関ヶ原の戦いで手柄を立て、和泉堺奉行に抜擢され、大坂の陣では総堀の埋め立てを指揮する。これらは、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、成瀬正成(なるせ まさなり)の功績として知られる事実である 1 。しかし、これらの断片的な功績は、彼の生涯の重要性を示す入り口に過ぎない。
彼の本質を理解するためには、より深い問いを発する必要がある。なぜ彼は、天下人となった豊臣秀吉からの破格の待遇でのスカウトを、「腹を切るよりほかはありません」と涙ながらに拒絶してまで、徳川家康への忠誠を貫いたのか 2 。そして、彼の死が、三代将軍徳川家光に江戸中の鳴物を三日間止めさせ、主君である尾張徳川家の徳川義直を慟哭させるほどの影響力を持ったのはなぜなのか 3 。
成瀬正成の物語は、単なる一個人の立身出世伝ではない。それは、戦国の流動的な価値観から、泰平の世の絶対的な主従関係へと移行する時代のイデオロギーを体現するものであった。特に、秀吉からの勧誘を拒絶した逸話は、徳川政権にとって極めて重要な意味を持った。この物語は、物質的な恩賞で家臣を釣る豊臣政権と、徳と信頼に基づく主従関係を重んじる徳川政権という対比を鮮明に描き出す。正成は、私利私欲を捨て、主君への一途な忠義を貫く「譜代の臣」の理想像として、政権によって称揚されたのである。将軍家光が命じた江戸全体の服喪は、正成個人の死を悼むという私的な行為を超え、徳川の治世を支える忠誠という価値観を天下に示すための、国家的な儀式であったと言える。彼は一人の武将であると同時に、徳川の泰平の礎を築くための「生きた模範」となったのである。本報告書は、これらの問いを解き明かし、彼の生涯と思想、そして徳川政権における真の役割を徹底的に探求するものである。
成瀬氏は、そのルーツを三河国足助荘成瀬郷(現在の愛知県豊田市)に持つとされ、代々松平(後の徳川)家に仕えた譜代の家臣の家柄であった 4 。正成の父は成瀬正一(まさかず)という人物で、戦国武将としては異色の経歴を持っていた。彼は一度、徳川家を出奔して敵対する武田家に仕え、その後、徳川家に帰参するという経歴の持ち主であった 3 。父がなぜ主家を離れたのか、その理由は定かではないが、この父の流転の経験は、息子である正成の「不動の忠誠心」という人格形成に、逆説的ながら強い影響を与えた可能性がある。
成瀬正成は、永禄10年(1567年)頃、三河国で生まれた 4 。幼名は小吉(こよし)と称し、幼少期より徳川家康の小姓として召し出され、その側に仕えた 3 。彼が物心ついた頃は、家康が長年の主家であった今川氏から独立し、三河統一へと邁進していた激動の時代であった。主君の苦難と成長を間近で見聞きしたこの原体験は、彼の生涯を貫く家康個人への絶対的な思慕と忠誠心の源泉となった 4 。
正成が歴史の表舞台にその名を現すのは、天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」である。これが彼の初陣であったが、家康の馬廻りとして参陣し、敵の首級を挙げるという武功を立てた 3 。その勇猛果敢な働きは家康に高く評価され、賞賛と共に脇差を賜ったと伝えられる 3 。この戦いを描いた屏風絵には、若き正成の姿が二度にわたって描かれており、その活躍ぶりが当時から注目されていたことを示している 8 。
この初陣での成功は、彼のキャリアにおける最初の転機となった。翌天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州攻めによって本拠地を追われた根来寺の僧兵集団「根来衆」の一部が、家康を頼ってきた。根来衆は、鉄砲の扱いに長けた精鋭の戦闘集団であったが、同時に故郷を失った気性の荒い者たちでもあった 3 。家康は、この扱いの難しい集団の指揮官として、わずか17、8歳の成瀬正成を抜擢したのである 3 。
この人事は、単なる武功への褒賞ではなかった。それは、家康による意図的な人材育成戦略の一環であった。家康は、若き正成の中に、単なる武勇だけでなく、年長で経験豊富な戦闘員たちをまとめ上げる統率力と交渉力、そして管理能力という、将来の統治者に不可欠な資質を見抜いていた。この極めて難易度の高い任務を若者に託すことは、大きな賭けであったが、家康は正成の潜在能力を試すとともに、実地での経験を通じて彼を次代の指導者として育成しようとしたのである。正成がこの任務を成功させたことは、家康の慧眼を証明すると共に、彼自身が武勇と行政能力を兼ね備えた、新時代に必要とされる武将であることを内外に示す結果となった。この若き日の成功が、後の堺奉行や付家老といった重要ポストへの就任に繋がる直接的な布石となったのである。
慶長5年(1600年)、徳川家康の運命を決する天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発する。この時、成瀬正成は自らが育成した精鋭部隊、根来組100人を率いて参陣した 3 。彼は徳川本隊の中でも旗本の先鋒という重要な役割を担い、東軍の勝利に大きく貢献した 1 。この戦功により、彼の徳川家中における評価は不動のものとなった。
徳川の世が盤石になりつつある中で、豊臣家との最終決戦である「大坂の陣」が勃発する。正成はこの戦いでも重要な役割を果たした。
慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では、嫡男である成瀬正虎と共に、主君・徳川義直の軍勢に加わって出陣した 10 。戦いが膠着し、和議が結ばれると、正成は本多正純と共に極めて重要な任務を拝命する。それは、難攻不落と謳われた大坂城の総堀を埋め立てる奉行職であった 1 。
この堀の埋め立ては、単なる土木工事ではない。豊臣方の最大の防御機能を無力化し、戦いを再開させないための決定的な戦略的措置であった。和議の条件を拡大解釈し、外堀のみならず内堀まで埋めるこの強硬策は、家康の冷徹な政治判断の表れであり、その実行者には主君の意図を正確に理解し、非情な決断を下せる人物が求められた。正成はこの役目を忠実に、そして迅速に遂行した。工事を急ぐため、周辺の家屋を躊躇なく破壊してその土砂や瓦礫を堀に投じ、大坂城を裸城にしたのである 11 。この一件は、彼が単に勇猛な武士であるだけでなく、主君の政治的・戦略的意図を汲み取り、いかなる手段を用いてでも完遂する冷徹な実行者であったことを如実に物語っている。
翌慶長20年(1615年)、堀を失った豊臣方は和議を破棄し、「大坂夏の陣」が勃発する。正成は再び徳川本隊の一翼を担って出陣し、真田信繁(幸村)の部隊や大野治長の部隊などと激しく交戦し、武功を挙げた 4 。この戦いによって豊臣家は滅亡し、二百数十年続く徳川の泰平の世が名実ともに始まったのである。
戦乱が終息に向かうと、成瀬正成の役割は武人から行政官へと大きくシフトしていく。彼はその卓越した能力を、国家の統治と経営という新たな舞台で発揮することになる。
関ヶ原の戦いが終結した直後の慶長5年(1600年)、家康は成瀬正成を、米津親勝、細井政成と共に和泉国堺の政務を司る「堺政所」に任命した 12 。これは後の堺奉行の前身であり、幕府の重要直轄地を治める遠国奉行の一つであった 12 。
当時の堺は、戦国時代を通じて会合衆による自治を行い、海外貿易の拠点として莫大な富を蓄積した日本最大の国際商業都市であった 14 。その経済力と情報網は、天下の趨勢を左右するほどの力を持っていた。豊臣秀吉はこの力を利用しつつも、その特権を削ぎ、大坂に中心を移そうとした 15 。家康がこの極めて重要な経済拠点の統治を、戦後間もなく正成に委ねたという事実は、彼の武勇だけでなく、統治能力、経済感覚、そして交渉力といった行政官としての資質を高く評価していたことの何よりの証左である。
慶長12年(1607年)、征夷大将軍の座を息子・秀忠に譲り、大御所となった家康は江戸から駿府城へ居を移し、事実上の院政を開始した。成瀬正成もこの家康に従って駿府に移り、本多正純や安藤直次といった家康側近中の側近と共に、駿府で政務を執ることになった 1 。
この役職は「年寄」と呼ばれ、江戸の秀忠政権とは別に、大御所家康の下で国家の重要政策を決定する、幕府初期における事実上の最高意思決定機関の一員であった 16 。これにより、正成は一介の武将から、徳川政権の中枢で天下の差配に関与する「国家の経営者」へと完全に変貌を遂げたのである。
彼のキャリアパスは、家康による人材育成の設計図そのものであったと言える。まず、根来衆の指揮官として、特殊な集団をまとめるリーダーシップと管理能力を試された。次に、経済の中心地・堺の統治を任せることで、財政、商業、都市行政といった実務能力を徹底的に学ばせた。そして最終段階として、駿府政権の中枢に引き上げ、それらの実地経験を国家レベルの政策決定に活かさせる。この一連の経歴は、家康が戦乱の世を勝ち抜くための「武人」を、泰平の世を治めるための「行政官僚」へと意図的に育て上げていく過程そのものである。正成は、この家康の構想に見事に応え、武勇と統治能力を兼ね備えた、江戸時代の新しい武士像の先駆けとなった。彼が最終的に御三家の筆頭である尾張徳川家の傅役という重責に選ばれたのは、この周到な育成プログラムの集大成であり、必然的な帰結であった。
駿府で幕政の中枢を担っていた成瀬正成に、彼の生涯における最大の転機が訪れる。それは、徳川御三家筆頭・尾張徳川家の傅役(ふやく)、そして付家老(つけがろう)への就任であった。
慶長15年(1610年)頃、家康は自身の九男であり、後の尾張藩初代藩主となる徳川義直の後見人として、成瀬正成を指名した 7 。さらに慶長17年(1612年)からは、義直の異父兄にあたる竹腰正信と共に、正式に尾張藩の付家老として藩政の全般を担うことになった 7 。
この人事が、家康の正成に対する絶大な信頼の証であったことは、『徳川実紀』の記述からも明らかである。家康は正成を義直に付けるにあたり、彼の小牧・長久手の戦いでの初陣の功名から始まり、数々の戦功や行政官としての才能を一つひとつ列挙し、「これらの理由があるからこそ、義直を補導する職に就かせるのだ」と、周囲にその選任理由を詳しく説明したという 3 。これは、家康が自らの血を引く最も重要な分家の一つである尾張家の将来を、全幅の信頼を置く正成の双肩に託したことを示している。
「付家老」とは、江戸時代の武家社会において極めて特殊な地位であった。彼らは、将軍家の連枝(親族)が新たに大名として取り立てられる際に、将軍家から直接派遣され、その藩主を補佐・監督する役割を担う家老である 19 。
その立場は二重構造を持っていた。一方では、藩主の家臣として藩政を執行し、藩の発展に尽くす。しかし、もう一方では、将軍直属の臣として、藩主が幕府の意向に背くような行動をとらないかを監視する「お目付け役」としての性格も強かった 20 。このため、藩の利益と幕府の利益が相反するような局面では、極めて複雑で困難な判断を迫られる立場であった 21 。彼らは、藩内にありながら、幕府から直接江戸屋敷を拝領するなど、大名に匹敵する待遇を受けており、まさに「藩の中の藩」とも言うべき存在であった 19 。
成瀬正成は、この付家老という重責を見事に果たした。彼は同じく付家老であった竹腰正信と密接に連携し、まだ幼少であった藩主・義直を支え、草創期の尾張藩の統治機構の整備、家臣団の統率、そして財政基盤の確立に心血を注いだ 1 。現在も、正成と竹腰正信の連署で尾張藩の国奉行に宛てた加増に関する指示書などが残されており、両名が二人三脚で初期藩政を主導していた様子が窺える 9 。正成の尽力なくして、その後の尾張藩の発展はあり得なかったと言っても過言ではない。
付家老としての功績に加え、成瀬正成とその子孫は、国宝として名高い犬山城の城主という特別な地位を得ることになる。
元和3年(1617年)、正成は二代将軍・徳川秀忠の命により、尾張国の北の要衝である犬山城を拝領した 7 。これにより、彼は尾張藩の家老でありながら、三万石余を領する一国一城の主という、陪臣としては破格の待遇を受けることになったのである 7 。知行はその後も加増され、最終的に三万五千石に達した 10 。
犬山城主となったことで、成瀬家は尾張藩主徳川家に仕える家臣であると同時に、将軍家とも直接的な主従関係を持つという、極めて特異な立場を確立した 26 。彼らは将軍への拝謁や献上が許されるなど、独立した大名に準ずる扱いを受けており、この特別な家格が、幕末に至るまでの成瀬家の権威の源泉となった。
成瀬正成を初代として、犬山成瀬家は幕末の九代正肥(まさみつ)に至るまで、約250年間にわたり犬山城主の座を世襲した 10 。彼らは尾張藩の重鎮として藩政に重きをなす一方、犬山領の領主として地域の統治と発展に尽くした。その歴代当主と主要な事績は以下の通りである。
代 |
氏名(読み) |
在職期間 |
主要な事績・特記事項 |
初代 |
成瀬 正成 (まさなり) |
1617年–1625年 |
犬山城を拝領し、犬山成瀬家の初代となる。尾張藩初期藩政を主導 7 。 |
二代 |
成瀬 正虎 (まさとら) |
1625年–1659年 |
父・正成と共に藩政を担う。大坂の陣に従軍。家康・秀忠・家光の三代に仕える 10 。 |
三代 |
成瀬 正親 (まさちか) |
1659年–1703年 |
尾張藩主より5000石の加増を受け、知行高が3万5千石となる。犬山城と城下町の整備に尽力 10 。 |
四代 |
成瀬 正幸 (まさゆき) |
1703年–1732年 |
家格の回復に努め、中断していた将軍への献上を再開。家臣団が安定する 10 。 |
五代 |
成瀬 正泰 (まさもと) |
1732年–1768年 |
藩主・徳川宗春の隠居問題で幕府との折衝役を務めるなど、30年以上にわたり藩政を支える 10 。 |
六代 |
成瀬 正典 (まさのり) |
1768年–1809年 |
犬山城と城下町を自家の手で守る体制を構築し、城下の振興策を実施 10 。 |
七代 |
成瀬 正寿 (まさなが) |
1809年–1838年 |
付家老五家の「譜代大名並」の待遇を実現。犬山焼の奨励や城下の防火対策を行う 10 。 |
八代 |
成瀬 正住 (まさずみ) |
1838年–1857年 |
家臣教育のため、犬山と名古屋に学問所「敬道館」を設立 10 。 |
九代 |
成瀬 正肥 (まさみつ) |
1857年–1868年 |
戊辰戦争後、朝廷より独立大名として認められ犬山藩を立藩。濃尾地震で被災した天守の修復に尽力 10 。 |
成瀬正成がどのような人物であったかは、彼にまつわる数々の逸話から鮮明に浮かび上がってくる。それらは、彼の忠誠心の在り方、機知、そして人間性を雄弁に物語っている。
最も有名な逸話が、徳川義直の付家老に就任する際の「起請文問答」である 29 。家康は正成に対し、「もし主君である義直が幕府に謀反を企てるようなことがあれば、速やかに自分に報告するように」という内容の起請文(誓約書)を提出するよう命じた。これは、付家老の「お目付け役」としての役割を明確にするためのものであった。しかし、正成はこれをきっぱりと固辞した。彼は、「自分を義直様の家老に付けてくださる以上、私の主君は義直様ただ一人でございます。万が一、義直様がご謀反を起こされるようなことがあれば、家臣としてそれに従うのが私の務め。故に、そのような起請文は書けませぬ」と述べたという。
これは単なる頑固さや、家康への反抗心から出た言葉ではない。正成は、付家老という二重構造を持つ役職の本質を深く理解していた。藩内で絶対的な信頼を得て藩主を補佐するためには、まず自らが藩主にとって「完全な家臣」であることを示さなければならない。幕府への忠誠と藩主への忠誠という、時に矛盾しかねない二つの責務を両立させるための、高度な政治的判断と覚悟がこの言葉には込められている。
彼の抜け目のない交渉力を示す逸話も残されている 29 。家康が名古屋城で、尾張藩に木曽谷を与える旨を沙汰した際、正成はわざと聞こえないふりをして返事をしなかった。家康が不審に思い、少し語気を強めてもう一度同じことを告げると、正成はすかさず平伏し、「誠に有難き幸せに存じ奉ります。木曽の『山川共に』拝領つかまつります」と応じた。家康の言葉尻を巧みに捉え、木曽の山林資源だけでなく、舟運や漁業の権益を含む木曽川そのものまでをも獲得したのである。この機転により、尾張藩はその後、河川交通などで大きな利益を得ることになった。先の起請文問答とこの逸話を合わせ見ると、彼が幕府の忠実な監視役であると同時に、自らが仕える尾張藩の利益を最大化しようとする、強力な代弁者・擁護者でもあったことがわかる。
職務や義に対しては極めて厳格な人物であった。その一面は、嫡男・正虎(まさとら)への態度にも表れている。若い頃の正虎は素行に問題があったらしく、正成はその放蕩ぶりを厳しく咎め、一時は勘当同然に他家へ養子に出してしまった 8 。この事態を見かねた家康自らが仲裁に入り、ようやく親子は和解したという。この逸話は、たとえ我が子であっても不正や怠惰を許さない彼の厳格な性格を示すと同時に、主君である家康の取りなしには素直に従うという、主従関係を何よりも重んじる彼の姿勢も窺わせる。
寛永2年(1625年)、成瀬正成は江戸の屋敷で59年の生涯を閉じようとしていた 29 。死の床に就いた彼は、「大御所様(家康)の眠る日光へ参る」と言い出し、誰が何を言っても聞き入れなかった。困り果てた家臣たちは一計を案じ、彼の寝床を乗せた籠を担ぎ上げ、その場で足踏みをしながら「ただいま宇都宮を過ぎました」「まもなく日光御橋にございます」などと道中の地名を告げ、日光へ向かっているかのように見せかけた 3 。それを聞いた正成は満足し、静かに息を引き取ったという。
この最期の逸話は、彼の忠誠心が、損得や理屈ではなく、幼少期から仕えた主君・家康個人への、生涯変わることのなかった深い敬愛と思慕に根差していたことを示す、最も感動的な物語である。彼の遺骨は、その遺言通り、主君が眠る日光東照宮の家康廟の傍らに葬られた 1 。
成瀬正成が残した遺産は、犬山城や尾張藩における功績に留まらず、後世の様々な分野に影響を与え続けている。
正成の功績により、彼の家系は二つに分かれた。嫡男・正虎が継いだ犬山城主の成瀬家が本家となり、幕末まで続いた 17 。一方、次男の之成(ゆきなり)は、正成の生前に下総国栗原(現在の千葉県船橋市西部)周辺に1万4千石の所領を与えられ、独立した大名として栗原藩を立藩した 5 。
しかし、この栗原藩は長くは続かなかった。之成の子である之虎(ゆきとら)がわずか5歳で夭折したため、跡継ぎがなく、無嗣改易として断絶してしまったのである 17 。
この栗原成瀬家との縁で、船橋市西船にある宝成寺は、成瀬家の菩提寺として定められた 31 。寺の名も、元々の「法城寺」から、成瀬の「成」の字と、宝の字を当てて「宝成寺」と改められたという 31 。栗原藩が断絶した後も、犬山成瀬家は宝成寺を江戸における菩提寺の一つとして庇護し続けたため、現在も境内には栗原藩主・之成の墓や、犬山七代城主・正寿の巨大な墓石などが残り、市の文化財(史跡)に指定されている 33 。
犬山を治めた成瀬家は、武辺一辺倒ではなく、文化の振興にも力を注いだ。特に、七代当主の成瀬正寿は、尾張藩の御庭焼を起源とする「犬山焼」の発展を奨励したことで知られる 10 。また、八代当主の成瀬正住は、家臣の子弟を教育するための学問所「敬道館」を犬山と名古屋に設立するなど、地域の文化・教育の発展に大きな足跡を残した 10 。
幕末維新の動乱期、九代当主の成瀬正肥は、時代の変化に巧みに対応した。慶応4年(1868年)、王政復古の大号令が出されると、彼は朝廷から正式に独立した大名(犬山藩主)として認められた 10 。これは、二百数十年にわたり尾張藩の「陪臣」という特殊な立場にあり続けた付家老が、ついに独立した藩主として公認された歴史的瞬間であった。明治維新後、成瀬家は華族に列せられ、子爵の爵位を授けられた 5 。
成瀬正成の最大の遺産は、言うまでもなく国宝・犬山城である。明治4年(1871年)の廃藩置県で一度は愛知県の所有となったが、明治24年(1891年)の濃尾地震で城が大きな被害を受けると、修理を条件に再び成瀬家に譲渡された。以来、平成16年(2004年)に至るまで、成瀬家が個人として所有を続けた、日本で唯一の城であった 37 。現在は、成瀬家が設立した公益財団法人犬山城白帝文庫が管理・運営にあたり、正成の時代から続く歴史と文化を後世に伝えている 37 。
また、犬山市では、秋の「犬山お城まつり」などで、成瀬正成をはじめとする武将たちに扮した甲冑武者行列が城下町を練り歩き、市民の郷土愛を育む重要な歴史資源として、今なお親しまれている 39 。
成瀬正成の生涯は、一人の忠実な武将という言葉だけでは到底語り尽くせない。彼は、徳川家康の天下取りをその武勇で支える「戦人(いくさびと)」としてキャリアをスタートさせ、幕府創成期には堺や駿府で辣腕を振るう「行政官僚」へと変貌し、そして泰平の世が訪れると、次代の統治者である徳川義直を育てる「教育者・監督者」として、時代の要請に応じてその役割を見事に変化させていった。
彼の人生は、戦乱の時代の価値観(武勇と忠節)と、平和な時代の価値観(統治能力と秩序維持)という、二つの異なる世界を体現し、その間を繋ぐ「架け橋」そのものであった。豊臣秀吉からの破格のスカウトを若き日に拒絶した決断から、死の床で敬愛する主君・家康の眠る日光を想った最期まで、彼の行動原理は一貫して「徳川の世の安寧」という一点に向けられていた。
彼が築き上げた犬山成瀬家という制度、そして彼自身の生き様を通じて後世に語り継がれる「忠誠」の物語は、徳川二百六十年の平和を支えた、無数の知られざる「国家の経営者」たちの一人として、改めて高く評価されるべきである。成瀬正成という人物の生涯を深く知ることは、徳川幕府という巨大な統治システムが、いかにして人の心と才能を巧みに組織し、機能していたかを理解するための、貴重な鍵となるであろう。