徳山則秀(1544年 - 1606年)は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。通称は孫三郎、後に五兵衛と称され、法名は二位法印秀現と伝えられています 1 。美濃国大野郡徳山(現在の岐阜県揖斐川町)に根ざした土豪・徳山氏の一族であり、江戸幕府における旗本徳山氏の初代としてその名を残しています 1 。彼の生涯は、織田信長、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、そして徳川家康という、当時の日本を動かした主要な権力者たちに仕え続けた点で、極めて特筆すべきものです 1 。
則秀が生きた時代は、応仁の乱以降の群雄割拠が極まり、織田信長による天下統一事業が始まり、豊臣秀吉がその事業を引き継ぎ、最終的に徳川家康が江戸幕府を開府するという、日本の歴史が大きく転換した激動の時期でした。このような混沌とした時代において、則秀がいかにして自身の武将としての道を切り開き、その家系を後世に繋いだのかは、当時の武将の生き様を理解する上で重要な問いとなります。本報告書では、徳山則秀の生涯を詳細に追跡し、彼がこの激動の時代をいかに生き抜き、その家系を後世に繋いだのかを多角的に考察することを目的とします。
徳山則秀の略歴と主要な仕官先を以下の表にまとめます。この表は、彼の複雑な経歴と主要な転換点を簡潔に示し、報告書本文で展開される詳細な記述への導入として機能します。複数の有力大名に仕えた則秀の生涯の全体像を把握し、主君の変遷やそれに伴う知行地の変化を一覧で示すことで、彼の政治的判断や時代の流れとの関係性を分析する上での基礎情報を提供します。
項目 |
内容 |
生没年 |
天文13年(1544年) - 慶長11年11月22日(1606年12月21日) |
通称 |
孫三郎、五兵衛 |
法名 |
二位法印秀現 |
出身地 |
美濃国大野郡徳山(現在の岐阜県揖斐川町) |
父 |
徳山貞孝 |
主要仕官先 |
斎藤氏 → 織田信長(柴田勝家与力) → 丹羽長秀 → 丹羽長重 → 前田利家 → 徳川家康 |
主要知行地 |
加賀国松任城4万石、美濃国徳山、各務郡(徳川家康より5,000石) |
徳山則秀は、天文13年(1544年)に徳山貞孝の子として美濃国に生まれました 2 。徳山氏は美濃国大野郡徳山を本拠とする土豪であり、清和源氏土岐氏の庶流とされていますが、本来は東漢氏坂上氏の庶流で、途中で土岐氏からの養子が入ったと伝えられています 2 。美濃国の土豪であった徳山氏が、その地の有力勢力である斎藤氏に属していたことは、当時の地域情勢を鑑みれば自然な成り行きであったと考えられます 2 。
しかし、斎藤氏が織田信長によって滅ぼされると、則秀は新たな権力構造に適応する必要に迫られました。彼は信長の勢力拡大を早期に見抜き、織田信長に臣従し、その有力家臣である柴田勝家の与力となりました 2 。この臣従は、徳山氏が滅亡の危機を回避し、むしろ勢力を拡大する機会を得るための戦略的な選択であったと推察されます。
永禄11年(1568年)9月12日、則秀は織田信長が命じた近江国観音寺城(滋賀県)攻めに参加しました 7 。この攻城戦には、佐久間信盛、木下秀吉(後の豊臣秀吉)、丹羽長秀、明智光秀、浅野長政、蜂須賀正勝といった織田家の主要武将が多数参加しており、則秀もその一員として名を連ねています 7 。この大規模な攻城戦への参加は、彼が織田軍の主力の一員として認識されていたことを示し、彼の武勇と地域における影響力が評価され、後の勝家与力としての地位に繋がった可能性が高いです。則秀が勝家の与力となったことは、信長から直接的な信頼を得ていたというよりも、勝家の北陸方面軍における軍事力を補強する役割を期待されていたことを示唆しており、これは彼の武将としての実力が認められた結果であると言えます。
織田信長に臣従した後、徳山則秀は柴田勝家の与力として、北陸地方の平定に深く関与しました。天正4年(1576年)、勝家が北陸方面軍司令官に任命され、越前、加賀、越中などの平定を任されると、則秀は前田利家、佐々成政、佐久間盛政、金森長近らと共にその配下に加わりました 8 。特に、長年にわたる懸案であった一向一揆の鎮圧に尽力しました 4 。越前一向一揆は天正2年(1574年)に発生した大規模なものであり、織田信長による徹底的な鎮圧が行われた歴史的事件です 10 。則秀がこの難敵に対する平定戦に貢献したことは、彼の軍事的な手腕を裏付けるものです。
北陸平定における功績が認められ、則秀は加賀国松任城4万石の主となりました 2 。天正8年(1580年)に柴田勝家が松任城を落城させた後、則秀は勝家の配下として石川郡松任の代官として在城したとされています 11 。また、天正8年に柴田勝家が松任城を落城させ、家臣の徳山則秀が在城したという記述も確認できます 12 。松任城は加賀における戦略的に重要な拠点であり、則秀がその城主となったことは、彼が単なる武将としてだけでなく、地域を統治する能力も有していたことを示唆します。4万石という石高も、その地位の高さを示しています。なお、ユーザー様からの情報には「小松城主となる」とありましたが、提供された資料では、則秀が小松城主であったことを明確に示す記述は見当たりません 7 。 13 には、勝家の与力・徳山則秀が松任城主と兼任したとされる、という曖昧な記述があるものの、則秀は主に松任城主として活動したと考えるのが妥当です。
織田信長が本能寺の変で倒れた後も、則秀は柴田勝家に忠誠を誓い続けました。天正11年(1583年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と勝家が天下を争った賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政隊の先鋒として奮戦しました 2 。先鋒は最も危険な役割であり、則秀がこれを務めたことは、彼の勇猛さと、勝家に対する揺るぎない忠誠心を示しています。これは、彼が武士としての誉れを重んじる人物であったことを推測させます。しかし、この戦いで勝家は秀吉に敗れ、天正11年4月24日に越前国北之庄城で自害し、柴田家は滅亡しました 7 。則秀が北陸平定において松任城主という要職を与えられ、さらに賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政隊の先鋒を務めたことは、彼が柴田勝家から非常に高く評価され、武将としての実力と忠誠心が認められていたことを示しています。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅亡した後、則秀は羽柴秀吉に赦されることとなりました 2 。秀吉が有能な武将を積極的に取り込む方針であったこと、あるいは則秀が勝家への忠義を尽くしつつも、秀吉への恭順の意を示したためと考えられます。赦された則秀は、秀吉の有力な家臣である丹羽長秀に仕えました 2 。丹羽長秀は賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し、越前国や加賀国の一部を与えられ、約60万石を領する大名でした 14 。
天正13年(1585年)4月16日に丹羽長秀が死去すると 7 、その跡は嫡男の丹羽長重が継ぎました 14 。則秀は引き続き長重に仕えたとされています 4 。しかし、その後、主君である丹羽長重が豊臣秀吉によって減封された際に、則秀は丹羽家を「召し放たれ」(解雇され)ました 4 。この「召し放たれ」は、則秀の能力不足ではなく、丹羽家の財政的・政治的都合によるものであったと解釈できます。これにより、則秀は新たな仕官先を探す正当な理由を得ました。
丹羽家を離れた後、則秀は前田利家に仕えることになります 2 。前田利家もまた、秀吉政権下で北陸方面の要を担う大名であり、則秀がこれらの家で重用されたことは、彼が北陸の地理や情勢に精通しており、その経験が買われた可能性が高いです。天正13年(1585年)には、佐々成政との末森城の戦いに従軍し、武功を挙げました 4 。
前田利家は慶長4年(1599年)閏3月3日に死去します 7 。そしてその翌年、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直前に、則秀は前田家を出奔しました 2 。これは、則秀が早くから徳川家康に通じていたためとされています 2 。則秀が賤ヶ岳の戦いの敗将である柴田勝家の与力でありながら、豊臣秀吉に赦され、丹羽家、そして前田家という秀吉政権下の有力大名に仕えることができたのは、彼の武将としての能力と、時勢を見極める政治的洞察力が高く評価されていたためと考えられます。特に、丹羽長重の減封という主君の都合で「召し放たれた」後、すぐに前田利家という別の有力大名に仕官できたことは、彼の個人としての価値が非常に高かったことを示唆しています。関ヶ原の戦い直前の前田家出奔と徳川家康への通じは、則秀が天下の趨勢を正確に読み、常に勝ち馬に乗るという極めて現実的な戦略を持っていたことを示しており、これは戦国の世を生き抜く上で最も重要な資質の一つであったと言えるでしょう。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の歴史の大きな転換点となりました。この戦いにおいて、徳山則秀は徳川家康率いる東軍に属して戦功を挙げました 3 。具体的な戦闘行動に関する詳細な記述は資料にはありませんが、東軍としての参戦が確認されています 7 。この戦いは徳川家康が勝利し、石田三成らの西軍は敗れ、多くの大名が改易・減封される結果となりました 7 。
関ヶ原の戦いでの功績により、則秀は徳川家康に仕え、5,000石を領することとなりました 2 。知行地として、彼の旧領である美濃国徳山(揖斐川町)および各務郡(現在の各務原市)を与えられました 1 。5,000石という知行は、旗本としては破格の待遇であり、家康が則秀の能力と忠誠を高く評価していた証拠です。
則秀はこれにより、江戸幕府における旗本徳山氏の初代となりました 1 。徳山氏は旗本として徳川将軍に仕え、各務郡西市場村に更木陣屋を構えました(現在の旗本徳山氏陣屋公園) 1 。徳山氏の支配は、各務・大野・池田三郡で2,743石余に及びました 16 。陣屋の設置は、徳山氏が単なる知行地を持つだけでなく、その地を統治する行政的な役割も担っていたことを示し、江戸幕府の統治機構の一翼を担う存在となったことを象徴しています。
関ヶ原の戦い直前の前田家出奔と徳川家康への仕官は、則秀の生涯における最大の戦略的成功であり、彼の卓越した政治的嗅覚と決断力を示しています。この行動が、彼の家系が江戸時代を通じて旗本として存続する基盤を築きました。豊臣政権の不安定化と徳川家康の台頭を正確に読み取り、天下の趨勢を見極めた則秀の判断力は、単なる武勇に秀でただけでなく、優れた情報収集能力と判断力を持っていたことを示します。前田家という有力大名を離れる決断は大きなリスクを伴いますが、それを実行したことで、彼は家康からの信頼を勝ち取りました。これは、彼の人生哲学が「家系の存続」に重きを置いていたことを示唆しています。戦国時代の武将が、江戸時代に安定した旗本の地位を得ることは容易ではありませんでしたが、則秀が初代旗本として美濃の旧領を回復し、さらに新たな知行地を得たことは、彼の功績が家康に認められ、その後の徳山氏の繁栄の礎となったことを意味します。
徳山則秀は慶長11年(1606年)11月22日(西暦1606年12月21日)に63歳で死去しました 1 。彼の墓所は、美濃国徳山にある増徳寺にあります 1 。増徳寺は、則秀の存命中に、洞寿院の長老松巌梵梁師を招いて開山とし、曹洞宗に改宗されたと伝えられています 17 。則秀が自身の死後の家系の精神的基盤も整えていたことは、武将としての側面だけでなく、信仰心や家系の永続に対する深い配慮があったことを物語っています。
則秀の死後、彼の子孫は旗本として続き、徳川将軍に仕えました 1 。則秀には直政という子がいました 2 。また、佐久間盛政の息子である英行を養子に迎え、娘をその正室としています 2 。岡本綺堂の「箕輪心中」の題材となった心中事件を起こした藤枝教行も、則秀の子孫の一人であるとされています 2 。旗本徳山氏の最後の当主は徳山秀堅であり、慶応3年(1867年)には幕府歩兵奉行を務め、鳥羽・伏見の戦いにも参加しました 16 。
徳山則秀の生涯が、戦国時代の激動から江戸時代の安定期への移行期と重なることは、彼の家系が旗本として存続できたことの重要性を際立たせます。則秀は戦国時代の武将として名を馳せながら、その晩年には江戸幕府の旗本として安定した地位を得ました。これは、彼が単に武勇に優れるだけでなく、時代の変化を敏感に察知し、それに適応する能力に長けていたことを示します。複数の大名に仕え、最終的に徳川家康に与した彼の選択は、徳山氏が江戸時代を通じて旗本として存続する上で決定的な要因となりました。彼の行動は、個人の栄達だけでなく、家名の永続を最優先する戦国武将の典型的な戦略を示しています。子孫が旗本として幕末まで続いたこと、さらには文芸作品の題材となる人物を輩出したことは、徳山則秀が築き上げた基盤が、後世の徳山氏の歴史に大きな影響を与え続けたことを示しています。
徳山則秀の生涯における主要な出来事を時系列で以下に示します。この年表は、彼の人生の軌跡を詳細に追うことを可能にし、複数の資料に分散している情報を一箇所に集約することで、より深い理解を促します。各出来事の出典を明記することで、情報の信頼性を高め、学術的な報告書としての客観性を担保しています。また、特定の出来事が次の出来事にどのように繋がったかを視覚的に理解しやすくなります。
年号 |
西暦 |
年齢 |
出来事 |
関連人物 |
史料(出典) |
天文13年 |
1544年 |
1歳 |
徳山則秀、美濃国に生まれる。 |
徳山貞孝(父) |
2 |
永禄11年 |
1568年 |
25歳 |
織田信長による近江国観音寺城攻めに参加。 |
織田信長、佐久間信盛、木下秀吉、丹羽長秀、明智光秀、浅野長政、蜂須賀正勝 |
7 |
天正8年 |
1580年 |
37歳 |
柴田勝家の配下として加賀国松任城に在城(松任城主となる)。 |
柴田勝家 |
11 |
天正10年 |
1582年 |
39歳 |
本願寺顕如に黒梅10端を贈る。 |
本願寺顕如 |
7 |
天正11年 |
1583年 |
40歳 |
賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政隊の先鋒として奮戦。柴田勝家が北之庄城で自害。 |
柴田勝家、佐久間盛政、羽柴秀吉 |
2 |
天正13年 |
1585年 |
42歳 |
丹羽長秀死去。末森城の戦いに前田利家に従軍。丹羽長重の減封により丹羽家を召し放たれる。 |
丹羽長秀、丹羽長重、前田利家、佐々成政 |
4 |
慶長5年 |
1600年 |
57歳 |
関ヶ原の戦い直前に前田家を出奔し、徳川家康に仕える。関ヶ原の戦いで東軍として戦功を挙げる。 |
徳川家康、前田利家、石田三成 |
2 |
慶長11年 |
1606年 |
63歳 |
11月22日、死去。徳山の増徳寺に葬られる。 |
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1 |
徳山則秀の生涯は、まさに激動の戦国時代から江戸時代の幕開けという、日本の歴史における大きな転換期を体現しています。彼は美濃の土豪という出自から身を起こし、斎藤氏、織田信長、柴田勝家、丹羽長秀・長重、前田利家、そして徳川家康と、目まぐるしく主君を変えながらも、常に有力な勢力に身を置き、戦国の世を巧みに生き抜きました。
彼の武将としての資質は、観音寺城攻めへの参加や、賤ヶ岳の戦いでの佐久間盛政隊の先鋒としての奮戦に見られる武勇に留まりません。北陸の一向一揆平定における松任城主としての統治能力、そして関ヶ原の戦い直前の前田家出奔と徳川家康への仕官という政治的判断に見られる知略も兼ね備えていました。特に、天下の趨勢を正確に読み取り、最も有利な選択を行う彼の政治的嗅覚と決断力は、戦国の世を生き抜く上で不可欠なものでした。
則秀の最も特筆すべき功績は、激しい戦乱の時代を乗り越え、徳川幕府の旗本としてその家系を確立し、子孫に安定した地位を継承させた点にあります。彼は個人の武功に留まらず、家名の存続と繁栄を追求した戦国武将の典型的な生き様を体現しました。彼の選択と行動は、自身の武将としての名誉だけでなく、子孫の繁栄と安定した地位を確保したという点で、その影響は彼一代に留まらない広がりを持っています。
徳山則秀の生涯は、戦国大名の興亡という歴史の表舞台の陰で、いかにして中小の武将が自らの能力と判断力をもって時代を生き抜き、新たな時代に適応していったかを示す貴重な事例です。彼の存在は、日本の歴史の大きな流れの中で、個々の武将がいかに重要な役割を果たしたかを教えてくれるものです。