戸川達安(とがわ みちやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将であり、備中庭瀬藩の初代藩主である 1 。彼の名は、主君であった宇喜多秀家との深刻な対立の末に家を去り、関ヶ原の戦いで徳川方につき大名へと駆け上がった、いわば「主家を離反した武将」として歴史に刻まれている。しかし、その生涯を丹念に追うと、単なる離反者や成り上がり者という一面的な評価では捉えきれない、複雑で多層的な人物像が浮かび上がってくる。彼の人生は、戦国乱世の終焉と徳川幕藩体制の確立という、日本史上最も劇的な転換期を生きた武士の矜持、信仰、そして処世術を体現する、極めて示唆に富んだ軌跡であった。
本報告書は、戸川達安に関する断片的な逸話や評価を再構成し、一人の武将の生涯を貫く通史としてその実像に迫ることを目的とする。特に、彼の生涯を特徴づける二つの重要な側面、すなわち歴戦の勇将としての「武」の側面と、篤信の日蓮宗徒としての「信」の側面に着目する。この二つの軸が、彼の人生における重大な岐路、とりわけ宇喜多家の運命を揺るがした「宇喜多騒動」において、いかに交差し、彼の決断を方向付けたのかを解明する。宇喜多家臣から徳川大名へという劇的な転身の裏にあった、達安の葛藤と信念を深く掘り下げることで、時代の変革期を生きた武将のリアリティを明らかにしていく。
戸川達安の生涯を理解する上で、まず彼が生まれ育った宇喜多家における戸川氏の特異な地位と、彼自身が積み上げた武人としての揺るぎない評価を把握することが不可欠である。父・秀安が築いた主家との強固な絆を土台に、達安は若くして武功を重ね、宇喜多家中枢へと駆け上がった。しかし、その輝かしい経歴は、やがて主君・秀家との間に生まれる深刻な軋轢の序章ともなった。
戸川氏の姓は、本来「富川」であったとされ、達安の代から「戸川」を名乗るようになったと伝わる 3 。その源流は美作菅氏の一流とされるが 1 、この改姓の背景には、宇喜多家を去り、新たな主君・徳川家康の下で家名を興そうという、心機一転の決意が込められていた可能性が考えられる。
父・戸川秀安の出自には二つの説が存在する。『寛政重修諸家譜』などが採る「宇喜多能家の妾腹の子・定安の子」という説 3 と、『戸川家系譜』などが伝える「備後国の国人・門田氏の子」という説 3 である。出自の詳細は異なるものの、両説に共通するのは、秀安の母が宇喜多直家の弟である忠家らの乳母を務めたという点である 3 。この乳母という関係は、血縁に匹敵する極めて強い結びつきを意味し、戸川家が宇喜多宗家にとって特別な、近しい存在であったことを物語っている。
この強固な縁を背景に、秀安は宇喜多直家が乙子城主となった頃から小姓として仕え始め、直家の腹心として頭角を現していく 3 。数々の戦で武功を重ね、天正3年(1575年)には備前南部の要衝・常山城主となり、2万5千石を領するに至った 3 。岡家利、長船貞親と並んで「宇喜多三老」と称され、中でも直家の信任は最も厚く、その晩年には国政を任されるほどの重臣であった 3 。この父が築き上げた宇喜多家における高い地位と名声は、そのまま嫡男・達安のキャリアの強固な基盤となったのである。秀安は天正10年(1582年)頃に家督を達安に譲って隠居し 10 、慶長2年(1597年)にこの世を去った 9 。彼の死は、宇喜多家中が深刻な内紛へと突入する直前の出来事であり、譜代の重鎮であった父の不在が、その後の達安の過激な行動に心理的な影響を与えた可能性は否定できない。
永禄10年(1567年)、戸川秀安の嫡男として生まれた達安は、幼い頃から武将としての天賦の才を示した 1 。その名は、天正7年(1579年)の備前辛川の役で鮮烈に戦史に登場する。わずか13歳で初陣を飾った達安は、この戦いで毛利方の小早川隆景の軍勢を撃破するという、驚くべき武功を挙げたのである 1 。
父の隠居に伴い家督を相続し、常山城主となった達安は 1 、以降、宇喜多軍の主力として数多の合戦を転戦する。織田信長と連携しての備中高松城攻めでは、毛利方の支城である冠山城や宮路山城などを次々と攻略 1 。さらに、小牧・長久手の戦い、紀州根来攻め、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、そして二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に至るまで、豊臣政権下で行われた主要な合戦のほとんどに参加している 1 。
彼の武功の中でも特筆すべきは、九州征伐における「根白坂の戦い」である。この戦いで達安は、天下に勇猛を謳われた島津軍を相手に奮戦し、「一番討ち」の戦功を立てたと記録されている 1 。また、朝鮮の役においても、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いといった、日明両軍の雌雄を決する激戦の最前線に身を置き、宇喜多軍の中核として戦い抜いた 1 。これらの輝かしい戦歴は、彼が単に父の威光を継いだだけの重臣ではなく、自らの槍働きで名声と地位を勝ち取った、実戦経験豊富な猛将であったことを雄弁に物語っている。
輝かしい武功を背景に、達安は宇喜多家中枢においても重きをなすようになる。父・秀安や、岳父でもあった岡家利(元忠)といった宇喜多直家時代からの重臣たちが相次いで世を去ると、その実績と家格から、達安が国政を担う中心人物の一人となった 1 。当時の彼の知行は2万5,600石に達していた 1 。
しかし、彼の政治家としてのキャリアは、文禄3年(1594年)に大きな転機を迎える。主君・宇喜多秀家が、突如として達安を国政の座から解任し、自らの寵臣である長船紀伊守綱直を後任に据えたのである 1 。この人事は、単なる役職の交代以上の意味を持っていた。それは、宇喜多秀家による統治体制の根本的な転換宣言であり、譜代の重臣たちによる合議制的な統治から、当主の意を汲む側近が主導する中央集権的な体制への移行を目指すものであった。
この動きの背景には、豊臣秀吉という強力な絶対者の下で成長し、大名となった秀家の意識があったと考えられる。彼にとって、父・直家以来の譜代家臣たちは、自らの権力基盤を確立し、迅速な意思決定を行う上での制約と感じられたのかもしれない。豊臣秀吉自身もその行政能力を高く評価したとされる長船綱直を執政に抜擢すること 15 は、権力を当主の元に集中させ、文禄検地のような急進的な領国改革を断行するための布石であった。
達安にとって、この解任は個人的な屈辱であると同時に、宇喜多家の伝統的な秩序、すなわち家格や譜代の序列といった価値観そのものへの挑戦と映った。彼は、父から受け継いだ家老職という高い地位と、自らが戦場で立てた数々の武功に裏打ちされた強い自負心を持っていた。その彼が、新興の官僚にその座を奪われたことは、到底容認できるものではなかった。この一件こそが、後に「宇喜多騒動」として爆発する、譜代家臣団と新興側近グループとの間の深刻な対立の、直接的な火種となったのである。
慶長5年(1600年)に宇喜多家を崩壊寸前にまで追い込んだ「宇喜多騒動」は、戸川達安の生涯における最大の転換点である。この騒動は、単なる家臣同士の勢力争いに留まらず、政治体制、経済的利害、そして宗教的信念が複雑に絡み合った、根深い対立の爆発であった。達安はこの騒動の中心人物として、最終的に主家との決別という重大な決断を下すことになる。
宇喜多騒動の根底には、家臣団の二極化があった。一方は、戸川達安を筆頭に、宇喜多一門の宇喜多詮家(後の坂崎直盛)、岡越前守、花房正成といった、宇喜多直家の代から仕える譜代の重臣たちで構成される「武将派」あるいは「譜代派」である 14 。彼らは戦場での武功を重んじ、家中の伝統的な秩序を尊重する価値観を持っていた。
これに対し、もう一方の極には、主君・秀家の寵愛を背景に台頭した長船紀伊守綱直や、彼の死後に中心人物となる中村次郎兵衛、浮田太郎左衛門ら「官僚派」あるいは「新興派」がいた 14 。彼らは行政手腕や経済観念に長け、秀家が進める中央集権的な領国経営の実務を担った。
両派の対立を決定的にしたのが、文禄3年(1594年)から行われた領内の総検地(文禄検地)であった 14 。『備前軍記』によれば、この検地は秀家の奢侈な生活費を捻出するためであったとも言われ、その結果、多くの譜代家臣や寺社の所領が削減された 14 。これは譜代派の既得権益を著しく侵害するものであり、彼らの間に深刻な不満と反発を鬱積させる原因となった。
さらに、この対立構造に油を注いだのが、外部からもたらされた要因であった。官僚派の中心人物である中村次郎兵衛は、秀家の正室・豪姫が前田家から輿入れした際に付き人として宇喜多家に入った人物であった 11 。彼は経理や築城の才に長け、秀家の絶大な信任を得て大坂屋敷の家老として権勢を振るったが 1 、達安ら譜代家臣から見れば、彼は家中の序列を無視して成り上がった「よそ者」に他ならなかった。譜代派にとって、中村が家政を牛耳る状況は、宇喜多家の伝統と秩序が外部の人間によって破壊されていく象徴と映ったのである。
政治的・経済的な対立に加え、騒動をより深刻で妥協の余地なきものにしたのが、宗教的な対立であった。戸川達安、岡越前守、花房正成ら武将派の重臣の多くは、熱心な日蓮宗の信徒であった 13 。一方で、彼らと対立する官僚派の中心人物、長船綱直や中村次郎兵衛らはキリシタンであったことが知られている 11 。
この信仰の対立は、主君・秀家自身の動向によってさらに煽られた。秀家は正室・豪姫の影響もあってかキリスト教に関心を示し、一時は家臣に改宗を迫るなど、日蓮宗を弾圧するような姿勢を見せた 1 。これにより、家中は信仰によっても明確に二分されることとなった。
この宗教対立は、単なる神学上の論争ではなく、実質的には政治闘争の代理戦争であった。対立する両派閥は、それぞれの信仰を自らの正当性を主張し、敵対勢力を道徳的に非難するための旗印として利用した。達安ら譜代派にとって、日蓮宗の信仰を守ることは、外来の思想(キリスト教)と外部の人間(中村次郎兵衛ら)から、自分たちが仕える宇喜多家の伝統と家そのものを守るための戦いと同義であった。秀家がキリスト教に好意的な態度は、彼らにとって主君の個人的な信仰の選択というよりも、譜代家臣を軽んじ、家の根幹を揺るがす背信行為そのものと見なされた。こうして、権力闘争は一種の「聖戦」の様相を呈し、もはや話し合いによる妥協は不可能となり、最終的な武力衝突へと突き進んでいったのである。
対立の火種は燻り続けていたが、慶長4年(1599年)に官僚派の領袖であった長船紀伊守が病死(一説には達安らによる毒殺とも伝わる 14 )すると、事態は一気に動き出す。長船の後継者として家政を掌握した中村次郎兵衛に対する譜代派の反感は頂点に達し、ついに彼らは実力行使に打って出た。
慶長5年(1600年)正月、武将派は中村派に与する用人を殺害するという凶行に及ぶ 14 。そして戸川達安、宇喜多詮家らは大坂の宇喜多屋敷へ乗り込み、主君・秀家に対して中村次郎兵衛の断罪を強硬に訴えた。しかし、秀家はこの直訴に激怒し、要求を退けるばかりか、逆に首謀者である達安の暗殺を計画するに至った 14 。主君に命を狙われたことを知った達安は、もはや後には引けなかった。彼は岡越前守、花房正成ら同志と共に大坂玉造にあった自らの屋敷に立てこもり、その数は250名以上にも及んだという 14 。これは、家臣が主君に対して公然と反旗を翻すという、前代未聞の事態であった。
一触即発の事態を収拾すべく、豊臣政権の重鎮である大谷吉継や、徳川家康の家臣・榊原康政らが仲介に乗り出したが、両派の溝は深く、調停は難航した 14 。最終的に、この問題は五大老筆頭の実力者であった徳川家康の裁定に委ねられることとなる。
家康の裁定の結果、達安とその子、そして花房正成は宇喜多家を離れ、それぞれ常陸の佐竹氏、大和の増田長盛らの預かりとなる蟄居処分が下された 14 。事実上の追放である。こうして達安は、父の代から仕えた宇喜多家を去ることになった 1 。この騒動により、宇喜多家は関ヶ原の戦いを目前にして、達安をはじめとする歴戦の譜代重臣の多くを一挙に失い、その軍事力と政治力は著しく弱体化した 17 。
達安の真意を窺い知る上で、極めて重要な史料が存在する。関ヶ原の開戦が目前に迫った慶長5年8月、達安が宇喜多家に留まっていた旧友の明石全登(守重)に宛てた書状である。その中で達安は、「自分としては宇喜多家の滅亡につながるような事態は望まない」と釈明しつつも、 「秀家御仕置にてハ国家不相立」(秀公の御政治では、国家は立ち行きません) と、秀家の統治能力を厳しく、そして明確に批判している 1 。この一文は、彼の離反が単なる私憤や権力欲によるものではなく、譜代の家老として主家の将来を憂うという大義名分(そして自己正当化の論理)に基づいていたことを示す、第一級の証拠と言えるだろう。
時期 |
主要な出来事 |
武将派(戸川達安ら)の動向 |
官僚派(長船・中村ら)の動向 |
調停者・外部の動き |
結果 |
文禄3年 (1594) |
執政交代・文禄検地 |
戸川達安が国政から解任される。検地により所領を削減され不満を募らせる 1 。 |
長船綱直が執政に就任。中村次郎兵衛らと共に急進的な改革を主導 14 。 |
豊臣秀吉が長船を評価。前田家から中村次郎兵衛が豪姫の付き人として入る 11 。 |
譜代派と官僚派の対立構造が明確化する。 |
慶長4年 (1599) |
長船紀伊守の死去 |
中村次郎兵衛への反発が頂点に達する 14 。 |
執政・長船綱直が病死(毒殺説あり)。中村次郎兵衛が後継として権力を握る 14 。 |
- |
対立が次なる段階へ進む。 |
慶長5年1月 (1600) |
武力衝突・大坂屋敷立てこもり |
中村派の用人を殺害。秀家に中村の断罪を直訴するも、逆に命を狙われ、大坂の屋敷に立てこもる 14 。 |
秀家は達安らの訴えを退け、その謀殺を計画する 19 。 |
- |
主君と家臣の対立が武力衝突に発展。 |
慶長5年 (1600) |
家康による調停 |
家康の裁定を受け入れ、宇喜多家を退去。家康の預かりとなる 1 。 |
中村次郎兵衛は前田家に送り返される 11 。 |
大谷吉継・榊原康政の仲介が失敗。徳川家康が最終的な裁定を下す 20 。 |
達安ら譜代重臣が宇喜多家を離脱。宇喜多家の軍事力が大幅に弱体化する 17 。 |
慶長5年8月 (1600) |
達安の書状 |
明石全登に書状を送り、秀家の政治を「国家不相立」と批判。自らの行動を正当化する 1 。 |
明石全登が家宰として残務処理にあたる 25 。 |
- |
達安の離反の動機が明確になる。 |
宇喜多家を去った戸川達安の人生は、ここで終わらなかった。むしろ、彼の生涯における第二幕は、徳川家康という新たな主君の下で幕を開ける。関ヶ原の戦いという天下分け目の大戦で戦功を挙げ、大名へと再生を遂げた達安は、戦国武将から近世大名へと、時代の変化を見事に乗りこなしていった。
宇喜多家を離れ、徳川家康の庇護下に入った達安にとって、関ヶ原の戦いは自らの存在価値を証明する絶好の機会であった 1 。かつての主君・宇喜多秀家が西軍の主力大名として参戦する中、その元家臣である達安が敵対する東軍に加わるという状況は、極めて劇的であった。
彼はその忠誠心をいち早く行動で示した。関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦、木曽川・合渡川の戦いにおいて、達安は「一番槍」の功を立てたとされる 1 。これは、家康に対して自らの武勇と忠勤をアピールするための、意図的な武功であった可能性が高い。宇喜多家から正式な軍役を命じられていない浪々の身であったため、この戦いには東軍の将・加藤嘉明の陣を借りて参戦したという逸話も伝わっており 1 、彼の当時の不安定な立場を象徴している。
戸川家には、この関ヶ原での達安の武功を象徴する、一つの重要な伝承が残されている。それは、西軍最強の猛将と謳われた石田三成の重臣・島左近(清興)を、達安が討ち取ったというものである 1 。この伝承を裏付けるかのように、達安がその際に持ち帰ったとされる左近の兜、あるいはその兜の紐が、子孫の手によって徳川家康を祀る久能山東照宮に納められ、現存している 1 。
もちろん、島左近の最期については黒田長政の部隊による銃撃で戦死したとする説など異説も根強く 13 、『常山紀談』といった後世の編纂物に見られるこの伝承を、そのまま史実と断定することはできない。しかし、重要なのは、この「島左近討ち取り」の物語が戸川家において家の誇りとして大切に語り継がれたという事実である。これは、徳川家への揺るぎない忠誠と、その功績によって大名となった家の正当性を象徴する、一種の「創業者神話」として機能したことは間違いないだろう。
関ヶ原での目覚ましい戦功により、戸川達安の再生は現実のものとなる。戦後、徳川家康は達安の働きを高く評価し、備中国の都宇郡・賀陽郡内に2万9200石の所領を与えた 1 。これにより、備中庭瀬藩が立藩し、達安はその初代藩主として大名の列に加わったのである。
慶長7年(1602年)、達安は領地である庭瀬に入府した 29 。彼は、古くからこの地に存在した撫川城を取り込む形で、旧庭瀬城の二の丸跡に新たに陣屋を構えた 7 。この一帯は低湿な沼沢地であり、陣屋の建設は難工事であったと伝えられている 7 。彼はこの新しい拠点を中心に城下町の整備を進め、藩政の基礎を築いていった。
達安が行った初期藩政の具体的な内容を伝える史料は乏しいものの 34 、彼の治世下で庭瀬が交通の要衝として発展の礎を築いたことは確かである。特に、領内を流れる庭瀬川を利用した水運の拠点である庭瀬湊を整備し 36 、また周辺地域の新田開発を奨励する 37 など、領国の経済基盤の確立に努めたと考えられる。陸路である鴨方往来(庭瀬往来)と、水運の結節点という地理的優位性を活かした彼の町づくりにより、庭瀬の城下は商工業者が集まる賑わいを見せるようになった 36 。
大名となった後も、達安の徳川家への忠勤は続いた。慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣・夏の陣にも、彼は徳川方として参陣し、戦功を挙げている 1 。かつての主家である豊臣家を滅ぼすこの戦いに加わったことは、彼が旧豊臣恩顧の大名という立場から完全に脱却し、徳川の譜代家臣同様の信頼を勝ち得ていく上で決定的な意味を持った。
その信頼の厚さは、元和5年(1619年)の出来事にも表れている。この年、広島藩主・福島正則が幕府の命に背いたとして改易されると、達安は幕府の上使(奉行)として安藤重信、永井直勝と共に広島城へ派遣され、城の明け渡しと事後処理という極めて重要な任務を担った 1 。幕府権力の執行を代行するこの役目は、彼がもはや単なる外様の寝返り組ではなく、幕府中枢から信頼される重臣の一人と見なされていたことを明確に示している。
そして晩年、達安は江戸城の「御伽衆」に加えられるという栄誉を得た 1 。これは、将軍の側近くに仕え、自らの豊富な戦陣での体験談を、平和な時代に生まれた若い旗本たちに語り聞かせるという、名誉ある長老の役職であった。宇喜多家を離反した当初、他家の陣を借りて戦わねばならなかった不安定な立場から、幕府の若手を教育する「生きた歴史の証人」へ。戸川達安は、戦国武将から徳川幕府の秩序に完全に同化した重臣へと、見事なまでにその立場を転換させることに成功したのである。
戸川達安の生涯を貫く行動原理や人物としての魅力を探るには、彼の武人としての側面と、篤信家としての側面の両方から光を当てる必要がある。史料に残された彼の姿は、剛勇無双の猛将であると同時に、自らの信仰に殉じようとする強固な信念の持ち主でもあった。この二つの顔が、彼の複雑で深みのある人間性を形作っている。
達安の風貌を伝える記述として、『戸川家記』の一節が引用されることが多い。そこには**「人体長高、太く逞しく、力量衆に超え...年老いては偏に仁王の如し」**と記されており 1 、長身でがっしりとした、威圧感のある堂々たる体躯の持ち主であったことが窺える。その姿は、まさに寺社の門に立つ金剛力士像(仁王像)を彷彿とさせるものであったのだろう。
その外見に違わず、彼の武人としての能力は極めて高かった。13歳での初陣から始まり、数多の合戦を潜り抜けてきた戦歴は、彼の武勇を何よりも雄弁に物語る。しかし、彼は単なる猪武者ではなく、宇喜多軍の主力を率いて数々の戦いを勝利に導いたことから、大軍を指揮する知略も兼ね備えていたと考えられる 1 。彼が所持していたと伝わる短刀「戸川志津」(徳川美術館蔵) 1 など、優れた武具を愛用したとされる点も、彼の武人としての矜持と美意識を物語っている。
戸川達安の人物像を語る上で、その強固な信仰心は決して欠かすことのできない要素である。彼の信仰は、宇喜多騒動の大きな原因となるほどに篤く、その後の彼の人生にも大きな影響を与え続けた。
領主となった備中庭瀬では、その信仰心を領国経営にも反映させた。彼は、自らの法名である「不変院」を冠した日蓮宗の寺院、廣栄山不変院を建立し、これを戸川家の菩提寺とした 29 。さらに不変院を領内の十数ヶ寺を統括する「座首」の寺格とし 38 、宗教的な権威を通じて領内を統制しようとした意図も見て取れる。彼の強い信仰心と庇護により、備中南部地域には日蓮宗が広く根付くこととなり、一人の領主の信仰が地域の文化形成に直接的に寄与した顕著な例となった 13 。
彼の菩提寺は備中だけに留まらない。江戸においても、池上本門寺の近くにあった自らの下屋敷を寄進して、不変山永寿院を建立している 39 。この永寿院には、現在も達安夫妻の墓所が残されている 39 。このほか、備中妹尾の盛隆寺にも達安の墓所があると伝わる 29 。備中と江戸という二つの拠点に菩提寺を建立し、複数の墓所を持つことは、彼の活動範囲の広さを示すと同時に、自らの生きた証を各地に永く残そうとした、強い意志の表れと解釈することもできるだろう。
戸川達安の宇喜多家からの離反は、一見すると主君への「裏切り」と映る。しかし、その行動を当時の価値観に照らして見ると、より複雑な様相が浮かび上がる。彼が明石全登に宛てた書状で主君・秀家の政治を「国家不相立」と断じたように 2 、彼の行動は譜代の家老として主家の将来を憂い、誤った道を歩む主君を正そうとするという、戦国武将特有の「主家への忠義」観に基づいていた。主君個人への盲目的な服従ではなく、家そのものの存続と繁栄を第一に考えるこの価値観は、近世的な主君への絶対服従とは一線を画すものであった。
一方で、一度徳川家康に仕えると決めてからは、関ヶ原、大坂の陣、そして幕府の要職に至るまで、一貫して揺るぎない忠勤に励んだ。この姿は、自らが仕えるべき主君を選ぶ自由があった戦国の価値観から、一度選んだ主君には絶対的に仕えるという近世武士の価値観へ、彼自身が時代の変化に適応し、移行していった過程を如実に示している。達安の生涯は、忠義と信念の狭間で葛藤しながらも、自らの道を切り拓いていった、一人の武将の力強い生き様そのものであった。
戸川達安の生涯は、彼一代の成功に終わらなかった。彼は自らの死後も一族が繁栄するための確固たる礎を築き、その血脈と家名は、彼が創始した大名家と複数の旗本家によって幕末まで受け継がれていく。彼の遺したものは、領地や家屋敷だけでなく、一族の存続という無形の財産であった。
寛永4年12月25日(西暦1628年)、戸川達安は62年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。家督は、廃嫡された長男・平助に代わり、次男の正安が継承した 1 。
達安が後世に与えた影響を考える上で最も重要なのが、その遺言による所領の分与である。彼は、庭瀬藩2万9200石の所領を長子に全て相続させるのではなく、三男の安尤に備中早島の地を中心とする3400石を、四男(五男との説もある)の安利に備中帯江の地を中心とする3300石を分与した 1 。これが、将軍直参の家臣である旗本・早島戸川家と帯江戸川家の始まりとなる。
この分与は達安の代だけに留まらなかった。跡を継いだ2代藩主・正安も、弟の安成に備中妹尾の地を中心とする1500石を分与し、旗本・妹尾戸川家が成立した 8 。これにより、戸川一族は庭瀬藩本家を核としながら、備中南部の要所に広範な知行地を持つ、強力な旗本ネットワークを形成するに至ったのである。
しかし、この分知は諸刃の剣でもあった。所領の分割を繰り返した結果、庭瀬藩本家の石高は減少し、4代藩主・安風の代には2万石となっていた 28 。そして延宝7年(1679年)、安風がわずか9歳で嗣子なく早世したため、大名家としての庭瀬戸川家は、無嗣を理由に幕府から改易を命じられ、断絶してしまった 12 。
一見すると、これは達安の政策の失敗のように見える。しかし、物語はここで終わらない。本家が断絶した際、幕府は安風の弟で、旗本となっていた戸川達富に対し、5000石への加増の上で戸川家の名跡を継ぐことを許可したのである 7 。これにより、戸川家の本流は「交代寄合」という高い格式を持つ旗本として存続することができた。
ここに、達安の深謀遠慮が見て取れる。徳川初期の社会では、大名の改易は頻繁に起こり、特に跡継ぎに関する規定は厳格であった。新興大名であった達安は、一つの大名家として存続することの危うさを熟知していたはずである。彼が複数の旗本分家を創設したことは、一族の血筋を、大名よりも改易のリスクが低い幕府の直轄家臣団という、より安定した身分に組み込むことであった。これは、全ての卵を一つの籠に盛らない「リスク分散」戦略に他ならない。本家が万一改易されても、分家が存続していれば戸川の家名は安泰である。実際に本家が断絶した際に、分家の一つが名跡を継ぐことを許されたという事実は、この戦略が完全に成功したことを証明している。戸川達安の真の成功は、庭瀬藩という一代限りの大名家を創設したこと以上に、徳川の世で永く生き残る「戸川一族」という強固なネットワークを築き上げた点にあると言えるだろう。
戸川達安の生きた証は、今なお各地に点在する文化財や史跡を通じて偲ぶことができる。
子の氏名 |
続柄 |
創始した家・継承した家 |
石高 |
主な拠点(陣屋) |
特記事項 |
戸川正安 |
次男 |
庭瀬藩 2代藩主 |
2万2500石(分知後) |
備中 庭瀬 |
達安の跡を継ぎ藩主となる。弟・安成に分知 1 。 |
戸川安尤 |
三男(四男説あり) |
旗本・早島戸川家 |
3400石 |
備中 早島 |
達安の遺言により分家。幕末まで存続 8 。 |
戸川安利 |
四男(五男説あり) |
旗本・帯江戸川家 |
3300石 |
備中 帯江 |
達安の遺言により分家。幕末まで存続 2 。 |
戸川安成 |
(正安の弟) |
旗本・妹尾戸川家 |
1500石 |
備中 妹尾 |
2代藩主・正安からの分知により成立。幕末まで存続 8 。 |
戸川達富 |
(安風の弟) |
交代寄合・撫川戸川家 |
5000石 |
備中 撫川 |
庭瀬藩本家断絶後、名跡を継承。戸川家の本流となる 12 。 |
戸川達安の生涯は、戦国大名・宇喜多氏の内部崩壊と、徳川幕藩体制の確立という、二つの巨大な歴史のうねりが交差する、まさにその結節点に位置する。彼が中心人物となった宇喜多騒動は、大大名であった宇喜多家の衰退を決定づけ、結果として関ヶ原における東軍の勝利、ひいては徳川の天下統一に間接的に貢献した。
彼の生き方は、時代の転換期における武士の一つの典型的な成功モデルを示している。彼は、主家との対立という絶体絶命の危機に際して、自らの譜代家臣としての矜持と日蓮宗の信仰という信念を貫き通した。そして、その信念に基づいた行動が、結果的に徳川家康という新たな時代の覇者の目に留まり、大名としての再生と家名の再興という、望外の結果をもたらした。
しかし、彼を単なる裏切り者や、幸運に恵まれただけの成り上がり者と評価するのは、あまりに表層的であろう。彼は、自らの武勇と知略、そして強固な信念を羅針盤として、激動の時代を乗りこなし、一族の存続と未来への繁栄という、最も重要な責務を果たした。その姿は、記録に残る「仁王の如し」という言葉通り、したたかで強靭な精神力を持った武将そのものであった。戸川達安は、古い秩序が崩れ、新しい価値観が生まれる時代の狭間で、自らの力で運命を切り拓き、次代に確かな礎を遺した、記憶されるべき人物である。