徳永寿昌という武将は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた人物でありながら、その名は必ずしも広く知られてはいない。彼の経歴を簡潔に述べれば、柴田家臣から豊臣家臣へ、そして関ヶ原の役では徳川方につき、最終的に大名へと上り詰めた、いわば「主君を乗り換えた世渡り上手」という評価に集約されがちである。しかし、その生涯を丹念に追うと、単なる日和見主義者という一面的な像では捉えきれない、複雑で多層的な人物像が浮かび上がってくる。
本報告書は、徳永寿昌の生涯を、出自から柴田家臣時代、豊臣政権下での躍進と暗闘、関ヶ原での深謀、そして高須藩祖としての治世に至るまで、多角的に検証するものである。彼の各時代の行動原理を深く掘り下げ、その背景にある情勢分析能力、主君の側近として重用された知性、そして領国経営に手腕を発揮した行政官としての顔を明らかにすることで、乱世を渡りきった慧眼の武将、徳永寿昌の実像に迫ることを目的とする。
報告書の冒頭に本年表を配置することで、読者は徳永寿昌の生涯における重要な画期を時系列で俯瞰することが可能となる。彼のキャリアが、織田政権末期、豊臣政権、そして徳川政権樹立という日本の歴史における巨大な転換点と完全に同期していることが一目瞭然となり、後続の各章で詳述される出来事の位置づけを理解する上での確固たる基盤を提供する。
年代(西暦/和暦) |
寿昌の年齢(数え年) |
主要な出来事と役職・石高 |
典拠資料 |
1549年(天文18年) |
1歳 |
近江国徳永村にて、徳永昌利の子として誕生。 |
1 |
(時期不詳) |
- |
柴田勝家の養子・柴田勝豊の家臣となる。 |
1 |
1583年(天正11年) |
35歳 |
賤ヶ岳の戦い。主君・勝豊と共に長浜城を開城し、羽柴秀吉に降る。勝豊の病死後、秀吉の直臣となる。 |
1 |
(時期不詳) |
- |
豊臣秀次の附家老となり、美濃高松城主として3万石を領する。 |
1 |
1595年(文禄4年) |
47歳 |
秀次事件に連座せず。秀次の妻子が寿昌の京屋敷に送られた後、処刑される。秀吉の直臣に復帰。 |
1 |
1598年(慶長3年) |
50歳 |
秀吉死後、朝鮮在陣の日本軍の撤収交渉を担う。遺物として吉光の刀を受領。 |
1 |
1600年(慶長5年) |
52歳 |
関ヶ原の役で東軍に属す。美濃福束城、高須城を攻略するなどの軍功を挙げる。 |
1 |
1601年(慶長6年) |
53歳 |
戦功により美濃高須藩5万673石の初代藩主となる。 |
4 |
1612年(慶長17年) |
64歳 |
7月10日、高須にて死去。広徳寺に葬られる。 |
3 |
1628年(寛永5年) |
- |
子・昌重の代に、大坂城石垣普請の遅滞を理由に改易される。 |
5 |
徳永寿昌の生涯は、天文18年(1549年)、近江国徳永村に徳永昌利の子として生を受けたことから始まる 1 。彼の出身地である近江は、古来より交通の要衝として栄え、畿内と東国・北国を結ぶ結節点であった。このような土地柄は、中央の政治情勢の変動に常に晒されることを意味し、この地で育ったことが、後の寿昌の鋭い情勢感覚を培う一因となった可能性は十分に考えられる。
彼のキャリアの第一歩は、織田信長の筆頭宿老であった柴田勝家の養子(一説には甥)である柴田勝豊の家臣となったことであった 1 。史料には勝豊の「老臣」であったと記されており 2 、これは寿昌が比較的若い時期から、主君の側近くで政務や戦略の立案に関与する中核的な立場にあったことを示唆している。単なる一兵卒ではなく、主家の意思決定に影響を与えうる存在として、彼の武将としてのキャリアはスタートしたのである。
しかし、その立場は決して安泰なものではなかった。寿昌の主君・勝豊と、その養父である勝家との間には、深刻な確執が存在した。勝家は同じく甥である佐久間盛政を重用する一方で、養子である勝豊を疎んじる傾向があった 7 。さらに、勝家に実子とされる柴田勝敏が誕生したことで、勝豊の世嗣としての立場はますます危ういものとなっていた 7 。織田家中で最大派閥を形成していた柴田軍団に身を置きながら、その主流から外れ、トップとの間に心理的・政治的距離のある主君に仕えるという寿昌の初期の経歴は、極めて不安定なものであった。この経験こそが、組織内の力学や人間関係の機微を敏感に察知し、生き残りのための最善手を探るという、彼の生涯を貫く行動様式を形成した原点であったと推察される。彼の「慧眼」は、この不遇ともいえる初期キャリアにおいて、否応なく磨かれたものだったのである。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、織田家の主導権を巡る柴田勝家と羽柴秀吉の対立は決定的となり、翌天正11年(1583年)、両者は賤ヶ岳で激突する。この戦いは、徳永寿昌の運命を大きく転換させる契機となった。
戦いに先立ち、秀吉は巧みな調略をもって、勝家方の切り崩しを図る。その標的となったのが、近江長浜城を守る柴田勝豊であった 9 。前章で述べた通り、勝豊は養父・勝家に対して積年の不満を鬱積させていた。秀吉はこの確執を見逃さず、勝豊に接近した。結果、秀吉軍が長浜城を包囲すると、勝豊はさしたる抵抗も見せずに城を明け渡し、秀吉方に降ったのである 1 。
この重大な局面において、寿昌の動向は注目に値する。彼は、この時すでに病に冒されていた主君・勝豊の療養に従って京に滞在しており、賤ヶ岳の合戦そのものには直接参加していない 1 。これは極めて重要な事実である。彼は、戦場で旧主を裏切るという直接的な行為に手を染めたわけではなく、あくまで主君の政治的決断に忠実に従った家臣であった。この立場は、彼が後の豊臣政権下で「裏切り者」という汚名を過度に負うことなく、キャリアを再構築する上で有利に働いた可能性がある。
しかし、寿昌の新たな門出は、主君の死という悲劇と共に訪れる。勝豊は賤ヶ岳の戦いの直前、天正11年4月16日に京で病没してしまう 7 。主を失った寿昌であったが、路頭に迷うことはなかった。彼はそのまま秀吉の直臣として吸収され、その家臣団に組み込まれることになったのである 1 。
この一連の出来事は、寿昌の最初のキャリア転換が、自らの積極的な策動によるものではなく、主君の決断と死という外的要因によって受動的にもたらされたことを示している。しかし、彼はこの予期せぬ機会を的確に捉え、滅びゆく柴田家から、天下人への道を駆け上がる秀吉の家臣団へと、その所属を劇的に転換させることに成功した。この経験は、個人の情緒的な忠誠心よりも、時流を冷徹に見極め、より大きな権力構造に自身を適応させるという、戦国乱世における生存戦略の有効性を彼に痛感させたに違いない。彼はこの転機をバネに、新たな主君の下で自らの価値を証明し、能動的にその後のキャリアを切り拓いていくことになる。
秀吉の直臣となった徳永寿昌は、その能力を遺憾なく発揮し、豊臣政権の中枢へと駆け上がっていく。しかし、その道程は栄光だけでなく、権力闘争の渦中での非情な決断を伴うものであった。
秀吉は、自らの後継者として甥の豊臣秀次を養子に迎え、関白の位を譲った。この秀次政権を支える重臣として、寿昌は「附家老(つけがろう)」という重要な役に抜擢された 1 。附家老とは、主君の補佐役であると同時に、秀吉の意向を受けて主君を監視するという、二重の役割を担う極めて重要なポストである。この人事は、寿昌が秀吉から厚い信頼を得ていたことの証左に他ならない。
附家老となった寿昌は、尾張国と美濃国の内に所領を与えられ、最終的には美濃高松城(松ノ木城)を居城とする3万石の大名へと成長した 1 。そして、彼は単なる家老に留まらず、秀次政権において絶大な影響力を持つに至る。その権勢を物語るのが、奥州の雄、伊達政宗による評価である。政宗は、寿昌を「(秀次に仕える)出頭第一の人」と評している 11 。これは、寿昌が秀次の側近中の側近、最も信任の厚い懐刀であったことを示す、第一級の証言である。彼は、秀次を通して関白秀吉へも直接意見を言上できるほどの立場にあったとされ 11 、豊臣政権の中枢でその存在感を確固たるものとしていた。
文禄4年(1595年)、豊臣政権を揺るがす大事件が勃発する。秀吉と関白秀次の関係が決定的に悪化し、秀次は謀反の疑いをかけられ高野山で切腹、その妻子や側室、家臣団も大規模な粛清の対象となった、いわゆる「秀次事件」である。秀次の「出頭第一」と目されていた寿昌にとって、これは絶体絶命の危機であった。通常であれば、主君に連座して処罰されるのが必至の立場にあったからである。
しかし、寿昌はこの未曾有の危機を乗り越えるだけでなく、不可解ともいえる行動に出る。彼は連座を免れるどころか、失脚した主君・秀次の罪状を並べ立てて厳しく糾弾したと伝わっている 1 。これは、彼のキャリアにおける最大にして、最も冷徹な判断であった。個人的な主従関係よりも、豊臣政権という巨大な権力構造の安定、ひいては最高権力者である秀吉個人の意向を絶対視するという、非情な決断を下したのである。
彼のこの立ち回りは、秀吉から新たな信頼を勝ち取る結果となった。その証拠に、丹波亀山城に軟禁されていた秀次の妻子三十数名は、京の三条河原で処刑される前夜、寿昌の京都屋敷に身柄を移されている 1 。これは、秀吉がこの悲劇的な粛清の最終段階の管理を、全幅の信頼を置いて寿昌に委ねたことを意味する。寿昌は、秀次の最も信頼する側近であったがゆえに、秀次の能力や動向、そしてその限界を誰よりも熟知していたはずである。同時に、附家老として秀吉の意向も把握する立場にあった彼は、秀吉と秀次の対立がもはや修復不可能な段階にあると、早い時期に見抜いていたのであろう。この状況で秀次に殉じることは、自らの一族を破滅させるだけの無益な行為に他ならない。生き残るためには、秀吉に対して「自分は秀次にではなく、豊臣宗家(秀吉)にこそ忠実である」と明確に示す必要があった。秀次の罪状を糾弾し、その妻子を預かるという汚れ仕事を引き受けることは、秀吉への絶対的な忠誠を証明し、自らの立場を盤石にするための、計算され尽くした戦略的行動だったのである。この一件は、彼の冷徹なまでの現実主義と、政治的状況を的確に読み切る能力の高さを、何よりも雄弁に物語っている。
寿昌の人物像を理解する上で、彼の武将や政治家としての一面だけでなく、文化人としての側面にも光を当てる必要がある。彼は、有馬則頼、金森長近と共に、豊臣秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」を務め、それぞれが出家して法印の僧位を得ていたことから、「三法師」と称された 12 。寿昌は「式部卿法印」を称している 2 。
「御伽衆」とは、単に主君の退屈を紛らわす話し相手ではない。主君に近侍し、自らの経験談や諸国の情勢、歴史や古典の講釈など、様々な知識や情報を提供する、相談役・顧問のような存在であった 13 。特に、農民から天下人にまで上り詰めたものの、体系的な学問の素養がなかった秀吉にとって、御伽衆は政治、文化、歴史を学ぶための重要な「耳学問」の師であり、信頼できる情報源でもあった 16 。
寿昌が、数多いる武将の中からこの御伽衆の一員に選ばれたという事実は、彼が単なる武勇や政務能力に長けた人物であるだけでなく、高い教養と話術を兼ね備えた文化人であったことを示している。天下人の知的好奇心を満たし、有益な見識を提供できるだけの知性を備えていたからこそ、彼は秀吉に重用されたのである。秀次附家老や、後述する朝鮮からの撤兵交渉といった、高度な政治判断と交渉能力を要する任務に彼が抜擢された背景には、こうした武辺一辺倒ではない、知的な側面があったことは想像に難くない。彼の「慧眼」とは、単なる戦況判断能力にとどまらず、幅広い知識と教養に裏打ちされた、総合的なインテリジェンスであったと結論付けられる。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、日本は再び動乱の時代へと突入する。徳永寿昌は、この政局の転換点においても、その卓越した情勢分析能力を発揮し、次なる時代の覇者を見定める。
秀吉の死後、五大老の筆頭である徳川家康が急速にその影響力を強め始めると、寿昌は豊臣恩顧の大名でありながら、いち早く家康への接近を図った。慶長4年(1599年)、彼は徳川四天王の一人である井伊直政を仲介役として、家康に対して二心なきことを誓う誓書を提出している 1 。これは、来るべき権力闘争の帰趨を的確に見抜き、最も確実な側に自らの身を投じるという、彼の戦略的な判断を示すものであった。
その忠誠心が試されたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の役である。家康が会津の上杉景勝討伐に向かうと、石田三成らが大坂で挙兵し、会津征伐に従軍した諸大名の妻子を人質に取るという挙に出た。この報を受けた家康は、妻子を人質に取られている大名たちに対し、東軍に残るも西軍につくも、その進退は自由にしてよい、という度量の大きさを示した。この処置に深く感銘を受けた寿昌は、改めて家康への忠誠を誓う。そして、その決意を行動で示すため、嫡男の昌重を人質として家康の下に残した上で、さらに次男の昌成を領国から呼び寄せ、東軍の有力大名である池田輝政に預けたのである 1 。これは、自らの退路を完全に断ち、家康への全面的な帰属を内外に示す、極めて計算された行動であった。他の豊臣恩顧大名との差別化を図り、家康からの絶対的な信頼を勝ち取るための、これ以上ない意思表示であった。
言葉だけでなく、寿昌は戦場での働きによってもその忠誠を証明した。家康から金森長近と共に美濃方面の先行制圧を命じられた彼は、関ヶ原の本戦に先立って、西軍方の諸城の攻略にあたった 1 。まず、西軍に属した丸毛兼利が守る福束城を攻略。次いで、高木盛兼が守る高須城を謀略を用いて陥落させ、これを自らの拠点とした 1 。さらに、駒野城に籠る池田秀氏を降伏させるなど、美濃における西軍勢力を次々と駆逐していった 1 。これらの戦功は、東軍本隊が関ヶ原へ至るまでの進路を確保し、美濃における戦いの主導権を握る上で、決定的に重要な貢献であった。関ヶ原における寿昌の行動は、単なる時流への順応ではない。来るべき徳川の世における自らの地位を確固たるものにするための、計算され尽くした「先行投資」だったのである。
関ヶ原での戦功により、徳永寿昌はついに一国一城の主としての地位を確立する。しかし、彼が築き上げた栄光は、その子息の代で儚くも潰えることとなる。
関ヶ原の役における軍功を認められた寿昌は、家康から2万石の加増を受け、合計5万673石を領する大名となった 1 。彼は、自らが攻略した美濃高須城を居城とし、ここに高須藩を立藩したのである。
藩主となった寿昌は、武将としてだけでなく、優れた行政官としての能力を発揮する。彼は慶長6年(1601年)から3年の歳月をかけて高須城の大規模な修築を行い、城郭を近代的なものへと改修した 19 。同時に、城下町の整備にも尽力し、藩政の基礎を固めた 19 。特筆すべきは、彼が行った町割りの巧みさである。その都市計画は、現在の岐阜県海津市高須町の町並みの基礎として、400年以上を経た今なお、その多くが受け継がれているという 21 。これは、彼が単に場当たり的な統治を行ったのではなく、長期的な視点に立った領国経営を行っていたことを示す動かぬ証拠である。豊臣政権下で近江の用水整備に関わったとされる記録もあり 21 、彼の土木・行政技術者としての手腕は一貫していたことがうかがえる。寿昌の晩年は、戦乱の時代を生き抜いた武将が、新たな平和の時代における領国経営者へと見事に転身を遂げた姿を示している。
慶長17年(1612年)、徳永寿昌は64歳でその生涯を閉じた 4 。家督は、嫡男の徳永昌重が継承した。昌重もまた武将として有能であり、大坂冬の陣・夏の陣で武功を挙げ、父の遺領に加増を受けて5万3千石余りを領する大名となった 19 。徳永家の将来は盤石かのように見えた。
しかし、寛永5年(1628年)、徳永家に突如として悲劇が訪れる。昌重は幕府から大坂城二の丸の石垣普請の助役を命じられていたが、その工事の進捗が遅れたことを理由に、所領を全て没収される「改易」の処分を受けたのである 5 。公式な理由は「勤務怠慢」であり、一説には酒食に耽っていたためとされている 19 。しかし、この時期の江戸幕府は、支配体制を盤石にするため、豊臣恩顧の外様大名を中心に、些細な落ち度を口実にして大名家を取り潰す「武断政治」を推し進めていた 23 。徳永家の改易もまた、二代目・昌重個人の資質の問題以上に、幕府による中央集権体制確立という、より大きな政治的潮流の犠牲となった側面が強かったと考えられる。
ここに、時代の転換点を個人の才覚で巧みに乗り切り、徳川政権下で大名の地位を勝ち取った父・寿昌と、確立された権力構造の中で些細な瑕疵を突かれて没落した子・昌重の、悲劇的な対比が見て取れる。寿昌の生涯が「戦国から江戸へ」という移行期の成功物語であるとすれば、徳永家の改易は、その移行が完了した後の、武家社会の厳格で非情な現実を象徴する出来事であった。徳永氏は後に赦免され、昌重の子・昌勝の代に旗本として家名の存続は許されたが 6 、大名としての地位を取り戻すことは二度となかった。寿昌が一代で築き上げた高須藩は、まさに夢と消えたのである。
徳永寿昌の生涯を俯瞰するとき、それは柴田家臣から豊臣家、そして徳川家へと、主君を乗り換えることで乱世を生き延びた、典型的な戦国武将の姿を映し出している。しかし、その行動の背景を深く探るならば、単なる日和見主義や世渡り上手という言葉では片付けられない、一貫した行動原理が浮かび上がってくる。それは、以下の三つの柱に集約される。
第一に、**「情勢を客観的に分析する慧眼」**である。彼は常に、所属する組織の力学と、天下の趨勢を冷静に見極め、自らの生存と発展にとって最も合理的な選択肢を取り続けた。
第二に、**「権力中枢に食い込むための知性」**である。彼は武勇だけでなく、高い教養と実務能力を兼ね備えていた。豊臣秀吉の御伽衆「三法師」の一人として重用された事実は、彼が天下人の知的欲求を満たすほどの文化人であったことを物語る。この知性こそが、彼を単なる武将から、権力者の懐刀という特別な地位へと押し上げた原動力であった。
第三に、**「領国を経営する行政能力」**である。高須藩主として、後世にまで残る城下町を建設した手腕は、彼が戦時だけでなく平時においても有能な統治者であったことを証明している。
彼は、主君への情緒的な忠誠よりも、自らと一族が生き残るための合理的な判断を優先した、冷徹な現実主義者であった。秀次事件における非情ともいえる立ち回りは、その思想を最も象徴的に示している。彼の成功は、戦国乱世という流動的な社会が、個人の才覚次第で身分の上昇を可能にした時代の特性を体現している。しかし、その息子が、固定化された幕藩体制という権力構造の中で容易く改易された事実は、時代の変化がもたらした武士の生き方の変容と、一度築いた「家」を存続させることの困難さを痛切に物語っている。
徳永寿昌とは、まさに戦国から江戸へと至る激しい時代の過渡期そのものを、その波瀾万丈の生涯をもって体現した、稀有な武将であったと再評価することができよう。