最終更新日 2025-07-02

戸田尊次

徳川家臣・戸田尊次の生涯に関する総合的考察

序章:乱世を生きた譜代の将、戸田尊次

本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川家康に仕えた武将、戸田尊次(とだ たかつぐ)の生涯を、その出自、武功、そして初代藩主としての役割という三つの側面から包括的に解明することを目的とする。彼の人生の軌跡を丹念に追うことで、徳川幕府の草創期における譜代大名の典型的な姿と、その歴史的意義を深く考察する。

戸田尊次は、酒井忠次や本多忠勝といった「徳川四天王」に代表されるような著名な武将ではない。しかし、徳川家康の天下統一事業と、その後の江戸幕府の体制確立期において、忠実な家臣として、また小藩の藩主として、堅実にその役割を担った重要な人物である。彼の生涯は、戦国の動乱から近世の安定へと移行する、時代の大きな転換点を体現していると言えよう 1

彼の生涯を詳述するにあたり、まず基礎情報である生没年から検討する必要がある。没年については元和元年7月7日(西暦1615年8月30日)で諸史料が概ね一致しているが、生年に関しては二つの説が存在する 4 。一つは『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』などが採る永禄5年(1562年)説で、この場合、享年は54歳となる 5 。もう一つは、Wikipediaや田原市博物館の資料に見られる永禄8年(1565年)説であり、こちらの享年は51歳となる 4 。このような基礎情報における不一致は、尊次クラスの武将に関する史料が断片的であることを示唆している。本報告書では、この二つの説を併記し、確定的な断定は避けることとする。

第一章:田原戸田氏の系譜と尊次の出自

第一節:三河の国人・戸田氏の源流と本家の凋落

戸田尊次の生涯を理解するためには、彼が属した三河戸田氏の歴史的背景をまず押さえなければならない。戸田氏は、正親町三条家の支流とする藤原氏説や清和源氏説などが伝わる三河国の有力な国人領主であった 8 。尊次の家系は、渥美半島に勢力を張った田原城主・戸田氏の分家筋にあたる 10

この田原戸田本家は、尊次の大叔父にあたる戸田康光の代に、その運命を大きく狂わせる事件を起こす。天文16年(1547年)、康光は主君である今川義元から松平竹千代(後の徳川家康)を預かり、駿河へ護送する役目を任された。しかし、康光はこれを裏切り、竹千代を尾張の織田信秀に売り渡したのである 10 。この背信行為は今川氏の激しい怒りを買い、今川軍の猛攻によって田原城は陥落。康光をはじめとする一族の多くが討ち死にし、戦国大名としての田原戸田本家は事実上滅亡した 10

この本家の滅亡は、分家であった尊次の父・忠次、そして尊次自身の生涯を決定づける、いわば「原罪」とも言うべき出来事であった。一族が主君を裏切り、後の主君となる徳川家康を危機に陥れたという汚名は、彼ら父子にとって、徳川家への絶対的な忠誠を誓う強力な動機となったと考えられる。彼らの忠勤は、単なる主君への奉公に留まらず、一族の失われた名誉を回復し、家名を再興するための必死の努力であった。この一連の因果関係は、尊次の生涯を貫く重要な伏線となる。すなわち、康光の裏切りが本家の滅亡を招き、その結果、分家の忠次・尊次父子は徳川家への一層の忠誠を尽くすことを宿命づけられた。そしてその忠勤の帰結として、尊次は関ヶ原の戦功により先祖の旧領である田原への帰還を果たすのである。これは単なる加増移封以上の、一族の悲願達成と名誉回復を意味する象徴的な出来事であった。

第二節:尊次の父・戸田忠次の軌跡

本家の滅亡時、尊次の父・戸田忠次(通称:三郎右衛門)は、兄である康光とは行動を共にせず、岡崎へ逃れて徳川家康に仕えた 10 。しかし、その道のりは平坦ではなかった。永禄6年(1563年)に三河一向一揆が勃発すると、忠次は当初一揆方に与した。これは、戸田氏が一向宗と所縁があったためと考えられるが、徳川家との関係から内通を疑われるに至り、これを恨んだ忠次は翌年に徳川方へ転じ、一揆の鎮圧に貢献した 10

これを機に忠次は家康の信頼を得て、譜代の家臣として確固たる地位を築いていく。永禄11年(1568年)の遠江侵攻、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、そして天正18年(1590年)の小田原征伐と、家康の主要な合戦のほとんどに従軍し、数々の武功を挙げた 10 。家康が関東へ移封されると、忠次は伊豆下田に五千石の所領を与えられ、水軍の拠点でもある要衝の守りを任された 10

忠次の忠誠心を示す逸話として、「壮者の亀鑑(そうしゃのかがみ)」が知られている。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際、忠次は老齢であったにもかかわらず、肥前名護屋城に在陣する家康のもとへ馳せ参じ、もし徳川軍が出陣するならば自らも従軍したいと願い出た。この話を聞いた豊臣秀吉は、その老いてなお衰えぬ忠義心と気概を「壮者たちの手本である」と称賛したと伝えられている 10 。この逸話は、戸田忠次という武将の、徳川家に対する揺るぎない忠節を象徴するものとして後世に語り継がれた。忠次は慶長2年(1597年)に67歳でその生涯を閉じ、家督は嫡男の尊次が継承した 10

第三節:尊次の家族構成と婚姻戦略

戸田尊次は、父・忠次と母・萬松院(松平伊忠の娘)の間に生まれた 14 。兄に清光がいたことが記録されている 10 。彼の正室もまた、萬松院という名で、父の妻と同じく松平伊忠の娘であったとされている 4 。これは父の妻と子の妻が同名であったか、あるいは史料の混同の可能性も考えられるが、いずれにせよ、徳川家の親族である松平家と二重の姻戚関係を築いたことは、徳川家臣団の中での戸田家の地位を安定させる上で極めて重要な意味を持っていた。

尊次には、長男の忠能(ただよし)をはじめ、正次、生勝、忠継、忠高といった多くの男子と、少なくとも五人の女子がいた 4 。彼らの経歴や婚姻関係は、徳川幕府初期における譜代大名の典型的な生存・発展戦略を明確に示している。

  • 本家の継承と分家の創設 : 嫡男の忠能が田原藩の家督を継承する一方、他の男子は幕府に仕える旗本となったり、後に大名となる分家を創設したりした。特に五男の忠継は旗本となり、その子である忠時が後に加増を受けて下野足利藩を立藩するに至る 4
  • 戦略的な婚姻政策 : 娘たちは、同じく徳川家臣である蒔田氏、水野氏、滝川氏などへ嫁いだ 4 。これにより、他の譜代大名家との間に緊密な姻戚関係のネットワークを構築し、一族の政治的基盤を強化した。

これらの家族戦略は、単なる血縁の記録に留まらない。それは、徳川政権という新たな政治秩序の中で、いかにして「家」を永続させ、発展させていくかという、計算された戦略の現れである。本家が万が一改易されるような事態に陥っても、分家が存続していれば家名を保つことができるという、リスク分散の役割も担っていた。尊次の一族の広がりは、彼が単なる一代の武将ではなく、後世に続く大名家の「祖」であったことを示している。

表1:戸田尊次の系譜と子孫の展開

関係

氏名

役職・備考

戸田忠次

徳川家康の家臣。伊豆下田五千石。

本人

戸田尊次

初代三河田原藩主(一万石)。宇都宮藩戸田家の祖。

長男

戸田忠能

二代三河田原藩主。嗣子なく、甥の忠昌を養子とする。

二男

戸田正次

旗本。

三男

戸田生勝

旗本。三河国渥美郡の領主。

四男

戸田忠継

旗本。尊次の五男とする史料もある 4

五男

戸田忠高

旗本。

(忠継の子)

戸田忠昌

忠能の養子となり、三代田原藩主を継承。後に転封を重ね、その子孫は下野宇都宮藩主となる。

(忠継の子)

戸田忠時

忠継の次男。旗本から加増を受け、下野足利藩を立藩。

出典: 4

第二章:徳川家臣としての武功

第一節:初陣と小牧・長久手の戦い

戸田尊次の本格的な戦歴は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いから始まると考えられる。この時、尊次は19歳(あるいは22歳)で、父・忠次と共に徳川軍の一員として参陣した 4 。この戦いでの具体的な働きを記す史料は乏しいが、戦後、父・忠次はこの戦功によって三河国和地村に五百石を加増されている 6 。そして、その地に尊次のための城館、すなわち和地城を築かせた 6 。これは、尊次が父の麾下から一歩進み、独立した武将として徳川家から認められ始めたことを示す重要な出来事であった。

第二節:関ヶ原の戦いと越前丸岡城攻略

戸田尊次の武将としての評価を決定づけたのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける活躍である。特に、越前丸岡城の攻略における功績は、彼のその後の運命を大きく左右した。

この戦いが勃発した際、北陸地方は東軍と西軍の激しい角逐の舞台となっていた。東軍の総大将格である前田利長は、加賀百万石の威信をかけて2万5千もの大軍を率いて南下したが、西軍方の丹羽長重が籠る小松城の頑強な抵抗に直面した 19 。特に浅井畷の戦いでは、前田軍は丹羽軍に手痛い敗北を喫し、進軍が停滞するという事態に陥っていた 20

このような状況下で、東軍にとって戦略的に重要となったのが、前田軍の後方に点在する西軍方の諸城の無力化であった。越前丸岡城もその一つであり、城主の青山宗勝(または忠元)は西軍に与していた 21 。この城は、東軍の背後を脅かし、補給線を寸断しかねない危険な存在であった。

各史料は、戸田尊次がこの丸岡城攻略において「功があった」と一致して記している 4 。しかし、その具体的な戦闘の経過や、尊次がどのような役割を果たしたのかを詳細に伝える一次史料は現存していない。だが、当時の北陸戦線の全体像から、その功績の重要性を推察することは可能である。

前田利長という東軍の主力部隊が丹羽長重によって事実上釘付けにされていたことを考えれば、丸岡城の攻略は、前田軍本体による大規模な攻城戦ではなかった可能性が高い。むしろ、前田軍の周辺に配置されていた、戸田尊次のような徳川譜代の中小規模の部隊が、東軍の全体戦略に呼応して、地域の西軍拠点を各個に撃破していく広域的な掃討作戦の一環として実行されたと見るべきである。つまり、東軍の主力が動けない間に、尊次のような機動力のある部隊が周辺の敵拠点を制圧し、地域の安定化と主力部隊の後背の安全を確保するという、戦略的に極めて重要な任務を担ったのである。

尊次の丸岡城攻略は、単独の英雄的な武功というよりも、大局的な戦略の中で自らに与えられた役割を的確に判断し、見事に遂行した、譜代武将としての優れた能力の現れであった。この地味ながらも決定的な戦果こそが、戦後の論功行賞において家康から高く評価され、彼を伊豆下田五千石の旗本から、三河田原一万石の大名へと飛躍させる直接的な要因となったのである。

第三節:大坂の陣と最期

天下分け目の関ヶ原から十数年後、豊臣家との最終決戦である大坂の陣が勃発すると、尊次もまた徳川方の大名として出陣した。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、尊次は岡崎城の守備を命じられた 4 。岡崎城は、徳川家康生誕の地であり、東海道の要衝でもある。このような徳川家にとって特別な意味を持つ城の守りを任されたことは、幕府からの尊次に対する厚い信頼を物語っている。

翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、家康の十男である徳川頼宣の軍勢に属して参戦した 4 。しかし、その出陣の途上で病に倒れてしまう。治療の甲斐なく、同年7月7日、決戦の地である大坂にたどり着くことなく、京都にて病死した。享年は51または54であった 4 。戦場で華々しく散るのではなく、最後の奉公の途上で病に倒れるという最期は、戦乱の時代が終わりを告げ、武士の生き方や死生観が変化していく過渡期を象徴しているかのようである。

彼の戒名は「透関院殿決山全勝大居士」。その亡骸は故郷三河に運ばれ、現在、愛知県田原市大久保町にある長興寺に静かに眠っている 4

第三章:初代田原藩主としての治世

第一節:故郷・田原への帰還と立藩

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、戦功に応じた大規模な論功行賞が行われた。戸田尊次は、北陸戦線における丸岡城攻略の功を高く評価され、慶長6年(1601年)、それまでの伊豆下田五千石から、倍増となる三河国田原一万石を与えられた 5 。これにより、彼は一万石以上の所領を持つ大名の仲間入りを果たし、三河田原藩が立藩された。

この移封は、尊次個人にとって、また戸田家全体にとって、単なる石高の増加以上の、極めて大きな意味を持っていた。田原は、かつて大叔父・戸田康光が徳川家康を裏切ったことで今川氏に攻め滅ぼされ、失った「先祖旧領」であった 24 。家康は、長年にわたり忠勤に励んだ尊次とその父・忠次の功に報いるため、一族の故地を与えるという最大限の配慮を示したのである。これは、戸田家にとって半世紀越しの名誉回復であり、一族の再興を内外に知らしめる象徴的な出来事であった。

第二節:慶長期における藩政の礎

尊次が初代藩主として田原を治めた慶長6年(1601年)から元和元年(1615年)までの14年間は、江戸幕府がその全国支配体制、すなわち「幕藩体制」を確立していく重要な時期と重なる 26 。この時代、尊次のような譜代大名に課せられた役割は、戦時における軍役奉仕だけでなく、領地を安定的に統治し、幕府の地方支配の一翼を担うことであった 2

残念ながら、尊次自身が藩主として行った具体的な治績を詳細に記した記録は、現代にはほとんど伝わっていない 23 。しかし、当時の他の譜代藩の状況や、幕府の基本政策から、彼が取り組んだであろう藩政の内容を推論することは可能である。

第一に、藩の財政基盤を確立するための検地(土地調査)の実施が挙げられる。豊臣秀吉の太閤検地を基礎としつつ、より実態に即した石高を把握するための「慶長検地」が、この時期、全国の幕府領や大名領で一斉に行われていた 32 。田原藩も例外ではなく、領内の田畑を測量し、年貢徴収の基礎となる検地帳を作成することが、藩主としての最優先課題であったと考えられる。実際に、尊次の跡を継いだ息子の忠能が野田村などで検地を実施した記録が残っていることから 14 、その準備や計画が尊次の代から進められていた可能性は極めて高い。

第二に、藩の政庁である田原城の整備と、家臣団を居住させる城下町の建設である。父・忠次の死後、その菩提を弔うために城内に英巌寺を建立したという記録も 10 、藩主として領内のインフラ整備に着手した一環と見なすことができる。

尊次の治世は、後の時代に登場する渡辺崋山のような、藩政改革で名を馳せた家老の華々しい政策とは趣を異にする。彼の役割は、幕府という新たな支配システムに呼応し、その末端組織として「藩」という統治の器をゼロから作り上げる、地味ではあるが不可欠な基礎工事であった。尊次が藩主を務めた14年間は、その後の田原藩二百数十年の歴史の礎を築いた、極めて重要な期間であったと評価できる。

第三節:官位と家格

大名としての戸田尊次の地位は、幕府から与えられた官位によっても公的に示された。慶長12年(1607年)、尊次は従五位下・土佐守に叙任された 4 。これは、彼が正式に幕府の官僚機構に組み込まれ、大名としての家格を認められたことを意味する。

尊次は三河田原藩の初代藩主であると同時に、後に下野宇都宮藩主として幕末まで続く有力譜代大名・戸田家の「初代」でもある 4 。彼の血筋は、長男・忠能を経て、養子となった甥の忠昌へと受け継がれ、肥後富岡、下総佐倉などへの転封を重ねながらも、有力な譜代大名家として存続した。この事実は、尊次が単なる一人の武将として生涯を終えたのではなく、近世大名家の「祖」としての役割を見事に果たしたことを示している。

結論:戸田尊次の歴史的評価

戸田尊次の生涯は、徳川家康への揺るぎない忠誠を貫いた、典型的な譜代武将のそれであった。一族が犯した過去の汚名をすすぎ、家名を再興するという強い動機に支えられ、彼は小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦い、そして大坂の陣といった、徳川の天下取りにおける重要な局面で、着実にその役割を果たし、武功を挙げた。

彼の功績の中で特筆すべきは、関ヶ原の戦いにおける越前丸岡城攻略である。この功績によって、彼は先祖の地である三河田原に一万石の大名として復帰を果たし、田原藩の礎を築いた。これは、彼個人の立身出世であると同時に、半世紀にわたる一族の悲願の達成でもあった。藩主としては、幕藩体制の確立期という重要な時代にあって、新たな統治システムの末端組織を構築するという、地道だが不可欠な役割を果たした。

戸田尊次は、徳川幕府の巨大な構造を根底から支えた数多の譜代大名の一人である。彼の人生は、戦国の遺風が色濃く残る中で、新たな時代の秩序に適応し、武功と統治の両面で主君に貢献した武士の姿を鮮やかに映し出している。徳川四天王のような華々しさはない。しかし、堅実な働きによって家の存続と繁栄を成し遂げた彼の生涯は、徳川二百六十年の平和を支えた「縁の下の力持ち」たる譜代大名の歴史的価値を理解する上で、格好の事例と言えるだろう。

引用文献

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