びもしないだろうから、そう思うと心が萎えるのじゃ。それに加増しなくてもあの男なら怒りはすまい。だから、つい無視したくなるのじゃ」 3 。
この逸話は、秀吉の人物評価の基準を鮮やかに示している。彼は能力や忠誠心はもちろんのこと、恩賞を与えた際の相手の反応、すなわち感謝や畏敬の念が目に見える形で示される「手応え」を極めて重視した。裸一貫から天下人に成り上がった秀吉にとって、家臣からのそうした感情表現は、自らの権威を確認し、満足感を得るための重要な要素だったのである。対して長泰は、忠義を行動で示すのみで、感情を露わにすることを潔しとしない、ある種古風で不器用な武士の価値観に生きていた。この両者の資質の根本的なミスマッチが、長泰の出世を阻む見えざる壁となったのである。
長泰の富貴よりも独立と矜持を重んじる気骨は、別の逸話からも窺い知ることができる。ある時、細川忠興の屋敷に招かれた長泰は、その不遇を憐れんだ忠興から「権平殿の武勇は日本中に響き渡っている。もし我が細川の家中となられたなら、領地の半分を差し上げてもよい」と、破格の条件で勧誘された 3 。
これを聞いた長泰は、返答もせずに無言で席を立つと、屋敷の縁側でおもむろに小便をしながら、こう言い放ったという。「御手前の家中になりては、爰(ここ)から小便する事がならぬ(あなたの家臣になったら、こんな風に気ままに小便もできないだろう)」 3 。これは、他者の庇護下に入って高い禄を得ることよりも、たとえ小身であっても独立した武士としての自由と誇りを守り抜こうとする、彼の強烈な自負心と孤高の精神を象徴するエピソードである。
以下の表は、賤ヶ岳の七本槍のメンバーが辿った多様な運命をまとめたものである。
氏名 |
通称 |
賤ヶ岳後の最初の恩賞 |
最終的な石高 |
主な役割・性格 |
関ヶ原の戦い |
大坂の陣 |
幕末までの家の存続 |
福島正則 |
市松 |
5,000石 |
広島49万8千石 |
武断派筆頭、猪突猛進 |
東軍(先鋒) |
江戸留守居 |
改易 |
加藤清正 |
虎之助 |
3,000石 |
熊本52万石 |
武断派、築城・治水の名手 |
東軍(九州) |
(病没) |
改易 |
加藤嘉明 |
孫六 |
3,000石 |
会津40万石 |
武断派、水軍も指揮 |
東軍 |
徳川方 |
減封後、存続 |
脇坂安治 |
甚内 |
3,000石 |
伊予大洲5万3千石 |
水軍大将、冷静沈着 |
東軍(寝返り) |
徳川方 |
存続 |
平野長泰 |
権平 |
3,000石 |
大和5千石(旗本) |
実直、孤高、不器用 |
東軍(秀忠隊) |
江戸留守居 |
存続(後、田原本藩) |
糟屋武則 |
助右衛門 |
3,000石 |
播磨1万2千石 |
不明 |
西軍 |
(不参加) |
改易 |
片桐且元 |
助作 |
3,000石 |
大和竜田2万8千石 |
吏僚派、豊臣家家老 |
東軍寄り中立 |
徳川方 |
存続 |
この表は、いくつかの重要な事実を浮き彫りにする。第一に、長泰の石高が他の武断派(福島、清正)といかに懸絶していたかが一目瞭然である。第二に、「七本槍」が一枚岩の武断派集団ではなく、吏僚的な役割を担った片桐且元や水軍を率いた脇坂安治など、多様な人材を含んでいたことがわかる。そして最も重要なのが、「幕末までの家の存続」の列である。石高で頂点を極めた福島・加藤の両家が、その強大さゆえに幕府から警戒され、最終的に「改易」の憂き目に遭っている。対照的に、最低石高の平野家は、幕末まで家名を保ち、さらには大名へと昇格している。この事実は、「武士にとっての真の成功とは何だったのか」という、本報告書の核心的なテーマを読者に強く問いかけるものである。
豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を再び流動化させた。天下の覇権を巡る徳川家康と石田三成の対立が激化する中で、平野長泰もまた、時代の大きな奔流に身を投じ、武士としての選択を迫られることになった。彼の行動は、豊臣家への旧恩と徳川家という新たな秩序との狭間で揺れ動く、多くの豊臣恩顧武将の苦悩を象徴していた。
秀吉の死後、長泰は多くの武断派大名と同様に、徳川家康に接近した。慶長5年(1600年)、家康が上杉景勝を討伐するために会津へ軍を進めると、長泰もこれに従軍した 4 。そして、石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いが勃発すると、長泰はそのまま東軍に属して戦うことになった。
彼は、家康の嫡男・徳川秀忠が率いる三万八千の別働隊に加わり、中山道を進軍した 4 。しかし、秀忠隊は道中の真田昌幸が守る上田城の攻略に手間取り、9月15日の関ヶ原本戦に間に合わないという大失態を演じてしまう。その結果、長泰も本戦で直接的な武功を立てる機会を逸した 4 。このため、戦後の論功行賞においても新たな加増はなく、旧領である大和五千石を安堵されるに留まった 9 。
関ヶ原から14年後、豊臣家と徳川家の最後の決戦である大坂の陣が勃発すると、平野長泰は周囲を驚かせる行動に出る。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に際し、彼は徳川家康のもとへ赴き、旧主である豊臣家への恩義に報いるため、大坂城に入って豊臣方として戦うことを許可してほしいと直訴したのである 4 。
この行動は、政治的な計算や豊臣方の勝利への期待から生まれたものではないだろう。それは、秀吉から受けた恩、特に自らを「七本槍」として世に出してくれたことへの感謝を忘れないという、彼の内なる武士としての倫理規範、すなわち「義」に基づいた、極めて純粋で不器用な行動であった。彼は、もはや政治勢力として末期にあった豊臣「政権」ではなく、秀吉個人と豊臣「家」そのものに、最後の恩義を返そうとしたのである。
長泰の驚くべき直訴に対し、家康は老獪な対応を見せた。彼は長泰の願いを当然ながら却下した。しかし、その忠義心を咎めて処罰するようなことはせず、逆に江戸城の留守居役という名誉ある役職を命じ、事実上、彼を江戸に留め置いたのである 4 。
これは、家康の巧みな人物掌握術の現れであった。家康は、長泰のような実直な武士の忠誠心を危険視しつつも、その気骨を否定しなかった。ここで長泰を厳しく罰すれば、福島正則をはじめとする他の豊臣恩顧大名を不必要に刺激し、彼らの離反を招きかねない。むしろ、長泰の「義」を認めた上で温情をもって遇することで、徳川の度量の広さを天下に示すことができる。家康のこの対応により、長泰の行動は「豊臣への義理を最後まで貫こうとしたが、家康公の深い御温情によって許された忠臣」という、徳川幕府の正統性を補強する物語の一部として巧みに組み込まれた。長泰の個人的な義理立ては、結果として、徳川の新たな権威を高めるための政治的装置として機能したのである。
大坂の陣を経て、豊臣家は滅亡し、徳川による泰平の世が確立された。多くの武将が時代の変化に対応できずに没落していく中で、平野長泰は新たな秩序の中に巧みに自己を位置づけ、大身旗本として穏やかながらも誇り高い後半生を送った。
大坂の陣の後、長泰は江戸幕府の旗本として、二代将軍・徳川秀忠に仕えることになった 4 。五千石という石高は、大名には及ばないものの、旗本の中では最高位クラスであり、彼は「大身旗本」として遇された。
特に、長泰の家系には「交代寄合」という特別な格式が与えられた 8 。交代寄合とは、旗本でありながら大名と同様に参勤交代の義務を負い、江戸城における席次も大名に準じる柳間詰とされるなど、別格の待遇を受ける家柄である 11 。これは、長泰の賤ヶ岳での武功と由緒ある家柄が、徳川幕府から高く評価されていたことを示している。この地位は、単に「大名になれなかった者への慰め」ではなかった。むしろ、幕府が、武功を持つ旧豊臣家臣を、潜在的な脅威となりうる独立した大名としてではなく、幕府直属の権威ある家臣として体制内に安定的に取り込むための、洗練された統治システムの一環であった。長泰は、このシステムの中で、実利(石高)よりも格式と将軍家との近さという、新たな価値観における「成功」を手にしたのである。
長泰は、将軍・秀忠の側近集団である「安西衆」の一人に取り立てられるなど、個人的な信頼も得ていた 4 。その後も三代将軍・家光の代まで長寿を保ち、寛永5年(1628年)5月7日、70歳でその生涯を閉じた 9 。墓所は、江戸高輪の泉岳寺に設けられた 11 。
徳川の旗本として安定した生活を送る中で、長泰は武辺一辺倒ではない、文化人としての一面も開花させた。彼は茶の湯、和歌、能楽にも深い造詣を持っていたと伝えられている 14 。これは、彼の出自に流れる公家・舟橋家の血筋と無縁ではないだろう。実家筋である舟橋家や、かつて仕官を勧められた細川家との親密な交流も、生涯を通じて続いていた 14 。
第三章で見た細川忠興への返答に象徴される彼の価値観は、この旗本としての生活の中で完成されたと言える。大名として領国経営の重責に追われたり、幕府との絶え間ない政治的緊張関係に神経をすり減らしたりすることもない。将軍直参という高い名誉と、五千石という生活には困らないが政治的脅威とは見なされない経済基盤の上で、自らの武士としての矜持と文化的な趣味を全うする。これは、戦国の乱世を生き抜いた一人の武将が、泰平の世で見出した、一つの理想的な「上がり」の形であったのかもしれない。
平野長泰の功績を評価する上で、彼が初代領主となった大和国田原本との関わりは欠かせない。彼自身が直接的な領地経営に深く関与したわけではないが、彼が築いた礎の上に、平野家は二百数十年にわたる安定した治世を実現し、結果として一族を明治の世まで存続させることに成功した。
文禄4年(1595年)、長泰は大和国十市郡内の七ヶ村、五千石の領主となった 4 。しかし、彼は領地である田原本には住まず、京都・伏見に構えた屋敷を生活の拠点としていた 14 。
当初、現地の統治は、この地で力を持っていた浄土真宗の有力寺院・教行寺に寺内町の形成と経営を委ねるという、間接統治の方式を採った 14 。これは、彼の関心が武人としての務めや中央の動向にあり、煩雑な政務には比較的薄かったことを示すと同時に、在地勢力の力を巧みに利用する現実的な統治手法でもあった。
田原本の本格的な町づくりと直接統治への移行は、長泰の死後、家督を継いだ息子の長勝によって推し進められた 31 。長勝は、寛永12年(1635年)に田原本陣屋を築き、領主の拠点とした 29 。
また、寺内町の支配権を巡って領主家と対立するようになった教行寺を移転させ、その跡地に浄照寺や平野家の菩提寺となる本誓寺を建立した 14 。これにより、宗教勢力が中心であった寺内町は、陣屋を中心とする陣屋町へと再編された。寺川の水運と、奈良と吉野を結ぶ中街道沿いという立地にも恵まれ、田原本は「大和の大坂」とも称される商業の拠点として発展する基礎が築かれた 22 。
平野家の歴史における特筆すべき点は、その驚異的な持続性である。長泰の直系の血筋は息子の長勝の代で途絶えたものの、その後は養子を迎えながら家名を継承し、江戸時代を通じて一度の国替えもなく、9代にわたって田原本の地を統治し続けた 11 。
これは、賤ヶ岳の同輩たちの多くが辿った運命とは実に対照的であった。福島正則や加藤清正といった大大名は、その強大な権力と石高ゆえに幕府から常に警戒され、些細なきっかけで改易・減封の憂き目に遭った 22 。一方で平野家は、五千石という「脅威とならない」規模であったがゆえに、幕府の猜疑心を招くことなく安泰を保つことができた。目立つことなく、しかし確固たる家格を維持することこそが、徳川幕藩体制下における最も確実な家の存続方法であったことを、平野家の歴史は証明している。
そして幕末維新の動乱期、平野家は巧みに立ち回り、明治元年(1868年)に歴史の大きな転換点を迎える。新政府による石高の再評価(高直し)によって、その所領が1万1石8斗と認定され、ついに「田原本藩」を立藩。平野家は、長泰の代では成し得なかった大名の列に、二百数十年を経て加わることになったのである 8 。その後、当主は男爵に叙せられ、華族としてその家名を近代まで伝えた 14 。
現在の奈良県磯城郡田原本町には、平野氏陣屋跡(現・町役場周辺)、平野家の菩提寺である本誓寺(二代長勝・九代長發の廟所が残る)、そして陣屋町の西の守りを担った浄照寺などが残り、平野家が築いた歴史の面影を今に伝えている 32 。
平野長泰の最大の功績は、戦場での武功や領地経営そのものよりも、むしろ「家を潰さなかった」ことにあると言える。彼は、自らの代で栄華を極めることを選ばず、結果として子孫が泰平の世で安定した地位を保ち続けるための「礎」を築いた。明治維新の際に「大名」になるという劇的な結末は、彼の生き方が、数百年という長い時間軸で見れば、いかに「成功」であったかを物語る、歴史の壮大な証明に他ならない。
平野長泰の生涯を詳細に検証する時、我々の前に現れるのは、通説が描くような「栄光から取り残された地味な武将」という姿ではない。むしろ、その実像は、時代の激しい変化の波を自らの価値観と矜持を失うことなく乗りこなし、一族を安泰な未来へと導いた「生存の達人」と呼ぶにふさわしいものである。
彼は、戦国的な武勇が絶対的な価値を持つ時代と、近世的な家の格式と存続が至上命題となる時代の、まさに境界線上に生きた。そして、加藤清正や福島正則が前者を選んで一時の栄華を極めたのに対し、長泰は後者を選択し、あるいは彼の性格が自然とそちらへ導いた。彼が得た「交代寄合」という五千石の旗本の地位は、同輩たちが掴んだ数十万石の領地と比べれば見劣りするかもしれない。しかし、その選択は、結果として最も持続可能な成功であったことが、歴史によって証明されている。強大な力は、それ自体が新たな脅威と見なされ、排除の対象となる。一方で、脅威とならない程度の力と、幕府の権威に直結する高い家格を併せ持つことは、徳川の泰平の世を生き抜くための最良の処方箋であった。
大坂の陣における彼の行動は、その生き方を象徴している。豊臣家への義理立てという個人的な矜持を貫き通そうとしながらも、家康の裁定には素直に従い、徳川の秩序を乱すことはなかった。彼は、自らの内なる武士としての規範を守ることと、現実の政治体制の中で家を存続させることの、絶妙な均衡点を見出していたのである。
平野長泰の生き様は、現代に生きる我々にも「成功とは何か」という根源的な問いを投げかける。短期的な栄達か、長期的な存続か。時代の変化を読み、自らの資質と身の丈に合った最適な立ち位置を見出し、それを粘り強く守り抜くことの重要性。彼の物語は、そうした時代を超えた教訓に満ちている。平野長泰は、「出世できなかった七本槍」としてではなく、戦国の動乱から徳川の泰平へと、一族を見事に軟着陸させた「最後まで生き残った七本槍」としてこそ、記憶され、再評価されるべき武将である。