本報告書は、戦国時代の備中武将、庄高資の生涯を多角的に解明することを目的とする。彼の動向を理解するため、関連する出来事を時系列で以下に整理する。
年代(西暦) |
城主・主要人物 |
備中および周辺の主要な出来事 |
出典 |
鎌倉時代初期 |
庄家長 |
武蔵七党児玉党の庄家長、一ノ谷の戦功により備中国小田郡草壁庄の地頭となり、猿掛城を築く。 |
1 |
室町時代 |
庄氏 |
備中守護・細川氏のもとで守護代を務め、備中における有力国人として勢力を確立する。 |
1 |
天文2年(1533) |
庄為資 (高資の父) |
猿掛城主・庄為資、尼子氏の支援を受け備中松山城主・上野頼氏を滅ぼし、本拠を松山城に移す。これにより庄氏は「備中守」を称し、全盛期を迎える。 |
1 |
天文22年(1553)頃 |
庄高資 |
父・為資の跡を継ぎ、庄氏の家督を相続。備中松山城主となる。 |
4 |
永禄2年(1559) |
庄為資、三村家親 |
猿掛合戦。毛利氏と結んだ三村家親が、尼子方の庄氏と争う。 |
5 |
永禄4年(1561) |
庄高資 、三村家親 |
毛利氏の支援を受けた三村家親の攻撃により、高資は備中松山城を失陥。成羽の鶴首城から松山城へ本拠を移した家親が備中の中心勢力となる。 |
4 |
和睦成立後 |
庄高資 、庄元祐 |
毛利氏の仲介で和睦。三村家親の長男・元祐が庄氏の養子(または一族の穂田実近の養子)となり、庄氏の本拠・猿掛城に入る。 |
3 |
永禄9年(1566) |
三村家親、宇喜多直家 |
宇喜多直家の刺客により、三村家親が美作国興禅寺で鉄砲で暗殺される。 |
9 |
永禄10年(1567) |
三村元親、宇喜多直家、 庄高資 |
明善寺合戦。父の弔い合戦を挑んだ三村元親が宇喜多直家に大敗。三村氏の威信が失墜する。この好機に、高資は宇喜多氏の支援を得て備中松山城を一時的に奪回する。 |
7 |
元亀元年(1570) |
庄高資 、尼子再興軍 |
宇喜多直家と結んだ尼子再興軍が備中に侵攻。高資もこれに同調し、三村方の諸城を攻撃する。 |
9 |
元亀2年(1571) |
庄高資 、三村元親、毛利元清 |
毛利元清の援軍を得た三村元親が備中松山城を攻撃。城は落城し、庄高資は討死する。 |
4 |
天正2年(1574) |
三村元親、毛利輝元、宇喜多直家 |
毛利氏と宇喜多氏が同盟を締結。これに反発した三村元親は毛利氏から離反し、織田信長と結ぶ。「備中兵乱」が勃発する。 |
9 |
天正4年(1576) |
庄勝資 (高資の子) |
毛利氏に召し返された庄勝資、備前児島の麦飯山城攻めで先鋒を務め、城主を討ち取るも自身も戦死したとされる(軍記物による記述)。 |
4 |
江戸時代以降 |
庄氏子孫 |
勝資の弟・資直が家督を継ぎ、一族は武士の身分を離れ帰農。旧領に近い上房郡津々村で代々庄屋を務める。 |
4 |
日本の戦国時代、備中国(現在の岡山県西部)にその名を刻んだ武将、庄高資(しょう たかすけ)。彼について一般的に知られているのは、「備中の豪族、庄為資の子。尼子氏に属したため、毛利氏に与する三村元親と対立し、敗れて戦死した」という、極めて断片的な情報である 3 。この通説は、彼の生涯の結末を要約してはいるものの、その背景にある複雑な人間関係や、彼が下した戦略的決断の重み、そして彼が背負った一族の宿命を語るにはあまりにも不十分である。
庄高資の生涯は、単なる一地方豪族の敗北の物語ではない。それは、鎌倉時代以来の名門としての誇りを背負い、父が築き上げた栄光の時代を継承した「二代目」の苦悩の物語である。彼の戦いは、西の毛利、北の尼子、東の宇喜多という巨大勢力の狭間で、自家の存続をかけて繰り広げられた、ぎりぎりの生存戦略の記録に他ならない。なぜ彼は毛利方の中核であった三村氏と激しく争ったのか。なぜ一時は宿敵であったはずの宇喜多直家と手を結んだのか。そして、その最期はどのような状況下で訪れたのか。
本報告書は、これらの問いに答えるべく、『備中兵乱記』や『中国太平記』といった軍記物語の記述を史料批判の視点から慎重に検討しつつ、『高梁市史』などの自治体史や近年の研究成果を統合することで、庄高資という武将の実像に迫るものである 18 。通説の奥に隠された、時代の奔流に翻弄されながらも最後まで再起を諦めなかった一人の武将の生涯を、その出自から最期、そして一族のその後まで、徹底的に詳述する。
庄高資という人物を理解するためには、まず彼が継承した「庄氏」という家の由緒と、彼が生きた「戦国期備中」という舞台の特性を把握する必要がある。彼は決して無名の土豪ではなく、鎌倉以来の歴史と権威、そして父が築いた広大な勢力を背景に持つ、名門の嫡子であった。
庄氏は、その起源を関東の武士団・武蔵七党の一つ、児玉党に遡る 1 。児玉党の旗頭であった庄家長が、治承・寿永の乱(源平合戦)における一ノ谷の戦いで平重衡を生け捕りにする武功を挙げ、その恩賞として源頼朝から備中国小田郡草壁庄の地頭職を与えられたことに始まる、鎌倉幕府以来の名門である 1 。
備中に下向した庄氏は、小田川の南岸にそびえる要害の地、猿掛山に猿掛城を築き、麓の横谷に居館(御土井)を構えて本拠とした 2 。以後、この地を拠点として勢力を扶植し、室町時代には備中守護であった細川氏のもとで守護代を務めるなど、備中における支配者層として確固たる地位を築き上げた 1 。この鎌倉以来の由緒と、守護代という実績は、戦国時代においても庄氏の権威の源泉であり続けた。
庄氏の勢力基盤を経済的・軍事的に支えていたのは、本拠地である草壁庄が位置する小田川流域の支配であった。小田川は、備中中央部を流れる高梁川に合流し、瀬戸内海の港湾都市・玉島へと至る水運の動脈であった 24 。物資輸送の要であるこの水運を掌握することは、大きな経済的利益をもたらした。猿掛城は、この小田川の水運と、古代からの幹線道路である山陽道を見下ろす位置にあり、交通の要衝を抑えることで、庄氏はその勢力を維持・拡大していったのである 26 。
庄高資の父、庄為資(ためすけ)の時代に、庄氏はその歴史上、最大の版図を築き上げる。当時、備中の中心地である松山(現在の高梁市中心部)には、備中松山城を拠点とする上野氏が存在した。為資は、中国地方北部で勢力を拡大していた尼子氏と結び、天文2年(1533年)、備中松山城を攻撃する 1 。この戦いで為資は、一族の植木氏らの協力も得て、城主の上野頼氏を自刃に追い込み、これを滅ぼした 1 。
この勝利により、為資は本拠を伝統的な猿掛城から、より戦略的価値の高い備中松山城へと移した。これにより、彼は名実ともに備中の中心的な支配者となり、「備中守」を称し、備中半国に及ぶ一万貫の所領を領有したと伝えられる 1 。この為資の時代こそ、庄氏の権勢が頂点に達した全盛期であり、高資はまさにこの栄光の遺産を継承する立場にあった。しかしこの成功は、備中における他の有力国人、特に成羽(現在の高梁市成羽町)を本拠とする三村氏の強い警戒心と対抗心を招くことにもなった。
高資が家督を継いだ16世紀半ばの備中は、まさに群雄割拠の様相を呈していた。守護であった細川氏の権威は完全に失墜し、庄氏、三村氏、幸山城の石川氏といった有力な国人領主が、互いに覇を競っていた 6 。
さらに、備中という土地は、西から中国地方の覇権を握りつつあった毛利氏、北に伝統的な勢力を持つ尼子氏、そして東の備前から急速に台頭する宇喜多氏という、三つの巨大勢力が睨み合う最前線であった 2 。備中の国人たちは、これらの大勢力のいずれかと結びつくことで自らの生き残りを図るという、極めて流動的で危険な外交戦略を強いられていた。庄氏が伝統的に尼子氏と結んでいたのに対し、ライバルである三村氏は毛利氏と手を結び、備中はこれら大国の代理戦争の舞台と化していくのである。高資の生涯は、この複雑で過酷な地政学的環境の中で、常に選択を迫られ続けたものであった。
庄高資の生涯は、宿敵・三村氏との熾烈な覇権争いによって決定づけられた。父・為資が築いた栄光を継承した高資であったが、その治世は当初から、毛利氏という強大な後ろ盾を得た三村氏の挑戦に晒されることとなる。この対立は、やがて高資から本拠たる備中松山城を奪い、屈辱的な和睦を強いる結果へと繋がっていく。
庄為資の没年は史料によって諸説あるが、永禄年間(1558年-1570年)前後と考えられており、子の高資は天文22年(1553年)頃に家督を継いだとされる 3 。幼名を「大六」と称した高資は、庄氏が備中半国を支配する最盛期にその当主となった 4 。
しかしその頃、備中西部の成羽・鶴首城を本拠とする三村家親が、急速に勢力を拡大していた。当初、庄氏と三村氏は連携して勢力を伸ばすこともあったが、備中の覇権を巡ってはやがて対立関係へと転じる 6 。特に、庄氏が伝統的に山陰の尼子氏と結んでいたのに対し、三村家親は、尼子氏と敵対し西から勢力を伸張する安芸の毛利元就と手を結んだ 6 。この選択は、三村氏にとって強力な軍事支援を約束するものであり、毛利氏にとっては備中への影響力を確保するための重要な足掛かりであった。これにより、備中内部の国人領主間の争いは、毛利対尼子という大国間の代理戦争の様相を色濃く帯びることになる。
永禄4年(1561年)、毛利氏の全面的な支援を受けた三村家親は、ついに庄氏の本拠・備中松山城へ大軍を差し向けた。この戦いで庄高資は敗北し、父・為資が攻略した栄光の城から追われることとなった 4 。備中の中心地を失った庄氏の権勢は大きく後退し、代わって備中松山城に入った三村家親が、備中における最大の勢力として君臨することになる 7 。
松山城を失った後も、庄氏は本来の本拠地である猿掛城に拠って抵抗を続けた。両者の争いは永禄2年(1559年)の猿掛合戦をはじめとして、一進一退の攻防が繰り広げられたが、容易に決着はつかなかった 5 。最終的に、この膠着状態を打開するため、毛利氏が仲介に入り、両者の間で和睦が成立する。
しかし、その和睦の内容は、庄氏にとって極めて屈辱的なものであった。和睦の条件として、三村家親の長男である三村元祐が、庄為資、あるいは庄氏一族で猿掛城代であった穂田実近の養子として庄家に入り、猿掛城主となることが定められたのである 2 。
これは、形式上は養子縁組による和睦であるが、その実態は、敵将の長男に自らの家督と本拠地を譲り渡すという、事実上の降伏であり、城の明け渡しに他ならなかった 8 。戦国時代の外交儀礼において、これは敗者が勝者の軍門に降る典型的な形式である。これにより、庄氏は鎌倉以来の伝統を誇る本拠地・猿掛城の支配権すら失い、事実上、三村氏の勢力下に組み込まれることになった。父が築いた備中半国の支配という栄光を自らの代で失い、先祖伝来の地まで奪われたこの経験は、高資にとって耐え難い屈辱であり、後の雪辱戦に向けた強い動機形成に繋がったことは想像に難くない。この一件は、単に一城を失っただけでなく、備中における庄氏の時代の終焉と、三村氏の時代の到来を象徴する出来事であった。
庄高資の生涯は、備中内部のライバルである三村氏との対立だけでなく、彼らを取り巻く巨大勢力の動向によって絶えず揺さぶられ続けた。庄氏が伝統的に依存してきた尼子氏の衰退、三村氏を後押しする毛利氏の隆盛、そして備前から突如として現れた謀将・宇喜多直家の暗躍。これらの外部要因が複雑に絡み合い、備中の勢力図は目まぐるしく変化した。高資の行動を理解するには、この激動の国際関係を把握することが不可欠である。
庄高資の戦略的選択を理解するため、主要な出来事を画期として、備中を巡る五つの勢力(庄、三村、毛利、尼子、宇喜多)の関係性の変化を下図に示す。
時期 |
庄氏 |
三村氏 |
毛利氏 |
尼子氏 |
宇喜多氏 |
備考 |
① 家親暗殺前 (~永禄9年/1566年) |
敵対 |
同盟 |
同盟 |
敵対 |
敵対 |
庄氏は尼子方、三村氏は毛利方として対立。宇喜多氏は三村氏と敵対。 |
② 明善寺合戦後 (永禄10年/1567年~) |
同盟 |
敵対 |
同盟 |
(滅亡) |
同盟 |
家親暗殺と明善寺合戦により三村氏が弱体化。庄氏は「敵の敵」である宇喜多氏と結び、三村氏に対抗。 |
③ 毛利・宇喜多同盟後 (天正2年/1574年~) |
(孤立) |
離反 |
同盟 |
(再興軍) |
同盟 |
毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、三村氏は毛利氏から離反。庄氏が頼るべき勢力は消滅し、事実上包囲される形となる。 |
庄氏が長年にわたり後ろ盾としてきた山陰の雄・尼子氏は、毛利元就の執拗な攻撃の前に次第に勢力を失い、永禄9年(1566年)、ついに本拠地である月山富田城が落城し、戦国大名として滅亡する。これにより、庄高資をはじめとする備中の旧尼子方の国人たちは、強力な支援者を失い、風前の灯火となった。
まさにその同じ年、備中の勢力図を根底から揺るがす大事件が起こる。備前で主家である浦上氏を凌ぐ勢いを見せていた謀将・宇喜多直家が、自領への侵攻を繰り返す三村家親を最大の脅威とみなし、前代未聞の奇策に打って出たのである 10 。永禄9年(1566年)2月、直家は遠藤兄弟なる刺客を雇い、美作国興禅寺に陣を敷いていた三村家親を鉄砲で狙撃し、暗殺した 7 。
この事件は、庄高資にとって最大の好機であった。宿敵・三村氏はカリスマ的な当主を失い、大きく動揺した。跡を継いだ子の三村元親は、父の弔い合戦として宇喜多氏に挑むも大敗を喫し、三村氏の威信は地に墜ちた。高資が後に備中松山城を奪回する機会を得られたのは、まさしく彼の仇敵である三村氏を弱体化させた、もう一人の敵・宇喜多直家の暗躍によってもたらされたという、皮肉な結果であった。
当初、毛利氏は三村氏を支援し、宇喜多氏とは敵対関係にあった。しかし、東から織田信長の勢力が中国地方に迫る中、毛利氏の戦略は大きな転換点を迎える。天正2年(1574年)、毛利氏は、織田信長に追われた将軍・足利義昭の仲介もあり、長年の宿敵であった宇喜多直家と和睦し、事実上の同盟関係を結んだ 9 。
この毛利・宇喜多同盟は、備中の勢力バランスを決定的に変えた。三村氏にとっては、父の仇である直家と、宗主である毛利氏が手を結ぶという、到底受け入れがたい裏切りであった。これにより三村氏は毛利氏からの離反を決意し、織田信長と結ぶことになる(備中兵乱)。
この大変動は、庄氏にとっても致命的な状況を生み出した。高資は宇喜多氏との連携によって三村氏に対抗していたが、その宇喜多氏が、三村氏の宗主である毛利氏と結んでしまった。これにより「毛利・宇喜多連合」という巨大な勢力ブロックが誕生し、庄氏が頼るべき勢力は事実上消滅した。毛利・三村は元からの敵であり、宇喜多は今や敵の味方となった。高資が元亀2年(1571年)の戦いで命を落とさず、この時代まで生き延びていたとしても、この巨大な包囲網の中で独立を保つことは極めて困難であっただろう。彼の死は、こうした大国の論理によって、ある意味では必然的に導かれた悲劇であったといえる。
宿敵・三村氏に本拠を奪われ、雌伏の時を過ごしていた庄高資に、千載一遇の好機が訪れる。三村家親の暗殺と、その後継者・元親の戦略的失策である。高資はこの機を逃さず、昨日までの敵であった宇喜多直家と手を結び、失地回復に打って出る。彼の生涯における、最も輝かしい反攻の瞬間であった。
永禄9年(1566年)に父・家親を宇喜多直家の謀略によって暗殺された三村元親は、その復讐に燃えていた 9 。永禄10年(1567年)、元親は約2万と号する大軍を率いて備前へ侵攻し、宇喜多方の前線拠点であった明善寺城(現在の岡山市中区)を奪取した 11 。
しかし、これは謀将・直家の罠であった。直家は、元親が奪った明善寺城の周辺に位置する岡山城主・金光宗高らを事前に調略し、寝返らせていた。これにより明善寺城の三村軍は敵中に孤立する 11 。直家は、救援に来るであろう三村軍本隊を自領深くに誘い込み、一挙に殲滅する作戦を立てていた。
元親は、この状況を把握できぬまま、孤立した明善寺城の将兵を救うべく本隊を進撃させた。結果、わずか5千の宇喜多軍の巧みな戦術の前に三村軍は大敗を喫し、総崩れとなった 7 。この「明善寺合戦(明善寺崩れ)」と呼ばれる戦いは、三村氏の威信を失墜させ、その軍事力を大きく削ぐ結果となった。さらに、この敗北をきっかけに、備中佐井田城主の植木秀長をはじめとする国人たちが三村氏から離反し、宇喜多方につくなど、備中における三村氏の支配体制は大きく揺らいだ 9 。
この三村氏の混乱と弱体化は、庄高資にとってまたとない反攻の機会であった。彼は、三村氏という共通の敵を持つ宇喜多直家と利害が一致することを見抜き、連携を図る。この決断は、高資が単に状況に流されるのではなく、大局を読んで能動的に好機を掴みにいく、したたかな戦略家であったことを示している。
永禄10年(1567年)、明善寺合戦で三村氏が備前に釘付けになっている隙を突き、高資は宇喜多氏の加勢を得て、手薄になっていた旧本拠・備中松山城を攻撃した。そして、永禄4年(1561年)に奪われて以来、6年ぶりにその奪回に成功するのである 7 。
備中松山城を回復した高資は、勢いに乗じて失地回復に動く。元亀元年(1570年)には、同じく宇喜多氏と結んだ尼子再興軍が備中に侵攻すると、高資と息子の勝資もこれに呼応して挙兵し、三村方の幸山城を守る石川久式を攻め立てるなど、三村氏の領国を脅かした 9 。
この時期、備中は、毛利氏を後ろ盾とする三村方と、宇喜多氏や尼子再興軍と結んだ庄方が激しく争う、混沌とした戦乱の渦中にあった 9 。高資の松山城奪回は、庄氏にとってつかの間の栄光を取り戻す快挙であったが、それは同時に、備中全土を巻き込む、より激しい争乱の幕開けでもあった。
なお、この高資と宇喜多氏の連携は、永続的な同盟関係ではなく、あくまで「対三村」という一点でのみ成立する、極めて脆弱な「戦術的協力関係」であった点に留意が必要である。梟雄・宇喜多直家にとって、高資は三村氏を牽制するための便利な駒に過ぎず、高資にとっても直家は家門再興のための利用対象でしかなかった。この危うい協力関係は、共通の脅威が薄れた時、容易に瓦解する運命にあった。
備中松山城を奪回し、一時的に再起を果たした庄高資であったが、その栄光は長くは続かなかった。彼の反攻は、備中における毛利氏の支配体制に対する重大な挑戦と見なされた。これに対し、毛利氏は三村氏を全面的に支援し、庄氏を完全に排除するための本格的な軍事介入に踏み切る。この戦いが、高資にとって最期の戦いとなった。
宇喜多氏と結んだ庄高資の攻勢により、毛利方の三村氏が苦境に立たされたことを受け、毛利元就は事態を重く見た。彼は、自らの四男であり、後に穂井田姓を名乗ることになる猛将・毛利元清を主将とする大軍を、三村氏の援軍として備中へ派遣した 9 。これは、単なる援軍ではなく、毛利氏が備中における反抗勢力を根絶し、その支配を再確立するための、断固たる意志の表れであった。
毛利元清率いる毛利・三村連合軍は、元亀2年(1571年)、庄高資が守る備中松山城へと進軍した 7 。ここに、庄氏の存亡をかけた最後の攻防戦の火蓋が切られた。
毛利・三村連合軍の圧倒的な兵力の前に、庄高資は奮戦するも及ばず、元亀2年(1571年)、備中松山城は再び落城。この戦いにおいて、庄高資は討死を遂げた 3 。これにより、父・為資の代から続いた庄氏による備中松山城の支配は完全に終わりを告げ、備中の覇権は再び三村氏の手に渡ったのである 22 。
この高資の最期については、江戸時代に成立した軍記物『中国太平記』に、より詳細で悲劇的な描写が残されている。それによれば、高資は嫡子の勝資に軍勢を付けて竹庄(現在の岡山県加賀郡吉備中央町竹荘)へ派遣している留守を、三村元親と毛利元清の連合軍に不意に攻められた。城内には小姓や当番の兵士など、わずか四、五十人しか残っておらず、衆寡敵せず、高資は奮戦の末に討ち死にし、城兵も一人残らず討ち取られたという 21 。
この軍記物の記述は、高資の奮戦ぶりを伝える一方で、その敗因を「息子の不在」や「手勢の少なさ」といった不運な状況に帰している。これは、英雄の悲劇的な最期を演出するための物語的な脚色が含まれている可能性を考慮する必要がある。史実として見れば、高資の敗北は、単なる不運や油断によるものではなく、より構造的な要因、すなわち、後ろ盾であった尼子氏の滅亡、毛利・三村連合の圧倒的な軍事力、そして宇喜多氏との脆弱な連携といった、高資個人の力量では覆しがたい戦略的劣勢に起因するものであった。彼の死は、一地方豪族が、中国地方の覇者である毛利氏の本格的な軍事力の前に屈した、戦国時代の非情な現実を示す象徴的な出来事であったと言えよう。高資の死をもって、備中における庄氏本宗家は事実上、滅亡したのである。
庄高資の戦死は、備中における庄氏本宗家の武家としての歴史に事実上の終止符を打った。しかし、一族の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。嫡男・勝資の流転の生涯と、武士の身分を捨てて新たな生きる道を見出した子孫たちの動向は、戦国乱世を生き抜いた一族の栄枯盛衰の物語を完結させるものである。
父・高資が備中松山城で討死した時、嫡男の庄勝資(かつすけ)は竹庄にいた 4 。父の死と本拠の陥落という報を受け、彼は父祖以来の縁を頼り、再興を期して出雲の尼子氏のもとへ落ち延びた 4 。
しかし、その武勇は敵方であった毛利氏の知るところともなっていた。後に毛利輝元は、浪人していた勝資を「極めて勇敢であり、敵ながら天晴れ」と評価し、使者を送って召し返した 36 。これは、毛利氏が敵対勢力であっても有能な武将を取り立て、自らの戦力とする戦略の一環であった。父を死に追いやった勢力に仕えるという屈辱を受け入れ、勝資は家の再興の機会を窺った。
その最期は、軍記物『西国太平記』や『中国太平記』に壮絶なものとして描かれている。天正4年(1576年)、毛利氏は宇喜多方の備前児島・麦飯山城(むぎいざんじょう)を攻撃した。この「麦飯山の戦い」で、毛利軍の先鋒を任された勝資は、敵将である城主・明石源三郎と一騎打ちとなり、見事これを槍で突き伏せた。しかし、源三郎の首を挙げようとしたその瞬間、源三郎の家臣に不意を突かれ、討ち取られたという 4 。父の仇である三村氏を滅ぼした毛利氏のために戦い、宇喜多方と戦って命を落とすという、彼の生涯はまさに大勢力の手のひらの上で翻弄され続けた悲劇であった。
ただし、この「麦飯山の戦い」自体は、同時代の一次史料にその記録が乏しく、二万余の軍勢が動員されたとされる大規模な合戦でありながら、その実在性については研究者の間で疑問視する声もある 15 。後世の軍記物が、庄氏最後の当主の悲劇的な最期を演出するために創作した物語である可能性も否定できない。
庄勝資の死(あるいは、朝鮮出兵での戦死説もある 36 )により、庄氏の武将としての歴史は幕を閉じる。家督は勝資の弟である資直(すけなお)が継いだとされる 4 。
関ヶ原の戦いを経て、備中を支配していた毛利氏が防長二国に減封されると、庄氏一族は大きな転換点を迎える。彼らは武士の身分を捨てて帰農し、旧領にほど近い上房郡津々村(現在の岡山県高梁市中井町津々)に土着した 3 。
そして、江戸時代を通じて、庄氏の子孫はこの地で代々庄屋(村役人の長)を務め、地域の有力者としてその家名を後世に伝えたのである 16 。多くの戦国武家が歴史の波間に消えていく中で、庄氏は武士としての誇りを捨て、統治者としての新たな役割(治者)に転身することで、巧みに時代に適応し、家の存続を図った。これは、庄氏一族が単なる武勇だけでなく、鎌倉以来の名門として地域に根差した人望や統治能力を備えていたからこそ可能であった選択であり、一族の強かさを物語っている。
庄高資の生涯を振り返ると、それは単に「三村元親に敗れた武将」という一言で片付けられるものではない。彼は、父・為資が築いた全盛期の遺産を継承し、備中の覇権を巡って宿敵・三村氏と死闘を繰り広げ、西の毛利、北の尼子、東の宇喜多という大国の狭間で、家の存亡をかけて戦い抜いた、紛れもない戦国の武将であった。
彼の行動は、常に巨大勢力の動向という外部要因に強く規定されていた。当初は尼子氏を頼り、尼子氏が衰退すると、今度は三村氏という共通の敵を持つ宇喜多氏と手を結んだ。これは、主体性の欠如ではなく、弱者が強者の間で生き抜くための、ぎりぎりの現実的判断、すなわち生存戦略であった。特に、三村氏の弱体化という好機を逃さず、宇喜多氏と連携して一時的にせよ備中松山城を奪回した手腕は、彼が優れた戦略眼を持っていたことを示している。
しかし、彼の奮闘も、中国地方全体の勢力図を塗り替える毛利氏の圧倒的な力の前に、ついには及ばなかった。元亀2年(1571年)の彼の戦死は、毛利氏による備中再平定という大きな軍事作戦の一環であり、地方の有力国人が、より強大な統一権力によってその独立を失っていく戦国後期の典型的な姿を映し出している。
最終的に、庄高資は父の築いた栄光を守り抜くことはできなかった。しかし、彼は決して無力な敗者ではなかった。激動の時代の中で、一族の誇りを背負い、不屈の精神で最後まで再起をかけて戦った。その生涯は、華々しい天下人たちの歴史の陰で繰り広げられた、無数の地方武将たちのリアルな興亡史の一つとして、記憶されるべきである。庄高資は、時代の奔流の中に消えた、悲劇の武将であると同時に、その激流に最後まで抗い続けた「備中の驍将」として、再評価されるに値する人物である。