最終更新日 2025-06-20

後藤元政

「後藤元政」の画像

戦国史の深淵に挑む:美作国主・後藤元政の生涯と一族の軌跡に関する総合的考察

序章:歴史の狭間に消えた美作の国主、後藤元政

日本の戦国時代史において、後藤元政(ごとう もとまさ)という名は、多くの歴史愛好家にとって馴染みの薄い存在かもしれない。美作国(現在の岡山県北東部)に覇を唱えた後藤氏最後の当主でありながら、その人物像は、偉大で悲劇的な最期を遂げた父・後藤勝基(かつもと、勝元とも)と、戦国屈指の謀将として名高い宇喜多直家(うきた なおいえ)という、二つの強烈な個性の影にほとんど覆い隠されている 1 。史料における彼の記述は断片的であり、その生涯は不在と曖昧さによって特徴づけられる。

しかし、この「見えなさ」こそが、後藤元政という人物、そして彼が生きた時代を理解する上で極めて重要な鍵となる。彼の当主としての期間は、美作後藤氏が二百年以上にわたって築き上げた権勢の頂点と、宇喜多直家の侵攻による劇的な滅亡という、二つの時代の断層に挟まれている。歴史の記録者が、英雄的な活躍を見せた創業者や、悲壮な滅びの美学を体現した最後の指導者に焦点を当てるのは自然なことであり、その狭間に置かれた元政のような「移行期の指導者」は、物語の主役から外されがちであった。

本報告書は、この歴史の狭間に埋もれた後藤元政の生涯を、可能な限り詳細かつ多角的に再構築することを目的とする。そのために、『三星軍伝記』や『備前軍記』といった、劇的な記述を含む一方で潤色の可能性も否定できない軍記物語と、『美作古簡集』に代表される、より客観的だが断片的な地方の古文書、そして信憑性は未検証ながらも具体的な内容を持つ一族の伝承といった、性質の異なる史料群を横断的に分析する 3 。これらの錯綜した情報を丹念に読み解き、矛盾を突き合わせ、行間を埋めることで、単なる事実の羅列ではない、一人の戦国武将の苦悩と、一つの大名家の盛衰をめぐる重層的な物語を浮かび上がらせる。後藤元政の生涯を追うことは、戦国という時代の力学の中で、地方の国人領主がいかに生き、そしていかに消えていったのかという、より普遍的な問いに迫る試みでもある。

第一章:美作後藤氏の系譜と台頭

藤原氏を祖とする名門の出自

美作後藤氏は、その出自を平安時代の大豪族、藤原氏に求めている。利仁流(りじんりゅう)の播磨後藤氏の系統であるとされる一方で、現存する家系図では同じく藤原北家の一派である秀郷流(ひでさとりゅう)の末裔と記されており、その具体的な系譜には若干の揺れが見られる 1 。戦国時代の多くの武家がそうであったように、後藤氏もまた、自らの支配の正当性を権威ある祖先に結びつけることで、在地における求心力を高めようとしたと考えられる。

美作国への入部と三星城の確立

後藤氏が歴史の表舞台に明確に登場するのは、南北朝時代の観応元年(1350年)にまで遡る。山名義理(やまな よしただ)が発給した書状の中に、「後藤下野守」が美作国塩湯郷(しおゆのごう)の地頭職に推挙されたという記述が見られるのがその初見である 1 。これは、後藤氏がこの時期にはすでに美作国に根を下ろし、在地領主としての地位を確立していたことを示す貴重な史料である。

一族の権力基盤の中核を成したのが、現在の岡山県美作市に位置する三星城(みつぼしじょう)であった。この城は、後藤氏が滅亡するまでの二百年以上にわたり、一族の居城としてその威容を誇った 1 。城名は、城が築かれた山が三つの峰を持つことに由来するとされ、眼下には吉井川が流れ、出雲街道を押さえる交通の要衝に位置していた 5 。この天然の要害は、後藤氏が美作東部に覇を唱える上での軍事的・経済的な拠点として、不可欠な役割を果たしたのである 7

東作州の覇者へ

後藤氏は三星城を拠点として着実に勢力を拡大し、戦国時代に入るとその動きは一層活発化する。明応7年(1498年)、後藤康秀(やすひで)は美作中央部に勢力を誇った美作立石(たていし)氏に戦いを挑むも、美和山城主・立石景泰(かげやす)に敗れ、討死を遂げるという苦杯を喫した 1

しかし、その子・勝政(かつまさ)は父の雪辱を果たすべく機会を窺い、文亀2年(1502年)、景泰が病没し、その子・久朝(ひさとも)が跡を継いだ好機を捉えて再び美和山城を攻撃。ついにこれを陥落させ、宿敵・立石氏を滅ぼした 1 。この勝利により、後藤氏は美作東部(東作州)における覇権を確立し、戦国大名としての地位を不動のものとしたのである。

第二章:父・後藤勝基の時代 ― 栄華と動乱

権勢の絶頂期

後藤元政の父、後藤勝基(かつもと、天文7年(1538年)? - 天正7年(1579年))の時代に、美作後藤氏の権勢は絶頂期を迎える 11 。勝基は、激動する戦国時代の情勢を巧みに読み解く優れた政治感覚の持ち主であった。当初、山陰の大大名である尼子(あまご)氏に属していたが、その勢力に陰りが見え始めると、備前国(現在の岡山県南東部)で台頭していた浦上宗景(うらがみ むねかげ)と同盟を結ぶという大胆な外交転換を行う 1 。この浦上氏との連携を軸に、勝基は安東氏、江見氏、水島氏といった近隣の土豪を次々と支配下に組み入れ、東作州の完全掌握を成し遂げた 1

宇喜多直家との宿命的な同盟

自らの地位を盤石にするため、勝基はさらなる一手に出る。それは、主君である浦上宗景の家中で最も智謀に優れ、恐るべき野心を秘めた家臣、宇喜多直家の娘・千代を正室として迎えることであった 2 。この政略結婚により、直家は勝基の義父となり、両家は強固な姻戚関係で結ばれた。しかし、この同盟こそが、後に後藤氏を滅亡へと導く皮肉な宿命の始まりとなる 15

当初、この同盟は双方にとって利益のあるものであった。勝基は浦上家中の実力者の後ろ盾を得て、美作における支配を安定させることができた。一方の直家にとっても、美作の有力国人である後藤氏を味方につけることは、自らの勢力圏の北方を固める上で極めて有効な戦略であった。

対立への序曲

しかし、両者の蜜月は長くは続かなかった。勝基の勢力拡大は、必然的に周辺勢力との摩擦を生んだ。備中国の三村家親(みむら いえちか)に三星城を攻められるなど、絶えず戦乱の中に身を置いていた 11 。さらに元亀2年(1571年)には、主君であるはずの浦上宗景と対立し、毛利氏と結んで三星城に籠城するという事態にまで発展している 11

そして、天正3年(1575年)、宇喜多直家が主君・浦上宗景を居城の天神山城から追放し、事実上の下剋上を成し遂げたことで、状況は決定的に変わる。かつては同じ浦上家の家臣という立場であった直家が、備前・美作にまたがる一大戦国大名へと変貌を遂げたのである。この瞬間から、独立領主としての誇りを持つ後藤勝基と、地域の完全支配を目指す宇喜多直家との衝突は、もはや避けられない運命となった。

この力関係の変化は、両者の関係性を根底から覆した。直家にとって、もはや後藤氏は対等な同盟者ではなく、自らの覇業の前に立ちはだかる障害物でしかなかった。一方、勝基にとって、かつての同輩であり、義理の父である直家の軍門に降ることは、到底受け入れられる選択ではなかった。

危機を察知した勝基は、生き残りをかけて必死の外交努力を展開する。西の大国・毛利氏との連携を深めると同時に、中央で天下統一を進める織田信長に和議の斡旋を申し入れるなど、あらゆる手を尽くして宇喜多直家という巨大な脅威に対抗しようとした 12 。しかし、時代の潮流は、もはや美作の一国人領主の力で押しとどめられるものではなかった。勝基の栄華は、自らが結んだ同盟によって、皮肉にもその終焉を迎えようとしていたのである。

第三章:後藤元政の家督相続と領国経営

謎に包まれた権力移譲

宇喜多直家との最終決戦が迫る緊迫した情勢の中、後藤氏の家督は父・勝基から嫡男・元政へと譲られた。この権力移譲の正確な時期や背景については、史料によって記述が異なり、多くの謎に包まれている。

軍記物語などでは、落城の際まで勝基が采配を振るっていたかのように描かれ、家督を譲った後も「後見(こうけん)」として実権を握り続けたとされている 1 。しかし、後藤氏が発給した同時代の文書を見ると、ある時期から元政の名で署名されたものが現れるようになり、彼が公式な当主として領国経営に携わっていたことが確認できる 11 。元政の名は、史料によって「基政(もとまさ)」や「勝政(かつまさ)」といった表記も見られる 1

当主としての実務 ― 和田甚助の記録が示すもの

後藤元政が単なる名目上の当主ではなく、実務を伴う領主として機能していたことを示す最も確実な証拠が、『美作古簡集(みまさかこかんしゅう)』という古文書集に収められた一つの記録である。これは、後藤氏滅亡から約34年後の慶長十八年(1613年)に、位田村(いんでんむら)の助兵衛(すけべえ)という人物が津山藩に提出した書上(かきあげ)である 17

この書上には、助兵衛の伯父にあたる和田甚助(わだ じんすけ)という人物の経歴が記されている。それによると、播磨国出身の和田甚助は、後藤勝基に仕え、その後、 勝基の子である元政(史料では「基政」と表記)の代まで奉公した と明記されている 17

そして、この記録が持つ決定的な重要性は、次の記述にある。和田甚助は、後藤氏から「位田村ノ内勝間山と申端城(はしじろ)」、すなわち支城である勝間城(かつまじょう)を預けられていたというのである 17 。これは、元政が当主として、家臣の配置や城の管理といった、領主としての具体的な権限を行使していたことを示す動かぬ証拠と言える。

この和田甚助の記録は、元政の人物像を再評価する上で極めて価値が高い。それは、元政を単なる系図上の一名から、家臣を統率し、軍事的な権能を委任する、生きた領主へと引き上げるものである。もちろん、経験豊富な父・勝基が、特に軍事や外交といった重要事項において絶大な影響力を保持し続けたことは想像に難くない。しかし、領国の内政や日常的な統治においては、元政が名実ともに当主としてその責務を担っていた。彼の治世は、父が築いた基盤の上で、刻一刻と迫る宇喜多氏の脅威という、極度の緊張下における危機管理の時代であったと言えよう。

軍記物と古文書の間に ― 二元的な指導体制の可能性

ここで、史料の性質の違いを考慮する必要がある。『三星軍伝記』のような軍記物語が、最後の籠城戦において父・勝基の英雄的な姿をクローズアップするのに対し、『美作古簡集』のような行政記録は、息子・元政の公式な当主としての役割を淡々と示している。

これらは必ずしも矛盾するものではない。軍記物語は、読者の心を揺さぶる英雄譚や悲劇を語ることを目的とした文学作品の一種である。経験豊かな老将・勝基が、滅びゆく一族を前にして家臣に感動的な最後の言葉を遺す場面は、物語の主人公として極めて魅力的である 12

一方、古文書は土地の所有権や家臣の奉公といった、より現実的な事柄を記録するためのものである。和田甚助の書上は、後藤氏に仕えた事実とその知行地を証明するための公的な文書であった。

これらの異なる性質を持つ史料を統合して解釈することで、当時の後藤氏の指導体制がより立体的に見えてくる。すなわち、 父・勝基が最終決戦における最高顧問兼総司令官として軍事・外交を掌握し、息子・元政が公式な大名として領国内の統治と行政を担う という、一種の二元的な指導体制が敷かれていた可能性が浮かび上がる。このような、危急の事態における家督継承期の役割分担は、戦国時代の他の大名家でも見られる形態であり、後藤氏においても同様の体制が取られていたと考えるのが最も合理的であろう。

第四章:三星城合戦 ― 謀略と滅亡の叙事詩

宇喜多軍の侵攻

天正7年(1579年)春、主君であった浦上氏を滅ぼし、備前・美作南部を完全に掌握した宇喜多直家は、満を持して美作全土の制圧に乗り出した。その最大の標的は、東作州に君臨する後藤氏であった。直家は、腹心の将である延原景能(のぶはら かげよし)を総大将とする大軍を派遣し、後藤氏とその同盟勢力の殲滅を命じた 1

前哨戦の激闘

宇喜多軍の侵攻に対し、後藤勢は果敢に抵抗した。緒戦の舞台となったのは、後藤氏の支城である倉掛山城(くらかけやまじょう)であった。三星城から派遣された後藤久元(ひさもと)らの一隊は、巧みな伏兵戦術によって数で勝る宇喜多軍を奇襲。敵の総大将・延原景能自身を負傷させるほどの打撃を与え、その進軍を一時的に頓挫させた 6 。この勝利は、後藤氏の士気の高さと軍事的能力を示すものであったが、大局を覆すには至らなかった。

三星城への包囲と謀略

体勢を立て直した宇喜多軍は、後藤氏の本拠地・三星城へと殺到し、厳重な包囲網を敷いた。ここから、謀将・宇喜多直家の真骨頂ともいえる調略が開始される。直家は、湯郷村(現在の美作市湯郷)の長光寺の住職を密かに城内に送り込み、後藤家の家臣団の中から内応者を探させたのである 6

内なる敵 ― 安藤相馬の裏切り

直家の放った毒牙は、後藤家の重臣・安藤相馬(あんどう そうま)に食い込んだ。安藤は住職を通じて宇喜多方からの破格の条件(「我勢に付けば五千石宛行う」との密書があったとされる)に心を動かされ、主君を裏切ることを決意した 3

そして、籠城戦が最も激しくなったその時、安藤相馬は城内から火を放った。城内に突如として上がった火の手は、守備兵の間に深刻な混乱と動揺を引き起こした。これを合図に、城外で待ち構えていた宇喜多軍は一斉に総攻撃を開始。内外からの同時攻撃により、堅固を誇った三星城の防御は、一気に崩壊へと向かった 6

落城と勝基の最期

裏切りによって勝敗は決した。西の丸を守っていた難波利介(なんば りすけ)や柳澤太郎兵衛(やなぎさわ たろうべえ)といった忠臣たちは、城を脱出して再起を図ろうとするも、追撃を受けて壮絶な討死を遂げた 6

万策尽きたことを悟った後藤勝基は、残った僅かな家臣たちを前に、最後の言葉を述べたと『三星軍伝記』は伝える。「当家の運尽きて、この城を保つことは今日限りと覚える。この上は各々の存意に任せ、何れにても身を片付け、家名相続の謀略を計られよ」「予が一生の晴れ軍なれば、潔き合戦して討死すべし」と述べ、家臣たちの前途を気遣い、自らは潔い最期を遂げる覚悟を示した 12

その後、勝基は郎党27騎と共に城を落ち延びたが、追撃する宇喜多の大軍と戦いながら敗走を続け、ついに長内村(おさないむら)の隠坂(かくれざか)という場所で自害して果てた。享年42歳であったと伝えられる 6

地域紛争の背後にあった天下の動向

三星城の落城は、単なる一地方の国人領主の滅亡に留まるものではなかった。この戦いは、当時日本の覇権を争っていた織田信長と毛利輝元という二大勢力の代理戦争という側面を色濃く持っていた。

天正7年(1579年)当時、織田軍の中国方面司令官・羽柴秀吉と、西国の雄・毛利氏との戦いは激化の一途をたどっていた。その中で、備前・美作を領する宇喜多直家は、地理的にも政治的にも、両勢力の狭間で極めて微妙な立場に置かれていた。当初は毛利氏の同盟者であった直家だが、織田方の圧倒的な勢いを冷静に分析し、いずれ毛利を見限って織田に付くべきであると判断していた。

しかし、そのためには後背地の憂いを断つ必要があった。後藤氏は、毛利氏との連携を模索していた親毛利派の勢力であり 12 、直家が織田方に寝返った場合、背後から自領を脅かす最大の脅威であった。したがって、直家にとって後藤氏の殲滅は、来るべき主筋の乗り換えを安全に実行するための、絶対不可欠な戦略的布石だったのである。

事実、三星城を攻略し後藤氏を滅ぼした直後の天正7年9月、直家は毛利氏から離反し、正式に織田信長に恭順の意を示している 19 。後藤氏の滅亡は、宇喜多直家が織田・羽柴軍の一翼として、毛利氏と戦うための「手土産」であり、そのための「地ならし」であった。美作後藤氏は、天下統一という巨大な歯車に巻き込まれ、押し潰された犠牲者であったと言えるだろう。

第五章:元政の最期と一族の行方 ― 史実と伝承

最大の謎 ― 後藤元政の消息

父・勝基が壮絶な最期を遂げた一方、公式な当主であった後藤元政が三星城落城の際にどうなったのかについては、史料によって記述が異なり、その消息は謎に包まれている。これは、彼の生涯を追う上で最大の論点である。ある史料は城と共に討ち死にした可能性を示唆し、またある史料は城から落ち延びたとしている 1 。これらの錯綜する情報を整理し、その信憑性を検討することが不可欠である。

後藤元政の最期に関する諸説の比較

典拠・伝承

内容

分析・信憑性

城中討死説

軍記物語の文脈、一般的な想定

『三星軍伝記』などでは父・勝基の最期が詳細に描かれる一方、元政の具体的な行動は記されていない。当主として城と運命を共にしたと考えるのは自然な推論。

直接的な討死の記録はないが、籠城戦の責任者として十分に考えられる最期。しかし、確たる証拠に欠ける。

落城後逃亡説

Wikipedia『美作後藤氏』の記事 1 、各種系図・伝承 12

城を脱出し、生き延びたとする説。具体的な逃亡先やその後の人生について、特に子孫を名乗る家系の伝承に詳しい。

後述する子孫の伝承が非常に具体的であるため、単なる希望的観測とは考えにくい。物的証拠(墓所)の存在も、この説の信憑性を高めている。

生存と再起の物語 ― 「平田屋」の伝承

元政が生き延びたとする説の中で、最も具体的で詳細な物語を伝えているのが、後藤氏の子孫を称する家系の記録である。それによると、元政の子・後藤義政(よしまさ)は、三星城の落城を生き延びたという 20

この伝承によれば、義政は落城後、まず安東氏の居城近くの平田村(ひらたむら)に身を隠し、その後、森氏が治める津山城下へと移り住んだ 12 。そこで彼は武士の身分を捨て、商人として再起を図る。その際に名乗った屋号が、かつて潜伏した地の名にちなんだ「平田屋(ひらたや)」であり、醤油の醸造を手掛けて財を成したと伝えられている 20

この「平田屋後藤家」には、勝基・元政から始まる詳細な系図が伝来しており、その信憑性を巡っては議論があるものの、単なる口承ではない、記録に基づいた伝承であることは注目に値する 20

現代に続く血脈と記憶

後藤一族の物語は、戦国時代の滅亡で終わったわけではない。津山市二宮には、現在も後藤氏一族の墓地が存在し、落城の日とされる4月29日には、子孫が集まって先祖を祀る行事が続けられているという証言もある 12 。この墓地には、宗家のみが使用を許されたという「三星上り藤」の家紋が刻まれた墓石が並び、物理的な証拠として、一族の血脈が現代まで受け継がれてきたことを物語っている。

これらの伝承や物的証拠は、後藤氏が武家としては滅びたものの、その血脈は途絶えることなく、新たな形で生き続けたことを強く示唆している。

武士から商人へ ― 時代の変容を生き抜いた一族

この「平田屋」の伝承は、戦国時代から泰平の江戸時代へと移行する中で、多くの敗れた武士たちが辿った運命の一つの典型例を示している。豊臣、そして徳川による天下統一は、絶え間ない戦乱の時代の終わりを意味した。主君と領地を失った武士の一族にとって、再び武士として身を立てる道は極めて狭き門であった。

一方で、江戸時代の安定した社会は、商業の飛躍的な発展をもたらした。義政が商人として生きる道を選んだという物語は、このような社会の大きな変容を背景としている。彼らは剣を捨て、算盤を手にすることで一族の存続を図ったのである。

しかし、彼らが武士の誇りを捨てたわけではなかった。詳細な系図を大切に保管し、代々語り継いできたという事実は 20 、自らのルーツである武士としての過去を記憶し、それに誇りを持ち続けていたことの証左である。彼らは、実生活では商人でありながら、その心根には名門・後藤氏の血を引く者としての矜持を秘めていた。

三星城の落城は、武家としての美作後藤氏の終焉であった。しかしそれは、一族の物語の終わりではなかった。彼らは滅びるのではなく、「変容」したのである。後藤氏のその後の軌跡は、戦国乱世の終焉と近世社会の到来という、日本の歴史における一大転換期を、一地方豪族がいかにして生き抜いたかを示す、貴重なケーススタディと言えるだろう。

結論:戦国史における後藤元政の再評価

本報告書は、これまで歴史の片隅に追いやられてきた美作国主・後藤元政の生涯を、軍記物語、古文書、そして後世の伝承という多岐にわたる史料を駆使して再構築を試みた。その結果、父・勝基の強烈な個性と一族の悲劇的な滅亡の影に隠れながらも、元政が単なる名目上の君主ではなく、家臣の配置や支城の管理といった具体的な領主権を行使する、実務を伴った当主であったことが、『美作古簡集』の記録から明らかになった。

後藤元政の治世は、失敗として断罪されるべきものではない。むしろ、彼が相続したのは、父が築いた栄華の頂点であると同時に、戦国屈指の謀将・宇喜多直家との対立という、回避不可能な時限爆弾を抱えた極めて困難な状況であった。彼は、織田信長、毛利輝元、そして宇喜多直家という巨人たちが繰り広げる地政学的な激動の渦中に置かれた、一人の地方領主に過ぎなかった。彼の指導者としての資質がどうであれ、後藤氏の滅亡は、個人の能力を超えた、より大きな歴史の潮流によって決定づけられた運命であったと言える。

そして、美作後藤氏の滅亡という事件そのものが、戦国時代の終焉を語る上で重要な意味を持つ。この戦いは、宇喜多直家が後背地の憂いを断ち、西国の雄・毛利氏を見限って、天下人への道を突き進む織田信長へと乗り換えるための、決定的な戦略的布石であった。後藤氏の犠牲の上に、織田・宇喜多連合軍による対毛利戦線が確立され、それは日本の天下統一の最終段階の展開に直接的な影響を及ぼしたのである。

後藤元政の物語は、歴史がいかに勝者によって語られ、静かなる統治の営為よりも劇的な英雄譚や悲劇を好んで記録するかを、我々に改めて教えてくれる。しかし、断片的な記録や忘れ去られた伝承を丹念に拾い集め、それらを突き合わせることで、歴史の表舞台から消え去った人物の姿を浮かび上がらせることは可能である。後藤元政という一人の武将の生涯を通して、我々は、時代の大きなうねりの中で翻弄され、あるいは飲み込まれていった数多の地方領主たちが直面した、複雑で、そしてしばしば悲劇的な現実の一端に触れることができるのである。彼の再評価は、戦国史をより深く、より多層的に理解するための、ささやかだが意義深い一歩となるであろう。

引用文献

  1. 美作後藤氏とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F
  2. 美作後藤氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F
  3. し美作町の歴史と現在 - 岡山大学 https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52480/2016052811502589017/rr_027(1).pdf
  4. 後藤系図 http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-goto.html
  5. 三星城 淡相城 星谷城 上の山城 尼ヶ城 余湖 http://otakeya.in.coocan.jp/okayama/mimasakasi01.htm
  6. 三星城(岡山県美作市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6896
  7. 三星城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%9F%E5%9F%8E
  8. 美作 三星城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/mitsuboshi-jyo/
  9. 三星城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2243
  10. 三星城(岡山県美作市明見) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/05/blog-post_72.html
  11. 後藤勝基 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8B%9D%E5%9F%BA
  12. 美作最大の戦国大名の敗戦 - 紀行歴史遊学 https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2020/05/%E4%B8%89%E6%98%9F.html
  13. 三星城の見所と写真・全国の城好き達による評価(岡山県美作市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1479/
  14. 5月 2011 - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/05/
  15. 三星城 旧英田郡美作町 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12530775403.html
  16. 第三巻 (美作国東部編) - 岡山県 https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/cont/01/G0000002kyoudo/000/031/000031503.pdf
  17. 勝間城 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/oshiro/mimasaka/katuta/katuma.htm
  18. 勝間城 旧英田郡美作町 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12572152559.html
  19. 1578年 – 79年 御館の乱 耳川の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1578/
  20. 後藤家美作国西北條郡津山新魚町 https://gos.but.jp/gotoh.htm