最終更新日 2025-06-24

庄林一心

『加藤家三傑 庄林隼人一心の生涯 ― 荒木・仙石・加藤、三代の主君に仕えた猛将の実像』

序章:加藤家三傑、庄林隼人一心の実像を求めて

加藤清正の精強な家臣団にあって、飯田直景、森本一久と共に「加藤家三傑」と称揚される庄林一心(通称:隼人)は、その武名を後世に轟かせている 1 。しかし、彼の生涯を仔細に追うと、他の二傑が清正の幼少期から仕えた譜代の臣であるのに対し、一心は主家を転々とした後に加藤家に身を寄せた中途採用の武将であったという、異色の経歴が浮かび上がる 3 。その出自や加藤家に仕官するまでの道程は、戦国乱世の流転を体現するものであり、単純な猛将という言葉だけでは捉えきれない深みを有している。

本報告書は、諸史料に断片的に残された記録を丹念に繋ぎ合わせ、庄林一心の生涯と人物像を多角的に再構築することを目的とする。摂津の荒木村重、讃岐の仙石秀久、そして肥後の加藤清正という三人の主君に仕えた彼の武将としての軌跡を追い、特に主君・清正から絶大な信頼を勝ち得るに至った背景と、その武功の実態を解き明かす。中途の臣でありながら、なぜ彼は加藤家臣団の中核を成す存在となり得たのか。その武勇と知略、そして人間性に迫ることで、一人の武将の実像を歴史の潮流の中に鮮明に描き出すことを試みる。

第一章:流転の半生 ― 荒木村重、仙石秀久の臣として

庄林一心が一廉の武士として頭角を現し、加藤清正という終生の主君に出会うまでの前半生は、主家の没落と主君の改易という二度の大きな挫折に彩られている。この過酷な経験こそが、彼の武将としての資質、とりわけ危機管理能力を育んだ土壌となった。彼の後の活躍を理解するためには、まずこの流転の時代を詳細に検証する必要がある。

第一節:摂津の国人、荒木村重に仕う

一心の武士としてのキャリアは、摂津国高槻の国人・荒木村重の家臣として始まったと記録されている 1 。村重は池田氏の家臣から身を起こし、織田信長の信頼を得て摂津一国を任されるに至った下剋上の体現者であった 5 。一心も、この勃興期の村重に仕えた数多の武士の一人であったと考えられる。

しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正6年(1578年)、村重は突如として信長に反旗を翻し、居城である有岡城(伊丹城)に籠城する 7 。この謀反は、信長の中国方面軍を分断しかねない重大事であり、信長による約1年にも及ぶ執拗な包囲攻撃を招いた。戦況が絶望的になると、村重は妻子や多くの家臣を見捨てて単身城を脱出 8 。指導者を失った有岡城は天正7年(1579年)に落城し、城内に残された荒木一族や家臣、その家族は信長の命により惨殺されるという悲劇的な結末を迎えた 7 。この未曾有の混乱の中、庄林一心もまた主家を失い、先の見えない浪々の身となったと推測される。主君の判断一つで家臣団が破滅に至るという冷徹な現実を、彼はキャリアの初期に目の当たりにしたのである。

第二節:伊勢嶺城攻めにおける負傷の逸話

一心の壮絶な武士としての経歴を物語る逸話が、江戸時代の見聞・逸話集である『老人雑話』に記録されている。そこには「庄林隼人、鉄砲にて頭悩を撃抜れしは、伊勢の嶺の城を攻る時也」との一文が見える 11

この「伊勢の嶺の城」とは、現在の三重県松阪市に位置する阿坂城を指すと考えられている。織田信長による伊勢侵攻において、阿坂城への攻撃が行われたのは永禄12年(1569年)のことである 12 。当時、一心の主君であった荒木村重は、信長配下の池田氏に属しており、この伊勢攻めに一武将として従軍していた可能性は高い。もしこの逸話が事実であるとすれば、一心はキャリアの極めて早い段階で、頭部を銃撃されながらも奇跡的に生還したことになる。これは彼の強靭な生命力と不屈の精神力を示すと同時に、彼が常に死と隣り合わせの最前線で戦ってきた「現場の武人」であったことを物語る貴重な証左である。この経験は、後の彼の勇猛さと、戦場における冷静な判断力の礎となったことは想像に難くない。

第三節:仙石秀久への再仕官と二度目の挫折

荒木家の没落後、浪人となった一心は、豊臣秀吉の家臣である仙石秀久に仕えることで再起の機会を得る 1 。秀久は秀吉の古参として淡路国、次いで讃岐一国を与えられた大名であり、一心にとってはその武勇を再び発揮する格好の舞台であった 13

しかし、この安住の地もまた、主君の致命的な失敗によって失われることとなる。天正14年(1586年)、秀吉による九州征伐が始まると、秀久は四国勢を率いる軍監として豊後国へ渡海した。だが、戸次川の戦いにおいて、秀久は戦功を焦るあまり、長宗我部元親らの制止を振り切って独断で渡河作戦を強行。島津軍の巧みな戦術にはまり、豊臣軍は壊滅的な敗北を喫した 13 。さらに秀久は、総大将でありながら味方を見捨てて真っ先に戦場から逃亡するという醜態を晒した 13 。この報告に豊臣秀吉は激怒し、秀久は領地を全て没収され、改易処分となった 4

これにより、庄林一心は再び主君を失うという悲運に見舞われた。一度目は主君の「謀反」、二度目は主君の「敵前逃亡」と、いずれも武将として最も不名誉な形での主家の崩壊であった。この二度にわたる壮絶な経験は、彼に組織のトップの判断ミスがもたらす悲劇を骨身に染みて教えたであろう。それは同時に、いかなる逆境にあっても生き残り、次へと繋げるための現実的な生存能力と、危機を的確に察知し、最悪の事態を回避する冷静な戦術眼を養うための、代償の大きな教訓となったのである。後の「引き上げ戦の名手」という評価は、この苦難の時代にその萌芽を見出すことができる。

第二章:加藤清正の麾下へ ― 猛将としての開花

二度の挫折を経て、庄林一心は加藤清正という終生の主君に巡り会う。この出会いを機に、彼の内に秘められた武将としての才能は完全に開花し、加藤家臣団の中で不動の地位を築き上げていく。特に天草一揆での活躍は、彼の人生における最大の転換点であり、猛将・庄林隼人の名が世に知れ渡る契機となった。

第一節:新天地肥後へ ― 加藤家仕官と天草一揆の武功

仙石秀久の改易後、一心は天正16年(1588年)に肥後北半国の領主として入国した加藤清正に仕官した 1 。当時の清正は、広大な領地を治めるにあたり、家臣団の質的・量的拡充を急務としていた。そのため、旧領主・佐々成政の遺臣や、一心のような他家からの浪人を、その能力を評価して積極的に登用していた 19 。一心の歴戦の経験は、新興大名である清正にとって大きな魅力であったに違いない。

仕官の翌年、天正17年(1589年)、肥後南半国の領主・小西行長の領地で天草五人衆が一揆を蜂起した(天草国人一揆)。清正は秀吉の命により行長への加勢を決定し、飯田直景、森本一久、そして庄林一心らを中核とする部隊を派遣する 3 。この戦において、三人は他を圧する目覚ましい活躍を見せ、一揆の鎮圧に多大な貢献を果たした。

この武功は、時の天下人・豊臣秀吉の耳にも達した。秀吉はその功を大いに賞賛し、清正を通じて三人にそれぞれ意匠の異なる特別な槍を下賜したと伝えられている。この時、庄林一心が拝領したのが「黒鳥毛の朱槍」であった 1 。これは、彼の武勇が主君清正のみならず、天下人である秀吉本人からも公に認められたことを意味する最高の栄誉であった。この一件を機に、一心の名は加藤家中に、そして天下に広く知られることとなった。特に、他家からの移籍者である一心にとって、この天下人からの直接的な評価は、加藤家における彼の地位を絶対的なものにする上で決定的な役割を果たしたと言えよう。

第二節:「加藤家三傑」 ― 専門技能を持つ指揮官たち

天草一揆での戦功により、飯田直景、森本一久、庄林一心は「加藤家三傑」と称されるようになる 2 。彼らは単に勇猛なだけでなく、それぞれが異なる専門技能を持つ、極めて機能的な指揮官チームであった。清正が、譜代の臣である飯田や森本に加え、全くの外部出身者である一心をも家臣団の筆頭に加えたことは、単なる実力主義の現れではない。それは、加藤軍の総合的な戦闘能力を最大化するための、極めて戦略的な人事であった。

氏名(通称)

出自

専門技能・役割

主な武功・業績

下賜された槍

飯田 直景(覚兵衛)

譜代(清正の幼馴染)

槍術・土木普請

熊本城の百間石垣などを築造、槍の名手 3

白黒鳥毛の長槍 3

森本 一久(儀太夫)

譜代(清正の幼少期からの臣)

攻城戦・兵器開発

亀甲車(装甲車)を製作し晋州城一番乗りを果たす 3

白鳥毛の長槍 3

庄林 一心(隼人)

中途採用(荒木・仙石旧臣)

撤退戦術・危機管理

朝鮮からの撤退戦で最小限の損害で帰還 3

黒鳥毛の朱槍 1

上表が示すように、飯田と森本が「攻め」の専門家であるのに対し、庄林一心は「引き上げ戦(撤退戦)」という特殊かつ重要な技能を担っていた。第一章で考察した通り、一心は「主家の崩壊」という最悪の事態を二度も経験している。この経験から培われた彼の危機管理能力と、それを戦術として体現する「引き上げ戦」の技術は、順風満帆にキャリアを重ねてきた譜代の家臣たちが持ち得ない、極めて貴重なスキルセットであった。清正は、自軍の攻撃力(飯田・森本)を強化すると同時に、その生存性と持続性を担保するリスクマネジメントの要として、意図的に一心という存在を抜擢したのである。庄林一心の存在は、加藤軍団の強靭さを支える、見えざる礎石であったと言える。

第三章:文禄・慶長の役における武勇

加藤家の中核武将となった庄林一心は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、その武名を朝鮮半島で遺憾なく発揮する。この戦役における彼の活躍は、二つの側面から特筆される。一つは、攻城戦の最前線で功名を競う「猛将」としての一面。もう一つは、軍の存亡をかけた撤退戦で見せた「戦術家」としての一面である。この二つの顔こそ、庄林隼人という武将の本質を物語っている。

第一節:第二次晋州城攻防戦と「一番乗り」の真相

文禄2年(1593年)6月、日本軍は第一次攻防戦で攻略に失敗した要衝・晋州城に対し、総力を挙げた第二次攻撃を開始した 24 。この戦いで加藤清正の部隊は、黒田長政らの部隊と共に攻城の主力を担い、北面からの攻撃を担当した 18

この戦いにおいて、庄林一心は「先手の大将として晋州城への一番乗りの手柄を得た」と複数の記録で伝えられている 1 。これは彼の勇猛果敢さを示す代表的な逸話である。しかし、この「一番乗り」の功名は、複数の武将に帰せられており、その真相は単純ではない。加藤家の史料では、同僚の森本一久や飯田直景が亀甲車(装甲車)を用いて城壁を破壊し、黒田勢の後藤基次(又兵衛)と一番乗りを競ったとされている 18 。一方、黒田家の史料では後藤又兵衛が一番乗りであったと記されている 25

これらの記録は、必ずしも相互に矛盾するものではない。晋州城のような堅城に対する大規模な攻城戦では、複数の地点から同時に城内への突入が試みられるのが常である。重要なのは、どの史料においても加藤勢が攻城の主力を担い、その中でも一心、飯田、森本といった武将たちが、最も危険な先鋒として城壁に取り付いていたという事実である。中途採用の身であった一心にとって、譜代の家臣たちに負けない武功を立て、自らの存在価値を主君や同僚に示すことは極めて重要であった。彼が「先手大将」として部隊を率い、自ら先頭に立って突入を敢行した猛将であったことは、疑いの余地がない。

第二節:「引き上げ戦の名手」としての評価

一心の真価が最も発揮されたのは、華々しい攻城戦よりも、むしろ困難を極めた撤退戦においてであった。慶長の役における蔚山城の戦いは、加藤清正が明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、兵糧も尽き、凍死者が続出する絶体絶命の籠城戦であった 26 。この戦い、そして秀吉の死に伴う朝鮮半島からの日本軍全面撤退という、極めて困難な局面において、一心の戦術家としての能力が光を放つ。

伝承によれば、一心は朝鮮からの組織的な撤退において巧みな指揮を執り、「最小限の損失で肥後国までの帰路を辿り、覚兵衛や儀太夫を唸らせた」とされている 3 。戦国時代において、敗走はしばしば軍の全面崩壊に繋がり、殿(しんがり)を務めて秩序ある撤退を成功させる将は、攻撃で手柄を立てる将以上に高く評価されることもあった。

一心は、攻めるべき時にはリスクを恐れず先頭に立つ「一番乗り」の勇猛さと、退くべき時には冷静沈着に部隊の損害を最小限に抑える「引き上げ戦」の知略を併せ持っていた。この万能性こそが、彼の武将としての真の価値であった。清正にとって、一心は単なる突撃隊長でもなければ、守備専門の将でもない。戦況に応じて攻守いずれの重要な局面も安心して任せられる、最も信頼性の高い「戦場の指揮官」だったのである。彼が清正から「軍事面で最も信頼を寄せられていた」とされる最大の理由は、この比類なき戦術的柔軟性にあったと言える 18

第四章:武人から為政者へ ― 肥後における足跡

庄林一心の評価は、戦場での華々しい活躍に留まらない。彼は加藤家中で八千石という破格の知行を得ており、その領地経営においても為政者としての一面を覗かせる 18 。彼が単なる武人ではなく、領民の暮らしにも心を配る人物であったことを示す痕跡は、肥後の地に今なお残されている。

第一節:知行と民政への関与

熊本県山鹿市菊鹿町には、一心の号である「自休居士」の名を冠した「庄林隼人自休居士荼毘塚」が市指定史跡として現存する 3 。この地(旧上内田村)は一心の知行地であったとされ、彼がこの地域に深く根ざした存在であったことを示唆している。

この荼毘塚には、彼の為政者としての一面を物語る重要な伝承が付随している。高台に位置し水不足に苦しんでいたこの地域のために、一心(あるいはその子孫)が私財を投じて遠方の山麓から用水路を建設し、長年の水問題を解決したというものである 31 。この用水路は昭和の時代に至るまで約400年間も利用されたと伝えられており、領民はその恩義に報いるため、彼の火葬地に報恩の石碑と地蔵尊を建立して供養を続けたという。墓所が熊本市内の禅定寺にあるにもかかわらず、わざわざ領地に荼毘塚が作られ、後世まで手厚く祀られている事実は、彼が単に領地を支配するだけの武士ではなく、領民から深く敬愛される為政者であったことを雄弁に物語っている。この逸話は、彼が武功だけでなく、民政においても優れた手腕を発揮した可能性を強く示唆するものである。

第二節:主君・清正からの信頼の源泉

庄林一心が、中途採用の家臣でありながら主君・加藤清正から絶大な信頼を得た背景には、複数の要因が考えられる。

第一に、天草一揆や文禄・慶長の役といった数々の実戦において、常に期待を上回る成果を挙げ続けた実績がある。特に、軍の存亡に直結する撤退戦を成功させた能力は、何物にも代えがたい価値があった 1 。清正が一心に寄せた信頼は、単なる感情的なものではなく、極めて戦略的なものであった。一心が得意とした「撤退戦」は、派手な武功ではないが、軍団の継戦能力を維持するための最重要技術である。清正は、この「負けないための技術」を持つ一心に八千石という高禄を与えることで、加藤軍全体の生存性を高めるという「投資」を行ったのである。

第二に、彼の経歴そのものが忠誠心の源泉となった可能性である。一心は、荒木村重と仙石秀久という二人の主君の没落を経験している。その原因はいずれも主君自身の致命的な判断ミスであった。三度目の主君である清正の下でようやく安住の地と活躍の場を得た一心にとって、清正への恩義と忠誠心は、譜代の家臣以上に純粋かつ強固なものであったと推察される。

そして第三に、清正自身の柔軟な人材登用方針が挙げられる。清正は、秀吉と同様に「子飼い」の譜代家臣を中核としつつも、能力があれば出自を問わず積極的に人材を登用する合理的な家臣団編成を行っていた 19 。一心の抜擢は、この清正の人材登用方針を象徴する事例であり、彼の持つ稀有な能力が、加藤家という組織の中で最大限に活かされた結果と言えるだろう。

第五章:加藤家改易後と庄林家の行方

主君・加藤清正の死後、加藤家は悲劇的な運命を辿る。しかし、庄林家は一心が築き上げた武功と信頼を礎に、この動乱を乗り越え、新たな時代へと家名を繋いでいく。一心の遺産が、いかにして子孫を守る無形の財産となったかを検証する。

第一節:加藤家の終焉と細川家への仕官

慶長16年(1611年)に清正が亡くなると、その跡は嫡男・忠広が継いだ。しかし、寛永9年(1632年)、加藤家は幕府より突如改易を命じられ、52万石の大名は歴史の舞台から姿を消すこととなる。庄林一心は、その前年である寛永8年(1631年)5月14日に亡くなっており、主家の終焉を見ることなくその生涯を閉じた 1

加藤家に代わって肥後熊本藩の新たな領主となったのは、豊前小倉藩主であった細川忠利である。忠利は、旧加藤家臣の中から有能な人材を選抜して召し抱えた。その中に、一心の嫡男・庄林一方(かずかた)の名があった。一方は、父の功績を評価され、千三百八十石という旧加藤家臣の中でも破格の待遇で細川家に仕えることができた 1 。戦国から江戸時代にかけて、主家の改易は家臣一族の離散や没落に直結する最大の危機であった。その中で庄林家が名跡を保ち、新たな主君の下で高い地位を得られたのは、まさしく父・一心が一代で築き上げた「庄林隼人」という武名と信頼が、藩という組織の枠組みを超えて通用する無形の資産となっていたからに他ならない。

第二節:子孫の活躍と後世の記憶

庄林家の武門としての名声は、その後も受け継がれていく。庄林家では、一心から孫の一吉(かずよし)まで三代にわたって「隼人」の通称を名乗ったと伝えられており、この名が庄林家の武勇と誉れを象徴する称号として継承されたことがわかる 1

その武勇は、具体的な戦功としても記録されている。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱において、孫の一吉は細川家家臣として出陣し、目覚ましい活躍を見せた 1 。これにより、庄林家は新たな主君・細川家においても、その武門としての家名を確固たるものにしたのである。

庄林一心の記憶は、現代にも確かに受け継がれている。熊本市中央区の禅定寺には、加藤家の他の重臣たちと共に一心の墓が現存する 1 。この墓は、加藤家三傑の中で唯一、熊本市内に残るものであり、彼の加藤家臣団における中心的な位置づけを今に伝えている。そして、前述の山鹿市菊鹿町の荼毘塚は、領民に慕われた為政者としての一面を物語る。これら二つの史跡は、一心の多面的な人物像を立体的に現代に伝え、その生涯が単なる戦いの記録に終わらない、豊かな物語であったことを示している。

結論:庄林一心 ― 乱世を生き抜いた歴戦の将

庄林一心の生涯は、摂津の一家臣から始まり、二度の主家没落という筆舌に尽くしがたい逆境を乗り越え、最終的に肥後熊本藩五十二万石の重臣として大成するという、まさに戦国乱世のダイナミズムを体現したものであった。

彼は、単なる猛将という一面的な評価に収まる人物ではない。晋州城攻めでは「一番乗り」の功名を立てるほどの勇猛さを誇る一方で、朝鮮からの撤退戦では軍の損害を最小限に抑える「引き上げ戦の名手」としての冷静な戦術眼を併せ持っていた。さらに、知行地であった山鹿の地に用水路を拓いたという伝承は、領民の暮らしを考える為政者としての一面をも我々に示している。この攻守に優れた武将としての能力と、民政家としての資質、その両方を高いレベルで兼ね備えたバランス感覚こそが、彼を「加藤家三傑」の一人たらしめ、主君・加藤清正の絶対的な信頼を勝ち得た源泉であった。

彼の生き様は、主君の選択の重要性、逆境を乗り越える強靭な精神力、そして戦場における危機管理能力といった、戦国武士が激動の時代を生き抜くために必要とした普遍的なテーマを我々に提示している。庄林一心の生涯を丹念に追うことは、主君・加藤清正という武将、ひいては戦国という時代の多面性を理解する上で、極めて貴重な鍵となるのである。彼の名は、乱世を己の武と知略で生き抜いた、歴戦の将として記憶されるべきであろう。

引用文献

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