最終更新日 2025-06-24

志村光安

「志村光安」の画像

専門家報告書:最上氏の柱石・志村光安 ―智勇兼備の将、その生涯と実像―

序章:智勇兼備の将、志村光安 ― 史実と伝承の狭間で

最上義光の腹心として、その覇業を支えた武将、志村光安。彼の名は、特に関ヶ原の戦いと連動して起きた慶長出羽合戦、通称「北の関ヶ原」における長谷堂城での英雄的な防衛戦によって、後世に不朽のものとなった 1 。知将・直江兼続が率いる2万余の上杉軍を、わずか1,000ほどの寡兵で半月以上にわたり食い止め、主君・義光の窮地を救ったその武勇伝は、彼を「名将」として歴史に刻み込んだ 1

しかし、この鮮烈な武功のイメージは、志村光安という人物の全体像を捉える上で、時に一面的な理解へと導く危険性を孕んでいる。彼の生涯を丹念に追うと、勇猛な武将という顔の裏に、巧みな交渉術を駆使する外交官、そして新たな領地の経営と都市計画を担う優れた行政官という、実に多面的な貌が浮かび上がってくるのである。

本報告書は、この「長谷堂城の英雄」という伝承の域を超え、志村光安の生涯の全貌を、史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。光安の生涯、特に慶長6年(1601年)に庄内・酒田の城主となる以前の動向は、『奥羽永慶軍記』をはじめとする軍記物語に依拠する部分が大きい 5 。これらの史料は、歴史的事実を伝える一方で物語的な脚色を含むため、その取り扱いには慎重な史料批判が不可欠である。本報告書では、書状などの一次史料、各自治体史の編纂過程で蓄積された研究成果、さらには考古学的知見を基軸とし、軍記物の記述は補助的に参照することで、伝承と史実を峻別し、光安の立体的な実像に迫る。

光安の評価が長谷堂城合戦の功績に集中しがちな現状は、彼の持つ外交能力や領国経営の手腕を過小評価させる可能性がある 2 。彼の生涯は、史料の性質上、酒田城主となる慶長6年を境に大きく二分される。それ以前は逸話が多く、以降は藩政に関わる具体的な書状が増加する 6 。この「史料的転換点」は、彼の役割が主君の側近くで密命を帯びる「腹心」から、特定領域を統治する「方面軍司令官」へと変化したことを示唆しており、本報告書ではこの点を踏まえ、彼の生涯を多角的に分析・評価していく。

表1:志村光安 関連年表

西暦(和暦)

志村光安の動向・役職(推定含む)

最上家の主要な出来事

国内の主要な出来事

不詳

出羽国漆山地区志村にて誕生(父:志村光清)

1577年(天正5年)頃

【外交】織田信長への使者を務め、主君・義光の出羽守叙任を成功させる(『奥羽永慶軍記』等)。通称は九郎兵衛。

谷地の白鳥長久が信長に接近。

織田信長、畿内をほぼ平定。

1584年(天正12年)

【軍事】天童氏、寒河江氏との戦いで武功を挙げる。

天童氏、寒河江氏を滅ぼし、村山郡を統一。

小牧・長久手の戦い。

1588年(天正16年)

大崎合戦で伊達政宗と対立。十五里ヶ原の戦いで上杉軍に敗れ、庄内を失う。

豊臣秀吉、刀狩令を発布。

1600年(慶長5年)

【軍事】 慶長出羽合戦 。長谷堂城主として直江兼続の猛攻を防ぐ(9月)。上杉軍撤退後、追撃戦に参加。谷地城に孤立した下吉忠を説得し降伏させる(10月)。官途名は伊豆守。

最上義光、東軍として上杉景勝と交戦。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利。

1601年(慶長6年)

【統治】戦功により庄内・東禅寺城(後の亀ヶ崎城)3万石の城主となる。

最上氏、57万石の大名となる。

1603年(慶長8年)

【統治】酒田に亀が上陸したことを報告。これを機に東禅寺城は亀ヶ崎城と改称。

義光、嫡男・義康を廃嫡・殺害。

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

1608年(慶長13年)

【統治】羽黒山五重塔の修造を差配するなど、庄内の寺社復興に尽力。

1611年(慶長16年)

8月7日、死去(有力説)。

1614年(慶長19年)

嫡男・光惟が最上家の内紛に巻き込まれ、鶴岡にて暗殺される。

1月、最上義光が死去。家親が家督を継ぐ。

大坂冬の陣。

1622年(元和8年)

最上家、お家騒動(最上騒動)により改易。

元和8年以降

子孫の一部は山形藩水野家の家老となり、武家として存続。別の一族は東根に帰農し、横尾姓を名乗る。

第一章:出自と最上家臣団における台頭

一、志村氏のルーツと光安の誕生

志村光安は、最上家に古くから仕える譜代の家臣の家に生を受けた。父は志村光清と伝わる 9 。その出自は、現在の山形市北部に位置する出羽国漆山地区の「志村」という地名に由来すると考えられている 7 。この地にはかつて「志村館」が存在した可能性も指摘されており、在地名を姓とするのは、当時の最上家家臣団によく見られる特徴であった 7

光安の生年は、残念ながら正確な記録がなく不明である 2 。しかし、彼の活躍が本格化する時期や没年から逆算すると、主君である最上義光(天文15年、1546年生)と近い世代であったと推測するのが通説となっている 7 。彼は、義光が父・義守から実権を奪い、領国拡大へと乗り出す激動の時代に、その腹心として頭角を現していくことになる。

二、通称「九郎兵衛」から「伊豆守」へ ― 名前に見るキャリアパス

志村光安の生涯を追う上で興味深いのは、その通称(官途名)の変遷である。軍記物語などでは、若年期を「志村九郎兵衛」、後年を「志村伊豆守」として描き分けられることが多い 5

この二つの名前について史料的に検証すると、慶長期以降に光安が発給した書状では、一貫して「志村伊豆守光安」と署名されており、「伊豆守」が彼の公式な官途名であったことは疑いようがない 5 。一方で、彼自身が「九郎兵衛」と名乗った一次史料は、現在のところ確認されていない 5

しかし、「九郎兵衛」という通称が単なる創作であったとは考えにくい。その最大の根拠は、光安の嫡子である志村光惟が「九郎兵衛」を名乗っていたことを示す書状が現存する点である 5 。武家社会では、父の若名や通称を嫡子が継承する例が数多く見られる。この慣習に鑑みれば、光安もまた伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を称していた可能性は極めて高いと結論づけられる 6 。この通称の変更は、慶長初期頃、最上氏が豊臣政権下で大名としての地位を固め、対外的な交渉が増加した時期に行われたと推測される 6

この「九郎兵衛」時代の光安を物語る貴重な物証とされるのが、天童市の若松寺に現存する重要文化財「板絵著色神馬図絵馬」である。この絵馬の余白部分に「志村九郎」という落書きが残されており、天正12年(1584年)の天童攻めの後に、若松寺に参詣した光安が戯れに書き付けたものと見られている 7 。これが事実であれば、若き日の彼の息遣いを伝える唯一無二の史料と言えよう。

光安の通称の変遷は、単なる名前の変更以上の意味を持つ。それは、最上家臣団内における彼の地位の上昇と、役割の変化を象徴しているのである。「九郎兵衛」が譜代家臣としての個人的な武勇や家柄を示す内向きの名乗りであったとすれば、「伊豆守」は対外的な交渉や領国統治を担う公人としての官途名であった。この変化の背景には、最上氏が単なる出羽の地方豪族から、織田・豊臣、そして徳川へと続く中央政権の秩序に組み込まれ、公式な官途名を持つ家臣による外交が不可欠となったという、より大きな政治的文脈が存在する。光安個人のキャリアパスは、そのまま最上氏という組織が近世大名へと脱皮していく過程を映し出しているのである。

三、外交の舞台へ ― 織田信長との交渉

志村光安が、その「口才」をもって歴史の表舞台に登場する最初の逸話が、中央の覇者・織田信長との交渉である。

天正5年(1577年)頃、最上領の谷地城主であった白鳥長久は、主君・義光を出し抜き、自らが出羽国の支配者になろうと画策した。彼は、当時天下に権勢を轟かせていた織田信長に使者を送り、自家の由緒を説いて出羽国の支配権を認めてもらおうと働きかけたのである 7

この動きを察知した最上義光は、即座に対抗措置を講じる。この国家の存亡に関わる重要な外交交渉の使者として白羽の矢が立ったのが、若き志村光安(当時は九郎兵衛)であった 7 。光安は、最上家が源氏の名門・斯波氏の流れを汲むことを示す系図、そして名産品である青鷹、駿馬、名工・月山の手による槍などを献上品として携え、信長に謁見したとされる 7

軍記物語によれば、光安は信長の前で堂々と弁舌を振るい、白鳥長久の主張が偽りであることを論証。逆に主君・義光こそが出羽守にふさわしいと認めさせ、その叙任の許可を取り付けたという 9

この逸話は、主に『奥羽永慶軍記』などの軍記物に見られるものであり、その史実性については慎重な検討を要する 7 。しかし、史実性の真偽以上に重要なのは、最上義光が中央政権との極めて重要な交渉事に、当時まだ若かったであろう光安を抜擢したという点である。これは、光安がキャリアの初期段階から、武勇のみならず、知略と弁舌の才を高く評価され、主君から絶大な信頼を寄せられていたことを示唆している 4 。このエピソードは、光安という人物を英雄として形作る上で、彼の二大特性である「武勇」と「弁舌」を劇的に示す「創世神話」として機能している。後の長谷堂城での武勇や谷地城での説得といった功績に、必然性と一貫性を与えるこの物語は、後世の人々が彼にどのような理想の家臣像を託していたかを物語る、重要な構成要素なのである。

第二章:最上義光の覇業と光安の武功(慶長出羽合戦以前)

一、出羽統一戦における中核として

織田信長への使者という大役を果たしたとされる志村光安は、その後、最上義光が進める出羽統一戦争において、軍事面でも中核的な役割を担っていく。

天正12年(1584年)、最上氏にとって長年の宿敵であった天童氏、そして寒河江氏との決戦において、光安は一軍の将として参陣し、武功を挙げたと記録されている 7 。これらの戦いは、最上氏が村山地方の完全平定を成し遂げる上で決定的な意味を持つものであり、光安が義光の領土拡大戦略に不可欠な武将として常に第一線で活躍していたことがわかる。

続いて、義光が目を向けたのは最上郡方面であった。この地を支配していた鮭延城主・鮭延秀綱との戦いにおいても、光安は重要な役割を演じた。軍記物によれば、義光は敵将である秀綱の武勇を高く評価しており、これを殺すことを惜しんだ。そこで「秀綱を殺すな」と密かに命じたとされる。光安はこの主君の深謀遠慮を的確に汲み取り、戦いの最中に秀綱が城から脱出するのを故意に見逃したという 7

この鮭延秀綱を見逃した逸話は、光安が単なる命令実行者ではなく、主君の戦略的意図を深く理解し、戦場でそれを実現する高度な政治的判断力を持っていたことを示唆している。義光の狙いは、目先の勝利のために敵将を討ち取ることではなく、長期的な視点で有能な人材を自らの家臣団に組み込むことにあった。光安の行動は、この高度な人材獲得戦略を成功に導くための、戦術レベルでの見事な采配であったと言える。義光が、武勇だけでなく知略と状況判断力にも長けた光安だからこそ、この難しい任務を任せたことは想像に難くない。この出来事は、後に慶長出羽合戦において、光安と秀綱が長谷堂城で絶妙な連携を見せ、上杉軍を撃退する重要な伏線となっている。

最上氏が勢力を拡大していく過程において、家臣団内での機能的な役割分担が形成されていった様子が窺える。例えば、氏家守棟が「謀略」によって敵の内部を切り崩し、志村光安が「武力」と「交渉」によってそれを仕上げ、そして後に家臣団に加わる鮭延秀綱が純粋な「武勇」で敵を圧倒するといった構図である。その中で光安は、武力行使と外交交渉の両面をこなせる、極めて汎用性の高い「万能型の腹心」として、義光の覇業に貢献し続けたのである。

第三章:「北の関ヶ原」慶長出羽合戦 ― 伝説の頂点

志村光安の名を不滅のものとしたのが、慶長5年(1600年)9月から10月にかけて繰り広げられた慶長出羽合戦、とりわけその中核をなす長谷堂城の攻防戦である。この戦いは、彼の武将としてのキャリアの頂点であり、その智勇が最も輝いた瞬間であった。

第一節:戦略的背景 ― なぜ長谷堂は主戦場となったのか

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を巡り、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍の対立は決定的となった。五大老の一人であった会津の上杉景勝は、三成らと連携し西軍の重鎮として明確に反家康の姿勢を示す。これに対し、家康と強固な同盟関係にあった出羽の最上義光は、奥羽諸大名を率いて上杉を牽制する役目を担っており、両者の激突は避けられない情勢であった 15

家康が上杉討伐のため北上するも、三成の挙兵により西へ反転すると、上杉軍はその背後を突く形で最上領への侵攻を開始した。総大将は、上杉家の宰相として名高い直江兼続。その兵力は2万とも3万ともいわれ、米沢、庄内、仙北の三方面から最上領へ雪崩れ込む「分進合攻」の策をとった 15 。兼続率いる主力部隊の最終目標は、最上氏の本拠・山形城であった。そして、その山形城の南西約8キロに位置し、山形盆地への最終防衛線となる最重要拠点が、長谷堂城だったのである 15

対する最上軍の総兵力は7,000程度に過ぎず、しかも領内各地の城砦に兵力を分散させていたため、その戦力差は圧倒的であった 15 。この絶望的な状況下で、義光は多くの支城を放棄して兵力を集中させる「明け逃げ」戦術を採用。山形城、上山城、そしてこの長谷堂城の三拠点を中心とした防衛網で、上杉の大軍を迎え撃つことを決断した 20

第二節:長谷堂城の攻防 ― 智勇が交錯する半月

9月13日、上杉軍の猛攻により前哨戦である畑谷城が落城。城主の江口光清以下、守備兵は義光の撤退命令を拒否し、玉砕した 16 。勢いに乗る上杉軍は、翌14日には長谷堂城を望む菅沢山に本陣を構え、城を完全に包囲した。

この国家存亡の危機に際し、長谷堂城の守将に任じられたのが志村光安であった。援軍として、かつて光安が見逃した猛将・鮭延秀綱が副将格で派遣され、最強の布陣で臨んだ 16 。しかし、城内の兵力はわずか1,000から1,300名ほどであったと記録されている 18

長谷堂城は、標高約230メートルの独立した丘陵に築かれた山城であり、周囲を深田や川に囲まれた天然の要害であった 15 。この攻めにくい地形は、上杉の大軍にとって大きな障害となった 26

9月15日、兼続は力攻めを開始するが、光安と秀綱は巧みな連携でこれを迎撃する。籠城一辺倒ではなく、伏兵や夜襲を効果的に織り交ぜ、上杉軍を翻弄した 9 。特に9月16日の夜襲では上杉軍に同士討ちを誘発させるほどの混乱を与え 27 、鮭延秀綱は敵本陣に迫るほどの獅子奮迅の働きを見せた。この活躍は敵将・直江兼続をも感嘆させ、「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と賞賛したという逸話が『永慶軍記』などに残されている 20

戦況が膠着する中、義光の要請を受けた甥の伊達政宗が、叔父の留守政景を将とする3,000の援軍を派遣。9月21日に山形城の東方に着陣し、上杉軍の背後を脅かした 27 。これにより上杉軍は長谷堂城と伊達軍の両面に対応せざるを得なくなり、攻勢が鈍る。

9月29日、兼続は最後の総攻撃を敢行する。この日、最も激しい戦闘が繰り広げられたが、光安は最後まで城を守り抜き、逆に上杉方の勇将・上泉泰綱を討ち取るという大きな戦果を挙げた 27

第三節:終結と追撃 ― 戦略的勝利の確定

長谷堂城での激しい攻防が続いていた9月29日の夜、戦局を決定づける報せがもたらされる。美濃関ヶ原での本戦において、徳川家康率いる東軍がわずか一日で石田三成の西軍に圧勝したという情報であった 27 。これにより、西軍に与した上杉軍は完全に梯子を外された形となり、攻守は一夜にして逆転した。

10月1日、兼続は全軍に撤退を命令。この撤退戦は、追撃する最上・伊達連合軍に対し、鉄砲隊を巧みに用いて被害を最小限に抑えながら整然と行われ、その見事な指揮ぶりは後に敵である義光や家康からも賞賛されたと伝わる 16

義光は自ら陣頭に立ち、光安も参加して熾烈な追撃戦を展開した 9 。この戦いで義光の兜に弾が命中するなど、最後まで激しい戦闘が続いた 16

この慶長出羽合戦の終結において、志村光安の真価を改めて示すエピソードが残されている。上杉軍が撤退した後、最上領内の谷地城には、総大将からの撤退連絡を受けられず、敵中に孤立してしまった上杉方の将・下吉忠がいた。義光はこれを力攻めにせず、「武勇の誉れ高き者を無駄死にさせるのは惜しい」として、光安に説得を命じた 14 。光安は単身で夜陰に乗じて谷地城に赴き、理を尽くして降伏を勧告した。「関ヶ原での西軍大敗」「直江兼続の帰国」という大局を説き、これ以上抵抗しても無益であることを諭したのである。光安の熱誠と、「志村という武将は偽りを語らぬ」という敵方からの信頼、そして見捨てられたことへの上杉方への反感も相まって、下吉忠とその一族はついに降伏を決断した 7 。まさに「口才人を挫き、いかなる強敵も彼の前には降った」 3 という光安の評価を象徴する出来事であった。

光安による長谷堂城の半月にわたる防衛成功は、単なる一城の勝利に留まらない、全国規模での戦略的意義を持つものであった。それは、上杉軍の主力を山形盆地に釘付けにし、家康の東軍が関ヶ原での決戦に集中できる環境を間接的に創出したことを意味する。もし長谷堂が早期に陥落していれば、兼続は最上領を完全に制圧し、あるいは関東へ進出して家康の背後を脅かすという、西軍が描いた挟撃計画が現実味を帯びていた可能性も否定できない 39 。光安の粘り強い防衛が、この壮大な戦略を幻に終わらせる一因となったのである。この戦功こそが、戦後に最上氏が57万石という破格の大封を得る最大の理由であり、光安の功績は最上家の命運を左右するほど決定的なものであったと言える 16

第四章:庄内統治と都市計画 ― 領主としての手腕

慶長出羽合戦における比類なき功績により、志村光安は武将として最高の栄誉を得る。その恩賞として与えられたのは、単なる加増ではなく、最上領の新たな西の玄関口となる庄内地方の統治という重責であった。ここから光安のキャリアは、戦場の将から領国経営を担う行政官へと大きく転換し、その多才ぶりを遺憾なく発揮することになる。

一、亀ヶ崎城主三万石 ― 最上家中の重鎮として

戦後、最上義光は徳川家康からその功を賞され、庄内・由利郡を加増され、一挙に57万石の大大名へと躍進した 18 。この新たな領国の経営にあたり、義光は庄内地方の要衝である東禅寺城(現在の酒田市)の城主に志村光安を抜擢。三万石という破格の知行を与えた 3 。この石高は、最上一門で由利郡に四万五千石を与えられた本荘満茂に次ぐ、家臣団中第二位の待遇であり、義光が光安に寄せる信頼の厚さを如実に物語っている 7

慶長8年(1603年)、酒田の浜に巨大な亀が上陸するという吉兆があった。光安からの報告を受けた義光はこれを喜び、東禅寺城を「亀ヶ崎城」、庄内南部の拠点である大宝寺城を「鶴ヶ岡城」と改称したと伝わる 9

光安の役割は、単なる一城主にとどまらなかった。彼は庄内地方全体の統治を統括する立場にあり、山形の本領と北の由利郡とを結ぶ連絡・調整役も担っていた 6 。その統治システムは、光安が最終的な決定権を持ちつつも、実務レベルでは配下の家老である進藤但馬らが警察権や徴税権を行使するという、権限委譲を伴う効率的なものであったことが、現存する書状から窺える 6 。これは、急拡大した領国を円滑に統治するための、近世的な行政システムの萌芽であった。光安の庄内統治は、織田信長の方面軍団長(柴田勝家など)の統治モデルと比較考察する価値がある。信長の方面軍団長が軍事・行政の両面で大きな裁量権を持っていたように、光安もまた、義光から庄内一円の統治を事実上委任されていた。これは、最上氏が旧来の戦国大名から、よりシステム化された近世大名へと脱皮していく過程であり、光安はその変革を現場で主導するキーパーソンだったのである。

二、港町・酒田のグランドデザイン ― 経済と防災の先進性

光安が城主となった当時の酒田は、戦火によって荒廃していた。彼はこの町の復興と開発にあたり、卓越した都市計画家としての一面を見せる。

特筆すべきは、彼が一方的に計画を押し付けるのではなく、古くから酒田の自治を担ってきた商人組織「三十六人衆」と緊密に協議し、その意見を積極的に取り入れたことである 7 。酒田の繁栄の源泉が、最上川舟運と西廻り航路を舞台に活躍する商人たちの経済活動にあることを見抜いていた光安は、彼らの活力を最大限に引き出すことが、結果的に最上氏の利益(税収増)に繋がると理解していた。

光安の都市計画は、経済合理性と政治的柔軟性を兼ね備えていた。

第一に、港湾機能の充実を最優先し、最上川河口に舟着場を整備するなど、酒田を「羽州第一の港町」とするためのインフラ整備を進めた 7。

第二に、庄内地方特有の強い西風による砂害や火災といった災害への対策を講じ、寺社を町の風上にまとめて配置するなど、防災・環境面にも配慮した先進的な町割りを行った 7。

第三に、商人と職人の居住区を明確に区分し、経済活動の効率化を図った 7。

このように、武士の統治論理と商人の経済論理を融合させた光安の「ハイブリッド型都市計画」は、酒田のその後の目覚ましい発展の礎を築いた。彼が単なる武人ではなく、優れた行政官であったことの何よりの証左である。

三、文化と信仰の庇護者 ― 領主としての徳

光安は、武力や行政だけでなく、文化や信仰の面でも領主としての徳を示した。彼は、戦乱で疲弊した人心を安定させ、領民の精神的な拠り所を再構築するため、寺社の復興に力を注いだ。

特に、慶長13年(1608年)には、出羽三山の中心である羽黒山の五重塔(国宝)の修造事業を差配するという大役を果たしている 7 。この他にも、鶴岡市の金峯神社本社の再建など、庄内各地の宗教施設の復興にその名を残している 7

彼自身の信仰心も篤く、長谷堂城主時代からの菩提寺であった曹洞宗清源寺から僧を招き、酒田に新たに青原寺を建立した 7 。また、長谷堂から十一面観音像を亀ヶ崎城内に移して祈願仏とするなど、神仏への深い帰依が見られる 48

光安の温情ある人柄を伝える書状も現存している。年次は不明だが、家臣の家普請に際して送った手紙には、「壁の下地は念入りにやるように。風雨がひどい時期で大変だろうが、しっかりやってくれ。大工衆にもご苦労と伝えてほしい」といった内容が記されており、身分の低い者へも細やかな心遣いを忘れない、領主としてのあるべき姿が窺える 7

第五章:死と志村家のその後

最上家の柱石として、武、智、仁の三徳をもって主君を支え、領民を慈しんだ志村光安。しかし、彼の死は、主家である最上家に訪れる悲劇の序章となった。

一、光安の最期

志村光安の没年には、慶長14年(1609年)説と慶長16年(1611年)説の二つが存在する 9 。しかし、飽海郡遊佐町にある永泉寺の石塔に「慶長拾六季辛亥八月」との銘があること 2 、そして慶長17年(1612年)以降、公式な文書の署名が嫡子・光惟のものに切り替わることから 2 、現在では

慶長16年(1611年)8月7日 に没したとする説が有力視されている 7 。主君・義光に先立つこと3年であった。

彼の墓所は、自らが建立した酒田の青原寺に妻と共に眠る五輪塔があり 7 、また、彼が領した遊佐町の永泉寺にも供養塔とされる石造九重塔が静かに佇んでいる 7

二、最上家の内紛と志村家の悲劇

光安の死後、家督は嫡男の志村光惟(みつよし、または「みつただ」)が継ぎ、若くして三万石の亀ヶ崎城主となった 9 。しかし、彼を待ち受けていたのは、父が築いた栄光とはあまりにも対照的な、悲劇的な運命であった。

慶長19年(1614年)1月、偉大な当主であった最上義光が没すると、最上家中は深刻な後継者問題に揺れる。義光の跡を継いだ家親に対し、その異母弟である清水義親を擁立しようとする一派が反発し、家臣団は二つに割れてしまったのである(最上騒動) 50

この混乱の最中、同年6月、光惟は悲劇に見舞われる。清水義親の意を受けたとされる一栗兵部高春が、鶴岡城下で光惟を襲撃し、暗殺したのである 9 。時に光惟はまだ16歳であったとも伝わる 18 。家臣団第二位の石高を持つ大身であり、その去就が家中の趨勢を左右する光惟は、反主流派にとっては味方に引き入れたい存在であり、主流派にとっては潜在的な脅威であった。この板挟みの状況で、若き光惟は父・光安のような政治力を発揮する間もなく、陰謀の犠牲となった。光安という重石を失った最上家は、この内紛を収拾できず、彼の死は最上家の弱体化を象徴する事件となってしまった。

三、最上家改易後の子孫たち ― 二つの道

志村光惟の暗殺という悲劇に見舞われながらも、志村の一族は途絶えなかった。そして、主家である最上家が元和8年(1622年)にお家騒動の末に改易されるという激動の中で 53 、彼らは二つの異なる道を選び、その血脈を後世に伝えていく。

一つは、武士として生きる道である。光惟暗殺後も残った一族は、最上氏の後に山形藩主として入封した譜代大名に仕官し、家老職を務めた。その後、主家の転封に従って江戸へ移り、幕末には老中・水野忠邦の第一家老を務めるなど、名門家臣として明治維新まで武家の家名を保った 9

もう一つは、土に生きる道である。別の一族は、最上家改易を機に武士の身分を捨て、山形県東根地方に帰農した。彼らは姓を「横尾」と改め、地域の指導者である郡中総代名主を代々務め、在地に深く根を下ろした 9

主家を失った家臣が、新たな主君に再仕官する道と、在地に根を下ろし新たな役割を見出す道。志村氏の子孫たちが辿ったこの二つの道は、主家の盛衰に翻弄されながらも、たくましく生き抜こうとした近世武士の多様な「生き残り戦略」を鮮やかに示している。

終章:志村光安の再評価 ― 最上五十七万石を支えた「柱石」

志村光安の生涯を俯瞰するとき、我々は、長谷堂城の「武勇」という一面的なイメージがいかに彼の実像を限定的にしか伝えていないかに気づかされる。彼は、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の要請に応え、多様な才能を発揮した、稀有な武将であった。

光安は、長谷堂城で証明された 優れた武将 であると同時に、若き日に織田信長との交渉を任された 有能な外交官 であり、谷地城の敵将を説得した 卓越した交渉人 でもあった。そして何より、庄内統治と酒田の都市計画に見られるように、経済と防災にまで配慮した 先進的な行政官 であった 3 。まさに文武両道を体現した彼の存在は、最上義光にとって、そして最上家にとって、かけがえのないものであった。

主君・最上義光は、国家の存亡を賭けた軍事作戦(長谷堂城防衛)、中央政権との重要交渉(対信長)、そして新領地の経営基盤構築(庄内統治)という、政権の最重要課題のすべてにおいて、志村光安をその責任者として起用した。これは、二人の間に単なる主従関係を超えた、絶対的な信頼関係が存在したことを明確に示している。「形に影の添うごとく」 7 と評されるように、光安は義光の意思を最も的確に理解し、実行する「分身」とも呼ぶべき存在であった。

戦国時代の名家老を類型化するならば、主君の幼少期から補佐し、時に諫めながら家を導く「傅役・後見人型」と、主君と共に成り上がり、その手足となって野望を実現する「腹心・実行部隊型」に大別できる。伊達政宗にとっての片倉景綱が前者であるとすれば、最上義光にとっての志村光安は、上杉景勝にとっての直江兼続と並び、後者の典型であった。史料上、光安が義光を諫めたという記録は見当たらない。彼はむしろ、義光という強力な指導者のビジョンを、寸分の狂いもなく地上に実現させることに徹した。その卓越した実行能力こそが、彼の真骨頂であった。

結論として、志村光安は単に「最上四天王」の一人 3 や一人の「名将」に留まる存在ではない。彼は、最上氏が20万石余の地方領主から、関ヶ原の戦いを経て57万石という全国有数の大大名へと飛躍する、その最も重要な過程を、軍事・外交・内政のあらゆる面から支え抜いた**「国家の柱石」**であった。彼の智勇兼備の活躍なくして、最上義光の覇業、そして近世山形藩の成立と繁栄は語れない。その歴史的意義は、他の東北の名家老たちと比較しても何ら遜色なく、今後より一層の光が当てられるべきである。彼の生涯は、一人の武士が主君に忠誠を尽くして立身し、ついには伝説となるという理想的な物語を体現する一方で、その背後にある地道な行政手腕や、主家没後の子孫たちの苦難に満ちた道のりは、歴史の複雑さと深さを我々に教えてくれるのである。

引用文献

  1. 最上家臣余録 【志村光安 (1)】:最上義光歴史館 - samidare http://www.lavo.jp/yoshiaki/note.php?p=log&lid=187449
  2. 最上義光歴史館/最上家臣余録 【志村光安 (1)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=187449
  3. 志村光安(しむらあきやす):最上義光プロジェクト - samidare http://samidare.jp/mogapro/note?p=log&lid=318620
  4. 最上家の歴史と武具(刀剣・甲冑)/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/30362/
  5. 最上家臣余録 【志村光安 (2)】: http://lavo.jp/yoshiaki/lavo?p=log&lid=187919
  6. 最上家臣余録 【志村光安 (10)】:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=201414
  7. 最上義光歴史館/最上家をめぐる人々 19 【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=151097
  8. 最上義光歴史館/最上家臣余録 【志村光安 (10)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=201414
  9. 志村光安 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
  10. 最上家臣余録 【志村光安 (1)】:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=187449
  11. 志村光安- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
  12. 最上家臣余録 【志村光安 (2)】:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=187919
  13. 志村光安- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%BF%97%E6%9D%91%E5%85%89%E5%AE%89
  14. 最上義光歴史館 - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=lavo&c=&off=924&kw=
  15. 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
  16. あらすじ - 「直江兼続VS最上義光」~決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦 http://dewa.mogamiyoshiaki.jp/?p=special
  17. 第37話 慶長出羽合戦 - 朝倉慶長始末記(たれたれを) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816700429410406879/episodes/16816927859527154974
  18. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  19. 義と愛に生きた上杉の智将 直江兼続 米沢の足跡をたどる」第2回 山形市・置賜・酒田市周辺 https://rekigun.net/original/travel/yonezawa/yonezawa2.html
  20. 古城の歴史 長谷堂城 http://takayama.tonosama.jp/html/hasedo.html
  21. 最上義光歴史館 - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=lavo&c=4419&off=24&kw=
  22. 鮭延秀綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AD%E5%BB%B6%E7%A7%80%E7%B6%B1
  23. 6 - web 集英社文庫 https://bunko.shueisha.co.jp/serial/yano/04_06.html
  24. 出羽國 長谷堂城 (山形県山形市) - FC2 https://oshiromeguri.web.fc2.com/dewa-kuni/hasedoh/hasedoh.html
  25. 長谷堂城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%9F%8E
  26. 第480回:長谷堂城(激突! 長谷堂城の戦い) - こにるのお城訪問記 http://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-511.html
  27. 北の関ヶ原、長谷堂合戦 家康に天下を取らせた戦い | My favorite things about Yamagata https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E5%8C%97%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%90%88%E6%88%A6/
  28. 最上義光の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/50952/
  29. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  30. 長谷堂城の戦い https://tanbou25.stars.ne.jp/hasedou.htm
  31. (4ページ目)上杉軍の猛攻も虚しく撤退…最上・伊達軍の“粘り勝ち”ではなかった「北の関ケ原」とは https://dot.asahi.com/articles/-/200306?page=4
  32. 13話-霞城最上義光と慶長出羽合戦|saintex - note https://note.com/saintex/n/nedd6cd2d5ee1
  33. 関ヶ原の合戦とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6
  34. 長谷堂合戦跡 - 直江兼続・米沢.com http://www.naoe-kanetugu.com/connection/hasedou_battle.html
  35. 直江兼続と刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7441/
  36. 名補佐役、直江兼続が何より大切にした"人の和"|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-025.html
  37. 直江兼続の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/34217/
  38. 山形おきたま観光協議会 - 戦国観光やまがた情報局 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=listlog&c=&kw=&off=1520
  39. 上杉軍の猛攻も虚しく撤退…最上・伊達軍の“粘り勝ち”ではなかった「北の関ケ原」とは https://dot.asahi.com/articles/-/200306?page=1
  40. 関ヶ原の戦い、「本当の勝者」は誰だったのか 教科書が教えない「徳川家康」以外の人物は? https://toyokeizai.net/articles/-/187790?display=b
  41. 亀ヶ崎城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/498
  42. 最上家臣余録 【志村光安 (8)】: http://lavo.jp/yoshiaki/lavo?p=log&lid=199703
  43. 最上家臣余録 【志村光安 (6)】:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=193477
  44. 最上家臣余録 【志村光安 (6)】:最上義光歴史館 - samidare https://ssl.samidare.jp/~lavo/yoshiaki/note.php?p=log&lid=193477
  45. 最上義光歴史館/最上家臣余録 【志村光安 (6)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=193477
  46. 東禅寺城の成り立ち - 湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」 http://www.sakata-cci.or.jp/guide/Chapter02/2-1.html
  47. 酒田市立図書館-光丘文庫デジタルアーカイブ:酒田市史年表 - ADEAC https://adeac.jp/kokyubunko/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht016110
  48. 酒田市「亀ヶ崎史」 http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/15_kamegasaki/kamegasaki.html
  49. 志村光惟(しむらあきただ):最上義光プロジェクト - samidare http://samidare.jp/mogapro/note?p=log&lid=319905
  50. 最上義光歴史館/最上家臣余録 【鮭延秀綱 (5)】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=178102
  51. 最上氏と最上義光 - 歴史館について - samidare https://samidare.jp/yoshiaki/note.php?p=lavo&c=&off=888&kw=
  52. 【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立 - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2020/11/12/180000
  53. 山形藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E8%97%A9
  54. 印西・中根の柴橋家のルーツは、最上義光の重臣柴橋石見守だった - いんざい再発見 http://inzairekishi.blog.fc2.com/blog-entry-67.html?sp
  55. 近世初期の分限帳 ・検地帳に見る兵農分離 https://soka.repo.nii.ac.jp/record/38070/files/tusinkyoikuburonsyu0_10_3.pdf
  56. 最上家の武将 http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/history/mogami.html
  57. 11 山形県河北町、東根市、村山市の戦国時代の歴史 - 米沢日報デジタル http://yonezawa-np.jp/html/takeda_history_lecture/11_kahoku_walk/kahoku_walk.html
  58. 最上家臣余録 【志村光安 (3)】 - 最上義光歴史館 https://sp.mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=188406
  59. 最上家臣余録 ~知られざる最上家臣たちの姿~ 序文: - samidare http://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=log&lid=172339
  60. 最上義光歴史館 - samidare http://samidare.jp/yoshiaki/lavo?p=list&o=du&ca=&off=444