最上義光の天下統一を支えた数多の将星の中に、成沢道忠(なりさわ みちただ)の名がある。彼は山形城南の要衝・成沢城主として、また最上家重臣・氏家守棟の近親として、主家の発展に貢献したとされる。しかし、その生涯を追うと、軍記物語が描く「大剛の老将」という英雄的な姿と、断片的な史料が示す矛盾に満ちた記録の狭間で、その実像は深い霧に包まれている。
特に、柏木山合戦で70歳にして奮戦したとされる人物が、その40年近く後のお家騒動に関与したという伝承は、年代的に明らかな矛盾を孕んでいる 1 。これは単なる記録の誤りなのか、あるいはそこには別の歴史的真実が隠されているのか。
本報告書は、現存する史料や伝承を丹念に収集・整理し、それらの矛盾点を徹底的に分析する。そして、成沢道忠という一人の人物に集約された伝説の裏に隠された、複数世代にわたる一族の活躍という可能性、すなわち「一人複数代説」を軸に、その実像の再構築を試みるものである。
成沢道忠という人物を理解する上で、彼個人の武功を検証する前に、彼が属した成沢氏の起源と、最上家臣団内での複雑な姻戚関係を解き明かすことが不可欠である。道忠の歴史的重要性は、彼個人の武功以上に、息子・光氏を通じた名門・氏家家との結びつきにあり、この点が後の最上家における一族の地位を決定づけたからに他ならない。
成沢氏は、室町幕府の羽州探題・斯波兼頼を祖とする最上氏の庶流に連なる家系である 3 。具体的な起源は、最上直家の六男であった兼義が、南朝の弘和3年(北朝の永徳3年、1383年)に現在の山形市成沢の地に城を築き、その地名を取って「成沢」を称したことに始まるとされる 1 。この出自は、成沢氏が最上家中で単なる譜代の家臣ではなく、主家と血を分けた一門としての正統性を持つ家柄であったことを示している。
史料によれば、初代・兼義から義総、義佑、義清と続き、そして成沢道忠へと家系が継承されたと記録されている 1 。これは、成沢氏が南北朝時代から戦国時代に至るまで、代々成沢の地を本拠地としてきたことを示唆しており、地域に深く根差した有力な国人領主であったことが窺える。
成沢道忠の人物像を複雑にしている一因が、最上義光の「懐刀」と称された宿老・氏家守棟との関係である。
最も多くの史料で支持されている通説は、道忠が氏家守棟の「従兄弟」にあたるというものである 1 。この関係は、両家が非常に近しい間柄であったことを物語る。一方で、『山形の歴史』や『山形市史』といった権威ある地方史書においては、氏家守棟を「成沢道忠の子」とする記述も存在した 11 。しかし、この父子説は近年の研究において、後述する養子縁組の事実関係が誤解されたものと見なされており、現在では従兄弟説が有力となっている 11 。この異説が生まれたこと自体が、両家の関係の深さと、記録の混乱を象徴していると言えよう。
この血縁関係が決定的な意味を持つのは、氏家守棟の後継者問題においてである。守棟の嫡男であった氏家光棟は、天正16年(1588年)に庄内を巡って勃発した十五里ヶ原の戦いで戦死してしまった 9 。これにより、最上家の重代の宿老である氏家家は断絶の危機に瀕した。この危機を救ったのが成沢道忠であった。彼は実子である光氏(あきうじ)を守棟の養子として送り込み、氏家家の名跡を継がせたのである 7 。
氏家光氏(初名は成沢光氏)は、氏家家を継承するだけでなく、主君・最上義光の三女である竹姫を正室に迎えた 8 。これにより、彼は1万8千石を領する宿老として、最上家中で絶大な権勢を誇るに至った 12 。この一連の出来事を通じて、成沢氏の血筋は、最上家の中枢と直接的な姻戚関係を結び、その地位を盤石なものとしたのである。
成沢道忠の歴史的重要性を評価する上で、後世に語られる伝説的な武功以上に、この一連の動きが持つ戦略的な意味は大きい。戦国時代において、一族の存続と発展のためには、個人の武勇だけでなく、有力な家臣団や主家との間に多重的な血縁ネットワークを構築することが極めて重要であった。道忠は、自らの子を名門氏家家の後継者として送り込み、さらに主君・義光と直接の姻戚関係を結ばせることで、成沢一族の永続的な繁栄の礎を築いた。彼の最大の功績は、戦場での一騎当千の活躍というよりも、むしろこの巧みな「血の戦略」を成功させた点にあると分析できる。彼の存在は、一族の存続戦略の起点として捉えるべきであろう。
この複雑な関係を整理するため、以下に表を示す。
人物名 |
関係性 |
主要な事績・情報 |
典拠史料 |
氏家 定直 |
氏家守棟の父 |
最上氏家老 |
9 |
成沢 道忠 |
氏家守棟の従弟(通説) |
成沢城主。氏家光氏の実父。 |
1 |
氏家 守棟 |
道忠の従兄弟(通説) |
最上義光の宿老。嫡子・光棟を失う。 |
8 |
氏家 光棟 |
氏家守棟の嫡子 |
十五里ヶ原の戦いで戦死。 |
9 |
氏家 光氏 |
道忠の実子 、守棟の養子 |
初名「成沢光氏」。氏家家を継承。義光の娘・竹姫を娶る。 |
7 |
最上 義光 |
主君 |
娘・竹姫を氏家光氏に嫁がせる。 |
8 |
竹姫 |
最上義光の三女 |
氏家光氏の妻。 |
8 |
成沢道忠の名は、数々の合戦における勇猛な武将として語り継がれている。しかし、その活躍譚は後世の軍記物語による脚色が色濃く、史料間の矛盾も多い。本章では、特に有名な三つの合戦への関与を検証し、その実像と伝説化の過程を明らかにする。
成沢道忠の人物像を最も象徴するのが、柏木山合戦における「老将」としての伝説である。『奥羽永慶軍記』などの軍記物語によれば、道忠は「齢七十にして」成沢城の守将に任じられたと描かれている 1 。これは、主君・最上義光が、血気にはやる若武者ではなく、経験豊かな老将に防衛を任せることで守りを固め、無駄な戦を避けようとした深謀遠慮の表れとして美談化されている 1 。さらに、援軍として派遣された伊良子宗牛もまた60歳を超える老将であったという記述は、この逸話の劇的な効果を高めている 6 。
この合戦は、上山城主・上山満兼が、隣国の雄・伊達輝宗(伊達政宗の父)の援軍を得て最上領に侵攻したもので、山形城の南の玄関口にあたる成沢城は、まさに防衛の最前線であった 4 。しかし、この合戦の発生年については史料によって記述が異なり、「元亀から天正年間(1570年代初頭)」とするもの 1 と、より具体的に「天正6年(1578年)」とするもの 14 が混在しており、正確な時期の特定は困難である。
さらに重要な点として、最上義光歴史館は公式サイトの見解として「そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしい」と指摘している 2 。これは、合戦そのものが後世の創作である可能性を示唆するものであり、道忠の「老将」伝説の根幹を揺るがす極めて重要な指摘である。
柏木山合戦から十数年後とされる天正13年(1585年)頃、最上義光が庄内地方の平定を目指し、余目(現在の庄内町)の国人・安保氏を攻めた際にも、成沢道忠は重要な役割を果たしたと伝えられる。『羽源記』などの記録によれば、彼は「大剛の侍大将」として5千の兵を率い、軍の先陣を務めたという 1 。この記述は、柏木山合戦の「老将」のイメージとは対照的に、壮齢の猛将として第一線で活躍していたことを示している。
ただし、この庄内侵攻は、敵方の頑強な抵抗に遭い、最上軍は撤退を余儀なくされたと記録されており、失敗に終わっている 2 。英雄的な武勇伝の中にも、戦いの現実的な厳しさが垣間見えるエピソードである。
関ヶ原の戦いと連動して東北で勃発した慶長出羽合戦における道忠の動向は、情報が著しく錯綜しており、謎に包まれている。
第一に、 長谷堂城参陣説 がある。これは、上杉軍の猛攻に晒された長谷堂城の救援に駆けつけ、城主・志村光安と共に奮戦し、大いに活躍したというものである 6 。この功績により、戦後に5千石の加増を受けたとまで伝えられている 6 。
第二に、山形城警固説である。これは、上杉軍によって前線の畑谷城が落城したとの報を受けた最上義光が、道忠を本拠地・山形城の三の丸飯塚口の警固に任じた、というものである 17。これは、長谷堂城への出陣とは全く異なる役割である。
そして第三に、これらの説を根底から覆す 城主別人説 が存在する。この合戦当時、成沢城の城主は道忠ではなく、 坂紀伊守光秀 という別の武将であったという記録がある 18 。この記録によれば、合戦後に坂光秀は長谷堂城主へと転封となり、空いた成沢城には氏家尾張守(おそらく道忠の子である光氏)が入ったとされている 18 。
この混乱を解く鍵の一つが、『最上家中分限帳』の記録である。この史料には「一、五千石 成沢道仲」と記されており、道忠(道仲は別名)が5千石を知行する重臣であったことは確認できる 19 。しかし、これは彼が5千石の禄高を持つ大身であったことを示すものの、必ずしも成沢城に在城していたこと、あるいは城主であったことを直接証明するものではない。
これらの矛盾を総合的に分析すると、一つの可能性が浮かび上がる。成沢道忠の軍功に関する記述は、時代が下るにつれて英雄的に脚色される傾向が顕著であり、特に慶長出羽合戦の記録の混乱は、後世の軍記作者が、著名な合戦の物語に著名な武将を「登場」させようとした結果、史実との齟齬をきたした典型例と考えられる。道忠が「最上家の勇将」という象徴的な存在であったがゆえに、東北史上最大の合戦である慶長出羽合戦の物語に、彼の名が組み込まれる必要があったのであろう。作者たちは、彼を長谷堂の激戦地に置いたり、本城の守りにつかせたりと、物語上の都合で役割を創作したが、城主の変遷といった一次情報に近い事実との整合性を取ることができなかった。したがって、道忠の武将としての評価は、これらの伝説を史実として鵜呑みにするのではなく、なぜ彼がそのような伝説の主人公として選ばれたのかという背景を探ることが重要となる。
主君・義光の死後、57万石の大大名となった最上家は、深刻な内紛の時代を迎える。成沢道忠の晩年は、このお家騒動の渦中で語られることが多く、その最期は謎と悲劇に彩られている。本章では、徳川と豊臣の最終決戦という全国的な政治情勢を背景に、道忠の最期にまつわる伝承を検証する。
慶長19年(1614年)、最上義光が死去すると、最上家は後継者を巡って大きく揺れた。家督は二男の家親が継いだが、これに不満を持つ勢力が三男の清水義親を擁立しようと画策し、家中に深刻な対立が生じた 1 。
この対立の根は、単なる兄弟間の不和に留まらなかった。背景には、大坂の陣を目前に控えた徳川と豊臣の対立という、全国規模の政治情勢が深く関わっていた。家督を継いだ家親は、早くから人質として徳川家康・秀忠に仕え、家康から「家」の一字を賜るなど、明確な親徳川派の武将であった 21 。一方、弟の清水義親は、母の実家である清水家を継ぐ以前に豊臣家に近習として仕え、豊臣秀頼とも交流があったとされ、親豊臣派と目されていた 13 。義光の死は、両者の対立が決定的となる時期と重なり、最上家中の派閥争いは、さながら徳川と豊臣の代理戦争の様相を呈していたのである。
義光の死後、この対立はついに武力衝突へと発展する。旧大崎家臣で最上家に仕えていた一栗兵部が、清水義親を擁立して家親を廃そうとする陰謀を企てたのである 7 。この事件の中で、一栗は庄内地方の鶴岡城内において、家親派の重臣であった志村光清らを斬殺するという凶行に及んだ 13 。
そして、この一栗兵部の陰謀に、成沢道忠が加担したという伝承が存在する 1 。この伝承に従えば、道忠は親豊臣派である清水義親方に属していたことになる。この陰謀は最終的に失敗に終わり、一栗兵部は討死、首謀者とされた清水義親も兄・家親の追討を受けて自害に追い込まれた 13 。
陰謀が失敗に終わった後、道忠の消息についてはいくつかの伝承が残されている。一つは、主家を追われた道忠が、陸奥国石田沢(現在の宮城県塩竈市周辺か)へと逃亡したというものである 1 。そして、最終的には風光明媚な奥州の松島でその生涯を閉じた、とも伝えられている 6 。
一方で、道忠が最上家を去った理由として、これより10年以上前の慶長8年(1603年)頃に起きた、義光の嫡男・義康の廃嫡事件への関与を推測する見方も存在する 17 。この説は、道忠の失脚をより早い時期に設定するものであり、彼の晩年の活動とされる伝承との年代的な矛盾をさらに深める要因となっている。
成沢道忠の晩年にまつわる「陰謀加担と逃亡」という一連の伝承は、最上家が徳川政権下で生き残る過程で排除された「反主流派」の物語として形成された可能性がある。最上家は家親の主導で親徳川路線を明確にし、その過程で親豊臣派と見なされた清水義親は粛清された。道忠(あるいは彼の時代の成沢氏当主)が、この排除された派閥に属していた、あるいはそう見なされたとしても不自然ではない。主家を追われた人物の末路は、しばしば悲劇的な物語として語られるが、道忠の「逃亡と客死」の伝承は、この種の物語の典型的な構造を持つ。この物語は、最上家の内紛の複雑さと、徳川の天下統一という大きな歴史の流れに翻弄された一地方武将の悲哀を象徴している。道忠は、歴史の「勝者」である最上家親方からは「逆臣」として記録され、後世の物語では悲劇の登場人物として描かれることになったのではないか。
これまでに明らかになった数々の矛盾点を合理的に説明する鍵として、本章では「一人複数代説」を提示し、論証する。これは、成沢道忠の功績とされるものの多くが、実際には彼の父祖から子孫に至るまでの複数世代にわたる活躍であり、それが後世に一人の象徴的人物に集約された結果である、という仮説である。
成沢道忠の生涯を追う上で、看過できない矛盾点が複数存在する。
第一に、 年代の矛盾 である。元亀年間(1570年代初頭)に70歳であったとされる人物が 1 、それから15年後の天正13年(1585年)に大将として出陣し 1 、さらに約30年後の慶長19年(1614年)以降に勃発した御家騒動の陰謀に関与する 1 ことは、当時の平均寿命を鑑みても物理的に不可能に近い。
第二に、 記録の不整合 である。慶長出羽合戦(1600年)において、道忠の動向に関する記録が「長谷堂城参陣」「山形城警固」と三者三様に分かれるだけでなく、当時の成沢城主が坂紀伊守光秀という別人であったという、より信頼性の高い記録が存在する 18 。
第三に、 一族の立場の混乱 である。『最上家中分限帳』では5千石の知行主として記録される道忠(道仲)であるが 19 、時代が下った別の『分限帳』では、成沢城主は1万8千石の氏家左近(道忠の子・光氏)となり、成沢姓の者は150石の中級家臣しか見られなくなる 19 。これは、成沢家の本流が氏家家を継承し、本家が相対的に地位を低下させたか、あるいは最上家を去ったことを示唆する大きな変化である。
これらの複雑な矛盾を解消するため、「成沢道忠」という名は、特定の一個人を指すだけでなく、後世の軍記物語において、成沢家代々の当主の活躍を象徴する名として用いられたのではないか、という仮説が説得力を持つ 1 。この説に基づき、道忠の生涯を複数世代の活躍として再構築すると、以下のようになる。
この「一人複数代説」に立つとき、「成沢道忠」という存在は、単一の歴史的人物というよりは、むしろ「最上家に忠誠を尽くした勇猛な一族」という理念を体現するために、後世に創造された文学的・歴史的な「アイコン」として捉えることができる。軍記物語の作者は、複雑な世代交代や個々の武将の功績を詳細に記述するよりも、一人の印象的なキャラクターに功績を集約させる方が、物語として劇的で分かりやすいと判断したのだろう。成沢氏は最上氏の庶流であり、その一族から氏家家の後継者が出るなど、重要な家柄であった。この「重要な一族」を象-徴する人物として「道忠」の名が選ばれ、柏木山の老将伝説、庄内攻めの武勇伝、そして最期の悲劇に至るまで、複数世代にわたるエピソードが彼の功績として一元化された。このプロセスを通じて、史実の「成沢氏」は、伝説の「成沢道忠」へと昇華されたのである。
伝説と史実の狭間に揺れる成沢道忠であるが、彼と彼の一族が生きた証は、現代にも確かに残されている。本章では、居城跡、子孫の動向、そして遺された遺物を通じて、成沢氏の歴史的実在性を確認する。
道忠の本拠地とされる成沢城は、山形市の南郊、蔵王連峰の麓に位置する。永徳3年(1383年)の築城と伝えられ、山形城の南方を守る上で極めて重要な支城であった 1 。城は比高約60メートルの丘陵に築かれ、本丸、二の丸、そしてそれらを取り巻くように配置された多数の段郭から構成される、大規模な山城であったことが分かっている 4 。
城主は、戦国期を通じて成沢氏が務めたとされるが、慶長年間には前述の通り坂紀伊守光秀、その後氏家氏が城主となった記録がある 5 。城の歴史は、元和8年(1622年)の最上家改易と共に終焉を迎え、幕府の命により廃城となった 1 。
現在、城跡は「成沢城址公園」として整備されており、往時を偲ばせる堀や土塁の遺構を明瞭に確認することができる 14 。また、山形市教育委員会などによる発掘調査も行われており、『山形県中世城館遺跡調査報告書』といった報告書でその成果が公表されている 29 。
成沢道忠の血脈は、意外な形で現代に繋がっている。氏家家を継いだ息子・光氏は、最上家が改易された後、長州藩主毛利氏に預けられ、そのまま仕官した。その子孫は幕末まで長州藩士として存続したことが確認されており 12 、戦国の動乱を乗り越えた一族の強かさを物語っている。
さらに、道忠を直接偲ぶことができる遺物も存在する。山形市蔵王成沢にある三蔵院には、高さ約30センチの「成沢道忠公像」と伝わる木像が大切に祀られている 2 。この像は、昭和40年(1965年)に、道忠から14代目にあたる子孫・成澤邦正氏(当時滋賀県在住)によって寄贈されたものであり 6 、一族の記憶と祖先への敬愛が、時代を超えて継承されていることを示す貴重な物証である。
また、成沢城跡からは、明治35年(1902年)に主郭の北側下から脇差が一本出土している 6 。無銘であるが、鞘の形状などから戦国時代頃の作と推定されており、かつてこの城で繰り広げられたであろう武士たちの営みを静かに現代に伝えている。
本報告書は、最上家臣・成沢道忠をめぐる錯綜した史料と伝承を多角的に検証した。その結果、以下の結論に至る。
最終的に、成沢道忠の生涯を探ることは、一人の武将の伝記を追うに留まらない。それは、最上氏の興亡という地域史のダイナミズム、徳川・豊臣の対立という全国史の奔流、そして史実が伝説へと昇華されていく東北地方の歴史叙述の特性を解き明かす、魅力的な探求の旅なのである。彼の実像は、確固たる単一の肖像ではなく、時代の要請に応じて様々に描かれた、重層的なイメージの集合体として捉えるべきであろう。