最終更新日 2025-05-13

後藤又兵衛

後藤又兵衛基次:戦国乱世に咲いた武勇の華、その生涯と実像

I. 序論:後藤又兵衛基次 – 戦国武勇の典型

後藤又兵衛基次(ごとう またべえ もとつぐ)は、安土桃山時代後期から江戸時代初期にかけて活躍した武将である 1 。黒田氏、後に豊臣氏に仕え、その勇猛さと戦略眼によって数々の武功を挙げた 3 。彼の名は、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂五人衆」といった数々の勇名を冠して後世に伝えられており、その武名は同時代人だけでなく、後の歴史物語においても高く評価されている 2 。これらの称号は単なる美称に留まらず、彼の卓越した能力と、彼が周囲から寄せられた高い評価を具体的に示している。特に「日本七柱槍(にほんしちほんやり)」 2 という呼称は、彼の槍術の卓越性を示唆する。これは、彼が一時的に天下三名槍の一つ「日本号(にほんごう)」を所有したという逸話 8 と合わせて考えると、彼の槍使いとしての評価が並外れていたことを物語っている。この「日本七柱槍」という呼称は、「賤ヶ岳の七本槍」ほど広く知られてはいないものの、又兵衛個人の武勇、特に槍における技量を特筆して称えるものであったと考えられる。このように複数の称号を持つことは、彼の武勲が多岐にわたり、仕えた黒田家臣団の中での評価、個人としての武技、そして大坂の陣における豊臣方での中心的な役割など、その生涯の各局面で高い評価を得ていたことを示している。

本報告書は、現存する史料に基づき、後藤又兵衛の生涯、軍歴、人間関係の複雑さ、そしてその最期に至るまでを包括的かつ分析的に記述することを目的とする。

表1:後藤又兵衛基次 主要経歴

項目

詳細

氏名(諱)

後藤基次(ごとう もとつぐ)

通称

後藤又兵衛(ごとう またべえ)

生年月日

永禄3年4月10日(1560年5月5日) 2

没年月日

元和元年5月6日(1615年6月2日) 1

出生地

播磨国神東郡山田村 2

主な主君

小寺政職 → (仙石秀久) → 黒田孝高・長政 → 豊臣秀頼 1

主な称号・異名

黒田二十四騎、黒田八虎、黒田双壁、日本七柱槍、大坂五人衆、大坂七将星 2

最後の戦い

大坂夏の陣 道明寺の戦い 10

II. 黒田家臣団における出自と台頭

A. 生誕、家系、そして黒田孝高による養育

後藤又兵衛基次は、永禄3年(1560年)4月10日、播磨国神東郡山田村(現在の兵庫県姫路市近郊)に生まれた 2 。父は後藤新左衛門基国といい、播磨の三木城主別所氏に仕えた後、御着城主小寺政職の家臣となった人物である 1 。母は神吉頼氏の娘と伝えられる 2 。後藤家自体は鎌倉時代から播磨に本拠を置く名門の家柄であった 6

幼少期に父・基国が病死したため、又兵衛は当時同じく小寺政職の家臣であった黒田孝高(官兵衛、後の如水)に引き取られ、養育された 1 。稀代の智将として知られる孝高の下での成長は、又兵衛の武将としての素養形成に大きな影響を与え、黒田家への初期の忠誠心を育んだと考えられる。この孝高による庇護は、又兵衛のキャリアにとって極めて重要な意味を持った。孝高が又兵衛の才能を見抜き、投資したことは、又兵衛が黒田家内で頭角を現すための基盤となった。後に又兵衛が孝高の実子であるという伝説( 14 )が生まれるほど、両者の関係は近しいものと見なされていた可能性があり、これは孝高の又兵衛への期待の大きさを物語っているのかもしれない。

ただし、貝原益軒の『黒田家臣伝』や「吉田家文書」(黒田長政条書写)といった史料 6 は又兵衛の伝記に詳しいものの、彼の最も初期の経歴や養育の具体的な状況を裏付ける一次史料は乏しいと指摘されており、その点は留意が必要である 6

B. 初期の奉公と軍歴の始まり

又兵衛の黒田家との関わりは、早くから試練にさらされた。天正6年(1578年)頃、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣団は忠誠を誓う起請文への署名を求められた。この時、又兵衛の伯父にあたる藤岡九兵衛が署名を拒否したため、後藤一族(又兵衛を含む)は追放され、一時的に仙石秀久に仕えることとなった 2 。これが又兵衛にとって最初の浪人生活であり、仙石秀久の下で天正11年(1583年)の讃岐高松城攻めに初陣として参加したとされる 4

この浪人経験と仙石秀久への仕官は、又兵衛にとって武士としての生き方の不確かさや、異なる主君に仕えるという経験を早期に得る機会となった。これは彼の視野を広げ、逆境への耐性を養った可能性がある。天正14年(1586年)の戸次川の戦いでは、仙石秀久に従軍していたと考えられ、この戦いでの大敗は彼にとって大きな軍事的教訓となったであろう 3

その後、孝高は又兵衛の才能を惜しみ、再び黒田家に呼び戻した。ただし、近習とすることは許さず、重臣である栗山利安の与力として100石の知行を与えた 3 。これは、一族の過去の問題を踏まえつつも、又兵衛個人の能力を高く評価した孝高の判断を示すものである。

又兵衛の具体的な軍歴が記録に明確に現れるのは、天正14年(1586年)からの豊臣秀吉による九州征伐であり、特に宇留津城攻めでの活躍が知られている 1 。また、城井氏(宇都宮鎮房)の鎮圧にも参加している 3

III. 武勇の誉れ:主要な軍事行動と戦功

A. 朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592年~1598年)

後藤又兵衛は、黒田長政に従い、文禄・慶長の役において数々の武功を挙げ、その名を朝鮮半島に轟かせた 1

特筆すべきは、第二次晋州城攻防戦(1593年)における「亀甲車(きっこうしゃ)」の考案と使用である 2 。これは装甲された台車あるいは移動式の盾のようなもので、又兵衛はこれを用いて敵の城壁に接近し、破壊する戦功を挙げたとされる。この逸話は、又兵衛が単なる勇猛な武者ではなく、戦術的な創意工夫にも長けた「アイデアマン」であったことを示している 20 。この戦いでは、加藤清正の家臣森本一久と「一番乗り」の功名を競ったとも伝えられる 2 。このような武勇と創意の組み合わせは、又兵衛を非常に価値ある指揮官たらしめていた。

また、朝鮮出兵中には「虎退治」の逸話も残されている 3 。長政の陣中に虎が現れて暴れた際、同僚の菅正利と共にこれを討ち取った。しかし、主君である長政は、大将たる者が獣ごときと勇を争うのは心得違いであると二人を叱責したという。この出来事は、長政と又兵衛の間にあった指揮官の行動規範に対する見解の相違や、長政の権威の示し方を示唆するものとして、後の両者の不和を予兆する逸話としてしばしば引用される。

B. 関ヶ原の戦い(1600年)

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、又兵衛は黒田長政の指揮下で東軍に属して戦った 5 。この戦いで又兵衛は、石田三成の家臣で槍の名手として知られた大橋掃部(おおはし かもん、諱は全日が有力)を一騎討ちで討ち取るという顕著な武功を挙げた 2 。この個人的な武勇伝は、彼の武名一層高めることになった。

C. 大隈城主として

関ヶ原の戦後、黒田長政が筑前国(現在の福岡県)に大封を得ると、又兵衛はその功績により大隈城(益富城とも。現在の福岡県嘉麻市)の城主となり、1万6千石の知行を与えられた 1 。一部史料では、実際の石高は1万から1万4千石であったという説もある 3 。大隈城は「筑前六端城」の一つとして、隣国の豊前細川藩に対する戦略的に重要な拠点であり、又兵衛はその城郭の強化に尽力した 4

しかしながら、この大隈城への配置は、又兵衛とその家臣たちにとって、必ずしも満足のいくものではなかった可能性がある。『黒田家譜』などによると、又兵衛らは、大隈城が戦略的に重要であることは理解しつつも、関ヶ原での軍功に比して「山間の僻地に押し込められた」と感じていた節があり、これが長政との関係における不満の一因となった可能性が示唆されている 4 。武士にとっての恩賞は石高だけでなく、その地位や主君からの評価の象徴でもあった。又兵衛ほどの武将にとって、この処遇が彼の自尊心や期待に見合うものであったかは疑問であり、長政との間に生じつつあった亀裂を深める一因となったかもしれない。

IV. 深まる溝:黒田長政との確執と浪人の道

A. 黒田長政との関係悪化

後藤又兵衛が黒田家を出奔したのは、黒田孝高(如水)の死から2年後の慶長11年(1606年)のことである 1 。如水の死は、又兵衛と黒田家の関係において重要な転換点となった。又兵衛の才能を見出し、育て上げた如水は、長政と又兵衛の間の緩衝材、あるいは又兵衛の庇護者としての役割を果たしていた可能性がある。如水の不在は、両者の間に潜んでいた緊張関係を増幅させ、最終的な決裂へとつながったと考えられる。

又兵衛と長政の不和の原因については、後世の編纂物による憶測も含むものの、数々の逸話が伝えられている 3

  1. 他大名との書状往来 : 長政は、又兵衛が他国の大名、特に隣国豊前を領する細川忠興や播磨の池田輝政と頻繁に書状を交わすことを問題視した 2 。これは潜在的な安全保障上のリスク、あるいは忠誠心の分散と見なされた。警告や誓詞の交換にもかかわらず、又兵衛がこれらの交際を続けたことが、関係悪化の一因とされる 21
  2. 頭を剃らなかった件(頭剃らずの事) : 城井谷崩れの後、長政が父・如水に詫びるために頭を剃った際、他の将もこれに倣ったが、又兵衛は「戦の勝敗は常のこと。負け戦の度に髷を落としていたら、生涯、毛が揃う事がない」と述べて従わなかった。如水はこれを不問に付したが、長政は面目を失ったとされる 3
  3. 朝鮮出兵中の長政の危機 : 長政が朝鮮の将と川中で組み合い落馬した際、近くにいた又兵衛はすぐには加勢せず、「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言って静観したという。長政は辛くも敵将を討ち取ったが、この一件で又兵衛を深く恨むようになったとされる 3
  4. 虎退治の叱責 : 朝鮮での虎退治の際、長政から「一手の大将たる身でありながら、畜生と勇を争うは不心得である」と叱責されたことも、両者の価値観の相違を示すものとして挙げられる 3
  5. 恩賞への不満 : 恩賞に対する不満があったことも示唆されている 3
  6. 長政の嫉妬 : 又兵衛の武勇と名声に対し、長政が嫉妬心を抱き、疎んじていたという説もある 4 。ある時、長政が家臣に自分に代わって軍功を立てる者はいるかと尋ねたところ、「後藤又兵衛殿に比肩する侍大将は当藩には見当たらない」と答えられ、長政が機嫌を損ねたという逸話が残る 20
  7. 又兵衛の子息の問題 : 長男の太郎助(一意か)が女性問題で黒田家から追放されたことや 3 、四男の又一郎が小鼓の演奏に長けていたが、長政から祇園神事の能の伴奏を命じられたことで関係が冷え込んだことなどが挙げられる 3

これらの逸話は、又兵衛の独立心旺盛な性格と、長政の求める主従関係のあり方との間に深刻な齟齬があったことを示している。

B. 「奉公構」の発令

又兵衛が出奔した後、長政は「奉公構(ほうこうかまえ)」を発令した 2 。これは、他の大名に対して又兵衛を召し抱えないよう通告するもので、事実上のブラックリストであった。この措置は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、大名が家臣の統制を強化し、有能な人材の流出を防ぐための手段として用いられた。長政による又兵衛への奉公構は、個人的な遺恨だけでなく、大名としての権威を示し、他の家臣への見せしめとする意図も含まれていたと考えられる。徳川幕府の下で中央集権化が進む中で、大名の家臣に対する支配力は強化される傾向にあり、奉公構はその一環と見なすことができる。

福島正則、前田利長、結城秀康といった有力大名が又兵衛の召し抱えに関心を示したものの、この奉公構のために実現しなかった 2 。又兵衛はまず小倉藩の細川忠興を頼ったが、黒田家と細川家の関係悪化(又兵衛の存在が一因ともされる)や徳川家康の仲介により、細川家を退去せざるを得なくなった 3 。その後、播磨の池田輝政、次いで岡山藩の池田忠継に一時仕えたが、長政からの執拗な圧力により、これも長続きしなかった 1

C. 浪人生活

慶長16年(1611年)頃から、又兵衛は京都で浪人生活を送り、兵法を教えて生計を立てていた 2 。奉公構という厳しい制約にもかかわらず、彼が京都で生活し、さらに兵法を教授できたことは、彼の武名がいかに高かったかを示している。その技術と評判は、公式な仕官の道が閉ざされても、なお彼を支えるだけの力を持っていた。

慶長16年には、又兵衛の黒田家への帰参問題が持ち上がり、長政は幕府を通じて交渉を行ったが、又兵衛との連絡がうまくいかず実現しなかったとされる 2

V. 大坂の陣(1614年~1615年):武士としての最後の戦い

A. 豊臣方への参加

慶長19年(1614年)、徳川幕府と豊臣秀頼との間で緊張が高まり、大坂の陣が勃発すると、又兵衛は大野治長の誘いを受け、浪人衆の中でも先駆けて大坂城に入城した 3 。長年にわたる奉公構による不遇な浪人生活を経て、又兵衛にとって大坂の陣は、その武名を再び天下に示す絶好の機会であった。豊臣方は、実績のある指揮官を渇望しており、又兵衛の参加は彼らにとって大きな力となった。

彼は、真田信繁(幸村)、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登らと共に「大坂五人衆」の一人に数えられ、豊臣方の主要な指揮官の一翼を担った 1 。これに大野治房、木村重成を加えて「大坂七将星」とも称されることがある 5

B. 冬の陣における役割

大坂冬の陣では、又兵衛は伏見城を奪取し、瀬田・宇治川を防衛線とする積極策を献策した。これは真田信繁らには支持されたものの、籠城策を主張する多数派によって退けられた 3 。その後、又兵衛は6,000の遊軍を率い、木村重成と協力して鴫野・今福方面の守備を担当し、上杉景勝・佐竹義宣の軍勢と対峙した 3

天満の浦で行われた閲兵式の際には、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称賛された 3 。摩利支天は武士の間で信仰された戦の守護神であり、この称号は又兵衛が豊臣方将兵に与えた畏敬の念の大きさを物語っている。徳川家康も、大坂方の将の中でも特に後藤又兵衛と御宿政友を警戒すべき名望家と見なしていたと伝えられる 3 。これらの事実は、奉公構によって彼の武名を封じ込めようとした黒田長政の意図とは裏腹に、又兵衛の評価が依然として高かったことを示している。

C. 夏の陣と道明寺の戦いにおける最期

翌元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣、道明寺の戦いにおいて、又兵衛は豊臣方の先鋒として2,800の兵を率い、大和路の平野部への出口にあたる国分村での徳川方迎撃作戦の先陣を切った 3

しかし、徳川方の先鋒である水野勝成率いる部隊が既に国分村まで進出しており、又兵衛は小松山(現在の玉手山公園近隣)に布陣して応戦した 3 。濃霧のために真田信繁、明石全登、薄田兼相らの後続部隊の到着が遅れるという不運に見舞われ、又兵衛の寡兵は伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊を含む10倍以上の敵軍と対峙することになった 3 。この状況は、いかに優れた指揮官であっても、戦場の偶発的な要素や友軍との連携の齟齬によって窮地に陥る可能性を示すものであり、又兵衛の最後の戦いはその悲劇的な実例となった。

奮戦空しく、又兵衛は山を下っての突撃を敢行し、乱戦の中で討死したとされる 3 。一部の記録では、伊達勢の銃撃を受け負傷し、自害したとも、あるいは家臣に首を打たせたとも伝えられる 10 。享年56歳であった 1

D. 生存伝説

その壮絶な最期にもかかわらず、又兵衛の死を惜しむ声は大きく、各地に生存伝説が残されている 3 。奈良県宇陀市には、又兵衛が大坂夏の陣の後、この地に落ち延びて隠遁生活を送り、「水貝」と名を変えて僧侶になったという伝説があり、「又兵衛桜」と呼ばれる枝垂桜の大木がその名残を伝えている 3 。また、大分県中津市の耶馬渓には墓所が存在し、影武者が身代わりになった説や、豊臣秀頼を護衛して落ち延びたという説も語り継がれている 3 。愛媛県伊予市の長泉寺には首塚とされる菩提所もある 2 。これらの伝説は、歴史的事実とは別に、又兵衛という武将が民衆の心に深く刻まれ、その死を悼み、英雄としての生存を願う人々の心情を反映したものと言えるだろう。

VI. 人物像、逸話、そして武士としての哲学

A. 身体的特徴と武技

後藤又兵衛は、身長六尺(約180cm)を超える大男であったと伝えられており、これは当時の日本人としては非常に長身であった 3 。大坂の陣の頃には肥満体であったという記述もある 3

「槍の又兵衛」の異名が示す通り、槍術に卓越しており 7 、天下三名槍の一つ「日本号」を一時的に母里太兵衛から譲り受けたという逸話は、彼の槍使いとしての評価を裏付けている 8

B. 主要な性格的特徴と逸話

又兵衛の人物像は、数々の逸話を通じて多角的に浮かび上がってくる。

表2:後藤又兵衛の主要な逸話と示唆される性格

逸話

主な出典(例)

示唆される性格・能力

概要

亀甲車の考案

『常山紀談』 20

戦術的創意工夫、工学的知識

朝鮮出兵時、装甲車「亀甲車」を製作し、城壁攻略に貢献した。

虎退治

『常山紀談』 20

勇猛果敢、しかし主君からは軽率と見なされることも

朝鮮で陣中に現れた虎を菅正利と共に討ち取ったが、長政に叱責された。

長政の川中での危機

3

冷静沈着、独自の主君観、あるいは不遜と解釈される態度

長政が敵将と川中に落ちた際、すぐには助けず「あれしきの敵に討たれるようなら我が殿ではない」と静観した。

頭を剃らなかった件

3

独立心、自負心、あるいは反骨精神

城井谷崩れの後、長政らが頭を剃って詫びた際、又兵衛は「戦の勝敗は常」として従わなかった。

刺客の逸話

3

威圧感、胆力

外出中に刺客の存在に気づきながらも動じず、刺客が恐れて手を出せずに逃げ帰った。

馬の沓や馬煙による敵情判断

3

優れた戦況判断力、観察眼

川を流れる馬の沓を見て味方の渡河を察知したり、敵陣の馬煙を見て敵の敗北を判断したりした。

大坂冬の陣における積極策の献策

3

戦略的思考、積極性

伏見城奪取と瀬田・宇治川防衛ラインの構築を提案したが、籠城策に退けられた。

「摩利支天の再来」と称されるほどの指揮

3

卓越した指揮能力、カリスマ性

大坂冬の陣の際、天満の浦での閲兵式で見事な采配を振るい、兵士たちから称賛された。

これらの逸話から、又兵衛が単なる勇猛な武者ではなく、戦略眼に富み、独自の価値観を持つ独立心の強い人物であったことが窺える。彼の行動は、時に主君との間に摩擦を生んだが、それは彼が自身の武士としての規範に忠実であった結果とも言える。黒田孝高のような、ある種自由闊達な気風を持つ主君の下ではその個性が活かされたが、より厳格な統制を求める長政の下では、その独立性が衝突の原因となったのかもしれない。この主君との関係性の変化は、戦国末期から江戸初期にかけての武士社会における主従関係の変質を象徴しているとも考えられる。

C. 歴史的記録における描写

後藤又兵衛の生涯、特に黒田家臣時代の動向については、『黒田家譜』が重要な史料となる 3 。これは黒田家によって編纂された記録であり、一定のバイアスが含まれる可能性は否定できないが、又兵衛の奉公や出奔の経緯に関する記述を含んでいる。また、松浦藩の『武功雑記』や『播磨鑑』なども、長政との不和に関する記述が見られる 4 。貝原益軒の『黒田家臣伝』や「吉田家文書」(黒田長政条書写)も、又兵衛の伝記を伝える重要な史料として挙げられる 6 。『常山紀談』には、亀甲車や虎退治といった有名な逸話が収録されている 20

これらの記録が、藩の公式記録やそれに準ずる形で又兵衛との対立や出奔について触れているという事実は、これらの出来事が隠蔽できないほど公然の事実であったことを示唆している。たとえその解釈が黒田家にとって都合の良いように記述されていたとしても、深刻な対立があったという核心部分は、これらの史料によって裏付けられると言えるだろう。

VII. 後世への影響と歴史的評価

A. 不朽の武名

後藤又兵衛は、その時代を代表する最も手ごわい武将の一人として記憶されており、特に大坂の陣における勇猛果敢な戦いぶりは後世に大きな影響を与えた 16 。彼の生涯は、忠誠、対立、浪人としての不屈の精神、そして悲劇的な最後の戦いというドラマチックな要素に満ちており、日本の歴史や民間伝承において人気の高い人物となっている。

B. 大衆文化における描写

又兵衛の生涯は、小説、映画、テレビドラマなど、様々な形で描かれてきた。

大佛次郎の歴史小説『乞食大将』は、又兵衛を主人公とした代表的な作品であり 23、1952年(市川右太衛門主演)と1964年(勝新太郎主演)に映画化され、テレビドラマ化もされている 23。

近年の作品では、NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)において哀川翔が又兵衛を演じ、その人間味あふれる描写が話題となった 12。また、大久保ヤマトによる漫画作品も存在する 25。

ゲームの世界では、カプコンの「戦国BASARA」シリーズにも登場キャラクターとして描かれている 26。

これらの大衆文化における描写は、又兵衛の物語が持つ普遍的な魅力を示している。権力者との対立、奉公構という理不尽な扱い、浪人としての苦難、そして滅びゆく豊臣家のために最後まで戦い抜いた悲劇的な英雄像は、多くの人々の共感を呼ぶ。特に『乞食大将』というタイトル自体が、彼が経験した困窮と、その後の最後の輝きを象徴しており、単なる常勝の英雄ではない、人間的な葛藤や苦悩を抱えた人物としての側面が、彼の物語をより深く、記憶に残るものにしていると考えられる。

C. 歴史的評価

後藤又兵衛は、戦国時代の武士の理想を体現する人物であると同時に、その経歴は江戸時代への移行期における主従関係の力学の変化を反映している。彼の生涯のいくつかの側面、特に初期の経歴や黒田長政との確執の正確なニュアンスについては、後世の編纂物や一方的な記録に依拠する部分が大きく、史料的な曖昧さが残るため、歴史学的な議論の対象となっている 6 。『研究論集 歴史と文化』のような学術誌 27 や、軍記物や戦国史を専門とする研究者による著作 28 は、又兵衛のような人物や彼が生きた時代に関する研究を深め続けている。

VIII. 結論

後藤又兵衛基次の生涯は、戦国時代特有の武勇と、時代の変革期における武士の生き様を象徴するものであった。卓越した槍術と戦術眼を持ち、黒田家臣として、そして最後は豊臣方の将として、その名を歴史に刻んだ。黒田長政との確執とそれに続く浪人生活は、彼の不屈の精神を示すと同時に、近世的な主従関係への移行期における個人の武勇と組織の論理との相克を浮き彫りにしている。

大坂の陣での壮絶な最期は、彼の武士としての矜持を全うするものであり、その悲劇性と共に後世に語り継がれる要因となった。生存伝説や数々の創作物は、彼が単なる歴史上の人物を超えて、人々の心に訴えかける英雄像として受容されていることを示している。史料的な制約からその実像の全てを解明することは困難であるが、後藤又兵衛が日本の戦国末期から江戸初期にかけての動乱期において、際立った存在感を示した武将であったことは疑いようがない。彼の生き様は、現代に至るまで、武士道の一つの典型として、また時代の波に翻弄されながらも自己の信念を貫こうとした人間のドラマとして、我々に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

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  2. 後藤基次- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
  3. 後藤基次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
  4. fukuokajokorokan.info https://fukuokajokorokan.info/report/file/01809.pdf
  5. 【心得】[模型收藏] 戰國武將姬MURASAMA - 後藤又兵衛@綜合公仔玩具討論區哈啦板 https://forum.gamer.com.tw/C.php?bsn=60036&snA=35770
  6. 後藤又兵衛はなぜ黒田家を出奔したのか?【前編】 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/9496
  7. 後藤又兵衛 墨絵大屏風 - 加西市 - かさい観光ナビ https://kanko-kasai.com/navisite/wp-content/uploads/2022/12/5a4dc2dab881e2a10e5356dc7ac9178a.pdf
  8. 黒田二十四騎 - 九州旅ネット https://www.welcomekyushu.jp/kanbei/cavalries.html
  9. 天下五剣/天下三槍 - 【4Gamer.net】 - 剣と魔法の博物館 - 週刊連載 https://www.4gamer.net/weekly/sandm/034/sandm_034.shtml
  10. 資料 黒田家年譜 後藤又兵衛 - BIGLOBE https://www5b.biglobe.ne.jp/ms-koga/815s-matabe.html
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  16. 後藤又兵衛出奔の理由 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=AaN_iwFyEFM
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  23. 乞食大将 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F%E5%A4%A7%E5%B0%86
  24. 乞食大将 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 - Filmarks https://filmarks.com/movies/15320
  25. マンガでわかる後藤又兵衛 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2016/11/20/123000
  26. 戦国BASARA - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BDBASARA
  27. 書籍の販売 - historyandculture ページ! - 株式会社歴史と文化の研究所 https://historyandculture.jimdofree.com/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E3%81%AE%E8%B2%A9%E5%A3%B2/
  28. 別冊 戦国武将逸話集(オンデマンド版) [978-4-585-95444-6] - 勉誠社 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=101420