年代(西暦/和暦) |
義秀の年齢 |
主な出来事(義秀個人及び志駄家) |
役職・知行 |
関連事項(上杉家・国内外の情勢) |
1560年(永禄3年) |
1歳 |
越後国にて、志駄義時の子として誕生。幼名は鶴千代 1 。 |
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桶狭間の戦い。 |
1561年(永禄4年) |
2歳 |
父・義時が第四次川中島の戦いで戦死 2 。家督を相続。 |
夏戸城主 |
第四次川中島の戦い。 |
1563年(永禄6年) |
4歳 |
祖父・春義が死去。母方の実家である直江家に引き取られ、直江景綱の後室に養育される 1 。 |
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1578年(天正6年) |
19歳 |
御館の乱で上杉景勝方に与し、戦功を挙げる 1 。上杉景勝より「直江一家之侍」と称される 1 。 |
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上杉謙信死去。御館の乱が勃発。 |
1581年(天正9年) |
22歳 |
信濃国の大須賀氏の反乱を鎮圧する 1 。 |
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1582年(天正10年) |
23歳 |
越中国松倉城将となり、織田勢と対峙する 1 。 |
越中松倉城将 |
本能寺の変。 |
1595年(文禄4年) |
36歳 |
直江兼続の下で庄内経営に関与。 |
庄内金山奉行、大宝寺城代 1 。 |
豊臣秀次切腹事件。 |
1598年(慶長3年) |
39歳 |
上杉家の会津120万石への移封に従う。朝日軍道の開削に尽力 1 。 |
出羽東禅寺城代、5,100石 2 。 |
豊臣秀吉死去。 |
1600年(慶長5年) |
41歳 |
慶長出羽合戦で庄内方面軍を率い最上領に侵攻。関ヶ原での西軍敗報を受け、朝日軍道を経て撤退 7 。 |
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関ヶ原の戦い。 |
1601年(慶長6年) |
42歳 |
最上軍の攻撃を受け、酒田城を開城し米沢へ撤退。戦後、高野山へ蟄居を命じられる 1 。 |
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上杉家、米沢30万石に減封。 |
1603年(慶長8年) |
44歳 |
上杉家に帰参を許される。 |
出羽荒砥城代、1,000石 1 。 |
徳川家康、征夷大将軍に就任。 |
1614年(慶長19年) |
55歳 |
大坂冬の陣に出陣 1 。 |
侍大将 1 。 |
大坂冬の陣。 |
1622年(元和8年) |
63歳 |
平林正恒の後任として米沢藩の奉行職に就任。最上家改易の仕置奉行を務める 1 。 |
政務奉行(国家老)、2,000石 2 。 |
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1623年(元和9年) |
64歳 |
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上杉景勝死去。上杉定勝が家督相続。 |
1624年(元和10年) |
65歳 |
2代藩主・上杉定勝の婚儀を取り仕切る 1 。 |
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1632年(寛永9年) |
73歳 |
8月16日、米沢にて死去 1 。 |
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戦国乱世から江戸初期の泰平の世へ。日本の歴史が大きく転換する時代、主君上杉謙信、景勝、定勝の三代にわたり、その激動の歴史を支え続けた一人の武将がいた。その名は志駄義秀(しだ よしひで)。彼は、上杉二十五将の一人に数えられる勇将でありながら 1 、後年には米沢藩の藩政を統括する執政(奉行・国家老)としても手腕を発揮した、文武兼備の人物であった。
一般に知られる志駄義秀の姿は、「川中島の戦いで父の跡を継ぎ、酒田城主として関ヶ原の戦いで活躍、後に米沢藩の執事となった」という断片的な情報に留まることが多い。しかし、彼の生涯を深く掘り下げると、そこには単なる一武将の活躍譚を超えた、戦国大名家臣団のあり方、主家への忠誠、そして近世幕藩体制への移行期を生き抜いた武士の姿が鮮やかに浮かび上がる。
本報告書は、現存する史料を基に、志駄義秀の生涯を徹底的に調査・分析するものである。特に、彼のキャリアの基盤となった母方の実家・直江家との深い宿縁、慶長出羽合戦で見せた卓越した戦略的判断力、そして直江兼続亡き後の米沢藩政において果たした枢要な役割など、これまで十分に光が当てられてこなかった側面に焦点を当てる。これにより、上杉家の歴史、ひいては戦国から近世への移行期を生きた武士の実像を、より深く理解することを目的とする。
志駄義秀の生涯を理解する上で、彼が生まれ育った志駄氏の来歴と、幼少期の過酷な境遇、そして彼を救った直江家との深い繋がりは不可欠な要素である。
志駄氏(志田氏とも表記される)の出自は、清和源氏まで遡るとされる 8 。その祖は、源頼信の子孫である源義広が常陸国信太荘に住んだことから「志田三郎」と称したことに始まると伝わる 9 。一方で紀姓であった可能性も指摘されている 9 。
上杉家との関わりは鎌倉時代に始まる。義広の孫と称した上村義安が、丹波国の上杉氏当主・上杉重房に仕えた 9 。その後、重房が宗尊親王の鎌倉下向に随行した際、義安もこれに従い、その時に姓を「志田」と改めて左近将監に任じられたという 8 。時代は下り、戦国時代末期には義安の子孫が越後国へ移り、守護代・長尾氏(後の越後上杉氏)の譜代の家臣として仕えるようになった 9 。義秀の父・義時は、越後国三島郡の夏戸城(現在の新潟県長岡市)を居城とする国人領主であった 2 。
志駄義秀は、永禄3年(1560年)、夏戸城主・志駄義時の子として生を受けた 2 。しかし、彼の幼年期は悲劇の連続であった。生誕の翌年、永禄4年(1561年)9月、父・義時は主君・上杉謙信(当時は長尾景虎)に従い、第四次川中島の戦いに出陣。この壮絶な戦いの中で、わずか19歳という若さで討死を遂げたのである 2 。
この時、義秀はまだ2歳の幼児であった 2 。さらに不幸は続き、義秀の母(上杉家重臣・直江景綱の姉とも娘とも伝わる 3 )も早くに世を去り、後見人であった祖父・志駄春義も永禄6年(1563年)に死去してしまう 1 。相次いで肉親を失い、天涯孤独の身となった幼い義秀を庇護したのは、母方の実家である直江家であった。
義秀は直江景綱の妻(後室)によって養育され、直江家の一員同然に育てられた 1 。長じては直江家の娘(景綱後室の幼女、あるいは養女とされる 1 )を妻に迎え、その絆は血縁によってさらに強固なものとなった。この事実は、彼の人生の方向性を決定づけた。天正6年(1578年)に上杉景勝が発給した感状には、志駄氏が「直江一家之侍」と明記されており 1 、上杉家臣団の中における彼の立場を明確に示している。父の死後、彼が家名を保ち、武将として成長できたのは、全面的に直江家の庇護があったからに他ならない。彼の忠誠心は、主君・上杉景勝へのものと同時に、彼を育て上げ、活躍の場を与えた直江家、特に後の執政・直江兼続への深い恩義と一体不可分であった。この関係性こそが、彼の生涯にわたる行動原理の根幹を成すのである。
成人した志駄義秀は、上杉謙信、そしてその後継者である景勝の下で、その才能を開花させていく。特に、直江兼続が藩政の実権を握ると、義秀は兼続の腹心として重用され、上杉家の中核を担う存在へと成長した。
義秀が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、天正6年(1578年)の上杉謙信の急死に端を発する家督争い「御館の乱」である。この上杉家を二分する内乱において、義秀は一貫して上杉景勝方に与して戦い、軍功を挙げた 1 。この時の働きが景勝に認められ、新たな上杉家の当主の下で、彼の家臣としての地位は確固たるものとなった。
御館の乱を経て景勝政権が確立すると、執政となった直江兼続が辣腕を振るい始める。義秀は、その兼続の配下として、特に兼続の出身地であり、その直轄部隊ともいえる精鋭「与板衆」の筆頭として活躍した 2 。これは、彼が単なる一武将ではなく、兼続が最も信頼を寄せる腹心の一人であったことを物語っている。彼の出自と直江家との深い縁が、この抜擢の背景にあったことは想像に難くない。
天正10年(1582年)には越中国松倉城の城将として織田勢と対峙するなど、各地で武功を重ねた義秀は、上杉家の歴史的転換点においても重要な役割を担う 1 。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉家が越後から会津120万石へ加増移封されると、義秀は出羽国庄内地方の要衝・東禅寺城(後の酒田城、亀ヶ崎城)の城代に抜擢され、5,100石という破格の知行を与えられた 1 。
庄内地方は、上杉領の北西端に位置する「飛び地」であり、軍事的にも経済的にも極めて重要な拠点であった。義秀は単なる城代に留まらず、文禄4年(1595年)の段階で既に庄内経営に関与し、地域の財源を支える庄内金山の奉行も務めていた記録がある 1 。これは、彼が武勇だけでなく、行政官・経済官僚としての能力も高く評価されていたことを示している。
さらに同年、義秀は兼続が主導した国家的な一大事業にも深く関与する。それは、置賜の米沢と庄内の酒田を結ぶ戦略的軍事道路「朝日軍道」の開削であった 1 。この道は、敵対する最上氏の領地を避け、険しい朝日連峰を貫いて両拠点を最短で結ぶ兵站線として計画されたもので、上杉家の庄内支配を確実にするための生命線であった。義秀はこの難工事に尽力し、完成に貢献した。この時、彼自身が建設に関わった軍道が、二年後の絶体絶命の危機において自らの命を救う退路となるとは、まだ知る由もなかった。義秀の会津時代における役割は、軍事・経済・兵站インフラ整備を一体として推進する兼続の国づくり構想において、その実行を担う中心人物であったことを明確に示している。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦いは遠く離れた出羽国にも飛び火した。「慶長出羽合戦」である。この「北の関ヶ原」において、志駄義秀は一軍の将として、その真価を最も発揮することになる。
徳川家康と対立した上杉景勝は西軍に与し、直江兼続率いる主力軍が隣国・山形城主の最上義光を攻撃した。この時、志駄義秀は兼続の本隊とは別に、庄内方面軍約3,000を率いる独立した指揮官として行動を開始した 16 。
義秀は尾浦城主・下吉忠らと呼応し、最上川を遡って最上領の心臓部へと侵攻する 2 。その進撃は凄まじく、谷地城や白岩城といった最上方の拠点を次々と攻略 7 。山形城に迫る上杉本隊の背後を脅かす敵勢力を排除し、側面を援護するという戦略的目標を完遂した。彼の攻撃は、最上義光に兵力の分散を強いる上で極めて重要な役割を果たしたのである。
上杉軍は最上軍の頑強な抵抗に遭い、戦況は膠着。その最中の9月30日、美濃国関ヶ原において石田三成率いる西軍が一日で壊滅したという衝撃的な報せが、山形の直江兼続本陣にもたらされた 7 。これにより、上杉軍は一転して敵地からの困難な撤退を余儀なくされる。
兼続の本隊が有名な「直江状」の逸話を生む壮絶な撤退戦を繰り広げる一方、敵地深くに孤立した志駄義秀の庄内軍は、さらに絶望的な状況に置かれていた。しかし、義秀は冷静であった。彼は、かつて自らが開削に尽力した「朝日軍道」の存在を思い起こす。この険しい山道こそが、唯一の活路であった。義秀は残存兵力を率いて、この困難な山越えの撤退を敢行。追撃を振り切り、軍の壊滅という最悪の事態を回避して、無事に居城である酒田城へと帰還することに成功したのである 7 。この決断と実行力は、彼の指揮官としての卓越した判断力を示すものであった。
関ヶ原の役が終結し、徳川方の勝利が確定した後も、義秀の戦いは終わらなかった。彼は酒田城に籠城し、東軍に与した最上軍の攻撃に徹底抗戦を続ける 2 。しかし、翌慶長6年(1601年)、かつての僚友でありながら最上氏に降っていた下吉忠に先導された最上義康(義光の嫡男)の軍勢に猛攻を受ける 1 。衆寡敵せず、これ以上の抵抗は無益と判断した義秀は、ついに和議を受け入れ、城を明け渡した。そして、手勢を率いて米沢へと撤退したのである 2 。
慶長出羽合戦における義秀の働きは、独立部隊を率いて敵地を席巻する攻撃力、予期せぬ事態における冷静な判断力と戦略的思考、そして主力が撤退した後も拠点を守り抜く粘り強さを示しており、高く評価されるべきである。彼の敗北は、個人の能力不足によるものではなく、関ヶ原における西軍敗北という、抗いがたい大局的な戦略状況の変化に起因するものであった。戦後、彼が一時的に高野山へ蟄居を命じられたのは 1 、敗戦の責任を問うというよりも、徳川幕府に対する上杉家の恭順の意を示すための政治的措置であった可能性が極めて高い。その後の早い復帰と重用が、何よりの証左と言えるだろう。
関ヶ原の戦いの結果、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大減封された。この苦難の時代において、志駄義秀は一度の失脚を乗り越え、新生米沢藩の藩政を担う中心人物へと上り詰めていく。
慶長出羽合戦の終結後、義秀は戦後処理の一環として高野山での蟄居を命じられた 1 。これは、かつての栄光から一転した雌伏の時であった。しかし、彼の能力と忠誠を上杉家が忘れることはなかった。慶長8年(1603年)、蟄居を解かれた義秀は上杉家への帰参を許され、出羽国荒砥城代として1,000石を知行する 1 。知行高こそ会津時代から大きく減少したものの、城代という要職に復帰したことは、彼への信頼が揺らいでいなかったことを示している。慶長16年(1611年)には侍大将となり 1 、慶長19年(1614年)からの大坂の陣にも出陣するなど、武将として再び活躍の場を得た。
義秀のキャリアにおける最大の転機は、元和8年(1622年)に訪れる。この年、米沢藩の奉行であった平林正恒が死去すると、義秀がその後任として大抜擢されたのである 2 。これに伴い、知行も2,000石に加増された 2 。
一般に「執事」として知られるこの役職は、米沢藩の史料では「奉行」 2 、あるいは「国家老」 23 と記録されており、藩の行政・財政を統括する最高責任者であった。同年、隣国で改易された最上家の仕置(戦後処理)を担当する奉行を務めるなど 1 、幕府との折衝を含む藩の最重要政務を担うことになった。
義秀が奉行職に就いた時期は、上杉家にとっても大きな変革期であった。絶対的な権力で藩政を主導した直江兼続は元和5年(1619年)に、主君・上杉景勝は元和9年(1623年)に相次いで世を去った 1 。跡を継いだ二代藩主・上杉定勝は、兼続のような一人の強力な執政に権力を集中させる体制を改め、複数名の奉行による合議制を導入し、近世的な藩政統治機構の確立を目指した 26 。
この新しい統治体制において、志駄義秀は中核を担う重臣となった。彼は、かつて「直江一家之侍」と目されながらも、兼続の死後もその影響力を失うことなく、新藩主・定勝からも厚い信頼を得たのである。これは、彼が単なる兼続の追従者ではなく、彼自身の卓越した行政手腕と揺るぎない忠誠心、そして豊富な経験が高く評価されていたことを意味する。元和10年(1624年)には、藩主・定勝の婚儀を取り仕切る大役も務めている 1 。
義秀は、謙信以来の戦国の気風を知る古参の重臣として、藩の伝統を継承する一方で、定勝が進める近世的な藩政確立への移行を支える「架け橋」のような存在であった。彼のキャリアは、上杉家が戦国大名から近世大名へと脱皮していく、まさにその過程を体現していると言えるだろう。
志駄義秀の生涯は、公的な記録だけでなく、彼を取り巻く人々との交流や、その終焉の様子からも窺い知ることができる。
義秀の人物像を語る上で、直江兼続との関係は切り離せない。幼少期の庇護者であり、主君であり、義理の縁者でもあった兼続との間には、単なる主従関係を超えた深い絆があった。
また、意外な人物との交流も伝えられている。それは、「天下の傾奇者」として名高い前田慶次である。慶次は上杉家に仕官した後、米沢の堂森に庵を結んで晩年を過ごしたとされるが、その堂森には志駄義秀の墓所も存在している 14 。慶次の友人であったとも伝わり 14 、二人が米沢の地で酒を酌み交わし、世事を語り合った可能性は高い。豪放磊落な慶次と、実直な義秀。対照的な二人の間に親交があったとすれば、義秀の人物像にさらなる奥行きを与える興味深い逸話である。
数々の戦乱と政治的変革を乗り越え、米沢藩の重鎮として藩政を支えた志駄義秀は、寛永9年(1632年)8月16日、米沢の地でその73年の生涯を閉じた 1 。その墓は、前田慶次ゆかりの堂森善光寺にあるとされている 11 。
彼の家督は次男の義繁が継承し、志駄家はその後も米沢藩士として存続した 1 。また、特筆すべきは、子の一人である秀富が、剣豪として名高い上泉信綱の孫・秀綱の婿養子となり、剣豪・上泉家を継いだことである 1 。これは、志駄家が武門としての誉れを後世に伝えた証左でもある。
幼少期の度重なる悲劇という逆境を、母方の実家である直江家との縁を頼りに乗り越え、武将として大成した志駄義秀。彼は、謙信、景勝、定勝という三代の主君に仕え、戦場では勇将として、平時においては能吏として、軍事と行政の両面で主家・上杉家に多大な貢献を果たした。
彼の功績は、直江兼続という巨星の陰に隠れがちで、決して派手なものではないかもしれない。しかし、その生涯は、戦国の世の厳しさと、その中で「義」と「恩」を貫き通した一人の武士の、誠実で揺るぎない生き様を我々に力強く伝えている。志駄義秀は、上杉家の歴史、とりわけ苦難の中から近世大名として再生を果たした米沢藩の礎を築いた、まぎれもない重要人物として再評価されるべきである。