最終更新日 2025-07-02

戸沢政房

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戦国末期の驍将、戸沢政房の生涯と系譜 ―南部一族から新庄藩主の外祖父へ―

序章:乱世を駆け抜けた一人の武将

戦国時代の終焉から江戸幕藩体制の確立に至る激動の時代は、数多の武将たちの運命を翻弄した。その中で、出羽国(現在の秋田県・山形県)の戸沢氏に仕えた一人の家臣、戸沢政房(とざわ まさふさ)の生涯は、特筆すべき軌跡を描いている。彼の物語は、単なる一地方武将の立身出世伝に留まらない。それは、戦国的な実力主義と、近世へと向かう「家」の存続という二つの価値観が交錯する時代において、個人の武勇と才覚、そして時流を読む的確な判断がいかにして一族を繁栄に導いたかを示す、類稀なる実例である。

政房は、奥羽の雄、南部氏の一族に生を受けながら、隣国の戸沢氏に仕えるという異色の経歴からその人生を歩み始めた。やがて、豊臣秀吉による天下統一の総仕上げとなった「九戸政実の乱」において、その武功が中央政権の最高実力者の一人である関白・豊臣秀次の目に留まり、陪臣(家臣の家臣)から直臣へと抜擢されるという、破格の栄誉を手にする。しかし、秀次事件による主家の失脚、そして大坂の陣での豊臣家滅亡という政変の荒波に揉まれ、彼は再び旧主である戸沢家へと身を寄せることとなる。

一見すれば「都落ち」とも映るこの帰参こそが、彼の生涯における最も重要な戦略的決断であった。中央で得た知見と名声を武器に、新興大名である戸沢家の中で絶対的な地位を確立した政房は、その血脈を巧みな婚姻政策によって藩の中枢に深く食い込ませ、ついには孫の代に藩主の座を掴み取るという、驚くべき結末を迎える。

本報告書は、この戸沢政房という一人の武将の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査・分析するものである。彼の出自の謎から、九戸の乱での活躍、豊臣政権下での流転、そして新庄藩における地位確立と子孫の繁栄に至るまでを、九戸政実の乱、豊臣政権の構造、新庄藩の成立過程といったより大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その実像と後世への影響を詳細に解明することを目的とする。彼の生涯は、時代の転換期を生きた人間の、見事なまでの生存戦略の記録に他ならない。

第一章:出自の謎 ―南部一族としての政房

戸沢政房の生涯を理解する上で、その出自は極めて重要な意味を持つ。彼は戸沢家の重臣として名を残したが、その血筋は戸沢氏の長年の競合相手であった南部氏に繋がる。この複雑な出自こそが、彼の人生の出発点であり、後のキャリア形成に大きな影響を与えた。

1-1. 基本情報と複数の名

戸沢政房は、永禄3年(1560年)に生まれ、寛永10年7月8日(西暦1633年8月12日)に74歳でその生涯を閉じた 1 。彼の生涯は、織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破った年に始まり、徳川家光による三代将軍体制が盤石となった時代に終わる、まさに戦国乱世の終焉と江戸時代の確立期を完全に内包している。

彼の名は、その生涯の各段階で変化しており、所属と立場を象徴している。初名は「南部五郎」であり、これは彼が南部一族の一員であったことを明確に示している 1 。その後、戸沢氏に仕える過程、あるいはその前段階で「杉山勘左衛門清康(すぎやま かんざえもん きよやす)」と称した時期があった 1 。そして最終的に、戸沢政盛に仕える際に「戸沢政房」の名と「伊豆守」の官途名を与えられ、その名が後世に伝わることとなる 1 。この名前の変遷は、彼のアイデンティティが「南部」から「杉山」を経て、最終的に「戸沢」へと帰属していく過程を物語る、重要な指標である。

1-2. 南部政康の子孫という系譜

政房の出自をさらに深く探ると、驚くべき事実に突き当たる。彼が仕えた新庄藩の公式記録である『戸沢藩系図書』に収められた「戸沢勘兵衛家系図」には、政房が「南部政康の子孫」であると明確に記されているのである 1

南部政康は、三戸南部氏の第22代当主とされる南部安信の父であり、南部氏の宗家において極めて重要な位置を占める人物である 3 。この記述を信じるならば、政房は単なる南部氏の傍流ではなく、宗家にごく近い、非常に高貴な血筋の生まれであったことになる。

この事実は、一つの大きな疑問を提示する。なぜ、それほど高貴な出自の人物が、南部宗家やその有力な分家(八戸氏、九戸氏など)に仕えず、長年にわたり南部氏と競合し、時には従属関係にすらあった隣国の戸沢氏に仕官したのか。この不可解な選択の背景には、当時の南部氏が抱えていた深刻な内部事情があったと推測される。天正年間、南部氏内部では宗家の家督を巡り、当主・南部晴政と、その養嗣子となった南部信直(後の宗家当主)との間に対立が生じていた。さらに、九戸政実をはじめとする有力な一門は半ば独立した勢力を保ち、宗家の統制が完全には及んでいなかった 4 。このような一族内の複雑な権力闘争と派閥対立の中で、政房のような有能な人材ですら活躍の機会を見出せず、自らの才覚を存分に発揮できる場を求めて、あえて敵対関係にあった戸沢氏へと走った可能性が考えられる。彼の戸沢家への仕官は、単なる個人的な決断に留まらず、戦国末期の奥羽地方における激しい人材流動と、国人領主たちの複雑な関係性を象徴する出来事であったと言えよう。

1-3. 南部氏と戸沢氏の関係性

政房が戸沢氏に仕えたことの特異性を理解するためには、両家の歴史的関係を把握しておく必要がある。戸沢氏は、家伝によれば元々、陸奥国岩手郡滴石(現在の岩手県雫石町)を本拠としていたが、鎌倉時代に南部氏の勢力拡大によって圧迫され、出羽国角館(現在の秋田県仙北市)へと拠点を移したとされる 7 。15世紀には、出羽に進出してきた南部氏の支配下に入り、その従属大名となっていた時期もあった 9

戦国時代末期には、戸沢盛安のような傑出した当主の登場により、小野寺氏や安東氏といった周辺勢力と渡り合い、独立した戦国大名として勢力を拡大していた 9 。しかし、その背後には常に強大な南部氏の存在があり、両家の間には潜在的な緊張関係が続いていた。

このような歴史的背景を持つ両家の関係を鑑みれば、南部宗家に連なる血筋の政房が戸沢氏に仕えることは、現代の感覚で言えば、競合する大企業の幹部候補生が、ライバル企業にヘッドハンティングされるようなものであった。戸沢氏にとって政房は、単に武勇に優れた武将であるだけでなく、宿敵・南部氏の内部事情に精通した貴重な情報源であり、外交交渉における切り札ともなりうる、計り知れない価値を持つ人材だったのである。

第二章:武名の轟き ―九戸政実の乱と豊臣秀次による抜擢

戸沢政房の名が歴史の表舞台に初めて大きく刻まれるのは、天正19年(1591年)に勃発した「九戸政実の乱」においてである。この戦いは、彼の武将としての評価を決定づけ、その後の運命を大きく変える転機となった。

2-1. 「九戸政実の乱」の歴史的意義

九戸政実の乱は、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、全国の大名に「奥州仕置」と呼ばれる領土の再編を命じたことに端を発する 5 。秀吉は、南部氏の長年の家督争いにおいて、南部信直を正式な当主として公認し、広大な所領を安堵した。これにより、信直と宗家の座を争っていた九戸政実をはじめとする他の有力な一門は、信直の家臣として位置づけられることになった 5

この決定に不満を抱いた九戸政実は、南部一族の中でも屈指の勢力を誇る実力者であり、かねてより信直と激しく対立していた 6 。彼は豊臣政権の裁定を不服として、天正19年3月に蜂起。信直方の城を次々と攻略し、南部領内は内乱状態に陥った 5 。この反乱は、秀吉の天下統一事業に対する、最後の組織的な大規模武力抵抗であり、豊臣政権にとって、その権威を天下に示すための重要な試金石であった 5

2-2. 政房の奮戦と中央への飛躍

自力での鎮圧が困難と判断した南部信直は、秀吉に援軍を要請。これを受け、秀吉は関白であった甥の豊臣秀次を総大将とする、大規模な「奥州再仕置軍」を派遣した 13 。この鎮圧軍には、徳川家康、蒲生氏郷、伊達政宗、上杉景勝、石田三成といった、当時の日本を代表する錚々たる武将たちが名を連ねており、その総勢は6万とも言われる大軍であった 5

この時、戸沢政房は主君である戸沢光盛(戸沢氏第19代当主、盛安の弟)に従い、この再仕置軍の一員として出陣した 1 。戸沢氏は、南部信直を支援する立場で参戦しており、政房は自らの出自である南部氏の一族と戦うという、皮肉な状況に身を置くことになった。

戦いの具体的な記録は乏しいものの、政房はこの戦において目覚ましい「功績を挙げた」と伝わっている 1 。彼の奮戦ぶりは、全軍を指揮していた総大将・豊臣秀次の目に直接留まることとなった。そして、戦後、政房は秀次自身によって大坂に召し出され、その直臣となるという、異例の抜擢を受けるのである 1

この抜擢の意義は計り知れない。東北の一大名の、さらにその家臣という身分に過ぎなかった政房が、天下のオールスターとも言うべき武将たちが集う大舞台で、最高権力者の一人である関白にその才能を認められたのである。これは、彼の武将としての能力が、地方レベルを遥かに超えるものであったことを証明している。

同時に、この出来事は、単なる個人的な武功への評価に留まらない、より大きな政治的文脈の中で捉える必要がある。豊臣政権は、全国の大名を統制下に置くため、地方大名の力を削ぎ、中央集権体制を強化する政策を推進していた。その具体的な手法の一つが、大名家が抱える有能な家臣(陪臣)を、豊臣家の直臣として引き抜くことであった。これにより、大名家から有能な人材を奪うと同時に、中央と地方の間に直接的なパイプを築き、支配を浸透させようとしたのである。越後上杉家の直江兼続が秀吉から直臣として誘われた例は有名だが、政房の抜擢もまた、この豊臣政権の地方支配戦略の一環であった可能性が極めて高い。彼の武勇と才能が、時代の要請と見事に合致した結果、彼の人生は奥羽の一家臣から、天下の中枢へと大きく飛躍することになったのである。

第三章:中央政権での流転 ―秀次事件から大坂の陣へ

九戸の乱での活躍により、豊臣秀次の直臣となった戸沢政房の人生は、栄光の頂点に達したかに見えた。しかし、彼が身を投じた中央政権は、栄華と危険が隣り合わせの、激しい権力闘争の舞台であった。彼のキャリアは、豊臣家内部の政変によって、再び大きく揺れ動くことになる。

3-1. 豊臣家直臣としての栄達と挫折

秀次に召し抱えられた政房は、大坂に移り、関白の家臣団の一員となった 1 。東北の田舎侍から、一躍、日本の政治・経済の中心地で、最高権力者に仕える身分となったのである。この時期、彼は中央の進んだ文化や政治の仕組み、そして大大名たちの動向を間近に見聞し、武将としての視野を大きく広げたに違いない。

しかし、その栄光は長くは続かなかった。文禄4年(1595年)、秀吉と秀次の関係が悪化し、秀次が謀反の疑いをかけられる「秀次事件」が勃発する。秀次は高野山で切腹を命じられ、その妻子や側室、そして多くの家臣たちが粛清されるという悲劇に見舞われた 14

政房がこの粛清の嵐をいかにして生き延びたのか、その具体的な経緯を記した史料は現存しない。しかし、複数の記録が、彼が秀次の死後、その遺児である豊臣秀頼に仕えたと伝えていることから 1 、彼は秀次派閥の中でも中核的な存在とは見なされなかったか、あるいは他の有力大名の庇護を受けるなど、巧みな立ち回りによって難を逃れたと推測される。いずれにせよ、主君の悲劇的な最期と家臣団の崩壊を目の当たりにしたこの経験は、彼に中央政権の非情さと、政治の機微を肌で学ばせる、痛烈な教訓となったはずである。

3-2. 豊臣家滅亡と浪人生活

秀頼の家臣となった政房は、その後も大坂にあって豊臣家に仕え続けた。しかし、慶長3年(1598年)の秀吉の死後、徳川家康が台頭し、豊臣家の権勢は急速に衰退していく。そして、慶長19年(1614年)の冬の陣、翌20年(1615年)の夏の陣という二度にわたる「大坂の陣」を経て、豊臣家は徳川家康によって滅ぼされた 1

政房が大坂の陣において、具体的にどのような役割を果たしたのか、あるいは参戦せずに戦乱を生き延びたのかは定かではない。しかし、主家である豊臣家が滅亡したことにより、彼は仕えるべき主君を失い、再び「浪人」の身となったことは確かである。九戸の乱から約25年、中央政権での栄光と挫折を経験した彼のキャリアは、ここで一度完全に白紙に戻された。

3-3. 戸沢家への帰参 ― 二つの説

主家を失った政房が次に向かった先は、かつて自らが仕えた出羽の戸沢家であった。しかし、彼が戸沢家に帰参した時期については、史料によって二つの異なる説が伝えられている 1

第一の説は、「大坂の陣において豊臣氏が滅びると、常陸松岡藩主戸沢政盛を頼った」というものである 1 。この説に立てば、政房は最後まで豊臣家への忠義を貫き、主家が完全に滅亡した後に、旧知の間柄である戸沢家を頼ったということになる。これは、彼の義理堅い武将としての一面を強く印象づける。

第二の説は、「秀次自害ののち、慶長年間中に戸沢氏に仕えたともされる」というものである 1 。慶長年間は慶長20年(1615年)まで続くため、大坂の陣よりも前の時期、例えば関ヶ原の戦い(慶長5年)後の豊臣家の先行きが不透明になった段階で、すでに見切りをつけて戸沢家に再仕官していた可能性を示唆する。この説は、政情を冷静に分析し、自らの生き残りのために最も堅実な道を選ぶ、現実的な策略家としての政房像を浮かび上がらせる。

どちらの説が真実であるかを現存の史料のみで断定することは困難である。しかし、いずれの経緯を辿ったにせよ、彼が最終的に選んだ道が、かつて自らが仕えた戸沢家であったという事実は変わらない。中央での華々しいキャリアは終わりを告げ、彼は再び奥羽に根差す一大名の家臣として、新たな人生を歩み始めることになったのである。

第四章:安住の地を求めて ―戸沢家への帰参と新庄藩での確立

豊臣家の滅亡という時代の大きなうねりの中で、戸沢政房が次なる安住の地として選んだのは、旧知の戸沢家であった。この帰参は、彼自身の人生の安定をもたらしただけでなく、勃興期にあった戸沢家にとっても、極めて大きな意味を持つ出来事となった。

4-1. 新興大名・戸沢政盛との合流

政房が頼った人物は、かつての主君・戸沢光盛の甥であり、当時、戸沢家の当主であった戸沢政盛である 18 。政盛は、父・盛安と叔父・光盛が相次いで若くして亡くなったため、文禄元年(1592年)にわずか8歳で家督を継いだという数奇な経歴の持ち主であった 9 。百姓の子として育てられていたところを、家臣団によって見出され当主に擁立されるという、劇的な家督相続を経験している 18

その後、政盛は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して功を挙げ、その結果、慶長7年(1602年)に本拠地であった出羽角館から、常陸国松岡(現在の茨城県高萩市)へ4万石で移封されていた 9 。この常陸松岡時代は、戸沢家が中世的な戦国大名から、幕藩体制下における近世大名へと脱皮するための重要な過渡期であった。『新庄市史』によれば、この時期に家臣団の再編や近世的な支配体制の基礎が築かれ、後の新庄藩政を担う人材の多くがこの時に召し抱えられたとされている 20 。政房が合流したのは、まさにこの戸沢家が新たな体制を構築しようと模索していた、極めて重要な時期だったのである。

4-2. 重臣としての破格の待遇

戸沢政盛は、浪々の身であった政房を極めて手厚く迎えた。政盛は政房に対し、知行1千石を与え、重臣として遇した 1 。さらに特筆すべきは、政盛が彼に「戸沢」の姓と「伊豆守」という官途名を許したことである 1

大名が家臣に自らの姓を与えることは、その家臣を単なる主従関係を越えた、一門に準ずる特別な存在として認めたことを意味する。これは最大の栄誉であり、政盛が政房に対して抱いていた絶大な信頼と期待の表れであった。1千石という知行も、当時の家臣団の中では最高クラスの待遇であったと考えられる。政盛がこれほどまでに政房を厚遇した理由は、単に旧知の仲であったからというだけではない。九戸の乱で見せた武勇はもとより、それ以上に、政房が豊臣政権の中枢で約20年間にわたって培ってきた経験、知識、そして中央の政情に対する知見を、政盛が高く評価したからに他ならない。戦国大名から近世大名へと脱皮し、幕府との関係を円滑に築いていかねばならない政盛にとって、政房は藩政を確立するための、まさに「切り札」とも言うべき貴重な人材だったのである 18

4-3. 新庄藩の成立と政房の役割

政房が帰参してから数年後の元和8年(1622年)、戸沢家にとって大きな転機が訪れる。出羽山形藩の最上家が幕府の命により改易されたのである。これに伴う領地の再編において、戸沢政盛は最上家の旧領であった出羽国最上郡・村山郡に2万石を加増され、合計6万石(後に検地で6万8200石となる)で新庄へ移封されることになった 20 。これにより、戸沢氏はかつて南部氏に追われた故郷・出羽国への復帰を果たし、ここに新庄藩が成立した。

政房も当然、この国替えに従い、新庄藩の家臣となった。38歳で新庄に入部した政盛の下、新庄藩は全く新しい土地で藩政の基礎をゼロから築き上げていく必要があった。城の改築、城下町の整備、家臣団の屋敷割、検地や年貢制度の確立、新田開発、鉱山開発など、その事業は多岐にわたった 24

この藩政の立ち上げという一大事業において、政房のような経験豊富な重臣が果たした役割は極めて大きかったと想像される。具体的な記録は乏しいものの、彼が中央で得た行政手腕や知見は、新庄藩の諸制度を確立する上で大いに参考にされたであろう。戸沢政房は、武将としてだけでなく、藩政を支える有能な官僚としても、新庄藩の黎明期に不可欠な存在となっていたのである。

第五章:血脈の帰結 ―藩主の外祖父として

戸沢政房が戸沢家、そして新庄藩に残した影響は、彼一代の武功や藩政における功績に留まらない。彼の真の成功は、その血脈を藩の中枢に深く根付かせ、ついには藩主の座へと繋げた点にある。これは、彼の生涯を締めくくる、最も劇的な結末であった。

5-1. 戸沢勘兵衛家の繁栄

政房の死後、その家督は息子の戸沢清房(きよふさ)が継いだ。清房もまた父に劣らぬ有能な人物であったと見え、新庄藩の家老として重用された。そして、その知行は父の1千石から1千700石へと加増されている 1 。これは、新庄藩の家臣団の中でも最高クラスの石高であり、政房の家系が藩内でいかに重要な地位を占めるようになったかを示している。

この政房・清房親子が興した家は、代々「戸沢勘兵衛(とざわ かんべえ)」を通称とし、幕末に至るまで新庄藩の家老職を世襲する名門として存続した 1 。南部氏の一族から身を起こした政房の家は、わずか二代で、新庄藩における譜代の筆頭重臣家としての地位を不動のものとしたのである。

5-2. 婚姻政策による権力基盤の強化

戸沢勘兵衛家の地位をさらに盤石なものにしたのが、巧みな婚姻政策であった。清房は、自らの長女を、同じく藩の重臣であった楢岡友清(ならおか ともきよ)に嫁がせたのである 1

楢岡氏は、戸沢氏がまだ角館を本拠としていた時代からの譜代の家臣であり、藩内でも屈指の名家であった 26 。この婚姻は、単なる家臣同士の縁組ではない。それは、実力で成り上がった新興の重臣筆頭である戸沢勘兵衛家と、家柄と伝統を誇る譜代の名門である楢岡家という、藩内の二大勢力が手を結んだことを意味する。この強力な派閥の形成は、藩内における両家の発言力を飛躍的に高めるための、極めて戦略的な政略結婚であった。そしてこの連合は、後に藩主家を揺るがす後継者問題において、決定的な役割を果たすことになる。

5-3. 孫の藩主就任 ― 類稀なる血脈の帰結

新庄藩の二代藩主・戸沢正誠(まさのぶ)は、長年にわたり藩を治めたが、世継ぎとなる男子に恵まれなかった 27 。そのため、藩の将来を安泰にするべく、養子を迎えて家督を継がせる必要に迫られた。

ここで、先に述べた戸沢勘兵衛家と楢岡家の連合が、その真価を発揮する。数多いる候補者の中から、正誠の養嗣子として最終的に選ばれたのは、楢岡友清と、戸沢清房の娘(すなわち政房の孫娘)との間に生まれた四男であった 1 。この少年こそ、後の新庄藩三代藩主・戸沢正庸(まさつね)である。

これにより、南部氏の一族に生まれ、戸沢氏の一家臣として生涯を終えた戸沢政房の血は、その孫の娘の子(続柄としては曾孫にあたる)の代にして、大名家の当主へと繋がるという、驚くべき結実を見た。武士の家系と血統が厳格に重んじられた江戸時代の身分社会において、これは極めて異例の出来事であった。政房一代の武功と才覚、息子・清房の藩政における実績、そして未来を見据えた巧みな婚姻政策という、三世代にわたる努力と戦略が、この類稀なる「下剋上」を成し遂げたのである。

以下の図は、戸沢政房の家系と新庄藩主家との複雑な血縁関係を視覚的に整理したものである。

世代

南部・戸沢勘兵衛家

姻戚関係

戸沢藩主家

祖先

南部政康

第一世代

(子孫) 戸沢政房 (南部五郎)

戸沢盛安(戸沢氏20代)

主君

戸沢光盛(19代、政房の主君)

第二世代

戸沢政盛(初代藩主、光盛の甥)

子:戸沢清房(家老)

戸沢正誠(二代藩主、正庸の養父)

第三世代

→ 楢岡友清(家老)に嫁ぐ

第四世代

子: 戸沢正庸

→ 戸沢正誠の養子となる

(後の三代藩主)

この図は、政房の血が、娘を通じて譜代の重臣である楢岡家を経由し、最終的に養子縁組という形で戸沢藩主家に入ったという、数奇な運命の軌跡を明確に示している。

結論:戸沢政房が残した遺産

戸沢政房の生涯は、戦国乱世の終焉と近世武家社会の幕開けという、日本史の大きな転換点を駆け抜けた一人の武将の、見事な成功物語である。彼の人生は、南部一族という高貴な出自に始まり、九戸政実の乱という歴史的事件における武功によって中央へと飛躍し、豊臣政権の中枢での経験によってその才覚を磨き、最終的には新庄藩という新たな共同体の礎を築く一助となった。

しかし、彼の最大の遺産は、戦場での武功や藩政における個人の功績に留まるものではない。それは、激動の時代を生き抜くための的確な判断力と、一族の永続的な繁栄を確立するための巧みな生存戦略、とりわけ婚姻政策を通じて、自らの血脈を藩主の座にまで導いたことにある。彼の物語は、個人の能力がいかに重要であったかを示すと同時に、その能力を「家」の存続と繁栄という、より大きな目標へと結実させていく近世的な価値観への移行を体現している。

南部の一族として生まれ、戸沢の家臣として死んだ男の生涯は、最終的にその血を引く者が戸沢家の当主となることで、数奇な円環を閉じる。戸沢政房の物語は、単なる一武将の伝記を超え、個人の能力と家の戦略が交差し、新たな秩序が形成されていく日本近世初期の社会の力学を、今に雄弁に物語る貴重な歴史的証言なのである。

引用文献

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  17. 夜叉九郎な俺(不定期更新) - 第1話 戸沢盛安 https://ncode.syosetu.com/n2844bi/2/
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