最終更新日 2025-07-05

成田長忠

戦国乱世を生き抜いた武将、成田長忠の生涯 ― その実像と大名家の興亡

序章:戦国乱世を生き抜いた武将、成田長忠 ― 再評価への序説

日本の歴史上、最も激しい権力構造の転換期であった戦国時代から江戸時代初期。その激流の中を、一人の武将が巧みに泳ぎ切り、一度は没落した一族を大名の地位にまで引き上げた。その人物の名は、成田長忠(なりた ながただ)。武蔵国忍(おし)城を本拠とした名族・成田氏に生まれ、関東の雄・後北条氏の滅亡、豊臣政権の樹立、そして徳川幕府の確立という、時代のうねりを真正面から受け止めながら、その生涯を駆け抜けた。

彼の名は、兄であり成田家当主であった成田氏長(うじなが)や、和田竜氏の小説『のぼうの城』で一躍著名となった従兄弟の成田長親(ながちか)の影に隠れ、歴史の表舞台で大きく語られることは少ない。しかし、次男という立場から身を起こし、主家の滅亡という絶望的な状況を乗り越え、最終的には下野国烏山(からすやま)藩3万7000石の藩祖となった彼の生涯は、単なる幸運や偶然の産物ではない。そこには、時代の流れを読み解く鋭い政治的嗅覚と、危機的状況下で最善の道を選択する冷静な判断力、そして新たな主君の下で功績を挙げて信頼を勝ち取る確かな実力が存在した。

本報告書は、この成田長忠という人物の生涯を、現存する史料を基に徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。彼の出自から、後北条氏配下の武将として過ごした青年期、主家滅亡後の流転、そして蒲生氏郷という当代随一の智将の下での再起、さらには徳川政権下で大名として家を興し、その家が彼の死後わずか数年で改易に至るまでの全貌を、時代の大きな文脈の中に位置づけ、多角的に分析する。

なお、長忠は生涯において複数の名を名乗っている。史料によれば、初名は「泰喬(やすたか)」、後に祖父や父の名から一字を取った「泰親(やすちか)」、そして最終的に「長忠」と改名したとされる 1 。官途名は左衛門尉であった 1 。この名前の変遷自体が、彼の生涯の各段階における立場と忠誠の対象の変化を物語る重要な指標である。例えば、「泰親」の名は成田一門としてのアイデンティティを、「長忠」の名は兄・氏長から家督を継承し、新たな時代における忠誠を誓う決意を示していると解釈できる。本報告書では、彼が藩主として活動した時期に主に使用された「成田長忠」を基本呼称としつつ、必要に応じて「泰親」の名を併記することで、その生涯の軌跡をより正確に追うこととしたい。

第一章:武蔵の名族・成田氏とその時代背景

成田長忠の生涯を理解するためには、まず彼が属した成田一族と、その本拠地である武蔵国忍、そして彼らを取り巻く戦国時代の関東の情勢を把握する必要がある。

1.1 成田氏の出自と本拠・忍城

成田氏の出自については、藤原師輔を祖とする藤原氏説や、武蔵七党の一つである横山党の流れを汲むとする説など諸説が存在し、その起源は必ずしも明確ではない 4 。しかし、少なくとも鎌倉時代以前から武蔵国北部の成田郷(現在の埼玉県熊谷市上之周辺)を本拠としていた在地豪族であったことは確かである 4

鎌倉時代には御家人として名を連ね、源頼朝の奥州合戦にも参陣した記録が残る 4 。その後、室町時代後期、文明年間(15世紀後半)には、当時その地を支配していた忍氏を攻め滅ぼし、新たに忍城(現在の埼玉県行田市)を築城、あるいは改修して本拠地を移した 8

この忍城が築かれた場所は、北を利根川、南を荒川に挟まれた広大な低湿地帯であった。無数の沼や河川が天然の堀となり、その中に浮かぶ島や自然堤防を巧みに連結させて築かれた城は、容易に大軍が近づけない構造を持っていた 8 。その堅固さから、忍城は「浮き城」の異名を取り、関東でも屈指の難攻不落の名城として知られるようになる 8 。この城が、成田氏の政治的・軍事的独立性を支える基盤となったのである。

1.2 父・長泰の時代:上杉・後北条の狭間で

長忠の父である成田長泰(ながやす)が家督を継いだ16世紀半ば、関東の政治情勢は激動の時代を迎えていた。伝統的な権威であった関東管領・山内上杉氏は、相模国から急速に勢力を拡大してきた後北条氏との抗争の末、その力を大きく削がれていた。

長泰は当初、主家である山内上杉家に仕えていたが、天文15年(1546年)の河越夜戦で上杉方が北条氏康に歴史的な大敗を喫すると、時勢を読み、後北条氏に臣従する道を選ぶ 12 。しかし、その後、越後国から上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東管領を継承し、大軍を率いて関東に進出すると、長泰は再び上杉方に帰順する。

この時期の成田氏の立場は、上杉・後北条という二大勢力の狭間で揺れ動く、極めて不安定なものであった。その象徴的な出来事が、永禄4年(1561年)、謙信が鶴岡八幡宮で行った関東管領就任の儀式で起こった「馬上礼事件」である。長泰は、成田家の先祖が源頼朝から馬上での拝礼を許されたという古例に倣い、下馬せずに謙信に拝礼した。これを無礼と見なした謙信は激怒し、扇で長泰の烏帽子を叩き落としたと伝えられる 12 。この一件で面目を失った長泰は憤慨し、本拠の忍城へ兵を引き上げ、上杉方から離反。三度、後北条氏の陣営に加わったのである 12

このように、長泰の時代は、一族の存亡を賭けて帰属先を何度も変えざるを得ない、綱渡りのような外交戦略が常態化していた。彼らは後北条氏の家臣団の中でも、譜代の家臣ではなく、一定の独立性を保持した「他国衆」として扱われており、その立場は常に流動的であった 14

1.3 一族の内部力学:父・長泰と兄・氏長の対立

外部の政治的緊張は、成田家内部の力学にも複雑な影を落としていた。父・長泰は、嫡男である氏長に対し、必ずしも全幅の信頼を置いていなかったようである。史料によれば、長泰は氏長よりも次男である長忠(当時の名は泰喬)の器量を高く評価しており、永禄9年(1566年)には、氏長を廃して長忠に家督を譲ろうと画策したことさえあった 14

この家督問題は、成田家を二分する内訌に発展しかねない深刻な危機であった。しかし、この時、長忠自身が身を引くことで争いは回避されたと記録されている 14 。この決断は、長忠の人物像を考察する上で極めて重要である。父からの寵愛を背景に家督を奪う道を選ばず、一族の分裂を避けることを優先した彼の行動は、単なる野心家ではない、冷静なバランス感覚と一族全体の存続を重んじる視点を備えていたことを示唆している。

結局、家督は兄の氏長が継承する。その経緯については、氏長が家臣団と結んで父・長泰を隠居に追い込んだという、一種の下克上の側面があったともされる 13 。父・長泰は出家して蘆伯斎と号し、隠居生活を送った後、天正14年(1586年)に没した 12

長忠が青年期を過ごしたのは、このように外部からの絶え間ない軍事的圧力と、内部における家督を巡る緊張関係という、二重の危機の中であった。彼がこの複雑で危険な状況を乗り越え、兄との関係を破綻させずに生き抜いた経験は、後の彼のキャリアにおいて、主家滅亡という更なる危機に直面した際に生きる、強靭な精神力と政治的嗅覚を育んだ土壌となったに違いない。

【表1:成田氏 略系図】

関係

人物名

備考

祖父

成田親泰(なりた ちかやす)

忍城主。山内上杉家に仕える 16

成田長泰(なりた ながやす)

忍城主。上杉氏と後北条氏の間で揺れ動く 12

叔父

成田泰季(なりた やすすえ)

長泰の弟。成田長親の父 17

叔父

小田朝興(おだ ともおき)

長泰の弟。長忠が一時養子となる 1

成田氏長 (なりた うじなが)

長泰の嫡男。成田家当主。子に甲斐姫など 18

本人

成田長忠(泰親)

長泰の次男。本報告書の主題。妻は上杉憲盛の娘 1

内匠助泰蔵(たくみのすけ やすただ)

長泰の末子 12

従兄弟

成田長親 (なりた ながちか)

泰季の子。忍城籠城戦を指揮。『のぼうの城』の主人公 20

第二章:当主の弟として歩んだ道 ― 後北条氏臣従時代

兄・氏長が家督を継承し、成田家が後北条氏の配下としてその地位を固めていく中で、弟である長忠は一族の重要な一翼を担う存在として、そのキャリアを本格化させていく。彼のこの時代における役割は、単なる当主の弟という立場に留まらない、多岐にわたるものであった。

2.1 叔父・小田朝興の養子、そして騎西城主へ

家督問題が収拾した後、長忠の立場は一族内で明確に位置づけられることとなる。史料には、彼が子がいなかった叔父の小田朝興(長泰の弟)の養子となったという記録が見られる 1 。これは、一族内の所領と家系を維持するための戦略的な措置であったと考えられる。

その後、天正年間に入ると、兄・氏長は叔父の旧領であった騎西(きさい)城(現在の埼玉県加須市)を成田家の支配下に組み込み、その城主に弟の長忠を任じた 14 。この人事は、かつて家督を争う可能性があった兄弟間の信頼関係が再構築されたことの証左である。氏長は、弟に一軍の将としての活躍の場を与え、成田家の軍事力を分担させる体制を築いたのである。

さらに長忠は、深谷城主であった上杉憲盛(うえすぎ のりもり)の娘を正室として迎えている 1 。これは、成田氏が武蔵北部の有力国衆との間で婚姻関係を結ぶことで、地域における支配体制を強化しようとした婚姻政策の一環であり、長忠自身がその重要な担い手であったことを示している。城主として、そして外交の当事者として、彼は兄・氏長の統治を実務面で支える重要な役割を果たしていた。

2.2 後北条氏の「他国衆」としての役割

後北条氏の支配体制下において、成田氏が本拠とする武蔵国北部は、北の上杉氏や東の佐竹氏といった敵対勢力に対する最前線であった。長忠が守る騎西城もまた、この広域防衛ラインの一角を成す重要な軍事拠点であった。

彼の役割が単なる一城主に留まらなかったことは、後北条氏の中枢との関係からも窺い知ることができる。現存する文書の中には、後北条氏の当主一門であり、関東の軍事を統括する立場にあった北条氏照(ほうじょう うじてる)から、長忠(成田左衛門次郎殿)個人に宛てられた書状が確認されている 12 。これは、長忠が兄・氏長を介さずとも、後北条家の最高幹部から直接指示を受け、連携を取る立場にあったことを物語っている。彼は、成田家と後北条家とを繋ぐ重要なパイプ役の一人でもあったのである。

この時代の成田氏は、後北条氏の「他国衆」として、その勢力圏内で大きな影響力を持っていた。天正10年(1582年)の『成田分限帳』によれば、成田氏の総知行高は6万貫に達し、1300人以上の武士を動員する力があった 22 。これは、実質的な石高に換算すれば30万石規模に匹敵するとも推測され 14 、後北条氏にとって決して軽視できない一大勢力であった。

この巨大な軍事・経済力を背景に、兄の氏長が成田家の当主として全体の戦略や外交を統括する一方で、弟の長忠は最前線の城主として、軍事指揮、地域同盟の維持、そして後北条氏中枢との実務連携という、極めて具体的な責務を担っていた。彼は単なる「当主の弟」ではなく、成田家という領国を共同で経営するパートナーとも言うべき存在であった。この氏長と長忠による巧みな役割分担こそが、後北条氏配下という複雑な政治環境の中で、成田氏がその勢力を維持し、発展させることを可能にした原動力であったと考えられる。

第三章:主家の滅亡と新たな主君 ― 蒲生氏郷への仕官

天正18年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎える。天下統一を目前にした豊臣秀吉が、関東に覇を唱える後北条氏を討つべく、20万を超える大軍を差し向けたのである。この小田原征伐は、成田氏、そして長忠の運命を根底から覆すこととなった。

3.1 天正十八年(1590年)小田原征伐と成田氏の選択

天下の趨勢が豊臣方に傾く中、成田家当主の氏長は、主家である後北条氏への義理を立て、兵を率いて小田原城に籠城する道を選んだ 11 。一方、本拠地である忍城の守りは、氏長の重臣たちと、長忠の従兄弟にあたる成田長親に委ねられた 23

豊臣軍は、小田原城を包囲すると同時に、関東各地の北条方支城の攻略を開始した。忍城には、豊臣政権の五奉行の一人である石田三成が、2万を超える大軍を率いて押し寄せた。三成は、城が湿地帯にあることを利用し、巨大な堤防を築いて城を水没させようという、壮大な水攻め作戦を実行する 8 。しかし、城兵の奮戦と、一説には堤防の決壊などもあり、忍城は三成の猛攻に屈することなく、主城である小田原城が7月に開城するまで持ちこたえた 20

この忍城の健闘は、「浮き城」の名を天下に轟かせることとなったが、大局には影響を及ぼさなかった。後北条氏の滅亡が確定すると、成田氏はその領地をすべて没収され、戦国時代を通じて維持してきた大名としての地位を完全に失ったのである。

3.2 智将・蒲生氏郷の配下へ

降伏後、氏長と長忠の兄弟は、豊臣配下の有力武将であった蒲生氏郷(がもう うじさと)にお預けの身となった 7 。これは、降伏した敵将に対する一般的な処遇であり、彼らの武将としてのキャリアはここで終わる可能性も十分にあった。しかし、この出会いが成田家再興の鍵となる。

蒲生氏郷は、織田信長にその才を見出され、「文武二道に秀でた名将」として豊臣秀吉からも高く評価されていた人物である 25 。特に人材登用においては卓越した手腕を持ち、身分や出自にこだわらず、能力のある者を見抜いては重用した 27 。また、戦場では自ら「銀の鯰尾の兜」をかぶって先陣を切り、部下を鼓舞するという、率先垂範のリーダーシップを発揮する将でもあった 25

氏長と長忠は、この当代随一の智将の下で、新たなキャリアをスタートさせる。彼らは氏郷に従って奥州へ赴き、天正19年(1591年)に発生した九戸政実(くのへ まさざね)の乱の鎮圧に参陣した 7 。この実戦において、彼らは旧北条方の将としてではなく、蒲生軍の一員として具体的な武功を挙げることで、新時代においても通用する有為な人材であることを自らの力で証明したのである。

この蒲生氏郷への仕官は、長忠にとって、単なる雌伏の期間ではなかった。それは、滅びゆく旧勢力・後北条氏の価値観から脱却し、豊臣政権という新たな天下人の下での、より近代的で実力主義的な組織運営や戦闘教義を、当代きっての経営者の下で直接学ぶ「第二の教育期間」であったと言える。この経験を通じて、彼は旧来の関東国衆の領主から、豊臣大名としての思考様式と生存術を体得していったのである。

3.3 大名への復帰

蒲生氏郷の下での功績は、やがて豊臣秀吉の知るところとなる。氏郷からの推挙に加え、一説には氏長の娘である甲斐姫(かいひめ)がその武勇と美貌を秀吉に気に入られ、側室として召し出されたことも有利に働いたとされる 18

これらの要因が重なり、天正19年(1591年)、成田氏長は下野国烏山(現在の栃木県那須烏山市)において2万石を与えられ、大名として奇跡的な復活を遂げた 7 。一度は全てを失った成田家が、わずか1年余りで大名に返り咲くという、異例の展開であった。この再興は、単なる温情や縁故によるものではなく、蒲生氏郷という新体制の実力者の下で具体的な「功績」を挙げ、自らの価値を証明した結果であった。長忠は、兄・氏長を支える筆頭家老として、この成田家再興の道のりを共に歩んだのである。

第四章:下野烏山藩主・成田長忠 ― 大名としての治世

兄・氏長による烏山での大名復帰は、成田家にとって新たな時代の幕開けであった。そして、そのバトンを受け継ぎ、家をさらに発展させたのが長忠であった。彼の藩主としてのキャリアは、卓越した政治的バランス感覚をもって、時代の激動を乗り切った軌跡そのものである。

4.1 兄の死と家督相続

烏山での統治が軌道に乗り始めた矢先の文禄4年(1595年、一説に1596年)、当主である兄・氏長が京で病没する 18 。氏長にはかつて嫡男がいたが、天正14年(1586年)に早世していた 18 。そのため、後継者としてかねてより養子に迎えられていた実弟の長忠が、その家督を継承することとなった 1

これにより、長忠は烏山2万石の藩主となり、名実ともに成田家の当主となった。かつて父・長泰からその器量を見込まれながらも、兄に家督を譲った彼が、数奇な運命を経て、ついに一国一城の主となったのである。

4.2 関ヶ原の戦いと加増

長忠が家督を継いでからわずか数年後の慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した対立が、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍が激突する中、全国の大名はどちらに味方するか、重大な決断を迫られた。

豊臣恩顧の大名(蒲生氏郷の与力から大名に復帰した経緯を持つ)である長忠にとって、その去就は難しい判断であったはずである。しかし、彼は迷うことなく家康の東軍に与した 1 。この決断は、彼の鋭い政治的嗅覚を示すものであった。彼は、旧勢力(北条)の滅亡と新興勢力(蒲生)からの抜擢という経験を通じて、過去の恩義に縛られることなく、常に「現在の最高権力者」が誰であるかを見極め、その流れに乗ることの重要性を体得していた。

長忠に与えられた具体的な役割は、会津の上杉景勝の南下を牽制することであった 33 。これは、家康率いる東軍主力が西へ向かう間、背後となる関東・東北方面の安全を確保するという、極めて重要な戦略的任務であった。長忠はこの役目を果たし、東軍の勝利に貢献した。

戦後、その功績は高く評価された。長忠は1万7000石を加増され、所領は合計3万7000石となった 2 。これにより、下野烏山藩成田家は、徳川政権下における大名として、その基盤を確固たるものにした。長忠は、兄から継いだ家を、自らの手で大きく発展させたのである。

4.3 大坂の陣と徳川政権下での役割

関ヶ原の戦いを経て確立された徳川の天下を、最終的に決定づけたのが、慶長19年(1614年)から始まる大坂の陣であった。長忠はこの戦いにも徳川方として参陣し、「名をあげた」と記録されている 1

特に慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、長忠自身だけでなく、彼の次男である成田泰之(後の氏宗)も戦功を挙げており、親子で徳川家への忠誠を戦場で示した 36 。これにより、成田家は豊臣恩顧という出自を持ちながらも、徳川幕府から信頼される譜代格の大名としての地位を完全に固めることに成功した。長忠の生涯は、後北条氏の家臣から始まり、豊臣大名を経て、徳川大名へと至るという、三つの時代を生き抜いた、まさに適応と生存の物語であった。

4.4 藩主としての治績

藩主としての長忠の具体的な治績に関する詳細な記録は乏しい。しかし、断片的な情報から、彼が領国経営に意を払っていた様子を窺うことができる。

まず、初代藩主として、荒廃していた可能性のある烏山城や城下町の整備に着手したと考えられる 35 。また、領民の安寧を願い、宗教政策にも配慮していた。天正18年(1590年)に成田氏が烏山城南に勧請した愛宕神社を、後に志鳥の地に遷座して祀ったという伝承は、彼らが地域の信仰を保護し、統治に活用しようとしていたことを示している 38

烏山藩は江戸時代を通じて、成田氏の改易後も松下氏、堀氏、板倉氏など、多くの大名家が頻繁に入れ替わる地であった 35 。その中で、兄・氏長の時代から長忠、そしてその子・泰之の代まで、成田家は約30年間にわたってこの地を統治した。これは、目まぐるしく城主が交代した烏山藩の歴史の中では比較的長期の治世であり、長忠がその基礎を築いたと言える。彼の統治は、戦国的な価値観から江戸時代的な統治体制への移行を体現するものであった。

第五章:成田大名家の終焉

成田長忠は、その生涯を通じて幾多の危機を乗り越え、ついに3万7000石の大名家の藩祖となった。しかし、彼が一代で築き上げたその栄光は、彼の死後、あまりにもあっけなく崩れ去ることになる。その原因は、かつて彼自身が直面し、そして回避した「家督問題」であった。

5.1 長忠の死と家督問題の萌芽

元和2年12月18日(1617年1月25日)、成田長忠はその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。戒名は傑伝宗三居士 1

彼の死後、家督は次男の成田泰之(やすゆき、後に氏宗と改名)が継承した 36 。泰之は大坂の陣で戦功を挙げており、武将としての能力も認められていた。しかし、この継承は盤石なものではなかった。長忠には、泰之の兄にあたる長男・重長がいたが、彼は慶長8年(1603年)に早世していた。だが、その重長には遺児として房長(ふさなが)という男子がおり、血筋の上では長忠の嫡孫にあたる 33 。さらに、長忠には三男の泰直(やすなお)も存在した 1

この「次男(叔父)による家督継承」という形は、嫡流である「嫡孫(甥)」の存在を支持する家臣たちとの間に、深刻な対立の火種を生む素地を内包していた。一部の史料では、泰之が家督を継いだ際に、既に継嗣問題を巡る内紛を理由に2万7000石に減封されたとの記述も見られ 36 、長忠の死の直後から家中が不安定であったことが示唆される。

5.2 お家騒動と改易

そして元和8年(1622年)、藩主の泰之(氏宗)が、世継ぎのないまま急死したことで、燻っていた火種は一気に燃え上がった 36

家中は、泰之の弟である泰直を新たな当主に推す派閥と、長忠の嫡孫である房長こそが正統な後継者であると主張する派閥とに真っ二つに分裂した 33 。このお家騒動は収拾がつかないほどの激しい内紛に発展し、その混乱ぶりは江戸幕府の知るところとなった。

当時の幕府は、二代将軍・徳川秀忠の下で武断政治から文治政治へと移行し、全国の大名に対する統制を強化していた時期であった。「元和偃武」の言葉通り、世はもはや戦乱の時代ではなく、大名家には個々の武功よりも、安定した統治能力と幕府への絶対的な服従が求められていた。福島正則や本多正純といった大大名でさえ、些細な法令違反を理由に改易されるなど、幕府はお家騒動のような統治の乱れに対して極めて厳しい姿勢で臨んでいた。

成田家の内紛も例外ではなかった。幕府はこの混乱を統治能力の欠如と断じ、元和8年(1622年)、成田家に対して改易、すなわち領地没収という最も重い処分を下した 18 。成田長忠がその生涯をかけて築き上げた3万7000石の烏山藩は、彼の死からわずか6年で、歴史の舞台から姿を消したのである。

5.3 その後の成田一族

大名としての成田家はここに断絶したが、一族の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。

幕府の公式記録である『寛政重修諸家譜』によれば、お家騒動の中心人物の一人であった嫡孫・成田房長の子・正安が、元禄4年(1691年)に御家人として幕府に召し出され、その子孫は旗本として存続した 40 。一度は家を滅ぼす原因となりながらも、嫡流の血筋はかろうじて武士としての地位を保ったのである。

また、本家とは別に、忍城籠城戦で名を馳せた長忠の従兄弟・成田長親の家系は、早くから尾張徳川家に仕えており、尾張藩士として幕末まで続いた 21

長忠の成功と、その子の代での家の崩壊は、戦国乱世を生き抜く「個」の能力と、近世封建体制下で家を存続させる「組織」の安定性がいかに異なるものであるかを鮮烈に示している。彼がかつて自らの判断で回避した家督争いが、時を経て自らの家を滅ぼしたことは、歴史の皮肉と言わざるを得ない。それは、個人の武功や才覚だけでは家は守れない、新たな時代の到来を象徴する出来事であった。

終章:成田長忠の生涯の総括

成田長忠の生涯を俯瞰するとき、我々は彼が兄・氏長や従兄弟・長親の影に隠れた凡庸な人物などでは決してなく、むしろ戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、類稀なる才覚で生き抜いた優れた武将であったという結論に至る。

彼の人生は、後北条氏という旧勢力の滅亡、蒲生氏郷という新時代の旗手への適応、そして徳川幕府という新たな天下人への再度の適応という、目まぐるしいキャリアの転換によって特徴づけられる。それぞれの局面で彼が下した決断―家督争いの回避、蒲生氏郷の下での武功、そして関ヶ原における東軍への参加―は、いずれも的確な情勢判断と、一族の存続と発展を最優先する現実的な政治感覚に裏打ちされたものであった。彼は、次男という不利な立場から出発し、一度は全てを失った一族を、自らの手で3万7000石の大名へと引き上げた、まさしく「立身出世」の体現者であった。

しかし、その成功はあくまで長忠一個人の能力に大きく依存するものであった。彼が築き上げた烏山藩は、彼の死後、後継者問題という古典的な綻びから、わずか6年で瓦解した。彼は戦国乱世を生き抜くサバイバーとしては一流であったが、次世代に安定した統治体制を継承し、家を永続させる近世大名家の創始者としては、結果的に限界があったことを示している。

成田長忠の生涯は、戦国時代から江戸時代への大きな移行期における、一人の武将の栄光と、一つの大名家の悲哀を凝縮した物語である。それは、個人の武勇と知略が全てを決定した時代が終わりを告げ、家の存続が組織としての安定性と統治能力にかかる新時代の到来を、我々に強く印象付ける。彼の名は決して派手ではないが、その堅実かつ劇的な人生は、乱世を生きる人間の強かさと、時代の変化の非情さを、静かに、しかし雄弁に物語っているのである。

【表2:成田長忠 年表】

年代(西暦)

年齢(推定)

主な出来事

主君/身分

石高(推定)

生年不詳

0歳

成田長泰の次男として生誕。初名は泰喬 1

後北条氏家臣

-

永禄9年(1566)頃

-

父・長泰が長忠への家督禅譲を画策するも、長忠が辞退し兄・氏長が継承 14

後北条氏家臣

-

天正年間(1573-92)

-

兄・氏長により武蔵国騎西城主に任じられる 18

後北条氏家臣

-

天正18年(1590)

-

小田原征伐で後北条氏が滅亡。成田家も領地を没収される 18

浪人

0石

天正18年(1590)

-

兄・氏長と共に蒲生氏郷にお預けの身となる 7

蒲生氏郷配下

-

天正19年(1591)

-

九戸政実の乱に参陣し武功を挙げる。兄・氏長が下野国烏山2万石で大名に復帰 7

豊臣大名(兄の家臣)

2万石(成田家)

文禄4年(1595)

-

兄・氏長の死去に伴い、養子として家督を相続。烏山藩主となる 1

豊臣大名

2万石

慶長5年(1600)

-

関ヶ原の戦いで東軍に属し、上杉景勝の牽制にあたる 1

徳川大名

2万石

慶長5年(1600)

-

戦功により1万7000石を加増される 2

徳川大名

3万7000石

慶長19-20年(1614-15)

-

大坂の陣に参陣し、武功を挙げる 2

徳川大名

3万7000石

元和2年(1617)

12月18日、死去。家督は次男・泰之(氏宗)が継承 1

-

-

元和8年(1622)

-

(死後)藩主・泰之(氏宗)が嗣子なく死去。お家騒動により成田家は改易となる 33

-

0石

引用文献

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  2. 成田長忠(なりた ながただ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%88%90%E7%94%B0%E9%95%B7%E5%BF%A0-1098459
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