戦国時代の豊後国にその名を刻んだ大友氏。その斜陽の時代に、一人の武将が歴史の岐路に立った。志賀親度(しが ちかのり)、その人である。大友家の重臣という誉れ高き地位にありながら、主家を裏切り、その滅亡を早めた「逆臣」として、彼は歴史に記憶されている。その対極に位置するのが、彼の実子でありながら主家への忠義を貫き、敵将からも「天正の楠木正成」と称賛された志賀親次(ちかつぐ)である 1 。この父子の劇的なる対比は、大友氏末期の混乱と、その渦中で生き抜こうとした武将たちの苦悩を、鮮烈に象徴している。
本報告書は、志賀親度を単なる「裏切り者」という一面的な評価から解き放ち、その複雑な人物像と行動原理を、現存する史料に基づき多角的に分析・再構築することを目的とする。主君との確執、宗教的信条の相克、そして九州全土を巻き込む時代の大きなうねりの中で、彼がなぜ島津氏への内応という破滅的な道を選んだのか。その決断の背後に横たわる政治的、個人的、そして思想的な要因を徹底的に解明し、一人の戦国武将の生涯を立体的に描き出す。
志賀氏は、鎌倉時代以来の豊後守護の名門・大友氏の歴史と深く結びついている。大友氏初代当主・能直の八男である能郷を祖とし、同じく大友一門の詫摩氏、田原氏と並んで「大友三家」と称されるほどの権威を誇った 2 。特に親度の属した北志賀家は、豊後国南部の国人衆を統率する「南郡衆」の筆頭格という重責を担い、大友家の領国支配において不可欠な存在であった 4 。
親度の父・志賀親守(道輝)は、天文19年(1550年)に勃発した大友家のお家騒動「二階崩れの変」において、後にキリシタン大名として名を馳せる大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力し、宗麟政権の樹立に多大な貢献を果たした 2 。この功績により、志賀家は大友家中における地位をさらに強固なものとした。
親度は、この名家の嫡男として生まれ、父の隠居に伴い若くして家督を相続。永禄年間から元亀年間にかけ、大友氏の最高意思決定機関である「加判衆」の一員として、宗麟政権の中枢で活躍した 2 。加判衆は、大友氏の領国経営における重要政策を合議で決定する、まさに家臣団の頂点に立つ役職であった。
さらに親度は、大友氏が広大な支配領域を統治するために設けた独自の支配機構である「方分(かたわけ)」制度において、「肥後方分」という重要な役職を務めていたことが史料から確認できる 9 。方分とは、政権中枢の重臣が特定の国や郡の統治責任を分担する制度であり、単なる行政官にとどまらず、軍事指揮権をも含む強大な権限を有していた 9 。この制度は、平時においては効率的な領国経営を可能にしたが、同時に、中央の求心力が低下した際には、方分担当者が担当地域を半ば私的に掌握し、独立勢力化する危険性を内包していた。親度が担当した肥後国は、奇しくも後に敵対することになる島津氏の勢力圏と国境を接する最前線であった。この「肥後方分」としての地位と、それによって築かれた現地での権力基盤や人脈が、後の彼の運命を大きく左右することになる。彼の裏切りは、個人の行動であると同時に、大友氏の統治システムそのものの脆弱性が露呈した結果と見ることも可能である。
志賀親度は、主君・大友宗麟の養女を妻として迎えている 2 。この婚姻は、志賀家と大友宗家の結びつきを一層強固にするための政略的な意味合いが強かった。しかし、その関係は単純なものではない。この養女は、宗麟の正室であり、自身も強大な宗教的権威を有した奈多八幡宮大宮司家の出身である奈多夫人が、前夫・服部右京亮との間にもうけた連れ子であった 2 。
この婚姻により、親度は大友宗麟の義理の息子という極めて近い姻戚関係を結ぶことになった。そして、この妻との間に、後に岡城の英雄としてその名を轟かせることになる志賀親次(親善)をはじめ、複数の子女が誕生している 16 。この複雑な血縁関係は、後の人間模様に大きな影響を及ぼす。特に息子の親次は、義理の祖父にあたる宗麟から、実の外孫同然の並々ならぬ寵愛を受けることになるのである 17 。
表1:志賀一族と大友宗家の関係図(主要人物) |
関係 |
祖父 |
父 |
母 |
息子(養子) |
息子 |
娘 |
娘 |
息子 |
天正4年(1576年)、大友宗麟は家督を嫡男の義統に譲った。しかし、隠居後も宗麟は実権を掌握し続け、義統との「二頭政治」体制が敷かれることとなった 20 。この不安定な権力構造は、家臣団の間に混乱と分裂を生み、さらには父子の対立を招くなど、大友家の内紛を深刻化させる大きな要因となった 20 。
この権力移行期の混乱に拍車をかけたのが、天正6年(1578年)の「耳川の戦い」における島津軍に対する歴史的な大敗であった。この一戦で大友氏は多くの有力武将を失い、九州における覇権と権威は大きく失墜した 6 。敗戦後、義統政権は家臣の統制に一層苦慮し、田原親貫のような有力庶家が反乱を起こすなど、領国は動揺を続けた 20 。
このような不安定な情勢の中、志賀親度は新当主・義統との関係を急速に悪化させていく。天正6年(1577年)頃には両者の不和は決定的となり、親度は父・親守と共に義統によって殺害されそうになる事態にまで発展した。この危機は、父・宗麟の仲介によって辛うじて回避されたものの、この一件は親度の心に義統に対する消しがたい恨みを植え付けることになった 2 。
親度と義統の対立を決定づけたとされるのが、義統の愛妾をめぐる醜聞である。この事件の詳細は、敵方である島津氏の家臣・上井覚兼が記した第一級史料『上井覚兼日記』によって今日に伝えられている。それによれば、親度はあろうことか主君である義統の愛妾「一の対」という女性を奪い取り、自らのもとで囲っていたことが露見したのである 2 。
主君の愛妾を奪うという行為は、武家の秩序を根底から揺るがす許されざる背信行為であった。この事件により親度は義統の激しい怒りを買い、蟄居を命じられる。この屈辱的な処罰を、親度は長年にわたって深く恨み続けたと『上井覚兼日記』は記している 2 。同日記の天正14年(1586年)2月16日付の条には、親度(道益)が義統の勘気を蒙って菅迫に隠居させられたことを恨み、入田義実と結託して島津義久に豊後侵攻を促した、という具体的な内通の経緯が記録されており、この事件が裏切りへの直接的な引き金となったことを示唆している 24 。
親度と義統の確執には、個人的な怨恨だけでなく、思想的・宗教的な対立も深く関わっていた。親度は道益(または道易)という法名を持つ熱心な仏教徒であった 2 。彼の信仰は、先祖代々の伝統を重んじる当時の武将としてごく自然なものであった。
これに対し、大友家では当主・宗麟がキリスト教を厚く保護し、自らも受洗したキリシタン大名であった。その影響は家中に広く及び、親度の息子であり家督を継ぐべき立場にあった親次も、天正13年(1585年)、洗礼名「ドン・パウロ」を授かり、熱心なキリシタンとなった 17 。
敬虔な仏教徒であった親度は、息子のキリスト教入信に猛然と反対した 2 。イエズス会士ルイス・フロイスが著した『日本史』によれば、キリシタンとなった親次は、自領である岡城内の神社仏閣を徹底的に破壊し、本尊や仏像を谷底へ投げ捨てるなど、極めて過激な行動に出たとされる 17 。父である親度にとって、この行為は志賀家の当主として、また一人の仏教徒として、到底容認できるものではなかった。
この宗教をめぐる深刻な対立は、単なる家庭内の問題にはとどまらなかった。親度にとって、キリスト教は主家(宗麟)と実子(親次)を「惑わす」異教であり、大友家ひいては日本の伝統的な価値観や秩序を破壊するものと映った可能性が高い。この埋めがたい価値観の断絶が、主家そのものへの離反感情を増幅させた一因となったことは想像に難くない 2 。
親度の裏切りは、単一の動機で説明できるものではない。「一の対」事件に象徴される義統への個人的な怨恨、キリスト教の浸透に対する思想的な反発と危機感、そして耳川の敗戦以降、坂道を転げ落ちるように衰退していく大友家の将来に見切りをつけた現実的な政治判断。これら三つの要因――個人的怨恨、イデオロギー対立、現実的判断――が、すべて同じ方向を向いた時、志賀親度の「島津への内応」という破局的な決断が下されたのである。彼は単なる逆臣ではなく、複数の深刻な動機が重なった結果、破滅的な行動に至った悲劇的人物として捉え直すことができよう。
天正6年(1578年)の耳川の戦いは、九州の勢力地図を塗り替える分水嶺となった。この戦いで大友氏は、戸次鑑連(立花道雪)や臼杵鑑速といった宿老を欠く中で多くの有力武将を失い、その支配力は急速に衰退の一途をたどった 6 。
これに代わって九州の覇権を掌握せんと飛躍したのが、薩摩の島津氏であった。当主・島津義久は、大友氏の弱体化を好機と捉え、北上政策を本格化。龍造寺氏を沖田畷の戦いで破った後、その矛先を大友氏の本国・豊後に向けた 6 。大友家臣団、特に島津との国境地帯に所領を持つ南郡衆は、日に日に増す島津氏の軍事的脅威と、弱体化する一方の宗家の間で激しく動揺し、離反者が相次ぐ危機的状況に陥っていた 20 。
このような存亡の危機的状況下で、志賀親度は同じく大友家に深い不満を抱く重臣・入田義実(宗和)と連携する 2 。入田義実もまた、かつてのお家騒動「二階崩れの変」で父・親誠を宗麟方に殺害され、その後帰参を許されたものの冷遇されていたという、宗家に対する積年の恨みを持つ人物であった 31 。
両者は、大友宗家の統治能力の低下と、それに伴う辺境の国人領主層の動揺という、大友氏が抱える構造的な問題の渦中にいた。自らの所領と一族を守るためには、もはや旧主に見切りをつけ、新たな強者である島津氏に従うほかない。この戦国乱世における現実的な生存戦略が、両者を結びつけた。
天正13年(1585年)、親度と義実は、島津氏の重臣・新納忠元を仲介役として、島津義久との内通に成功する 5 。当時の状況は、豊後に滞在していた宣教師の報告書にも記されており、南郡衆の筆頭格である入田宗和と志賀道益(親度)が島津方に寝返るであろうことは、半ば公然の事実として予測されていた 32 。
そして天正14年(1586年)10月、島津義弘が率いる数万の大軍が肥後口から豊後へと侵攻を開始する(豊薩合戦)。この時、志賀親度と入田義実は、かねての密約通り島津軍の先導役を務め、大友方の諸城を次々と攻略させる手引きを行ったのである 5 。
父・親度をはじめとする南郡衆の有力者が次々と島津方に寝返るという絶望的な状況の中、親度の家督を継いだ息子・志賀親次は、わずか18歳(または19歳)という若さで、ただ一人、大友家への忠義を貫いた 1 。
親次は、天然の要害として知られる居城・岡城に、一説に1,000人余りという寡兵で立て籠もった 1 。対する島津軍は、猛将・島津義弘が率いる3万ともいわれる大軍であった。圧倒的な兵力差にもかかわらず、親次は巧みな奇計やゲリラ戦法を駆使し、島津軍の猛攻を再三にわたって撃退した 1 。その戦いぶりは敵将・島津義弘をして「天正の楠木正成の再来」と絶賛せしめ、後に豊臣秀吉からも感状を与えられるなど、天下にその武名を轟かせた 1 。この岡城での英雄的な籠城戦が、島津軍の豊後平定を阻み、結果として大友氏を滅亡の淵から救ったと高く評価されている 2 。
島津方についた親度は、実の息子である親次が守る岡城を攻撃する側に回ったと伝えられている 4 。これは、父子の対立が単なる思想や信条の次元を超え、戦場での直接対決という最も悲劇的な形で現実のものとなったことを示唆している。
父子の行動を決定的に分けたものは何だったのか。親度の行動原理は、衰退する主家に見切りをつけ、新たな権力者に従うことで自家の存続を図るという、戦国武将としての現実的かつ合理的な判断に基づいていた。彼の「忠義」は、主君からの「御恩」(所領安堵や恩賞)が保証されて初めて成立する、いわば契約的なものであった。主君・義統がその御恩を蔑ろにし、家を安堵する能力を失ったと判断した時、彼の忠義もまた失われたのである。
一方、息子・親次の行動は、この旧来の価値観を超越しているように見える。彼が忠誠を誓った対象は、もはや無力な当主・義統個人ではなく、敬愛する義理の祖父・宗麟の遺志や、自らが帰依したキリスト教の信仰と結びついた「大友家」という理念そのものであった可能性が高い。島津氏の支配下では信仰が弾圧されるという危機感も、彼の抵抗を支える大きな動機であっただろう 25 。親次の忠義は、主君の個人的資質を超えた「家」や「信仰」への、より観念的で絶対的な忠誠の萌芽であった。
この父子の断絶は、戦国時代における「忠義」という概念が、現実的な利害関係に基づくものから、より近世的な絶対的価値へと移行していく過渡期の矛盾を、一つの家族の悲劇として体現したものと言える。親度は過去の栄光と現在の絶望に生きた一方、親次は未来の理想と信仰に殉じようとしたのである。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定軍が本格的に上陸すると、戦局は一変する。圧倒的な物量の前に島津軍は豊後から撤退を余儀なくされ、九州の平定は時間の問題となった 26 。
九州平定後、大友義統は秀吉から豊後一国の安堵を認められる。すると義統は、この戦乱の最中に自らを裏切った家臣たちに対し、徹底的な粛清を開始した 21 。志賀親度もその主要な標的の一人となり、義統からの厳しい追及の末、自害に追い込まれた 2 。その死は、九州平定が完了した天正15年(1587年)のことと記録されている 7 。彼がどこで、どのような状況で最期を迎えたのか、その詳細を伝える史料や伝承は、残念ながら現存していない 42 。
皮肉なことに、父の裏切りを子の忠義が帳消しにすることはなかった。息子の親次の奮戦によって滅亡を免れたはずの主君・義統の手によって、父・親度は死に追いやられたのである。この結末は、戦国の世の非情さを如実に物語っている。
志賀親度は、結果として主家を裏切り、その滅亡を助長した「逆臣」として歴史に名を残した。その行動は、主君の愛妾を奪うという個人的な怨恨に起因するものとして、矮小化されて語られがちである。
しかし、本報告書で多角的に検討したように、彼の行動は単一の動機によって引き起こされたものではない。それは、宗麟から義統へと移行する大友家の権力構造の変化、新旧当主との深刻な確執、仏教とキリスト教という世代や宗教観の断絶、そして島津氏の台頭という九州全体の地政学的変動といった、複数の要因が複雑に絡み合った末の、必然的な帰結であった。
彼は、旧来の価値観と秩序が崩壊し、新たな秩序が形成されつつあった戦国末期の激動の中で、自らの一族と所領を守るために、当時の武将として一つの合理的な(しかし結果として破滅的な)選択をした人物として再評価されるべきであろう。忠臣として後世まで称えられる息子・親次の輝かしい功績の影で、その父・親度は、時代の矛盾と苦悩を一身に背負った悲劇の武将として、より深く、そして人間的に理解されるべき存在である。彼の生涯は、単純な善悪二元論では割り切れない、戦国という時代の複雑さと非情さを、我々に静かに突きつけている。