徳川秀忠(1579-1632)は、父・徳川家康が築いた江戸幕府の第二代将軍である。初代家康や三代家光といった、より個性的で劇的な生涯を送った将軍たちの間に挟まれ、しばしば「つなぎ役」あるいは地味な存在として認識されがちである。平時においては「泥塑人(土人形)のごとし」と評されるほど、目立った行動を取らない人物と見なされることもあった 1 。
しかし、このような一般的な評価とは裏腹に、秀忠は徳川幕府の基盤確立において、極めて重要かつ不可欠な役割を果たした。特に家康没後、彼が示した厳格な政策遂行、体系的な統制メカニズムの構築、そして時には苛烈とも言える決断力は、家康が軍事的に勝ち取った覇権を、永続的な政治秩序へと転換させる上で決定的な意味を持った。本稿では、秀忠の生い立ち、関ヶ原や大坂の陣といった重要な軍事的経験、将軍職の継承、大名・朝廷・対外関係における主要政策、その人物像、後継者問題、そして最終的な歴史的評価について、現存する史料に基づき多角的に検討し、その実像に迫ることを目的とする。
徳川秀忠は、天正7年(1579)4月7日、遠江国浜松城にて徳川家康の三男として誕生した。母は家康の側室であった西郷局(お愛の方)であり、三河の有力国人で名家とされる西郷氏の出身であった。幼名は長松(長丸とも)、後に徳川家の世子に用いられることの多い竹千代へと改名された。乳母は大姥局が務めた。
三男でありながら秀忠が家康の後継者となった背景には、二人の兄を巡る事情があった。長兄の松平信康は、秀忠が生まれた天正7年(1579)に自刃。次兄の結城秀康は、豊臣秀吉のもとへ養子(徳川家や本願寺側の認識。秀吉側は人質との認識)として送られ、結城氏を継いだため、徳川宗家の家督相続からは事実上外れることとなった。
これらの状況は、秀忠が自身の功績や家康による早期の明確な指名によってではなく、兄たちの排除・離脱という状況によって結果的に世子の地位を得たことを意味する。この「繰り上がり」的な相続は、彼が生涯を通じて自身の正統性や能力を証明する必要性を感じさせる一因となった可能性が考えられる。後年、自らの息子である家光の将軍継承を確固たるものにしようとした彼の強い意志や、将軍就任初期における家康の慎重な姿勢、あるいは秀忠への試練とも見える関与の背景には、こうした出自の経緯が心理的な影響を及ぼしていたのかもしれない。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主な出来事 |
1579 |
天正7年 |
0 |
4月7日、遠江国浜松城にて誕生。9月、兄・信康自刃。 |
1600 |
慶長5年 |
22 |
関ヶ原の戦い。中山道を進軍するも上田城攻めに手間取り、本戦に遅参。 |
1603 |
慶長8年 |
25 |
父・家康の征夷大将軍就任に伴い、右近衛大将・右馬寮御監に任官 2 。 |
1605 |
慶長10年 |
27 |
4月16日、家康から将軍職を譲られ、第二代征夷大将軍に就任 2 。 |
1614 |
慶長19年 |
36 |
大坂冬の陣に参加。 |
1615 |
元和元年 |
37 |
大坂夏の陣に参加。豊臣氏滅亡。7月、武家諸法度(元和令)、禁中並公家諸法度を公布。 |
1616 |
元和2年 |
38 |
4月、父・家康死去。幕政の実権を掌握。 |
1619 |
元和5年 |
41 |
福島正則を改易。 |
1622 |
元和8年 |
44 |
本多正純を改易。 |
1623 |
元和9年 |
45 |
7月、将軍職を長男・家光に譲り、大御所となる。江戸城西の丸へ移る。 |
1627-1629 |
寛永4-6年 |
49-51 |
紫衣事件。幕府の法度が勅許に優先することを示す 3 。 |
1631 |
寛永8年 |
53 |
次男・忠長の領地を没収し、蟄居を命じる 4 。 |
1632 |
寛永9年 |
54 |
1月24日、江戸城西の丸にて死去。 |
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに際し、秀忠は徳川本隊の一部隊を率いて中山道(東山道)を進軍し、父・家康の主力軍と合流する任務を与えられた 2 。しかし、この進軍中に彼の軍歴における重大な失態が生じる。
信濃国(現在の長野県)に入った秀忠軍は、石田三成方に与した真田昌幸・信繁(幸村)父子が守る上田城に遭遇した 2 。秀忠は、ここで足止めを食らうことになる。上田城攻略に時間を費やした理由については諸説あるが、武功を焦った秀忠が真田勢を軽視した可能性や、真田昌幸の巧みな戦略、さらには秀忠軍内部における本多正信ら首脳部間の不和 などが指摘されている。いずれにせよ、上田城攻略は難航し、結果的に秀忠軍は9月15日の関ヶ原本戦に間に合わなかった 2 。
この「世紀の大遅参」 6 は、父・家康の激怒を招いた。家康は当初、秀忠との面会を拒否したとされる 2 。家康の怒りは、単に遅参したという事実以上に、遅れたことで焦り、軍勢を危険に晒しながら不十分な態勢で合流しようとした戦略的判断の欠如に向けられていたとも言われる 5 。最終的には、榊原康政ら重臣たちのとりなしによって、秀忠はようやく許された 2 。
この関ヶ原での失敗は、秀忠にとって大きな精神的打撃、あるいは「トラウマ」 となったと考えられる。父・家康と比較して、実戦における判断力の未熟さを露呈したこの経験は、彼のその後の行動様式に影響を与えた可能性がある。例えば、後年の政策遂行に見られる規則や命令への固執は、この失敗を繰り返すまいとする過剰な意識の表れであったかもしれない。また、この一件は、将軍就任後しばらくの間、彼が家康の承認と指導に強く依存する状況を固定化させる一因ともなったであろう。
関ヶ原の戦いから5年後の慶長10年(1605)、家康は将軍職就任からわずか2年でその地位を退き、秀忠を第二代征夷大将軍に任命した 2 。この早期の譲位は、家康が隠居するためではなく、徳川家による将軍職の世襲を既成事実化し、自らが健在なうちに後継体制を盤石にするための高度な政治的判断であった。これにより、将来起こりうるかもしれない後継者争いの芽を摘み、徳川政権が家康個人の権威のみに依存するものではないことを諸大名に示す狙いがあった。秀忠は10万余の大軍を率いて上洛し、京都で将軍宣下を受け、内大臣などの官位も授けられた 2 。
しかし、将軍に就任したとはいえ、秀忠がすぐに全権を掌握したわけではなかった。家康は「大御所」として駿府城にあって実権を握り続け、いわゆる「二元政治」体制が敷かれた 7 。秀忠は江戸城にあって政務を執ったが、重要事項については駿府の家康に指示を仰ぐ必要があり、その意向に沿って政策を実行する役割を担った。この体制は、家康が元和2年(1616)に死去するまで10年以上続いた。これは秀忠にとって、政務の実地訓練の機会であると同時に、依然として父の強い影響下に置かれていることを意味した。
徳川政権の安定化に向けた最終段階とも言える大坂の陣(冬の陣:1614年、夏の陣:1615年)において、秀忠は再び父と共に軍を率いた。
冬の陣では、関ヶ原での遅参の汚名を返上しようと意気込んだのか、江戸からの進軍を急ぎすぎ、兵の疲労を懸念した家康から速度を落とすよう注意を受けたにもかかわらず、これを無視したとされる。また、和睦を考慮する家康に対し、総攻撃を進言して「敵を侮るな」とたしなめられたという逸話も残る。
夏の陣では、秀忠は先陣を強く望み、形式的には認められたものの、最終局面における最激戦地となった天王寺口・岡山口の戦いでは、結局家康自身が前線近くで指揮を執ることとなり、秀忠が決定的な武功を立てる機会は失われた 4 。豊臣秀頼・淀殿の最終的な処遇決定に関する秀忠の具体的な関与についても、明確な記録は乏しい 4 。
大坂の陣における一連の出来事は、秀忠が依然として家康の戦略的・政治的枠組みの中で行動していたことを示している。彼が自己主張を試みた場面(冬の陣での強行軍、夏の陣での先陣希望)も、家康の判断や存在感によって制御されたり、影が薄れたりした 4 。これは、彼が関ヶ原以降、独立した軍事的指導者としての評価を確立しきれなかったことを示唆しており、家康の圧倒的な影響力の下で自身の権威を確立しようと模索し続ける姿を浮き彫りにしている。
元和2年(1616)に家康が死去すると、秀忠はようやく名実ともに幕府の最高権力者となった。家康の政策を踏襲しつつも 8 、その統治スタイルは、より厳格で体系的、そして時に非情とも評される側面を強めていった 1 。一部では「恐怖政治」と表現されることもある 5 。家康が時に情に流される面があったのに対し、秀忠は規則や法度を冷徹に適用し、幕府の権威に挑戦する者には容赦ない態度で臨んだとされる 1 。
秀忠政権下で、徳川支配を制度的に確立するための様々な施策が強力に推進された。
元和元年(1615)、家康の指導のもと、秀忠の名で「武家諸法度」(元和令)が発布された 1 。起草には金地院崇伝らが関与した。この法度は、大名が遵守すべき規範を網羅的に定めたもので、文武両道の奨励(特に武芸の重視)、群飲佚遊(酒宴や遊興)の禁止、幕府の法度に背いた者の追放、反逆者や殺人犯の家臣の追放、他国者の無許可雇用禁止、居城の修補に関する報告義務と新規築城の厳禁、徒党を組むことの禁止、幕府の許可なき婚姻の禁止、参勤作法(行列の規模制限など)、身分に応じた服装規定、輿の使用制限、倹約の奨励など、多岐にわたる条項を含んでいた。
武家諸法度の画期性は、個々の大名と将軍との個人的な主従関係に加えて、幕府による大名階級全体に対する制度的な統制の枠組みを明確に示した点にある。そして、秀忠の治世において、この法度は厳格に運用され、違反者に対する厳しい処罰が実行された。
秀忠は、武家諸法度違反やその他の理由を盾に、大名の改易(領地・家禄の没収)や転封(領地の移封)を積極的に行った 1 。これは、潜在的な脅威となりうる大名(特に関ヶ原以降に従った外様大名)を排除し、幕府への反抗を未然に防ぐとともに、譜代大名(古くからの徳川家臣)を戦略的に重要な地域へ配置し直す目的があった 1 。家康没後の7年間で41家の大名家が改易されたとの記録もある 1 。
表2:秀忠政権下における主要な改易・転封事例
大名氏名 |
旧領・石高(推定) |
大名区分 |
処分年(西暦) |
主な理由 |
処分結果 |
典拠 |
福島正則 |
安芸広島 49万石 |
外様 |
1619 |
武家諸法度違反(広島城の無断修築) |
改易 |
|
本多正純 |
下野宇都宮 15万石 |
譜代 |
1622 |
武家諸法度違反(宇都宮城の無断修築)、謀反の嫌疑(宇都宮城釣天井事件)など |
改易 |
|
松平忠直 |
越前北ノ庄 67万石 |
親藩(家康孫) |
1623 (秀忠隠居後だが影響下) |
乱行、幕命無視 |
隠居・配流 |
|
最上義俊 |
出羽山形 57万石 |
外様 |
1622 |
家中騒動(最上騒動) |
改易 |
1 (言及) |
本多忠勝家 (桑名藩) |
伊勢桑名 10万石 |
譜代 |
1617 |
忠勝死後、家中不和など (詳細不明) |
転封 |
(参考) |
これらの処分は、豊臣恩顧の有力大名であった福島正則や、家康側近の子である本多正純、さらには家康の孫である松平忠直にまで及んだ。特に福島正則の改易は、武家諸法度が単なる理念ではなく、いかに強力な大名であっても適用される実効力を持つ法であることを天下に示す象徴的な事件となった。秀忠は、これらの改易・転封によって空いた土地に、信頼できる譜代大名や親藩大名を配置し、特に経済的に重要でかつ旧豊臣勢力の影響が残る可能性のあった畿内近国の支配を固めた 1 。
秀忠は、大名だけでなく、伝統的な権威である朝廷や有力寺社に対しても統制を強化した。元和元年(1615)に制定された「禁中並公家諸法度」は、天皇の行動や公家の序列、任官などについて細かく規定し、幕府の管理下に置こうとするものであった 3 。
この法度の運用を象徴するのが、寛永4年(1627)から寛永6年(1629)にかけて起こった「紫衣事件」である 3 。
秀忠はまた、海外貿易に対しても制限を加え始めた 1 。これは、西国大名などが貿易を通じて富を蓄積し、幕府に対抗する力をつけることを警戒したためと考えられる。この政策は、後のいわゆる「鎖国」体制へと繋がる基礎を築くものであった。
家康没後の秀忠による一連の政策は、「恐怖政治」 5 と評されることもあるが、むしろ数十年にわたる戦乱と、豊臣氏という巨大な対抗勢力が消滅した直後の不安定な状況下で、政権を安定させるために不可欠な、極めて体系的な権力集中プロセスであったと解釈できる。彼は、武家諸法度や禁中並公家諸法度といったルールを厳格に適用し、その違反がもたらす結果を明確に示すことで 3 、将来の紛争の火種となりうる要素(強力すぎる大名、自律的な朝廷権威)を徹底的に排除し、長期的な安定を目指したのである 1 。
徳川秀忠の人物像は、公的な記録や様々な逸話から、多面的で複雑な様相を呈している。
秀忠の正室(御台所)は、浅井長政の三女であり、織田信長の姪、豊臣秀吉の側室・淀殿の妹にあたるお江(崇源院)であった。彼女は秀忠より5歳年上であり、プライドが高く、気が強い女性であったとされる。秀忠は妻に頭が上がらなかったという逸話がいくつか残っており 6 、公式には側室を持たなかった。これは、お江の影響力によるものか、あるいは秀忠自身の性格によるものかは定かではない。侍女に子(後の保科正之)を産ませた際も、お江を憚ってか、その子を密かに養子に出したと伝えられている 6 。
父・家康と同様に、秀忠も鷹狩りを好んだ。当時の武家社会において、鷹狩りは単なる娯楽ではなく、武芸鍛錬、心身鍛錬、そして獲物の献上・下賜を通じた主従間のコミュニケーション儀礼としての側面も持っていた。秀忠の寛容さを示す逸話のいくつかは、この鷹狩りの場で起こっている。
一部の俗説や二次史料において、秀忠に男色の相手がいたとする記述が見られる。具体的には丹羽長重などの名前が挙げられることがある 6 。しかし、これらの関係を直接的に証明する一次史料は乏しく、その信憑性については慎重な判断が必要であると指摘する研究もある。本稿では、そのような説が存在することを記すに留める。
秀忠の性格に見られるこれらの矛盾とも思える側面――個人的な場面での寛容さ と政治的な場面での冷徹さ、表向きの平凡さ と内面の強靭さ――は、彼の行動が置かれた状況に強く依存していたことを示唆している。確立されたヒエラルキー内部の、忠実な家臣に対しては温情を示す余裕があったが、自らが確立・維持すべき政治秩序への脅威に対しては、一切の妥協を許さなかった。彼の徹底した倹約志向 は、幕府の安定と規律を重視する姿勢と一貫している。正室お江との関係 は、将軍という最高権力者であっても、家庭内の力学が存在したことをうかがわせる。
元和9年(1623)、秀忠は45歳で将軍職を長男の家光に譲り、自らは大御所となった 7 。これは父・家康の前例に倣ったものであり、江戸城西の丸に移り、引き続き幕政の実権を握った 7 。この大御所政治は、家光への権力移譲を円滑に進めつつ、自らの影響力を保持するためのものであった。
将軍職の継承にあたっては、一時期、家光とその弟・忠長(幼名:国松)の間で後継者争いの様相を呈した。
家光が将軍に就任した後も、忠長は甲府藩主を経て、駿河・遠江・甲斐などを領する大大名(駿河大納言)となり、高い官位も得て、尾張・紀伊徳川家に匹敵するほどの地位を与えられた。これは、秀忠が忠長を家光の有力な補佐役(あるいは潜在的な対抗勢力)として位置づけようとした意図があったのかもしれない。
しかし、忠長は後に奇行や家臣への残虐な行為、幕府の命令を軽視するような行動(参勤交代に関する問題や、無許可での軍事準備の噂など 4 )が目立つようになったとされる 4 。
これに対し、大御所となっていた秀忠は、かつての寵愛にもかかわらず、忠長に対して厳しい態度で臨んだ。寛永8年(1631)、秀忠は忠長の領地を没収し、蟄居を命じた 4 。忠長は、秀忠の死後、家光の命により高崎にて自刃させられることになる(寛永10年または11年)。
秀忠は、将軍職を譲った後も、大御所として重要な政策決定に関与し続けた。紫衣事件への対応 3 などは、大御所時代の出来事である。家康が創始した将軍と大御所による二元統治体制を継承し、家光政権への移行期における安定を図った。
寛永9年(1632)1月24日、秀忠は江戸城西の丸にて54歳(満52歳)で死去した。死に際しては、自身の葬儀や法要を質素に行うよう厳命した 8 。遺体は江戸の増上寺に埋葬された。その墓所は第二次世界大戦後の改修時に調査されている。
秀忠が後継者問題や、最終的に寵愛した息子・忠長の処分において示した決断は、彼が個人的な感情よりも徳川政権の永続的な安定を最優先したことを示している。自らが家康による長子相続原則の適用によって後継者となった経験を踏まえ、次世代においてもその原則を厳格に守り通した。大御所として統治を続けたこと も、家康のモデルを踏襲し、家光への権力移譲期における継続性と統制を確保する意図があった。質素な葬儀の遺言 8 は、彼の生涯を通じて見られた倹約の精神と、幕府に負担をかけず、後世に華美な前例を残すまいとする配慮の表れであろう。これら晩年の行動は、彼の治世全体を貫く、徳川支配の盤石化という目的に集約される。
徳川秀忠の治世を振り返ると、武家諸法度や禁中並公家諸法度の厳格な運用、改易・転封による大名統制の徹底、紫衣事件を通じた朝廷権威の抑制、家光への円滑な権力移譲の管理、そして幕府統治の様々な先例確立といった、具体的な功績が挙げられる。
しばしば家康と家光の間の「つなぎ役」や「凡庸な二代目」といった評価を受けやすいが、それは彼の果たした役割の本質を見誤るものである。家康のようなカリスマ性や軍事的才覚には恵まれなかったかもしれないが、彼の治世は徳川幕府の基礎を固める上で決定的に重要であった。秀忠は、家康が軍事力で獲得した天下を、体系的で、時に非情とも言えるほどの厳格さをもって法と制度に基づく永続的な政治システムへと転換させたのである 1 。
彼の統治は、権力の「確立」と「制度化」、そして徳川の絶対的優位性の明示に焦点が当てられていた。大胆な革新や領土拡大ではなく、既存の秩序を盤石にするための地道な作業に注力したことが、彼の「地味さ」の印象に繋がっているのかもしれない。その厳格さは、新たな体制を安定させるためには不可避であると彼が判断した、計算された統治手法であった可能性が高い 1 。
結論として、徳川秀忠は、関ヶ原での失態や複雑な性格といった側面を持ちながらも、極めて有能な第二代将軍であったと言える。彼が示した、新たな秩序のルールを確立し、それを徹底的に執行するという揺るぎない姿勢は、江戸幕府の長期的な成功と安定にとって不可欠な要素であった。その功績は、劇的な出来事の少なさや、彼自身の謙抑的な性格 8 ゆえに、後世において過小評価されてきた側面があるが、徳川三百年の泰平の礎を築いた重要な為政者として、再評価されるべきである。