最終更新日 2025-06-20

後藤信康

「後藤信康」の画像

伊達家の驍将、「黄後藤」信康の生涯:武勇、忠誠、そして伝説

序章:伊達政宗を支えた「黄色の母衣」

伊達政宗が奥州の覇権を握り、天下にその名を轟かせた激動の時代、その傍らには数多の優れた家臣たちの姿があった。その中でも、一際鮮烈な印象を後世に残す武将が後藤信康(ごとう のぶやす)である。彼は「知勇兼備の武将」と称され、その生涯は主君政宗への揺るぎない忠誠と、戦場での比類なき武勇に彩られている 1

信康の存在を最も象徴するのが、「黄後藤(きごとう)」という異名である 3 。彼は合戦の場において、常に鮮やかな黄色の母衣(ほろ)を背負って敵陣に切り込んだ。その姿は敵味方の双方に強烈な印象を与え、畏怖の対象となったという 4 。この「黄後藤」という名は、単なる呼び名に留まらない。それは信康の武士としての矜持、伊達軍における彼の卓越した地位、そして後世に語り継がれる伝説そのものを内包する、強力な象徴であった。本稿では、この「黄色の母衣」を纏った一人の武将、後藤信康の生涯を、その出自から戦歴、人物像、そして死後に生まれた伝説に至るまで、徹底的に詳述する。伊達二十四将の一人に数えられることもある彼の生涯を紐解くことは 6 、政宗の覇業を支えた伊達家臣団の実像に迫る上で不可欠な作業と言えるだろう。

第一部:出自と後藤家継承 ― 二つの家門

後藤信康の人物像を理解するためには、彼が背負った二つの家門、すなわち生家である湯目氏と、養子として継承した後藤氏の歴史と家格を深く掘り下げる必要がある。彼の生涯は、これら二つの血脈が交差する点に成立している。

第一章:湯目氏の血脈 ― 長井郡の国人

後藤信康は、弘治2年(1556年、一説には弘治元年(1555年))に、出羽国長井郡洲島城主・湯目重弘(ゆのめ しげひろ)の次男として生を受けた 1 。本姓は湯目氏であり、通称を孫兵衛と称した 3

湯目氏は、元来、陸奥国長井郡を本拠とする国人(在地領主)であった 8 。南北朝時代に伊達氏が長井郡を攻略した際にその軍門に降り、以来、伊達家譜代の家臣として仕えてきた歴史を持つ 9 。信康の実家である湯目氏は、伊達家臣団の中で確固たる地位を築いていたことが窺える。事実、信康の一族からは、後に政宗の側近として活躍し、秀次事件の際には主君の無実を直訴して「津田」の姓を賜る湯目景康(後の津田景康)のような重要人物も輩出しており、湯目氏が伊達家にとって重要な家であったことを物語っている 8 。信康は、このような伊達家への忠節を重んじる家風の中で育ったのである。

第二章:名門・後藤家の継承

湯目家の次男として生まれた信康の運命を大きく変えたのは、伊達家の重臣であった後藤信家(ごとう のぶいえ)に跡取りがいなかったことである 7 。戦国時代において、有力な家臣の家系が断絶することは、大名家にとって大きな損失であった。そこで、湯目重弘の次男であった信康が信家の養嗣子として迎えられ、後藤家の家督を継承することとなった 1

この後藤家は、単なる一武家の家系ではなかった。伊達家において重きをなし、後の仙台藩時代には藩政の中枢を担う「宿老(しゅくろう)」の家格にまで昇る名門であった 11 。宿老とは、藩主の補佐役として藩の最高意思決定に関与する極めて重要な役職であり、後藤家が伊達家中でいかに高い評価を受けていたかがわかる 14

さらに、後藤家はその由緒を物語る家宝を伝えていた。その一つが、織田信長から拝領したと伝わる「朱柄槍(しゅえのやり)」である 11 。また、後藤家の家紋である「木瓜紋(もっこうもん)」は、織田家の家紋としても名高く、一説には後藤家の祖先が信長の兄・信広に仕えた際に賜ったものだとされている 12 。これらの伝承は、後藤家が中央の織田政権とも何らかの繋がりを持ち、伊達家中においても特別な名誉を担う家であったことを示唆している。

信康の養子入りは、単に一個人の家督相続の問題に留まらない。それは、伊達家という大名権力が、家臣団の結束を固め、有能な人材を適所に配置し、有力な家系を存続させるための戦略的な人事であったと考えられる。すなわち、譜代の忠臣である湯目家から有能な次男を、同じく重要な後藤家に送り込むことで、両家の安泰と伊達家全体の強化を図ったのである。これにより信康は、湯目と後藤という二つの名家の歴史と期待を一身に背負い、伊達家臣としてそのキャリアを歩み始めることとなった。

第二部:伊達の先鋒 ― 戦歴と武功

後藤信康の武名は、伊達政宗の領土拡大の歴史と分かち難く結びついている。特に彼の代名詞である「黄後藤」の姿は、数々の戦場において伊達軍の先鋒を象徴するものであった。

第一章:「黄後藤」の誕生 ― 母衣に込められた意味

信康を語る上で欠かせないのが、彼が戦場で常に身にまとったという黄色の母衣である 4 。母衣とは、元来、背後からの矢を防ぐための補助的な防具であった 16 。しかし、戦闘形態が集団戦へと移行した戦国時代には、その実用的な意味合いは薄れ、大将の側近や使番(つかいばん)といった、選ばれた精鋭のみが着用を許される名誉の装飾具へと変化していった 17 。母衣を着用した武士団は「母衣衆(ほろしゅう)」と呼ばれ、織田信長が「赤母衣衆」「黒母衣衆」を組織したことは特に有名である 16

伊達家においても、豊臣秀吉の制度に倣い、母衣衆が置かれていたとされ、信康はその一員、あるいはそれに匹敵する存在であったと考えられる 17 。彼が選んだ「黄色」という色彩には、単なる視覚的な特徴以上の深い意味が込められていた可能性が高い。当時の武士たちの世界観に大きな影響を与えていた陰陽五行思想において、黄色は方角の「中央」を、そして万物を統べる「土」の徳を象徴する特別な色であった 20 。四方を守護する四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)の中心に位置し、それらを統括するのが「黄龍」である 20 。信康が敢えてこの黄色を自身のパーソナルカラーとして選んだのは、自らを単なる一人の勇将としてではなく、伊達軍の中核を担う「中央」の存在、すなわち戦線の要となる武将であると内外に示す、強烈な自負の表れであったと解釈できよう。この鮮烈な出で立ちこそが、「黄後藤」という畏敬の念を込めた異名の源泉となったのである。

第二章:対蘆名戦線の要 ― 檜原城の攻防

「黄後藤」の名を不動のものとした最初の大きな戦功が、対蘆名氏戦線における檜原城(ひばらじょう)の守備であった。天正13年(1585年)、家督を継いだばかりの伊達政宗は、長年の同盟相手であった蘆名氏との関係を破棄し、会津への侵攻を開始する(関柴合戦) 7 。この時、政宗は蘆名領の最前線、現在の福島県北塩原村に檜原城を築城し、その初代城主として後藤信康を抜擢したのである 22

檜原城は、米沢と会津を結ぶ街道を抑える戦略的要衝であり、蘆名氏の勢力圏に楔を打ち込むための極めて危険な拠点であった 25 。信康はこの孤立した城で、約4年間にわたり城番を務め、蘆名方の度重なる攻撃や圧力に耐え抜いた 7 。この困難な任務を遂行し得たことは、信康の武勇と知略、そして政宗からの絶大な信頼を物語っている。政宗の正室・愛姫が、在番中の信康に慰労の品として打掛を贈ったという逸話も、彼がいかに重要視されていたかを示している 7

そして天正17年(1589年)、南奥州の覇権を賭けた摺上原の戦いが勃発すると、檜原城はその真価を発揮する。この決戦において、伊達軍の別働隊を率いた原田宗時が檜原城から出撃し、蘆名軍の背後を攪乱したのである 23 。この動きは蘆名軍の陣形を崩す一因となり、伊達軍の地滑り的な勝利に貢献した。信康が4年間にわたり守り抜いた檜原城は、まさしく伊達氏の会津攻略における礎石となったのである。

第三章:天下統一の奔流の中で

蘆名氏滅亡後も、信康の活躍は続く。天正19年(1591年)の葛西大崎一揆鎮圧戦では、佐沼城攻めにおいて敵将・山上内膳を討ち取るなどの武功を挙げた 7 。文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では政宗に従い渡海し、伊達者の武威を異国の地で示した 1

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、東軍についた政宗の下で白石城攻略戦に参加し、戦功を挙げている 7 。これらの度重なる功績により、信康の知行は着実に加増され、慶長7年(1602年)には桃生郡大森城主として2,500石を知行するに至った 7 。以下の表は、信康の輝かしい戦歴と、それに伴う知行の変遷をまとめたものである。

年代 (西暦)

主要な出来事

信康の役割・武功

役職・知行地

関連史料

天正10年 (1582)

対相馬氏合戦

伊達輝宗に従い出陣、武功を挙げる。

-

7

天正13年 (1585)

関柴合戦(対蘆名氏)

檜原城を築城し、城主として4年間守備。

耶麻郡・檜原城主

7

天正17年 (1589)

摺上原の戦い

檜原城を拠点として伊達軍の勝利に貢献。

耶麻郡・北方城主

7

天正19年 (1591)

葛西大崎一揆鎮圧

佐沼城攻めなどで活躍。

亘理郡・坂元城主

7

文禄元年 (1592)

文禄の役(朝鮮出兵)

政宗に従い渡海。

-

1

慶長5年 (1600)

関ヶ原の戦い(白石城攻略)

白石城攻略戦で活躍。

栗原郡・宮沢城主

7

慶長7年 (1602)

-

-

桃生郡・大森城主 (2,500石)

7

慶長10年 (1605)

改易

政宗の勘気を被り、突如改易される。

-

7

慶長16年 (1611)

赦免・復帰

赦免され、伊達家に復帰。

江刺郡・三照 (500石)

7

この表が示すように、信康のキャリアは慶長10年(1605年)の突然の暗転まで、まさに順風満帆であった。彼の武功は、政宗の勢力拡大に不可欠なものであり、伊達家臣団の中でも際立った存在であったことは疑いようがない。

第三部:信康の実像 ― 人物と逸話

戦場での勇猛さで知られる信康だが、伝わる逸話からは、単なる猛将ではない、思慮深く、人間的な魅力に溢れた人物像が浮かび上がってくる。

第一章:知勇兼備の将 ― 原田宗時との決闘

信康の「沈勇果敢にして知略あり」と評される人柄を最もよく示すのが 29 、同僚でありライバルでもあった猛将・原田宗時(はらだ むねとき)との逸話である。宗時は勇猛果敢である一方、気性が激しいことで知られていた。ある時、関柴合戦での不始末を信康に非難されたことに腹を立てた宗時は、信康に決闘を申し込んだ 7

武士同士の決闘は命懸けであり、受けて立つのが常道であった。しかし、信康は碁を打ちながら動じることなく、宗時を諭したという。「私的な遺恨で貴殿のような勇士と命のやり取りをするのは、お家にとって大きな損失である。私もこのようなことで命を失いたくはない。互いにこの命は、主君のため、お家のためにこそ使うべきではないか」 7 。この理路整然とした説得に、宗時は自らの未熟を恥じ、深く感じ入った。以後、二人は互いを認め合う刎頸の友となったと伝えられる 29 。この逸話は、信康が個人の感情よりも組織全体の利益を優先する、冷静な判断力と大局観を持った武将であったことを如実に示している。

第二章:主君・政宗との関係

信康が主君・伊達政宗から寄せられていた信頼は、極めて厚いものであった。その証左の一つが、慶長6年(1601年)に始まった仙台城の築城において、彼が普請の総奉行に任じられたことである 3 。仙台城は、62万石の仙台藩の新たな本拠地であり、その建設は政宗の治世における最大の事業の一つであった。この大役を任されたことは、信康が軍事面だけでなく、土木や差配といった内政面でも高い能力を持つと評価されていたことを意味する 31

また、信康は政宗の愛馬として名高い「五島(ごとう)」(または五島黒)を献上した人物としても知られる 32 。政宗はこの馬を大変気に入り、「この馬の首が向かうところで戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る」とまで語ったとされ、主君との個人的な絆の深さが窺える 12 。さらに、キリシタン武将として知られる後藤寿庵(ごとう じゅあん)と義兄弟の関係を結んでいたという記録もあり 27 、信康の幅広い人脈と懐の深さを示している。

第三章:突然の改易 ― 栄光からの転落

輝かしい武功を重ね、主君の厚い信頼を得ていた信康のキャリアは、慶長10年(1605年)、突如として暗転する。政宗の勘気を被り、知行を没収され改易処分となったのである 7

この改易の理由については、葛西大崎一揆の際の宮崎城攻めにおける軍令違反(抜け駆け)が原因であるとする説が一部で語られている 7 。しかし、この説には大きな疑問符が付く。第一に、この軍令違反は改易の14年も前の出来事であり、その間に信康は何度も恩賞を受け、加増されている。あまりに時機を逸した処罰理由と言わざるを得ない。事実、後藤家の旧領である小牛田町の町史『小牛田町史』は、他の史料的裏付けがないことなどを理由に、この説を明確に否定している 7

では、真の理由は何だったのか。史料が沈黙しているため確かなことは言えないが、当時の政治状況から推察することは可能である。慶長10年は、関ヶ原の戦いが終わり、徳川幕府による新たな秩序が確立されつつある時期であった。全国の大名は、戦国時代の武断的な支配者から、平時の行政官へとその役割を変えることを求められていた 34 。この過程で、藩主の権力を強化するために、戦国時代に大きな武功を立てた有力家臣が粛清される例は少なくなかった。

信康は、まさしく戦場で武名を轟かせた旧来の武将の象徴であった。「黄後藤」という個人の武勇を象徴する異名は、平時においては藩主の絶対的な権威を相対化しかねない危険性を孕んでいたかもしれない。政宗が、説得力のない理由を掲げてまで、家中随一の功臣を厳しく罰したのは、戦国の遺風を払拭し、家臣団に新たな時代の秩序と、藩主への絶対服従を徹底させるための、一種の政治的示威行為であった可能性が考えられる。信康の改易は、戦国の終焉と、近世大名家の確立という、時代の大きな転換点の中で起きた悲劇であったと言えるかもしれない。

第四部:晩年と後世への影響

栄光からの転落を経験した後、信康の人生は静かな終焉を迎える。しかし、彼の死後、その存在は史実を超えて伝説となり、仙台の人々の記憶の中で生き続けることになった。

第一章:赦免から最期へ

改易から6年後の慶長16年(1611年)、信康はついに政宗から赦免され、伊達家への復帰を許された 7 。しかし、彼に与えられたのは、かつての2,500石には遠く及ばない、江刺郡三照(現在の岩手県奥州市)における500石の知行であった 7 。これは、彼が伊達家臣団に復帰することは認められたものの、その政治的・軍事的な影響力はかつての状態には戻らないことを明確に示す処遇であった。

復帰からわずか3年後の慶長19年(1614年)8月8日(一説には29日)、後藤信康は死去した 1 。享年59 3 。その墓所は、岩手県奥州市にある正源寺に現存すると伝えられている 7 。彼の最期は、戦国の世を駆け抜けた武将としては、あまりに静かなものであった。

第二章:死をめぐる伝説 ― 「馬上蠣崎神社」の由来

史実における信康の最期は穏やかなものであったが、後世の人々は、彼に別の、より劇的な死の物語を与えた。それは、仙台城本丸の崖から愛馬「五島」に跨って飛び降り、自害したという壮絶な伝説である 35 。この伝説によれば、その理由は、慶長19年に勃発した大坂冬の陣への出陣を許されなかったことを嘆き悲しんだためだとされる 7 。この物語は、仙台市青葉区に現存する馬上蠣崎神社(うばがみかきざきじんじゃ)の由来譚として、今なお語り継がれている 7

しかし、この伝説は史実とは明確に矛盾する。信康が亡くなったのは慶長19年8月であり、大坂冬の陣が始まったのは同年10月以降である。彼が冬の陣への不参加を嘆くことは時間的に不可能である。この事実は、この物語が歴史的事実ではなく、後世に創られたものであることを示している。

では、なぜこのような伝説が生まれたのか。そこには、英雄の生涯における「物語的整合性」を求める人々の心理が働いていると考えられる。史実における信康のキャリアは、「輝かしい武功と忠誠」と「不可解な理由による突然の改易」という、大きな矛盾を抱えている。公式記録がその理由を曖昧にする中で、後世の人々はこの物語的空白を埋める必要があった。

この伝説は、彼の悲劇を「主君からの政治的粛清」ではなく、「主君への忠誠心があまりに強すぎたが故の悲劇」へと昇華させる。戦場で死ぬことこそ本懐と考える老武将が、太平の世で活躍の場を奪われた絶望の末に自ら命を絶つという筋書きは、戦国武将「黄後藤」の最期として、人々にとって遥かに納得のいく、英雄的な結末であった。この伝説は、史実の信康ではなく、人々が記憶の中に創り上げた英雄・後藤信康の物語なのである。

第三章:後藤家のその後

信康個人は不遇の晩年を送ったが、彼が養子として継承した後藤家は、その後も伊達家中で重要な地位を保ち続けた。信康の死後、家督は嫡男の近元(ちかもと)が相続した 7 。後藤家はやがて知行地を遠田郡不動堂(現在の宮城県美里町)に移し、その地を治めた 13

そして、信康の死から約140年後の宝暦7年(1757年)、六代当主の後藤寿康(ひさやす)の代に、後藤家は仙台藩の最高職である「宿老」に列せられた 15 。これは、信康が守り抜いた家名が、仙台藩体制下で最高の栄誉に達したことを意味する。信康の生涯は悲劇的な側面も持つが、彼が果たした「後藤家を存続させる」という養子としての役割は、見事に達成されたと言えるだろう。後藤家は、信康を初代として幕末まで続き、その家系は仙台藩の歴史に深く刻まれたのである 14

結論:史実と記憶の狭間で生きる武将

後藤信康の生涯は、伊達政宗の覇業を軍事的に支えた、まぎれもない功臣のそれであった。生家の湯目氏から受け継いだ忠誠心と、養家である後藤家の名跡を背負い、彼は伊達軍の先鋒として数々の戦場で勝利に貢献した。特に、対蘆名戦線の最前線・檜原城を4年間にわたり死守した功績は、政宗の会津攻略を可能にした決定的な要因の一つであり、彼の武勇と戦略眼を証明している。

しかし、彼のキャリアは、戦国の世が終わりを告げ、徳川の治世が始まる中で暗転する。突然の改易という理不尽な処遇は、彼の武功がいかに大きくとも、新たな時代の政治力学の前では脆弱であったことを示している。その理由は公式記録には明記されず、歴史の闇に葬られた。この史実の「空白」こそが、後世に彼を伝説化させる土壌となった。

史実の信康は、有能で忠実でありながらも、主君の政治的判断によって翻弄された一人の家臣であった。一方で、人々の記憶の中に生きる信康は、主君への忠義に殉じた悲劇の英雄である。その乖離は、歴史がいかにして記憶や物語へと編み直されていくかを示す好例と言える。

最終的に、後藤信康という武将を定義するのは、政治の複雑さや晩年の不遇ではなく、戦場を駆け抜けた「黄後藤」という鮮烈なイメージである。それは、揺るぎない武勇と忠誠の象徴として、史実の彼方に霞むことなく、今なお輝きを放ち続けている。彼の存在は、伊達政宗という巨星を支えた、無数の星々の一つでありながら、ひときわ強い光を放つ、忘れ得ぬ武将なのである。

引用文献

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