戦国時代の近江国に、その死が主家の運命を大きく揺るがし、ひいては天下の動勢にまで影響を及ぼした一人の武将がいた。その名は後藤賢豊(ごとう かたとよ)。南近江の守護大名・六角氏の宿老として、進藤氏と共に「六角の両藤」と称えられた重臣である 1 。彼の名は、主君である六角義治によって観音寺城内で謀殺された「観音寺騒動」の悲劇の主人公として、今日に記憶されている 1 。
しかし、後藤賢豊の生涯は、単なる悲劇の家臣という一言で語り尽くせるものではない。本報告書は、後藤賢豊という人物の出自から、六角家臣団内での権勢、そしてその死がもたらした歴史的影響に至るまでを、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。
賢豊の死は、単なる個人的な確執や権力闘争の結果に留まらなかった。それは、戦国大名としては脆弱な国人連合体という性格を色濃く残していた六角氏の権力構造の矛盾を露呈させ、家臣団による主君権力の制約という、日本の法制史上でも特異な分国法『六角氏式目』を生み出す直接の引き金となった 4 。さらに、この内紛によって引き起こされた六角氏の著しい弱体化は、そのわずか5年後、織田信長による上洛を事実上無抵抗で許すことになり、日本の歴史が大きく転換する遠因を形成したのである 6 。
本報告書では、後藤賢豊の生涯を丹念に追うことを通じて、彼が生きた時代の光と影、すなわち六角氏の栄光と衰退、そして戦国期における主君と家臣の複雑で緊張をはらんだ関係性を浮き彫りにしていく。
後藤賢豊の権勢を理解するためには、まず彼が属した近江後藤氏の出自と、その勢力基盤について解明する必要がある。しかし、その系譜は錯綜しており、確固たる定説を見るには至っていない。
近江後藤氏の出自については、複数の説が存在し、その起源は必ずしも明確ではない。
軍記物である『勢州軍記』によれば、近江後藤氏の祖は播磨国の住人であった「後藤三郎左衛門尉基明」とされ、その嫡孫が近江に移り住んだと記されている 8 。これが事実であれば、近江後藤氏は播磨にルーツを持つ一族の支流ということになるが、軍記物の記述であるため、その信憑性については慎重な検討が求められる。
また、伊勢国にも北畠氏の家臣として活動した後藤氏の存在が確認されており 9 、賢豊の兄弟の一人が伊勢の有力国人である千種氏の養子に入っていることから 2 、伊勢方面との深い繋がりも看取される。これらの後藤氏が同族であったか否かは断定できないものの、広域にわたる姻戚関係やネットワークを構築していた可能性は高い。
さらに、近江国内における系譜自体も複雑である。賢豊の父は一般的に「後藤但馬守」とされるが 1 、同時代に活動した複数の「後藤但馬守」が存在し、賢豊の父がどの人物であるかは特定が難しい。一部の研究では、活動時期の近さから賢豊の父を但馬守とする説に疑義を呈し、「はとこ」(祖父の兄弟の子)の関係ではないかとする説や 8 、蒲生氏郷の伝記である『氏郷記』を根拠に、賢豊の父を「播磨守」とする説も存在する 8 。
こうした出自に関する情報の錯綜は、後藤氏が中央の権威ある名門の出身というよりは、むしろ近江の在地において実力で勢力を伸張させていった国人領主であったことを強く示唆している。彼らの権力の源泉は、血統の権威よりも、地域に根差した支配力にあったと考えられる。
後藤氏の権勢を物語る最も雄弁な証拠が、彼らの本拠地であった後藤氏館(ごとうしやかた)である。現在の滋賀県東近江市中羽田町に残るこの館跡は、滋賀県の史跡に指定されており、その遺構から当時の後藤氏の威勢を窺い知ることができる 1 。
後藤氏館は、瓶割山、雪野山、布施山に三方を囲まれた肥沃な平野部の中心に位置する 11 。これは豊かな経済的基盤を背景に持っていたことを示している。館は平城でありながら、高さ約3メートル、基底部の幅が約11メートルにも及ぶ壮大な土塁と、幅約10メートルの堀によって囲まれており、その堅固な構えは、単なる居館ではなく、有事の際には籠城も可能な軍事拠点としての機能も備えていたことを物語っている 10 。このような大規模な館を築き、維持できたこと自体が、後藤氏の経済力と動員力の高さを証明している 11 。
さらに、館の南方には秀麗な姿を見せる雪野山があり、その山頂には後藤氏によって城郭として改修された跡が残る 13 。これは後藤氏館の詰城(最終防衛拠点)として機能したと考えられる。雪野山が地域の水源を司る聖地であったことを踏まえると、その山頂に城を築くという行為は、後藤氏が地域の神聖な権威と自らを一体化させ、その支配の正当性を在地社会に示威しようとした、象徴的な意味合いを持っていた可能性も指摘できる 13 。
このように、不明確な出自とは対照的に、後藤氏が蒲生郡に築いた物理的な勢力基盤は極めて強固なものであった。後藤賢豊の権勢は、まさにこの揺るぎない在地支配力の上に成り立っていたのである。
六角氏の家臣団において、後藤賢豊は特異な地位を占めていた。彼は単なる一武将ではなく、主家の政治と軍事を支える中枢的存在であり、その権勢は時に主君を凌ぐとまで評された。
戦国期の六角家は、当主による強力な中央集権体制というよりは、有力な国人領主たちの連合政権としての性格が強かった 4 。その中で、後藤賢豊は木浜城主の進藤貞治・賢盛親子と共に「六角の両藤」と称され、宿老として家中の重きをなしていた 1 。この呼称は、後藤・進藤両家が六角家の政権運営において不可欠な存在であり、両家の合意なくしては重要な意思決定が困難であったことを示唆している。
賢豊は主君・六角義賢からその名の一字(偏諱)を賜り、「賢豊」と名乗った 1 。これは主君からの個人的な信任が厚かった証であり、但馬守の官位を称していた 1 。彼の権威は、六角家の正式な統治機構の中に組み込まれていたのである。
後藤賢豊は「智勇に優れた」武将と評され 1 、文武両面で六角家を支えた。
軍事面では、六角義賢に従って北近江の宿敵・浅井氏との戦いで数々の武功を挙げたとされる 2 。永禄3年(1560年)に浅井長政との間で行われた野良田の戦いでは、六角軍は2万5千という圧倒的な兵力を有しながら油断から大敗を喫したが 15 、賢豊はこの戦いで後陣の将として参陣しており、混乱する中で主君に進言する姿が軍記物に描かれている 17 。
政務における賢豊の役割は、さらに重要であった。永禄2年(1559年)、彼は同じく重臣の蒲生氏と共に、戦功のあった家臣への恩賞の配分を司る「恩賞条奉行」を務めている 2 。これは家臣団の利害を直接左右する極めて重要な役職であり、賢豊が家中で高い調整能力と信望を有していたことを物語る。さらに永禄5年(1562年)、主君・義賢が上洛した際にはこれに随行し、京都の大徳寺の警護という重責を担った 2 。これは、賢豊が六角氏の対外的な顔として、中央の政界や寺社勢力との交渉においても重要な役割を果たしていたことを示している。
後藤賢豊の権勢は、六角家中で際立っており、「当主の力をしのぐほど」 10 、あるいは「当主に代わって六角家を取り仕切っていた」 10 とまで言われるほどであった。一部の史料では、彼が奉行人として「六角氏の当主代理として政務を執行できる権限」を有していたとされ 6 、隠居した前当主・六角義賢(承禎)の絶大な信任を背景に、事実上、六角家の国政を掌握していた可能性が考えられる。
この強大な権勢は、巧みな姻戚政策によってさらに補強されていた。賢豊の妹は、日野城主であり六角家中で彼に次ぐ実力者であった蒲生賢秀の正室であった 1 。また、兄弟の一人は伊勢の有力国人・千種氏の養子に入っており 2 、近江国内だけでなく、隣国にまで及ぶ強力な姻戚ネットワークを形成していた。これにより、後藤氏に敵対することは、蒲生氏や千種氏をも敵に回すことを意味し、その政治的影響力は盤石なものとなっていた。
その権勢の大きさは、六角氏の本拠地である観音寺城の構造からも窺える。城内には後藤氏や進藤氏の広大な邸宅跡が確認されており、彼らが城内においても特別な区画を与えられ、大名に準じるほどの待遇を受けていたことがわかる 19 。
後藤賢豊の悲劇は、皮肉にも彼自身の能力と忠誠心、そしてそれによって築かれた権勢があまりにも大きすぎたことに起因する。弘治3年(1557年)に父・義賢から家督を譲られた若き当主・六角義治にとって、父の権威を背景に家中を牛耳る賢豊は、自らの親政を実現する上で最大の障害と映ったのである 2 。この「先代からの宿老」と「新当主」との対立構造は、多くの戦国大名家が抱えた権力移行期の典型的な問題であったが、六角家においては、それが家門の存亡を揺るがす破局へと繋がっていくことになる。
永禄6年(1563年)10月1日、近江の政治情勢を一変させる事件が発生する。主君・六角義治が、宿老中の宿老である後藤賢豊を観音寺城内で謀殺したのである。この「観音寺騒動」は、六角氏衰退の序曲となった。
賢豊誅殺の直接的な原因は、若き当主・六角義治と賢豊との間の権力闘争にあった 6 。義治は、家督を譲られた後も実権を握り続ける父・義賢(承禎)と、その父の信任を一身に受ける賢豊の存在を、自らの権力を確立する上での桎梏と捉えていた 2 。特に、義治の婚姻問題を巡って父子が対立するなど、その確執は深刻化していた 6 。義治にとって、賢豊を排除することは、父の権威から脱却し、当主としての実権を掌握するための、未熟で性急な試みであった。
この暴挙が可能となった背景には、六角氏の権力基盤そのものの脆弱性がある。六角氏の支配は、近江の自立性の高い国人領主たちの連合体の上に成り立つ、いわば盟主としての権力であった 4 。家臣団は主君に対して強い忠誠を誓う一方で、主君の理不尽な行いに対しては、一致団結して反抗する力と気風を持っていた。義治はこの力関係を見誤ったのである。
永禄6年、義治はついに配下の種村道成と建部日向守に賢豊父子の殺害を命じた。両名は「賢豊に落ち度はない」として主君を諫めたが、義治はこれを聞き入れなかったという 2 。重臣が主君の命令に異を唱えたという事実が記録されていること自体、義治の決定がいかに家中の常識から逸脱し、危険視されていたかを物語っている。
永禄6年10月1日(西暦1563年10月17日)、後藤賢豊は長男の壱岐守を伴って観音寺城に登城した。その道中、あるいは城内において、義治の命を受けた刺客によって父子ともに討ち取られた 1 。
この事件の同時代史料として最も信頼性が高いとされるのが、僧侶・厳助が自身の日記を基にまとめた『厳助往年記』である 8 。この史料の永禄6年の項には、「江州観音寺城滅却及乱事」(江州観音寺城、滅却し乱となる事)との簡潔ながら衝撃的な記述が見られる 24 。これは事件そのものの発生日ではなく、事件に端を発する一連の混乱が京都にまで伝わったことを記録したものと考えられるが、当時の人々がこの事件を「城が滅びるほどの乱」と認識していたことを生々しく伝えている。
義治が掲げた誅殺の公式な名目は「無礼討ち」であったとされる 6 。しかし、具体的に賢豊がどのような無礼を働いたのかを示す記録はなく 25 、これは明らかに後付けの口実であった。人望の厚かった宿老を正当な理由なく殺害したという事実は、家臣団の義治に対する不信感を爆発させるのに十分であった 3 。
賢豊父子誅殺の報は、瞬く間に六角領内を駆け巡り、凄まじい反発を引き起こした。特に後藤氏と姻戚関係にあった永田景弘、三上恒安、池田秀雄といった重臣たち、そして「両藤」の片割れである進藤賢盛は、主君の暴挙に激怒した 23 。彼らは観音寺城内にあった自らの邸宅を焼き払って城を退去し、それぞれの領地に戻ると、北近江で六角氏と敵対していた浅井長政に支援を要請し、公然と反旗を翻したのである 22 。
家臣団の大部分が敵に回ったことで、六角義治は観音寺城を維持することが不可能となった。彼は父・義賢と共に城を捨て、蒲生郡日野城主の蒲生定秀・賢秀親子を頼って落ち延びた 6 。主君が家臣によって本拠地から追放されるという、前代未聞の事態であった。
この混乱を収拾すべく調停に乗り出したのが、蒲生定秀・賢秀親子であった 23 。蒲生賢秀の正室は殺害された後藤賢豊の妹であり、彼は義理の兄を殺した主君を保護するという、極めて難しい立場に立たされた 1 。しかし、この蒲生氏の行動は、単なる忠誠心や大局観からだけでは説明できない、高度な政治的判断に基づいていた。賢豊という最大のライバルが消え、主君が庇護を求める弱い立場となった今こそ、蒲生家が六角家中で絶対的な主導権を握る好機であった。蒲生氏は「調停者」として振る舞うことで、六角父子と反乱家臣団の双方に恩を売り、騒動後の新たな権力構造の頂点に立とうとしたのである。これは、戦国武将の冷徹なリアリズムを示す好例と言えよう。
後藤賢豊の死は、六角家の権力構造を根底から覆し、その後の歴史に決定的な影響を与えた。一つの謀殺事件が、法制度の変革、大名家の衰亡、そして天下統一への道筋にまで繋がっていったのである。
蒲生氏らの仲介によって成立した和睦は、六角父子にとって屈辱的な内容であった。後藤賢豊の次男・高治の家督相続と所領の安堵、そして義治が隠居し、その弟・義定を新たな当主とすることなどが条件とされた 23 。この騒動の総仕上げとして、永禄10年(1567年)4月、全67条からなる分国法『六角氏式目』(別名『義治式目』)が制定された 5 。
この『六角氏式目』は、日本の法制史上、極めて特異な性格を持つ。一般的な分国法が、大名が家臣団や領民を統制するために一方的に発布する「家法」であるのに対し、『六角氏式目』は、蒲生定秀ら20名の有力家臣が起草した草案を、六角義賢・義治父子が承認し、双方が遵守を誓う起請文を相互に取り交わすという形式で成立した 5 。その内容は、大名の権力を一方的に強化するものではなく、むしろ大名の恣意的な権力行使を制約する条文が過半を占めている 26 。
これは、後藤賢豊の死をきっかけに、六角家臣団が「主君と言えども理不尽は許さない」という強い意志を表明し、大名権力を法によって縛ろうとした結果であった。そのため、この式目は「日本における中世立憲主義の典型例」と評価され、大名と家臣団が「契約」に基づいて権力を分有するという、戦国時代における画期的な試みであったと見なされている 31 。後藤賢豊の血は、期せずして、このような歴史的文書を生み出す礎となったのである。
『六角氏式目』の制定は、一時的に家中の秩序を回復させたかに見えたが、その代償は大きかった。観音寺騒動によって露呈した主君と家臣団の深刻な不和は、六角氏の求心力と軍事力を決定的に削いでしまった 1 。家臣団はもはや一枚岩ではなく、大名のために命を懸けて戦うという気風は失われていた 33 。
この六角氏の内部分裂という絶好の機会を捉えたのが、尾張の織田信長であった。永禄11年(1568年)、信長は追放された室町幕府の将軍・足利義昭を奉じ、上洛の軍を起こした 7 。その進路上に位置する南近江の支配者・六角氏は、本来であれば信長にとって最大の障壁となるはずであった。
しかし、信長の大軍が近江に侵攻すると、内紛で弱体化した六角氏に抗する力は残されていなかった。信長軍が支城である箕作城や和田山城をわずか一日で攻略すると、六角義賢・義治父子は、天下に名高い堅城・観音寺城で戦うことなく、甲賀郡へと逃亡した 6 。かつて畿内に覇を唱えた名門六角氏の、あまりにもあっけない崩壊であった。後藤賢豊の死から始まった一連の混乱が、この結末を必然的なものとしていたのである。
主家である六角氏が没落する一方、後藤家そのものは動乱の時代を生き抜いた。
家督を継いだ賢豊の次男・後藤高治(たかはる)は、六角氏滅亡後、新たな近江の支配者となった織田信長に仕えた 11 。彼は信長の直属の旗本である近江衆の一員として、伊勢大河内城攻めや比叡山焼き討ちといった主要な戦いに従軍し、天正6年(1578年)には信長が安土城で催した相撲大会の奉行を務めるなど、新政権下で着実に地位を築いた 34 。
天正10年(1582年)の本能寺の変という激動の際には、明智光秀に与したため、光秀の敗死と共に所領を失った 11 。しかし、その後は従兄弟にあたる蒲生氏郷(母が後藤賢豊の妹)を頼り、その家臣となった。この時、「戸賀十兵衛尉」と名を改めている 34 。
高治は天正17年(1589年)に京都で病死するが、その知行3,000石は子の千世寿が継承し、後藤家の血脈は蒲生家臣として存続した 1 。主家の悲劇的な滅亡とは対照的に、後藤家は巧みな処世術と縁故を頼りに、戦国乱世を生き延びたのである。
後藤賢豊の生涯は、戦国時代という激動の時代における、一人の有能な家臣が辿った光と影の物語である。彼は卓越した智勇と政治手腕で主家を支え、六角氏の全盛期の一翼を担った。しかし、その増大しすぎた権勢は、若き主君との間に埋めがたい溝を生み、ついには非業の死を遂げることとなった。彼の生涯は、戦国大名とその家臣団との間に常に存在する、信頼と警戒、忠誠と自立という緊張に満ちた関係性を象徴している。
観音寺騒動とその後の一連の出来事は、歴史に重要な教訓を残した。それは、戦国大名といえども、家臣団の支持と納得なくしては、その権力を維持できないという厳然たる事実である。特に近江のような、古くから在地領主の自立性が強い地域においては、トップダウンによる強権的な統治には限界があり、合議と契約に基づいた、ある種の「共存共栄」の関係性が不可欠であった。義治による賢豊誅殺は、この力関係の機微を見誤った致命的な失策であり、その代償は主家そのものの滅亡であった。
後藤賢豊という一人の宿老の死は、一つの点をきっかけに波紋が広がるように、名門守護大名家を内部から崩壊させ、結果として織田信長という新たな時代の覇者が天下統一へと突き進む道を切り拓く一因となった。彼の物語は、ミクロな視点である一武将の悲劇が、いかにマクロな視点である天下の動勢と密接に結びついているかを示す。後藤賢豊の死は、戦国史の転換点の一つを印す、重い意味を持つ出来事として、後世に語り継がれるべきである。