戸沢秀盛は戸沢氏15代当主。仙北地方の覇権を巡り安東・小野寺氏と戦い、本拠を角館に移した。死後、弟の反乱が起きるも、外戚の楢岡氏の尽力で嫡男が家督を継ぎ、戸沢氏発展の礎を築いた。
日本の戦国時代史を語る上で、後に出羽新庄藩主として近世大名の列に加わる戸沢氏の存在は、東北地方の動向を理解する上で欠かすことができない。しかし、その歴史は「夜叉九郎」の異名で恐れられた戸沢盛安や、新庄藩の初代藩主となった戸沢政盛といった、個性の強い子孫たちの活躍に光が当てられがちである。その陰で、彼らの祖父にあたる第15代当主・戸沢秀盛(とざわ ひでもり)の生涯と治績は、これまで十分に語られてきたとは言い難い。
本報告書は、この戸沢秀盛という武将の実像に、多角的な視点から迫ることを目的とする。秀盛の時代は、戸沢氏が仙北地方の一国人から戦国大名へと脱皮を遂げるための「基礎固め」の時期であったと同時に、一族存亡の危機に瀕した「内憂外患」の時代でもあった。彼の治世を丹念に追うことは、戸沢氏の飛躍の要因と、戦国初期の出羽国における在地領主たちの熾烈な生存競争の実態を解き明かす鍵となる。
なお、依頼者が事前に提示された情報、特に「11代当主・家盛の頃に、居城を門屋城から角館城に移した」という点については、近年の研究で再検討が進んでいる 1 。『戸沢氏系図』や神宮寺八幡宮の棟札といった史料から、この本拠地移転は秀盛の治世に行われたとする説が有力視されているのである 2 。本報告書では、こうした最新の研究成果を踏まえ、伝承と史実を比較検討しながら、戸沢秀盛という人物が歴史上果たした真の役割を徹底的に解明していく。彼の生涯は、まさに出羽戸沢氏の歴史における、見過ごすことのできない重要な転換点であった。
戸沢秀盛の生涯を理解するためには、まず彼が率いた戸沢一族の出自と、その勢力基盤がいかにして築かれたかを知る必要がある。戸沢氏の歴史は、陸奥国からの戦略的な移転と、出羽国仙北郡における着実な拠点構築から始まった。
戸沢氏が後世に残した家伝や系譜によれば、その祖は桓武平氏の流れを汲み、承平天慶の乱で平将門を討伐した鎮守府将軍・平貞盛の後裔とされている 1 。具体的には、平安時代末期、大和国三輪を本拠とした平忠正の子・維盛の子である平衡盛(たいらのひらもり)が、木曽義仲に属したものの、その非道を嫌って奥州磐手郡滴石庄(現在の岩手県雫石町)に下向したことをもって、その歴史の始まりとする 2 。その後、源頼朝に臣従し、奥州合戦などで功を立てて所領を安堵され、滴石庄の戸沢邑に居館を構えたことから「戸沢」を称するようになったと伝えられる 7 。
もちろん、戦国時代の武家が自らの権威を高めるために、中央の名門の系譜を称することは常套手段であり、この伝承の全てを史実と見なすことには慎重であるべきである。しかし、戸沢氏が「平朝臣」を名乗る記録が、奇しくも秀盛の治世にあたる長享3年(1489年)の神宮寺八幡宮の棟札に現れることは注目に値する 2 。これは、秀盛の時代に戸沢氏が自らのアイデンティティを確立し、在地領主として自己を権威づけようとする意識が高まっていたことの証左と見ることができる。
戸沢氏が歴史の表舞台で確かな足跡を残し始めるのは、鎌倉時代にその拠点を陸奥国から出羽国仙北郡へと移してからである。初代・衡盛の子とされる二代目の兼盛は、当時勢力を拡大しつつあった南部氏からの圧迫を受け、滴石庄から奥羽山脈を越えて出羽国仙北郡の門屋(現在の秋田県仙北市西木町)へと進出した 2 。この移転は、単なる敗走ではなく、より強大な勢力圏から距離を置き、新たな土地で自立を目指すという、中小国人領主の典型的な生存戦略であった。
安貞2年(1228年)、兼盛は門屋城を築城し、ここを本拠地とした 12 。門屋城は、東を流れる檜木内川と南を流れる高野川が合流する天然の要害に位置し、戸沢氏の仙北支配の拠点として約200年間にわたり機能した 11 。さらに、北方の防衛拠点として古堀田城を築き、一族や重臣を配置して守りを固めた 12 。これらの城館群は、現在「戸沢氏城館跡」として秋田県の史跡に指定されており、当時の戸沢氏が新たな土地で自立した勢力となるべく、堅固な物理的基盤を築こうとしていたことを物語っている 11 。
この門屋城時代を通じて、戸沢氏は仙北の地に深く根を張り、周辺の土着豪族を従えながら、着実にその勢力を蓄えていった。この長い雌伏の期間が、後の秀盛の時代における飛躍の土台となったのである。
戸沢氏の歴史における大きな転換点の一つが、本拠地を長年拠点とした門屋城から角館城へと移したことである。この重大な決断がいつ、誰によってなされたのかは、秀盛の治績を評価する上で極めて重要な論点となる。
戸沢氏の角館移転については、複数の説が存在する。依頼者が触れたように、第11代当主・家盛の代に移転したとする見方が古くから伝えられてきた 1 。具体的には、応永30年(1423年)、当時角館城主であった菅能登守利邦が上浦郡の小野寺氏と通じて謀反を起こした際、門屋城主であった戸沢家盛がこれを攻め落とし、翌年に居城を移したというものである 19 。この説は、戸沢氏の角館支配の始まりを15世紀前半に求めるものである。
しかし、近年の研究では、この説に疑問が呈されている。より信頼性の高い史料に基づき、本拠地移転が秀盛の治世に行われたとする説が有力となっているのである。その根拠は二つある。第一に、江戸時代に編纂された『戸沢氏系図』に「正員(征盛)の子政保(秀盛)が角館に柵を移す」という明確な記述があること 2 。第二に、現在の秋田県大仙市にある神宮寺八幡宮が長享3年(1489年)に再興された際の棟札に、「平朝臣飛騨守家盛」という人物の名が刻まれていることである 2 。この「飛騨守」という官位は秀盛が称したものであり 22 、「家盛」という名も、秀盛の治世の記録であることから、彼自身を指すものと解釈するのが妥当とされる。長享3年は、秀盛が家督を継いだ文明11年(1479年)の後のことであり、これらの史料は、戸沢氏の角館移転が15世紀末、すなわち秀盛の治世に行われたことを強く示唆している。
これらの説の相違は、単なる年代の誤りとして片付けるべきではない。戦国大名や近世大名が自家の歴史を編纂する際、その支配の正統性や歴史の古さを強調するために、重要な事績をより古い時代の先祖に帰することは珍しくなかった。戸沢氏にとって、その後の発展の象徴となる角館という拠点の獲得を、より早い時代の当主・家盛の功績とすることで、一族の角館支配の歴史をより長く、権威あるものに見せようとした意図があった可能性が考えられる。家盛の時代に角館進出への足がかりを築き、秀盛の代に名実ともに本拠地としての移転を完了させた、という段階的なプロセスであったのかもしれない。いずれにせよ、秀盛の治世に角館が戸沢氏の中心拠点となったことは、彼の最大の功績の一つと言えるだろう。
戸沢秀盛は、文正元年(1466年)に第14代当主・戸沢征盛の子として生まれた 22 。そして文明11年(1479年)、父の跡を継いで戸沢氏第15代当主となった 2 。
彼が家督を継いだ15世紀末の出羽国は、大きな地殻変動の渦中にあった。中央で続いた応仁の乱(1467年~1477年)の余波は東北地方にも及び、長らく仙北三郡(仙北・平鹿・雄勝)に影響力を持っていた南部氏が、小野寺氏との抗争に敗れてこの地から撤退したのである 2 。これにより仙北地方に力の空白が生じ、その覇権を巡って戸沢氏、横手城を本拠とする小野寺氏、そして日本海沿岸から勢力を伸ばす安東氏といった在地領主(国人)たちが、互いに鎬を削る群雄割拠の時代が到来した。
秀盛の治世は、まさにこの激動期の幕開けと完全に重なっている。彼は、一族の存亡をかけて、これらの強大なライバルたちと渡り合っていかなければならなかった。角館への本拠地移転という決断も、こうした緊迫した政治・軍事状況の中で、より戦略的に優位な位置を確保しようとする意図があったものと考えられる。
戸沢秀盛の約50年にわたる治世は、絶え間ない軍事的緊張と、巧みな外交戦略によって特徴づけられる。彼は、安東氏や小野寺氏といった強大な隣人と時に激しく戦い、時に婚姻政策を駆使して渡り合いながら、戸沢氏の勢力圏を着実に固めていった。
戸沢秀盛の生涯を追うにあたり、まず彼の基本的な人物情報と家族関係を整理しておく。
項目 |
詳細 |
典拠 |
生没年 |
文正元年(1466年)生 – 享禄2年8月13日(1529年9月15日)没 |
22 |
別名 |
平九郎、忠盛 |
22 |
戒名 |
忠山的公大居士 |
22 |
官位 |
飛騨守、治部大輔 |
1 |
氏族 |
戸沢氏(桓武平氏貞盛流を称す) |
4 |
父母 |
父:戸沢征盛、母:本堂政親の妹、あるいは小笠原長之の娘 |
22 |
兄弟 |
忠盛、政重 |
22 |
正室 |
楢岡(小笠原)左馬介長祐の娘 |
6 |
子息 |
戸沢道盛(嫡男、第16代当主) |
22 |
特筆すべきは、正室に楢岡氏の娘を迎えている点と、晩年にようやく嫡男・道盛が誕生した点である。楢岡氏との婚姻関係は、秀盛の治世における外交・軍事戦略の要となり、道盛の誕生は、一族に安堵をもたらすと同時に、後継者と目されていた弟・忠盛との間に深刻な亀裂を生じさせ、後の内乱の火種となった 8 。
秀盛の治世は、仙北地方の覇権を巡る合戦の連続であった。彼は、北の安東氏、南の小野寺氏という二大勢力に挟撃される形で、一族の存亡を賭けた戦いを繰り広げた。
対安東氏
安東氏との抗争は特に激しく、二度の大規模な合戦が記録されている。
一度目は明応五年(1496年)、雄物川流域の大曲地方への進出を巡って安東忠季と衝突した。この時、秀盛は弟の忠盛に兵二千の兵力を与え、秋田領との国境に位置する要衝・淀川城の守備を任せた 2。両軍は唐松野で激突し、結果は引き分けに終わったとされるが 2、一説には忠盛軍が一度は敗れて淀川城に退却し、秀盛自らが救援に出陣しての大激戦になったとも伝えられている 5。この戦いで双方に有力な武将の戦死が相次いだことからも、戦いの熾烈さがうかがえる。
二度目の激突は大永七年(1527年)に起こった。この合戦は、戸沢氏にとって単なる軍事衝突以上の危機をもたらした。安東氏の巧みな謀略により、最前線の淀川城を守る弟・忠盛が安東方に寝返ったとの風聞が領内に流され、戸沢家中は深刻な動揺に見舞われたのである 2 。この絶体絶命の状況を、秀盛は巧みな統率で乗り切り、再び引き分けに持ち込んだ。この危機を克服した経験は、かえって家臣団の結束を強固にし、戸沢氏が単なる国人の集合体から、当主を中心とした統制のとれた戦国大名へと脱皮する大きな契機となったと評価されている 2 。
対小野寺氏
南方の雄・小野寺氏とも、永正年間(1504年~1521年)を通じて長期にわたる抗争を繰り広げた 2。これは仙北三郡の支配権を巡る根深い対立であり、両者一歩も引かぬ消耗戦となった 24。しかし、この戦いは最終的に武力ではなく、外交によって終結する。秀盛の正室の実家である楢岡氏が両者の間に立って仲介し、和睦が成立したのである 2。この事実は、秀盛が軍事力だけに頼るのではなく、婚姻によって築いた外交チャネルを駆使して紛争を解決する、したたかな戦略家であったことを示している。
年代 |
合戦名/対立 |
対戦相手 |
場所(戦場) |
結果・特記事項 |
典拠 |
明応5年 (1496) |
唐松野の戦い |
安東忠季 |
唐松野、淀川城周辺 |
引き分け。弟・忠盛を前線指揮官に起用。両軍に多大な損害。 |
2 |
永正年間 (1504-1521) |
長期抗争 |
小野寺氏 |
仙北郡各所 |
決着つかず。楢岡氏の仲介により和睦。 |
2 |
大永7年 (1527) |
- |
安東氏 |
- |
引き分け。安東方の謀略で忠盛寝返りの風聞が流れるも、危機を克服し家臣団の結束が強まる。 |
2 |
秀盛の巧みな領国経営は、こうした対外的な軍事・外交戦略だけでなく、家中の統制によっても支えられていた。戸沢氏の家臣団は、戸沢姓を名乗る一門衆(小館氏、中館氏、門屋氏など)を核とし、譜代の家臣、そして婚姻や同盟を通じてその傘下に入った周辺の国人たちによって構成されていた 8 。
その中でも、秀盛の治世において最も重要な役割を果たしたのが、正室の実家である楢岡氏である。楢岡氏は信濃をルーツとする小笠原氏の一族で、出羽に移った後、小野寺氏との抗争の過程で戸沢氏と婚姻関係を結び、その庇護下に入った有力な国人であった 8 。当初は客将的な立場であったが、次第に戸沢家中に深く組み込まれていった。
秀盛にとって楢岡氏は、単なる軍事的な同盟相手ではなかった。前述の通り、小野寺氏との長期戦を終結させたのは楢岡氏の外交的仲介であった 2 。また、秀盛の嫡男・道盛は楢岡氏の娘を母としており、楢岡氏は戸沢宗家にとって極めて近い外戚という立場にあった 6 。秀盛が築き上げたこの楢岡氏との強固な信頼関係は、彼の死後、戸沢氏を襲う最大の危機を乗り越えるための、何よりの「保険」となるのである。
秀盛の晩年からその死直後にかけて、戸沢氏は一族分裂の危機、すなわち「忠盛の乱」に見舞われる。この事件は、秀盛個人の家庭問題に端を発しながら、戸沢氏の権力構造と家臣団の結束力が試される重大な試練となった。
戸沢秀盛は、治世の大部分において嫡男に恵まれなかった。そのため、彼は実弟である忠盛を後継者と見なし、相応の処遇を与えていたと考えられている 8 。安東氏との国境の最前線である淀川城の城主に任じ、二千という大軍の指揮を委ねていたことは、忠盛に対する深い信頼と期待の表れであった 2 。忠盛自身も、いずれは戸沢宗家を継ぐものと自負していたであろう。
しかし、秀盛がかなりの高齢に達してから、正室・楢岡氏との間に待望の嫡男・道盛が誕生する 8 。これにより状況は一変した。秀盛が、血を分けた実子である道盛に家督を継がせることを決意したのは、親として、また一族の血統を重んじる当主として自然なことであった。だが、この「心変わり」は、長年後継者として自他ともに認める存在であった忠盛のプライドを深く傷つけ、彼の胸中に宗家に対する強い不満と野心を宿らせる直接的な原因となった 8 。
享禄2年(1529年)、戸沢秀盛が64年の生涯を閉じた 22 。跡を継いだ嫡男・道盛は、わずか6歳(数え年。史料によっては5歳ともされる)の幼子であった 2 。この権力の空白は、忠盛にとって千載一遇の好機であった。
道盛の後見人として角館城に入った忠盛は、その立場を悪用し、かねてからの野望を実行に移す。彼は、北方の雄・安東氏からの支援を背景に、クーデターを敢行したのである 8 。忠盛は、幼い当主・道盛とその生母である楢岡氏の娘を角館城から追放し、自らが城主として君臨しようとした 2 。この「忠盛の乱」は、外部勢力を引き込んだ内紛であり、戸沢氏がこれまで築き上げてきたものを根底から覆しかねない、最大の内部崩壊の危機であった。
しかし、忠盛の野望は、彼が予期しなかった強固な抵抗に遭う。彼のクーデターは、力ずくの一方的なものであり、戸沢家の家臣団や周辺の同盟国人衆から、正統性を欠く暴挙と見なされたのである 2 。
この危機的状況において、事態を収拾する中心的な役割を果たしたのは、追放された道盛の母の実家、すなわち外戚の楢岡氏であった。当主の楢岡清長は、自らの娘と孫である正統な後継者を守るため、即座に行動を起こした。彼は、六郷氏、本堂氏、白岩氏といった、戸沢氏と利害を共にする近隣の国人領主たちに働きかけて結束し、忠盛に対して強大な政治的・軍事的圧力をかけたのである 2 。
戸沢氏の権力構造は、当主個人のカリスマにのみ依存するトップダウン型のものではなかった。それは、有力な一門や家臣、そして外戚といった国人領主たちの合議的な支持と承認の上に成り立つ、いわば「国人領主連合」的な性格を色濃く持っていた。忠盛の行動は、この連合体の秩序を乱すものとして、構成員の総意によって否定されたのである。
外部からの支援を期待した安東氏も、戸沢家中の固い結束を見ては容易に手出しができず、忠盛は完全に孤立した。四面楚歌となった彼は、ついに角館城を明け渡し、自らの拠点である淀川城へと退去せざるを得なくなった 2 。これにより、幼い道盛は無事に角館城主の座に復帰し、戸沢氏最大の危機は回避された。
この事件は、秀盛が生前に築いた楢岡氏との婚姻同盟が、彼の死後に発生した最悪の事態において、自らの血統と一族の安定を守るための「究極の安全保障」として完璧に機能したことを証明している。それは、秀盛の先見の明と、彼が築いた権力構造の強靭さ(レジリエンス)を示す、何よりの証拠と言えるだろう。
戸沢秀盛の治世における軍事・外交活動を支えたのは、彼が支配した仙北地方の社会経済的な基盤と、情報収集を可能にした文化的ネットワークであった。これらを理解することで、彼の戦略をより立体的に捉えることができる。
戸沢氏の領国経営の根幹をなしていたのは、豊かな経済基盤であった。
第一に、農業生産力である。戸沢氏が本拠地とした角館周辺は、雄物川とその支流が形成した仙北平野の一部であり、古くからの穀倉地帯であった。安定した米の生産は、兵糧の確保と領民の生活を支える上で不可欠であった。
第二に、 水運の掌握 である。領内を貫流する雄物川は、内陸の穀倉地帯と日本海側の土崎港を結ぶ、当時の物流の大動脈であった 27 。秀盛の時代、刈和野などの河港は、物資の集散地として、また交通の要衝として極めて重要な役割を果たしていた 5 。この水運を掌握することは、通行税などの経済的利益をもたらすだけでなく、他勢力の物流をコントロールする戦略的優位性にも繋がった。安東氏が刈和野を巡って戸沢氏と激しく争ったのも、その重要性を認識していたからに他ならない 5 。
第三に、 特産品の活用 である。出羽国は古くから良質な馬の産地として知られており、各地で馬市が開かれていた 29 。馬は、騎馬武者を構成する軍事力として、また物資を運ぶ輸送力として、さらには他領へ売却できる高価な交易品として、戦国大名にとって極めて重要な資源であった。戸沢氏もこの馬産経済の一翼を担い、その経済力と軍事力を支えていたと考えられる。さらに、出羽国は金や銀、銅といった鉱物資源も豊富であった 33 。秀盛自身が大規模な鉱山経営を行った直接的な記録は見当たらないものの、地域の領主として、これらの資源から何らかの形で利益を得ていた可能性は十分に考えられる。
戦国大名にとって、合戦の勝敗や外交の成否を左右する上で、正確かつ迅速な情報は生命線であった。戸沢氏の領国の近隣には、羽黒山、月山、湯殿山からなる出羽三山という、東北地方における山岳信仰(修験道)の一大中心地が存在した 35 。この修験者のネットワークが、戸沢氏にとって貴重な情報網として機能した可能性が高い。
山伏とも呼ばれる修験者たちは、宗教的な権威から関所の自由な通行を認められるなど、諸国を比較的自由に往来することができた 37 。彼らは聖なる山々を巡る遊行の過程で、各地の情勢や人々の動向を見聞きし、それを別の土地へ伝達する役割を自然と担っていた 38 。戦国大名たちは、この情報伝達能力に注目し、彼らを諜報活動に活用した。
秀盛が、敵対する安東氏や小野寺氏の内部事情や軍事行動を探る上で、この修験者ネットワークを利用したことは想像に難くない。例えば、大永七年(1527年)の合戦の際に流された「忠盛寝返り」の風聞も、敵方である安東氏が意図的に修験者の口を通じて流布させた謀略であった可能性が考えられる 7 。
また、修験者は祈祷や獅子舞などの芸能を通じて、領民の精神的な支えとなる存在でもあった 41 。領主が彼らを保護することは、領内の安定と民心掌握に繋がった。現在、仙北市西木町に伝わる「戸沢ささら」は、県の無形民俗文化財に指定されているが、その由来伝承の一つに、戸沢氏がかつての本拠地であった南部雫石から持ち込んだという説がある 18 。これは、戸沢氏と修験文化の深いつながりを示す名残かもしれない。
このように、秀盛の強さは、城や兵士といった目に見える軍事力だけでなく、水運や特産品がもたらす経済力、そして修験者たちが張り巡らせた情報網といった、目に見えない社会経済的・文化的基盤によって複合的に支えられていたのである。
戸沢秀盛の50年にわたる治世は、彼の死をもって終わったわけではない。彼が残した有形無形の遺産は、その後の戸沢氏の歴史に決定的な影響を与え、子孫たちの飛躍と近世大名への道を切り拓く礎となった。
秀盛が内憂外患を乗り越えて守り抜いた角館を中心とする領国と、幾多の危機を経て結束を強めた家臣団は、孫の戸沢盛安(道盛の子)の代に、その真価を発揮することになる。盛安は、その勇猛果敢な戦いぶりから「夜叉九郎」や「角館の鬼」と敵味方から恐れられた武将として知られる 5 。彼が、父祖の代からの宿敵である小野寺氏や安東氏を相手に数々の合戦で勝利を収め、戸沢氏の勢力を飛躍的に拡大させることができたのは、決して彼一人の武勇によるものではなかった 5 。その背景には、秀盛の時代に築かれた安定した領国経営と、忠誠心篤い家臣団という強固な基盤が存在したからこそである。秀盛が耐え忍び、守り抜いた土台があったからこそ、盛安はその上で存分にその才能を開花させることができたのである。
秀盛が残した最大の遺産は、領地や城以上に、強固な結束力を持つ家臣団であったと言える。秀盛の死後、叔父・忠盛が起こした謀反に対し、家臣団が一致団結して正統な後継者である道盛を支え、危機を乗り越えた経験は、戸沢家中の「主家への忠誠」と「一族の団結」という家風を育んだ。この強固な結束力は、その後も戸沢氏を救い続ける。天正18年(1590年)、当主の盛安が豊臣秀吉の小田原征伐の陣中で25歳の若さで急死し、その後を継いだ弟の光盛もわずか2年後に病没するという、当主が相次いで夭逝する絶体絶命の危機に瀕した際も、この家臣団が機能した 8 。彼らは、盛安の遺児であるわずか8歳の政盛をすぐさま秀吉に謁見させ、家督相続の承認を取り付けることに成功し、豊臣政権下での家の存続を確実なものにしたのである 44 。
この政盛こそが、関ヶ原の戦いにおいて東軍に与して功を挙げ、戦後に常陸国松岡四万石への転封を経て 47 、最終的に元和8年(1622年)、出羽国新庄六万石の藩主となり、近世大名・新庄戸沢氏の初代となる人物である 8 。秀盛が確立した角館を中心とする領国体制と、彼が育て上げた家臣団の結束力がなければ、この政盛の代における成功も、その後の新庄藩250年の歴史も存在しなかったであろう。
戸沢氏が去った後も、その名は地域に深く刻まれている。現在でも、かつての戸沢氏の本拠地であった仙北市では「戸沢氏祭」が開催され 50 、また、戸沢氏ゆかりの自治体である茨城県高萩市、山形県新庄市、岩手県雫石町などが集う「戸沢サミット」が開かれるなど 51 、その歴史は地域づくりの核として今なお生き続けている。その全ての歴史の出発点に、戸沢秀盛の苦闘と功績があったことは、再確認されるべきである。
本報告書における調査と分析を通じて、戸沢秀盛は、単なる系図上の一当主という評価に留まるべき人物ではないことが明らかになった。彼は、戦国時代初期の出羽国という、中央の政争から離れた辺境の地で繰り広げられた熾烈な生存競争の中、卓越した戦略眼と強靭な忍耐力をもって一族を率い、その後の繁栄の礎を築いた、極めて有能な地方領主として再評価されるべきである。
秀盛の功績は、同時代の他の戦国大名のような華々しい領土拡大物語の中には見出せないかもしれない。しかし、その本質は、より堅実で、長期的な視野に立った以下の三点に集約される。
第一に、 本拠地の角館への移転を断行し、その後の発展の揺るぎない地理的・戦略的基盤を築いたこと。 これは、戸沢氏が仙北平野における確固たる地位を確立するための、最も重要な決断であった。
第二に、 安東・小野寺という、自らを凌駕する可能性のある強大な外部勢力との絶え間ない抗争を、純粋な武力だけでなく、巧みな外交戦略を駆使して乗り切り、一族の独立を維持したこと。 これは、自らの力の限界を冷静に認識し、利用可能なあらゆる手段を講じる現実的な政治家としての側面を示している。
そして第三に、 有力国人である楢岡氏との間に、婚姻を通じて強固な外戚関係を築き上げたこと。 これは、自らの死後に起こりうる家督相続の紛争を見越し、正統な血統を守るための布石を打つという、驚くべき先見の明であった。この同盟は、実際に「忠盛の乱」という最大の危機において、一族を救う決定的な役割を果たした。
結論として、戸沢秀盛が後世に残した最大の遺産は、領地や城郭といった物理的なもの以上に、幾多の危機を乗り越えることで錬成された強固な家臣団の結束力と、安定した統治基盤そのものであった。これらがなければ、孫・盛安の武功も、曾孫・政盛による新庄藩の立藩も、決して成し遂げられなかったであろう。戸沢秀盛は、その後の戸沢氏の歴史の方向性を決定づけた、まさに出羽戸沢氏の「中興の祖」と呼ぶにふさわしい、偉大な人物である。