最終更新日 2025-06-20

後藤勝国

「後藤勝国」の画像

美作の戦国領主、後藤勝国 ― その生涯と一族の興亡

序章:後藤勝国をめぐる謎と本報告書の目的

戦国時代の美作国(現在の岡山県北部)にその名を刻んだ豪族、後藤勝国。彼に関する情報は、東美作に覇を唱えた父・勝政の武功と、一族の最大版図を築き、そして滅亡の悲劇に見舞われた子・勝基(勝元)の激動の生涯の間に埋もれ、具体的な事績は歴史の霧に包まれている。勝国の存在は、後藤氏の興隆と滅亡を繋ぐ、いわば歴史の「環」として位置づけられる。本報告書は、この「見えざる当主」である勝国の実像に迫るため、彼を軸として美作後藤一族の通史を再構築する試みである。

美作後藤氏をめぐる史料は、『美作後藤氏系図』 1 、『東作誌』 3 、『美作太平記』 3 、『三星軍記』 5 といった後世の軍記物や地誌に散見されるが、その記述は相互に矛盾する点も少なくない。特に、宿敵・立石氏を滅ぼした人物の特定、後藤氏の正確な系譜、そして最後の当主・勝基の妻が宇喜多直家の娘であったか否かといった基本的な事実関係においても混乱が見られる。

本報告書では、これらの史料群を丹念に比較検討し、矛盾点を整理することで、より確度の高い歴史像を描き出すことを目指す。具体的には、美作後藤氏の出自と黎明期から説き起こし、宿敵・立石氏を打倒して東美作に覇を唱える過程、後藤勝国の治世、子・勝基の代における栄華と葛藤、そして備前の梟雄・宇喜多直家との最終決戦「三星城合戦」による滅亡に至るまで、その栄枯盛衰の軌跡を多角的な視点から詳細に論じるものである。

第一章:美作後藤氏の出自と黎明期

第一節:藤原氏の末裔 ― 播磨後藤氏との関係

美作後藤氏の出自については、複数の系統が伝えられている。一般的には、藤原北家魚名流の鎮守府将軍・藤原利仁を祖とする利仁流後藤氏の系統とされるが、一部の家系図では同じく藤原北家の流れを汲む藤原秀郷を祖とする秀郷流の末裔とも記されており、その系譜には若干の揺れが見られる 2

特に注目されるのは、大坂の陣での勇猛果敢な戦いぶりで知られる後藤又兵衛基次を輩出した播磨後藤氏との関係である。美作後藤氏は、この播磨後藤氏と同族とされており 6 、一族の名に「基」の字を通字として用いることがある点からも、両者の強い関連性がうかがえる 8 。この関係性は、後藤氏が当初、播磨守護であった赤松氏の勢力下にある国人領主の一員として、美作における地位を築いていった可能性を示唆している。

第二節:塩湯郷地頭職と経済基盤

史料上で美作後藤氏が明確に姿を現すのは、南北朝時代の観応元年(1350年)に、後藤下野守が足利幕府方から美作国塩湯郷(しおゆのごう、現在の岡山県美作市湯郷一帯)の地頭職に推挙されたことを記す書状である 2 。これ以降、後藤氏は代々この地頭職を世襲し、在地領主としての基盤を固めていった。

塩湯郷は、その名の通り古くから知られた温泉地であり、後藤氏の力は単なる農業生産に依存するものではなかった。15世紀に定められたとされる後藤氏の掟条々には、温泉支配に関する具体的な条項が含まれており、彼らがこのユニークな経済資源を直接管理・運営していたことがわかる 10 。後藤氏の在地領主としての強大化は、単なる武力や土地支配力に留まらず、この温泉という経済的価値の高い資源の掌握に深く根差していたと考えられる。温泉地には湯治客や商人が集まり、人や物資、情報が交流する拠点となる。後藤氏は、この地の利を活かして商業的利益を得るとともに、領国経営に必要な情報を収集する上で、他の国人領主に対して大きな優位性を持っていた。この経済的基盤こそが、後の東美作における覇権確立の原動力の一つとなったことは想像に難くない。

第三節:本拠地・三星城の戦略的重要性

後藤氏は塩湯郷に入封して後、三星城(みつぼしじょう)を居城とし、滅亡に至るまでの約200年間にわたり本拠地とした 2 。この城は、現在の岡山県美作市明見と入田にまたがる標高233メートルの三星山に築かれている。山の名が示す通り、三つの峰が連なる地形を巧みに利用した天然の要害であった 6

城の東側には吉野川、そしてその支流である梶並川が流れ、天然の堀として機能していた 13 。さらに、城の周辺には古代からの官道である出雲街道(現在の国道179号線に相当)が通っており 14 、三星城は陸上・水上交通の結節点を押さえる極めて重要な戦略拠点であった。この地理的優位性は、後藤氏が経済活動を活発化させ、また軍事行動を迅速に展開する上で大きな助けとなった。

第二章:東美作における覇権の確立

後藤氏が美作の有力な戦国領主へと飛躍する過程を理解するためには、後藤勝国を中心とした一族の系譜と主要な出来事を整理する必要がある。諸史料には混乱が見られるため、以下にその関係性をまとめる。


表1:美作後藤氏 主要人物関係図と事績

世代

名前(別名)

主要な事績と関連年号

典拠史料

祖父

後藤 康秀(やすひで)

明応7年(1498年)、立石景泰を攻めるも敗死。

2

後藤 勝政(かつまさ)

文亀2年(1502年)、父の仇である立石久朝を滅ぼし、東美作に覇を唱える。

2

本人

後藤 勝国(かつくに)

勝政の子、勝基の父。治世は比較的平穏であったと推測される。具体的な武功の記録は少ない。

1

後藤 勝基(かつもと/勝元)

天文7年(1538年)?生。後藤氏の全盛期を築く。浦上氏、毛利氏、宇喜多氏と渡り合う。

12

後藤 元政(もとまさ)

勝基の嫡男。父の隠居後、文書を発給。三星城落城後の消息は諸説あり。

1


第一節:宿敵・立石氏との攻防と覇権確立

15世紀末、後藤氏の勢力拡大にとって最大の障壁となっていたのが、美作中央部に一大勢力を築いていた立石氏であった。明応7年(1498年)、後藤勝国の祖父にあたる後藤康秀は、立石氏の居城である美和山城(岡山県津山市)を攻撃するも、城主・立石景泰の前に敗れ、討死するという痛恨の敗北を喫した 2

この雪辱を果たすべく立ち上がったのが、康秀の子であり、勝国の父である後藤勝政であった。彼は父の仇を討つ機会を虎視眈々と窺い、文亀2年(1502年)、好機が訪れる。宿敵・立石景泰が病没し、その子・久朝が家督を継いだ直後を狙い、勝政は再び美和山城に大軍を差し向けた。この戦いで後藤氏は見事勝利を収め、美和山城を陥落させるとともに立石氏を滅亡に追い込んだ 2 。この勝利は、単なる復讐戦にとどまらず、後藤氏が長年の宿敵を排除し、東美作(作東)一帯における覇権を確立したことを意味する。これにより、美作後藤氏は一介の国人領主から、地域に号令する戦国領主へと飛躍を遂げたのである。

第二節:後藤勝国の治世 ―「見えざる当主」の実像

父・勝政の輝かしい武功の後に家督を継いだのが、後藤勝国である 1 。しかし、彼の具体的な治績を記した一次史料は極めて乏しく、その生涯の詳細は謎に包まれている。この「記録の不在」は、彼が無能であったことを示すものではなく、むしろ逆の事実を示唆している可能性がある。

勝国の治世と推定される16世紀前半、美作国は周辺の巨大勢力の草刈り場と化していた。特に、出雲国から勢力を伸ばしてきた尼子氏の軍事力は圧倒的であり、美作の国人たちはその対応に苦慮していた 18 。このような状況下で、後藤氏に関する大規模な合戦の記録が見られないことは、勝国が尼子氏の強大さを見極め、巧みな外交手腕、すなわち尼子氏への従属戦略を選択することで、領国の安寧を保った結果であると推測される。戦や謀略といった「事件」が多発する戦国時代において、軍記物や年代記は平穏な統治の時代を記録に残しにくい。勝国は、父・勝政が武力で獲得した領土を、戦火に晒すことなく堅実に守り抜いた「維持者」であり、彼の安定した統治こそが、次代の勝基が勢力を飛躍させるための盤石な基盤を築いたと言える。勝国の功績は、記録には残らずとも、後藤氏の歴史において極めて重要であったと評価すべきであろう。

第三章:後藤勝基の時代 ― 栄華と葛藤

第一節:勢力の最大化と巧みな外交戦略

後藤勝国の子、勝基(かつもと、勝元とも呼ばれる)の代に、美作後藤氏はその勢力の頂点を迎える 16 。天文7年(1538年)頃に生まれたとされる勝基は、父・勝国が築いた安定基盤の上で、激動する情勢を巧みに乗りこなし、領土を拡大していった 16

勝基が当主となった永禄年間、中国地方の勢力図は大きく変動していた。出雲の尼子氏の勢力が陰りを見せ始めると、勝基は永禄3年(1560年)頃、いち早く尼子氏から離反し、備前国で実力をつけていた浦上宗景と手を結んだ 12 。この同盟を背景に、勝基は江見氏、安東氏、小坂田氏といった東美作の在地土豪を次々と支配下に組み入れ、後藤氏の版図を最大のものとした 2

しかし、戦国の同盟は常に流動的である。元亀2年(1571年)、勝基は浦上宗景と対立するに至る。この時、彼は西方の雄・毛利氏と結び、宗景が差し向けた大軍の攻撃を、本拠・三星城に籠城して見事に凌ぎきった 12 。この一連の動きは、勝基が単なる武勇だけでなく、大勢力の間を渡り歩く高度な政治感覚と、生き残りのためなら主筋をも変えることを厭わない、戦国武将らしいしたたかさを兼ね備えていたことを物語っている。この対立の後、勝基は隠居し、嫡男の元政が公式な文書を発給するようになるが、後見人として実権を握り続けていたと見られている 2

第二節:梟雄・宇喜多直家との危険な同盟

浦上宗景の家臣でありながら、やがて主家を凌ぐほどの力をつけた備前の宇喜多直家。その台頭は、美作の勢力図にも決定的な影響を及ぼした。勝基は、この新たな実力者との関係構築を模索し、同盟を結ぶ。一部の記録や伝承によれば、この同盟を強固にするため、勝基は直家の娘(千代)を正室に迎えたとされる 14 。これは後藤氏の領国を安定させるための、当時としては合理的な政略結婚であった。

しかし、この選択は結果的に後藤氏の命運を尽きさせる「時限爆弾」を抱え込むことであった。宇喜多直家は、同時代の人々から「梟雄(きょうゆう)」と恐れられた人物であり、その生涯は裏切りと謀略に満ちていた。彼は自らの勢力拡大のためならば、舅の中山信正や娘婿の松田元賢など、縁戚関係にある者ですら容赦なく謀殺し、その領地を奪っている 25 。直家にとって、婚姻同盟は相手を油断させるための常套手段に過ぎなかった。

天正3年(1575年)、直家が主君・浦上宗景を居城の天神山城から追放し、事実上の下剋上を果たすと 12 、状況は一変する。旧主への義理を重んじる旧浦上家臣団の多くは直家に反発し、勝基もまた彼らと連携して直家と対立する道を選んだ 12 。かつての同盟相手は最大の敵となり、婚姻関係はなんら抑止力として機能しなかった。勝基の悲劇は、この危険な賭けに敗れたことに起因する。それは、強大な勢力の狭間で生き残りを図る中小領主が抱える、構造的なジレンマの典型例であった。

第四章:三星城の落日と後藤氏の滅亡

第一節:「三星城合戦」の激闘(天正7年/1579年)

天正7年(1579年)、備前をほぼ手中に収めた宇喜多直家は、美作全土の制圧へと乗り出した。後藤氏との決戦、いわゆる「三星城合戦」の火蓋が切って落とされたのである。

宇喜多軍は、延原景能らを大将とし、周到に外堀を埋めていった。まず、後藤方に与していた周匝の茶臼山城主・笹部勘二郎を攻め滅ぼし、3月から4月にかけては三星城の吉野川対岸に位置する林野城(倉敷城)を陥落させ、三星城を完全に孤立させた 14

宇喜多軍が三星城の喉元である倉掛山に布陣すると、後藤勢は後藤久元らの精鋭からなる遊撃隊を派遣。これが宇喜多軍の背後を突く奇襲に成功し、一時は敵軍を敗走させるなど、緒戦においては後藤勢の奮戦が目立った 3 。この戦いぶりは、後藤氏の家臣団が少数ながらも精強であったことを証明している。

しかし、力攻めでは容易に落ちないと判断した宇喜多軍は、直家が得意とする調略戦へと移行する。将の延原景光は、湯郷村にある長光寺の住職を仲介役として利用し、後藤氏の重臣であった安藤相馬に内応を働きかけ、これに成功した 3

同年5月、宇喜多軍による総攻撃が再開された。後藤勢は寡兵ながらも必死の防戦を続けるが、戦いの最中、ついに安藤相馬が裏切りを実行する。彼は城内の米蔵に火を放ち、後藤軍は内部から崩壊した 3 。この火の手を合図に宇喜多勢は城内へとなだれ込み、猛攻を仕掛けた。さしもの堅城・三星城も、内外からの攻撃には耐えきれず、ついに落城の時を迎える。城主・後藤勝基は、わずかな家臣とともに城を脱出するも、宇喜多軍の執拗な追撃を受け、長内村の隠坂(おさか)と呼ばれる場所で、これ以上の逃走は不可能と悟り、自刃して果てた。享年42歳と伝えられている 3

第二節:後藤一族のその後

三星城の落城と当主・勝基の自害により、戦国領主としての美作後藤氏は事実上滅亡した。勝基の嫡男であった元政のその後については、城から落ち延びて再興を図ったとも、城中で父と共に討死したとも伝えられ、その消息は定かではない 2

しかし、後藤氏の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。津山藩の史料には、落城後に一族が平田村に潜伏し、後に津山の城下で醤油醸造を営む商人として再起したという後藤義政の系統が記録されている 1 。武士としての地位は失ったものの、一族は新たな形で命脈を保ったのである。

さらに興味深い伝承として、土佐藩祖・山内一豊に召し抱えられた後藤福基という人物の存在が挙げられる。この福基は、幕末に活躍した土佐藩士・後藤象二郎の10代前の先祖にあたるとされ、美作後藤氏の血が、形を変えて日本の歴史の重要な局面に再び現れた可能性を示唆している 12 。ただし、これは後藤象二郎の家系に権威を持たせるための後世の創作である可能性も否定できず、慎重な検討を要する。

第五章:後藤氏の遺産

第一節:三星城の縄張と構造

美作後藤氏が約200年にわたり拠点とした三星城は、その堅固な構造自体が、一族の歴史と戦略思想を物語る貴重な遺産である。城は、東西に連なる三つの峰(本丸、東の丸、西の丸)を主郭部とし、その周囲の尾根や谷を巧みに利用して防御施設を配置した、大規模な連郭式の山城である 6

現在も城跡には、曲輪(くるわ)、土塁、堀切(ほりきり)、竪堀(たてぼり)、井戸といった遺構が良好な状態で残されている 30 。特に、西の丸の斜面に設けられた畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)や、斜面を登るように築かれた登り土塁などは、戦国時代後期の高度な築城技術を示すものであり、見応えがある 32 。これらの防御施設は、敵兵の横移動を妨害し、側面から効率的に攻撃を加えるためのもので、大軍による力攻めを想定した、極めて実践的な防衛思想の表れである。

後藤氏はその歴史を通じて、尼子、浦上、毛利、そして宇喜多といった、自らをはるかに上回る兵力を動員可能な大勢力と常に対峙してきた 16 。三星城の複雑かつ堅固な縄張りは、この兵力差を覆すために、地形を最大限に活用し、最新の築城術を貪欲に取り入れていった後藤氏の苦闘の歴史そのものである。城は、彼らの苦難に満ちた外交史と軍事史を雄弁に物語る「石の史書」と言えよう。また、山麓には平時の居館跡も確認されており 30 、後藤氏が有事と平時で拠点を使い分ける、洗練された領国経営を行っていたことがうかがえる。

第二節:歴史を物語る軍記物と伝承

美作後藤氏の興亡、とりわけ三星城の悲劇的な落城の物語は、江戸時代に成立した『美作太平記』や『三星軍記』といった軍記物によって、後世に語り継がれてきた 3

これらの軍記物は、重臣・安藤相馬の裏切りや、城主・後藤勝基の壮絶な最期をドラマチックに描き出している。例えば、『美作太平記』は勝基を「智・仁・勇の三徳を兼ね備えた良将」と高く評価しており 5 、その悲劇性を際立たせている。これらの物語は、地域の歴史として長く親しまれてきた。

ただし、これらの軍記物は史実をそのまま記録したものではなく、多分に文学的な脚色や誇張が含まれている点には注意が必要である 34 。歴史的事実を考証する上では、同時代の一次史料との慎重な比較検討が不可欠となる。

それでもなお、これらの伝承は現代の創作文化にも影響を与え続けている。後藤勝基が宇喜多直家の娘婿であったという伝承は 14 、作家・木下昌輝の歴史小説『宇喜多の捨て嫁』の題材となり 36 、新たな命を吹き込まれている。後藤氏の物語は、歴史的遺産としてだけでなく、文化的遺産としても生き続けているのである。

終章:後藤勝国と美作後藤氏の歴史的評価

後藤勝国は、その治績に関する記録が極めて少ないことから、これまで歴史の舞台で光が当てられることは稀であった。しかし、本報告書で詳述したように、彼の存在を父・勝政と子・勝基の時代の中に位置づけることで、その歴史的役割が浮かび上がってくる。勝国は、父が武力で獲得した東美作の覇権を、出雲尼子氏の勢力が最大化した困難な時代にあって、巧みな政治判断によって維持し、次代の勝基が飛躍するための盤石な土台を築き上げた。彼は「征服者」ではなく、優れた「統治者」であり、「維持者」であったと再評価できる。彼の安定した治世なくして、後藤氏の最盛期は訪れなかったであろう。

美作後藤氏の約250年にわたる興亡史は、戦国時代の地方権力、すなわち国人領主が経験した栄枯盛衰の典型的な軌跡を示している。彼らは南北朝の動乱期に在地に深く根を張り、温泉郷という独自の経済基盤を背景に力を蓄え、戦国時代には周辺勢力との合従連衡を繰り返しながら勢力を拡大した。しかし、最終的には主家であった浦上氏を凌駕し、より強大で冷徹な論理で動く戦国大名・宇喜多直家の台頭によって、その独立性を失い、歴史の渦の中へと飲み込まれていった。

結論として、後藤勝国とその一族の物語は、戦国という時代が、織田信長や豊臣秀吉といった天下人たちの華々しい活躍だけで構成されているのではなく、巨大勢力の狭間で生き残りをかけて知略と武力の限りを尽くした、数多の地域権力者たちの興亡によって織りなされた、重層的で複雑な社会であったことを我々に強く示唆している。彼らのような地方領主の存在を丹念に掘り起こし、その実像に迫ることこそが、戦国時代の多様な歴史像を真に理解する上で不可欠なのである。

引用文献

  1. 後藤家・平田屋美作国西北條郡津山新魚町 https://gos.but.jp/gotoh.htm
  2. 美作後藤氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F
  3. 三星城(岡山県美作市)の詳細情報・口コミ - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6896
  4. e-Bizen Museum <戦国武将浦上氏ゆかりの城> - 備前市 https://www.city.bizen.okayama.jp/soshiki/33/558.html
  5. し美作町の歴史と現在 - 岡山大学 https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/52480/2016052811502589017/rr_027(1).pdf
  6. 美作最大の戦国大名の敗戦 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2020/05/%E4%B8%89%E6%98%9F.html
  7. 後藤系図 http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-tou-goto.html
  8. 後藤氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E6%B0%8F
  9. 後藤与次郎 - 落穂ひろい http://ochibo.my.coocan.jp/rekishi/akamatu/syozamurai/goto3.htm
  10. 自然的・地理的環境、歴史的変遷、 社会的状況を踏まえる必要があ - ります。 本章では、 下記の内容で構成しています。 - 美作市 https://www.city.mimasaka.lg.jp/material/files/group/48/chiikikeikaku01.pdf
  11. 中世《湯郷》の歴史的景観 - 美作市 https://www.city.mimasaka.lg.jp/material/files/group/3/20240317-2.pdf
  12. F870 後藤基秋 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F870.html
  13. 三星城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%9F%E5%9F%8E
  14. 三星城(岡山県美作市明見) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/05/blog-post_72.html
  15. 3月 2022 - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2022/03/
  16. 後藤勝基 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8B%9D%E5%9F%BA
  17. 美作 美和山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/miwayama-jyo/
  18. 美作国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E5%9B%BD
  19. 第三巻 (美作国東部編) - 岡山県 https://digioka.libnet.pref.okayama.jp/cont/01/G0000002kyoudo/000/031/000031503.pdf
  20. 尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/plusonline/online2.data/1kou.pdf
  21. 下克上の時代 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/622716.html
  22. 三星城 旧英田郡美作町 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12530775403.html
  23. 「浦上氏一族の群像」毛利包囲網。 川村一彦 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202405190021/
  24. 宇喜多秀家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
  25. 宇喜多直家 暗殺・裏切り何でもありの鬼畜の所業 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17905/
  26. 【備前宇喜多家】宇喜多直家と家族・家臣一覧 - 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/sengoku-busho-list/ukita/
  27. 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  28. 「宇喜多氏一族の群像」天神山城の戦い。 川村一彦 - 楽天ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/rekisinokkaisou/diary/202406090012/
  29. 天神山城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  30. 美作國 三星城 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/mimasaka-kuni/mitsuboshi/mitsuboshi.html
  31. 三星城の戦い:その2 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/MitsuboshiJou2.html
  32. 三星城 http://www3.tvt.ne.jp/~nagataki/mituboshi.html
  33. 三星城の見所と写真・全国の城好き達による評価(岡山県美作市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1479/
  34. 積読(つみどく)な日々:土肥経平「現代語訳 備前軍記」(山陽新聞社) - note https://note.com/hatta_tomonori88/n/n7a7ba536caa3
  35. 軍記物 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E8%A8%98%E7%89%A9
  36. 宇喜多の捨て嫁 (文春文庫 き 44-1) | 木下 昌輝 |本 | 通販 | Amazon https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E3%81%AE%E6%8D%A8%E3%81%A6%E5%AB%81-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E6%98%8C%E8%BC%9D/dp/4167908263
  37. 宇喜多の捨て嫁 | 感傷的で、あまりに偏狭的な。 https://ameblo.jp/amoru-kun/entry-12384962410.html