戸田忠能(とだ ただよし、1586-1647)は、戦国時代の終焉から徳川幕藩体制の確立期という、日本の歴史における一大転換点を生きた人物である。彼の生涯は、父祖が武功によって築いた地位を受け継ぎ、泰平の世における藩主として、新たな時代の課題に直面した譜代大名の典型的な姿を映し出している 1 。一般的に、関ヶ原合戦や大坂の陣への従軍、三河田原藩の二代藩主としての経歴、そして治世晩年に飢饉に苦しめられたことなどが知られている。しかし、これらの断片的な情報を繋ぎ合わせるだけでは、彼の人物像の全貌を捉えることはできない。本報告書は、忠能の出自とそれを形成した三河戸田氏の歴史的背景、若き日の武功、藩主としての具体的な治績、姻戚関係を通じて垣間見える政治的側面、そして後継者問題という大名家にとっての最重要課題に彼がどう向き合ったかを多角的に分析する。これにより、戸田忠能という一人の大名の生涯を深く掘り下げ、その歴史的実像に迫ることを目的とする。
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主な出来事 |
1586年 |
天正14年 |
1歳 |
戸田尊次の長男として誕生 1 。 |
1600年 |
慶長5年 |
15歳 |
父・尊次と共に 関ヶ原の戦い に従軍 1 。 |
1601年 |
慶長6年 |
16歳 |
父・尊次が三河田原藩1万石の初代藩主となる 3 。 |
1614年 |
慶長19年 |
29歳 |
大坂冬の陣 に従軍。父・尊次は岡崎城を守備 2 。 |
1615年 |
元和元年 |
30歳 |
大坂夏の陣 に徳川秀忠軍として従軍。父・尊次が戦陣の途上で病没し、家督を相続。 三河田原藩の二代藩主 となる 1 。 |
1632年 |
寛永9年 |
47歳 |
義父である鳥羽藩主・九鬼守隆が死去。家督相続を巡る**「九鬼家御家騒動」**に関与を開始する 6 。 |
1640年-1643年 |
寛永17年-20年 |
55-58歳 |
全国的な**「寛永の大飢饉」**が発生。田原藩も大きな影響を受ける 2 。 |
1647年 |
正保4年 |
62歳 |
1月3日に死去。嗣子がいなかったため、養子の忠昌が家督を継ぐ 1 。 |
戸田忠能の生涯を理解する上で、彼が属した三河戸田氏の歴史的背景を無視することはできない。戸田氏のルーツは室町時代中期に遡る。中興の祖とされる戸田宗光は、三河国の渥美郡に田原城や二連木城を築き、在地領主としての勢力を確立した 9 。その後、戸田氏は今川氏、織田氏、そして松平氏(後の徳川氏)といった周辺の有力大名の狭間で、従属先を巧みに変えながら戦国の荒波を乗り越えていった 9 。
戸田家が徳川家の譜代大名としての地位を確固たるものにする上で決定的な役割を果たしたのは、忠能の祖父にあたる戸田忠次(ただつぐ)であった。永禄6年(1563年)に三河で発生した一向一揆は、徳川家康の支配基盤を揺るがす大事件であったが、この時、忠次は一貫して家康方について一揆の鎮圧に大きく貢献した 10 。この功績を皮切りに、彼は武田信玄や豊臣秀吉との数々の合戦に従軍し、徳川家臣団の中核的存在としての信頼を勝ち取っていった 10 。
その忠誠と武功の系譜は、忠能の父・戸田尊次(たかつぐ)へと受け継がれる。尊次もまた父同様に家康に仕え、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いといった徳川家の命運を左右する重要な戦役で武功を挙げた 3 。これらの功績が認められ、尊次は慶長6年(1601年)、かつて一族が本拠地としていた三河国田原に1万石の所領を与えられ、田原藩の初代藩主となったのである 3 。これは、戸田氏にとって先祖の地への凱旋であり、徳川政権下における譜代大名としての新たな出発を意味するものであった。
戸田忠能は、天正14年(1586年)、初代田原藩主となる尊次の長男として生を受けた 1 。彼の出自において特筆すべきは、その母方の血筋である。忠能の母は萬松院といい、徳川家康の譜代の重臣である松平伊忠の娘であった 2 。松平伊忠は、家康の父・広忠の代から仕え、数々の戦で功績を挙げた武将である。
この婚姻は、戸田家にとって極めて重要な意味を持っていた。それは単なる大名家同士の政略結婚にとどまらず、徳川家臣団の中核をなす名門・松平家との間に血縁関係を構築することを意味した。これにより、戸田家は単なる主従関係を超え、徳川家を中心とした譜代大名ネットワークの中に、より強固な地位を占めることになったのである。忠能は生まれながらにして、祖父・忠次と父・尊次が二代にわたって武功と忠誠で築き上げた「徳川譜代」としての家格と、母方を通じて得た徳川家との近しい血縁という、二重の強固な基盤の上にその生涯を始めることになった。彼の後の行動原理や幕府内での立場を考える上で、この恵まれた出自は不可欠な前提条件であったと言える。
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。この時、戸田忠能は15歳の若さであったが、父・尊次と共に東軍の一員としてこの歴史的な決戦に従軍している 1 。当時の布陣図によれば、戸田尊次・忠能親子が率いる部隊は、徳川家康の本陣後方に位置する後備(予備兵力)として配置されていた 12 。これは、戦況に応じて投入される遊軍としての役割や、本陣の最終防衛ラインを担うという重要な任務であった。直接的な戦闘記録は詳らかではないものの、この天下統一の帰趨を決する戦場の空気を肌で感じた経験は、若き忠能の人格形成に強烈な影響を与えたことは想像に難くない。
関ヶ原の戦いから十数年後、徳川の世が盤石になりつつあった中で、豊臣家との最後の対決が訪れる。慶長19年(1614年)に始まった大坂冬の陣において、父・尊次は徳川方の重要拠点である岡崎城の守備を命じられており、忠能もこれに従ったものと考えられる 5 。そして翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、親子は二代将軍・徳川秀忠が率いる本隊に属して参陣した 1 。
大坂の陣は、徳川幕府による日本の完全統治を確立するための総仕上げであった。この戦いに譜代大名として参加し、忠勤を示すことは、自らの家が徳川政権の一翼を担う存在であることを改めて証明する上で、極めて重要な意味を持っていた。忠能は、関ヶ原と大坂の陣という、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けを象徴する二大決戦を、武人として実体験した。この経験は、彼を「最後の戦国世代」の一人として位置づける。戦乱の悲惨さと、それを終結させた徳川家の偉大さを身をもって知ったこの世代の大名にとって、泰平の世を維持すること、そしてその秩序の根幹である徳川家へ絶対的な忠誠を誓うことは、自らの存在意義そのものであった。忠能の後の藩主としての堅実な治世や幕府への奉公の姿勢は、この戦場で培われた原体験に深く根差していると分析できる。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣が徳川方の勝利で終結した直後、戸田家に予期せぬ事態が訪れる。父・尊次が、夏の陣からの帰途にあった京都において病に倒れ、同年7月7日に51歳で急逝したのである 3 。これにより、戸田忠能は30歳で家督を相続し、三河田原藩1万石の二代藩主となった 1 。戦乱の終結と時を同じくして始まった彼の藩主としてのキャリアは、武力による領地拡大がもはや望めない泰平の世において、いかにして藩を治め、存続させていくかという新たな課題への挑戦の始まりであった。
藩主となった忠能がまず取り組んだのは、藩の財政基盤を確立するための地道な内政であった。史料によれば、彼は領内の野田村などで検地(土地調査)を実施している 2 。検地は、領内の田畑の面積と等級を正確に把握し、それに基づいて年貢の徴収量を決定するための基礎作業である。これを実施することで、年貢の徴収漏れを防ぎ、公平な課税を実現し、藩の収入を安定させることが可能となる。忠能のこの政策は、武力による統治から、法と行政による統治へと時代が移行したことを示す典型的なものであり、藩政の礎を築くための不可欠な一歩であった。
忠能が治めた田原藩の石高は1万石であり、これは江戸時代の大名の中では最も小規模なクラスに分類される 3 。1万石という収入は、藩士たちの俸禄、江戸に常設された藩邸の維持費、そして藩主自身が江戸と領地を往復する参勤交代の莫大な費用などを賄うには、決して十分なものではなかった。加えて、幕府からは河川の改修工事などを命じられる公役(手伝普請)の負担もあり、近世初期の小藩は、その多くが構造的な財政難に苦しんでいた。
忠能の治世に関する記録は多くはないが、彼の藩政運営が、こうした厳しい財政状況の中で、いかに歳入を確保し、歳出を切り詰め、幕府への奉公の義務を果たしていくかという、絶え間ない苦心の上に成り立っていたことは容易に推察される。彼の治世は、華々しい成功譚ではなく、藩を存続させるための地道で現実的な努力の連続であった。その堅実な藩政運営は、戦乱の時代が終わり、行政官としての能力が藩主に求められるようになった新しい時代の要請に応えるものであったと言えよう。
忠能の治世晩年、日本全土が未曾有の自然災害に見舞われる。寛永17年(1640年)頃から始まったこの災厄は、後に「寛永の大飢饉」として知られ、江戸時代に発生した飢饉の中でも最大級のものであった 8 。その原因は複合的であり、寛永17年の蝦夷駒ケ岳の噴火による広範囲の降灰、全国的な異常気象による冷害、長雨、洪水が農作物に壊滅的な被害をもたらした 8 。さらに、九州で発生した牛疫(牛の伝染病)が西日本一帯に拡大し、農耕に不可欠な労働力であった牛が大量死したことも、食糧生産に追い打ちをかけた 8 。
寛永19年(1642年)頃に被害は最大化し、特に東北地方や北関東では深刻な食糧不足から多数の餓死者が発生した 13 。米価は異常な高騰を見せ、生活の糧を失った多くの農民が田畑を捨てて江戸などの大都市へ流入し、社会不安が増大した 8 。幕府も、大名が江戸での生活のために備蓄していた扶持米を江戸市場へ廻送させるよう命じるなど、米価の安定化に努めたが、全国的な混乱を収拾するには至らなかった 8 。
三河国に位置する戸田忠能の田原藩も、この全国的な飢饉の例外ではあり得なかった。忠能の治世の晩年は、この天災との戦いに終始したと記録されている 2 。ただでさえ苦しい小藩の財政は、凶作による年貢収入の激減によって、破綻の危機に瀕していたであろう。
さらに田原藩にとって不運だったのは、飢饉に加えて、別の自然災害が追い打ちをかけたことである。史料には、この時期に田原藩が台風の被害に見舞われ、藩が所有する舟が破損したという記述が残されている 2 。渥美半島という地理的条件を持つ田原藩にとって、漁業や海上輸送は農業と並ぶ経済の重要な柱であった。舟の破損は、食糧としての魚介類の確保を困難にするだけでなく、他領との交易や物資輸送を停滞させることを意味する。これは、農業生産の崩壊という飢饉の直接的な被害に加え、藩経済のもう一つの動脈が断たれるという二重の苦難であった。忠能が直面した困難は、単なる凶作対策にとどまらない、藩の存亡をかけた複合的な危機であった。彼の藩主としての力量は、この未曾有の国難の中で、いかにして領民の命を守り、藩の社会秩序を維持できたかによって測られるべきであるが、その苦闘の具体的な記録が乏しいことが惜しまれる。
戸田忠能の生涯において、彼が単なる地方の小藩主に留まらない、幕政の力学の中で立ち回る政治的プレイヤーとしての一面を最もよく示しているのが、姻戚関係にあった九鬼家の家督相続問題への関与である。
忠能の正室は、久昌院といい、志摩鳥羽藩5万6千石の藩主であった九鬼守隆の次女であった 2 。九鬼家は、戦国時代に水軍を率いて織田信長や豊臣秀吉に仕え、その功績によって大名となった名門である。この婚姻により、1万石の小藩である田原戸田家は、伊勢湾を挟んで向かい合う大藩・九鬼家と強力な姻戚関係を築くことになった。これは、大名間の相互扶助や情報交換が重要であった江戸初期の社会において、戸田家にとって大きな政治的資産であった。
寛永9年(1632年)、義父である九鬼守隆が死去すると、その跡目を巡って九鬼家中に深刻な内紛、いわゆる「御家騒動」が勃発した。問題の発端は、守隆が晩年、正室の子ではない三男の久隆を後継者に指名しようとしたことにあった 7 。これに対し、守隆の長男(ただし庶子)であった九鬼隆季を支持する家臣や親族が猛反発し、家中は二つに分裂してしまった。
この騒動において、戸田忠能は明確な立場を取る。彼は、妻・久昌院の兄にあたる隆季を正統な後継者とみなし、隆季を支持する「親族集団」の主要メンバーとして、この政争に深く介入していった 7 。この親族集団には、同じく守隆の娘を妻に迎えていた備後福山藩主・水野勝俊なども名を連ねており、彼らは連携して隆季の正統性を幕府に訴えた 7 。
忠能の行動の中でも特に注目すべきは、幕府に裁定を仰ぐために江戸へ参府した隆季を、自らの江戸藩邸に滞在させ、その活動拠点を提供したことである 7 。これは、亡き守隆の意向に公然と反旗を翻した隆季を庇護する行為であり、幕府の心証を損ないかねない、相応の政治的リスクを伴う大胆な決断であった。飢饉に苦しむ小藩の藩主という一面とは裏腹に、彼は大名間の複雑なパワーゲームの当事者として、自らの政治的信念に基づき、果断に行動できる人物だったのである。この一件は、江戸初期の大名社会における姻戚ネットワークの重要性と、藩の規模の大小にかかわらず、有力大名と連携することで一定の政治的影響力を行使し得たという、当時の政治力学の実態を如実に物語っている。
人物名 |
読み |
忠能との関係 |
役職・地位など |
備考 |
戸田忠能 |
とだ ただよし |
本人 |
三河田原藩 二代藩主 |
従五位下、因幡守 17 。 |
戸田尊次 |
とだ たかつぐ |
父 |
三河田原藩 初代藩主 |
関ヶ原、大坂の陣で武功。京都で病没 3 。 |
戸田忠次 |
とだ ただつぐ |
祖父 |
徳川家康の譜代家臣 |
三河一向一揆で家康方につき、信頼を得る 10 。 |
萬松院 |
ばんしょういん |
母 |
- |
徳川家重臣・松平伊忠の娘 2 。 |
久昌院 |
きゅうしょういん |
正室 |
- |
九鬼守隆の次女 2 。 |
戸田忠継 |
とだ ただつぐ |
弟 |
旗本 |
忠能の跡継ぎ問題において重要な役割を果たす 2 。 |
戸田忠昌 |
とだ ただまさ |
養子(甥) |
三河田原藩 三代藩主 |
忠継の長男。後に老中まで昇進する 6 。 |
九鬼守隆 |
くき もりたか |
義父 |
志摩鳥羽藩 初代藩主 |
忠能の正室・久昌院の父 16 。 |
九鬼隆季 |
くき たかすえ |
義兄 |
旗本 |
守隆の長男。家督相続問題の中心人物 7 。 |
江戸時代の大名家にとって、家の存続は何よりも優先されるべき至上命題であった。その根幹を揺るがしかねない最大の危機が、跡を継ぐべき男子(嗣子)がいないことによる家の断絶、すなわち「改易」の危機である。戸田忠能もまた、この問題に直面することになった。彼と正室・久昌院との間には、長らく世継ぎとなる男子が生まれなかったのである 2 。
この危機を回避するため、忠能は極めて現実的かつ賢明な決断を下す。彼は、実の弟である旗本・戸田忠継の長男、忠昌(幼名・忠治)を自らの養子として迎え入れ、後継者に定めた 2 。甥を養子とすることは、血縁的に最も近く、家臣団の動揺や家中での対立を最小限に抑えることができる最善の策であった。この養子縁組という一つの決断が、その後の戸田家の運命を大きく左右することになる。
藩政の安定に努め、飢饉や政争といった数々の困難を乗り越えてきた忠能であったが、正保4年(1647年)1月3日、62歳でその生涯に幕を下ろした 1 。
その亡骸は、渥美半島にある田原戸田家代々の菩提寺、愛知県田原市大久保町の雲龍山長興寺に手厚く葬られた。長興寺は、戸田氏の中興の祖である宗光が再興した古刹であり、現在も境内には、父・尊次や祖先たちの墓石と共に、忠能の墓所が静かに佇んでいる 2 。
戸田忠能の生涯を評価する上で、彼自身の治績以上に重要なのが、彼が後継者として選んだ養子・忠昌のその後の目覚ましい活躍である。忠能の死後、田原藩三代藩主となった忠昌は、極めて非凡な政治的手腕を発揮した。彼は伯父(養父)である忠能の遺領を継いだ後、寛文4年(1664年)に肥後国富岡(天草)へ2万1千石で転封となるのを皮切りに、武蔵国岩槻、下総国佐倉へと転封を重ねる中で着実に加増を受けた 6 。
そして、その能力が幕閣の中枢で高く評価され、寺社奉行、京都所司代という要職を歴任。ついには幕政の最高意思決定機関である「老中」にまで昇り詰めたのである 6 。忠昌の代に、戸田家の石高は7万石を超え、その家格と幕府内での影響力は、忠能の時代とは比較にならないほど飛躍的に高まった 22 。
この事実は、戸田忠能の最大の功績が、藩政の安定化や天災への対応といった藩主としての治世そのものよりも、むしろ自らの後継者として類稀なる才覚を持つ忠昌を選び、家を継がせたという一点にあった可能性を示唆している。忠能の晩年の治世は多難であったかもしれないが、彼が家長として下した養子縁組という決断は、結果として戸田家に輝かしい未来をもたらす「大成功」であった。彼の遺産は、彼自身の治世の成果以上に、次代に託した大いなる可能性の中にこそ見出されるべきであろう。
戸田忠能の生涯は、父祖が戦場で築き上げた武功という遺産を背負い、徳川による泰平の世を藩主として生き抜いた、江戸初期の譜代大名の軌跡を鮮やかに描き出している。彼は、関ヶ原、大坂の陣という戦乱の記憶を胸に、武力ではなく行政手腕が求められる新しい時代に適応し、検地による藩政基盤の安定化に努めた。その治世は、寛永の大飢饉という未曾有の天災や、九鬼家の御家騒動という複雑な政争への対応など、絶え間ない困難との対峙の連続であった。
歴史の表舞台において、忠能自身が華々しい功績を残した人物として語られることは少ないかもしれない。しかし、彼は幕府への忠勤という譜代大名としての本分を全うし、度重なる困難の中で藩の存続を守り抜いた。そして何よりも、後に老中として大成する養子・忠昌に家督を継がせるという、先見の明に満ちた決断を下すことで、戸田家の未来への道を切り拓いた。彼の生涯は、激動の時代において家と領地を守り、それを次代へと確実に繋ぐという、譜代大名に課せられた最も重要かつ困難な責務を、誠実に、そして見事に果たした「堅実なる藩主」の実像として、再評価されるべきである。彼の物語は、派手な成功の裏で、地道な努力によって時代を繋いだ無数の人々の存在を、我々に思い起こさせてくれる。