江戸時代前期、徳川幕府による統治体制が盤石となり、日本社会が「戦」の時代から「治」の時代へと大きく舵を切る中で、大名に求められる資質もまた劇的に変化した。武勇や軍功に代わり、領国を安定的に経営し、幕藩体制の一翼を担う行政官僚としての能力が重視されるようになった。美濃国大垣藩の二代藩主、戸田氏信(とだ うじのぶ)は、まさにこの過渡期を象徴する人物である。
島原の乱での武功や藩政の基礎を築いたことで知られる偉大な父、初代藩主・戸田氏鉄(うじかね)の存在感の大きさゆえに、氏信の治績は歴史の表舞台で語られる機会が少ない。しかし、彼の治世は、父が築いた礎を継承し、それを盤石なものへと発展させた、極めて重要な「守成」の時代であった。一見地味に見えるその統治の内実を深く掘り下げると、藩の法制度を整備し、一族の結束を固め、大垣藩がその後二百年以上にわたって存続するための恒久的な基盤を築き上げた、堅実な統治者の姿が浮かび上がる。
本報告書は、戸田氏信の生涯を、その出自から晩年に至るまで詳細に追跡するとともに、彼の行った藩政、特に分知政策や法令集「定帳」の制定といった具体的な治績を多角的に分析する。これにより、単なる「偉大な父を持つ二代目」という評価を超え、泰平の世における統治者として大垣藩の長期安定を決定づけた、氏信の歴史的役割を再評価することを目的とする。
戸田氏信の生涯と治績を理解するためには、まず彼が相続した大垣藩戸田家という政治的・経済的遺産の質と量を把握することが不可欠である。その礎は、祖父・戸田一西(かずあき)と父・戸田氏鉄によって築かれた。
大垣藩戸田家は、三河国を発祥とする戸田氏の一流である 1 。藩祖とされる戸田一西は、徳川家康に仕え、数々の戦功を挙げた武将であった 2 。小田原征伐などで功を立て、家康の関東入府に伴い武蔵国で五千石を与えられた後、関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)に近江国大津三万石を与えられ、さらに膳所城を築いて初代膳所藩主となった 3 。
その嫡男である戸田氏鉄は、父の跡を継ぎ、徳川幕府の譜代大名として重用された。慶長8年(1603年)に父の死により近江膳所藩を相続すると、大坂の陣では膳所城の守備を固めるなど、着実にその役割を果たした 3 。その功績により、元和2年(1616年)には二万石を加増され、摂津国尼崎五万石へ転封。さらに寛永12年(1635年)、五万石を加増されて美濃国大垣十万石の藩主となり、以後、戸田家は明治維新までこの地を治めることとなる 3 。
氏鉄の功績は、加増転封の経歴に留まらない。寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では、老中・松平信綱の副将格として出陣し、実戦経験の少ない幕府軍の中でその武功を高く評価された 4 。一方で、内政手腕も卓越しており、藩主として新田開発や治水治山事業に精力的に取り組み、大垣藩の藩政基盤を確立した 4 。特筆すべきは、新田開発の奨励によって、実に一万三千石もの増収を成し遂げたことである 3 。この氏鉄が創出した余剰の石高は、後に息子・氏信が断行する大規模な分知政策の原資となり、彼の治世の性格を決定づける上で極めて重要な意味を持つことになった。氏信は、単に十万石の藩を相続したのではなく、父が築き上げた「十万石に加えて、安定した統治基盤と経済的余力」という、非常に恵まれた条件の下でその治世を開始したのである。
戸田氏信は、慶長4年11月17日(西暦1600年1月3日)、のちの大垣藩初代藩主・戸田氏鉄の長男として誕生した 7 。幼名は新二郎と称した 7 。母は、松平(戸田)康長の娘である 3 。
大名家の嫡男として、彼は早くから徳川家との関係構築の道を歩み始める。慶長19年(1614年)、16歳の時には駿府城に赴き、大御所・徳川家康に拝謁し、銀50枚などを献上したという記録が残っている 7 。これは、次代を担う者として公的なお披露目を果たしたことを意味し、戸田家と徳川宗家の主従関係を確認する重要な儀礼であった。
氏信が家督を相続したのは、父・氏鉄が隠居した慶安4年(1651年)11月のことである 8 。この時、氏信は53歳(数え年)という、当時としては比較的高齢であった 3 。この事実は、彼の藩主としての資質を形成する上で見過ごすことのできない要素である。戦国の世であれば若くして家督を継ぎ、戦場で経験を積むことが常であったが、泰平の世における半世紀近い「世子」としての期間は、彼に異なる学びの機会を提供した。父・氏鉄が尼崎藩、そして大垣藩で展開する藩政の実態を、後継者の立場からじっくりと観察し、学習する時間があったのである。この長い待機期間は、衝動的な改革や独善的な政策ではなく、現実を見据えた堅実な安定化政策を志向する、彼の統治スタイルの素地を育んだと考えられる。武功よりも統治の実務を学ぶことに費やされたこの時間は、彼の治世が「守成」と評される所以を物語っている。
慶安4年(1651年)に家督を相続した戸田氏信は、以後、寛文11年(1671年)に隠居するまでの20年間にわたり、大垣藩二代藩主として領国経営にあたった。その治世は、父・氏鉄のような華々しい武功や大規模な転封こそなかったものの、幕府への着実な奉公と、藩の内部体制を磐石にするための諸政策によって特徴づけられる。
譜代大名である大垣藩主にとって、幕府から命じられる公役(天下普請)を勤め上げることは、最も重要な責務の一つであった。氏信の治績として、幕命による二条城の石垣普請で功を挙げたことが記録されている 8 。
この「二条城普請」という言葉は、三代将軍・徳川家光が後水尾天皇の行幸を迎えるために実施した、壮大な「寛永の大改修」(寛永元年~3年、1624年~1626年)を想起させる 12 。しかし、氏信が藩主となったのは慶安4年(1651年)であり、この時期を代表する大改修には関わっていない。年代的な整合性を考慮すると、氏信が担当したのは、彼の治世中である寛文年間(1661年~1673年)に行われた、城郭の維持・修復を目的とした普請であった可能性が極めて高い。『徳川実紀』をはじめとする同時代の史料には、この時期に京都において様々な普請が行われていたことが記されており 14 、氏信の石垣普請もその一環であったと推測される。
この事実は、氏信の治世の性格を象徴している。彼の功績は、新たな城を築いたり、壮麗な御殿を造営したりといった創造的な事業ではなく、既存のインフラを維持管理し、幕府から課せられた定常的な責務を地道に遂行することにあった。これは、戦乱が終息し安定期に入った江戸時代中期における、譜代大名の典型的な役割であり、彼の「守成」的な藩主像を裏付けるものである。
氏信の治世において、最も重要かつ戦略的な政策が、弟たちへの大規模な分知(ぶんち)であった。これは単なる財産分与に留まらず、戸田宗家の安泰と幕藩体制内での地位向上を企図した、高度な政治的判断に基づくものであった。
明暦元年(1655年)、氏信は父・氏鉄の遺言に従い、弟たちに領地を分与した 8 。具体的には、弟の戸田氏経に4000石、同じく弟の戸田氏照に4000石、そして四男(史料によっては弟とも記されるが、ここでは父の遺言という記述から弟と解釈するのが自然)の戸田氏利に5000石、合計で1万3000石という広大な土地を分け与えたのである 3 。この分知の原資となったのが、父・氏鉄が開発した「新墾地(しんこんち)」、すなわち新田であったことは極めて重要である 3 。つまり、藩の本来の石高を削ることなく、父が創出した余剰資産を活用して、家督相続に伴いがちな御家騒動のリスクを未然に防ぎ、同時に幕府直属の家臣である有力な旗本の分家を複数創設することに成功したのである。これにより、戸田一族全体の結束を強化し、その政治的地位を磐石なものとした。
一方で、氏信の治世は、大垣藩の家臣団に大きな変化をもたらした。父・氏鉄の時代に231人であった知行取の藩士は、氏信の治世下の寛文5年(1665年)には305人へと大幅に増加している 5 。これは藩の威勢を示す一方で、人件費の増大を意味し、藩財政に重い負担を強いることになった。
この「安定」の代償は、次代の藩主である息子・戸田氏西(うじあき)の時代に顕在化する。氏信の跡を継いだ氏西は、深刻な財政難に直面し、延宝8年(1680年)には176人もの家臣を解雇するという、大規模なリストラ策「延宝の大暇(えんぽうのおおひま)」を断行せざるを得なくなった 3 。氏信の寛容ともいえる家臣団の拡大政策が、結果として次代に大きな負の遺産を残したことは否めない。これは、近世の藩経営における、短期的な安定の維持と長期的な財政健全化との間に存在する、根深いジレンマを象徴する事例といえるだろう。
戸田氏信の藩政におけるもう一つの金字塔が、藩の法令集である「定帳(じょうちょう)」の制定である 9 。これは、属人的・慣習的であった統治を、明文化された法規に基づく恒久的・官僚的な統治体制へと移行させる、画期的な試みであった。
「定帳」の制定は、父・氏鉄が築いた藩政の基礎の上に、永続性のある統治システムを構築しようとする氏信の強い意志の表れであった。それは、戸田家の統治における根本法を整備する事業であり 18 、藩が「人治」から「法治」へと成熟していく過程を象徴するものであった。
その内容は、武家諸法度のような武士の心得に留まらなかった。『大垣市史』などの記録によれば、「定帳」には藩の経済活動に関わる具体的な規定が含まれていたことがわかる。例えば、延宝2年(1674年)頃の規定として、大垣船町の船数について「十九艘家持之船、十一艘店借之船、〆三十艘也」と正確に把握した上で、それらの船が担うべき藩の御用米輸送などの役務について詳細に定めていた 19 。
このように、武士階級の統制だけでなく、領内の経済インフラである水運業者といった町人たちの活動にまで法の網をかけ、その役割と義務を明確化したことは、藩が単なる軍事・政治組織ではなく、領内の社会経済全体を体系的に把握し、管理する近世的な行政体へと変貌を遂げつつあったことを示している。氏信が制定した「定帳」は、大垣藩の統治を近代化(近世化)させ、その後の長期安定の礎を築いた、極めて重要な業績であったと評価できる。
氏信の治世は、父・氏鉄の政策を継承し、領国の安定に努めたものであったが、その経済政策に目を向けると、より複雑な実態が浮かび上がる。特に注目すべきは、藩札の発行である。
史料によれば、大垣藩は寛文3年(1663年)に藩札を発行したとされる 20 。これは、全国的に見ても非常に早い時期の藩札発行であり、藩政史上、特筆すべき出来事である。藩札は、領内の貨幣流通を円滑にし、経済を活性化させるという側面を持つ一方で、その発行の主な動機は、多くの場合、藩の財政赤字を補填し、正貨である金銀の領外への流出を防ぐことにあった 21 。
大垣藩は、美濃国の諸藩の中で最も石高が大きく、安定した藩政を誇っていたとされる 5 。しかし、その安定期とされる治世の最中に、全国に先駆けて藩札を発行したという事実は、その内実が決して盤石ではなかったことを示唆している。これは、第二節で指摘した家臣団の増加による財政圧迫という仮説を強力に裏付ける証拠となる。表面的な安定は、藩札という新たな金融手段を用いた財政操作によって維持されていた側面があったのである。氏信は、父祖から受け継いだ領国を安定させる一方で、家臣団の拡充という政治的選択によって生じた財政的課題に直面し、その解決のために藩札発行という先進的、あるいは苦肉の策を講じた、現実的な統治者であったといえる。
20年にわたる治世の後、戸田氏信は穏やかな晩年を送り、83歳という長寿を全うした。彼の残した遺産は、制度的なものだけでなく、血縁を通じたネットワークとしても後世に大きな影響を与えた。
寛文11年(1671年)、氏信は73歳(数え年)で家督を長男の氏西に譲り、隠居の身となった 3 。藩主としての重責から解放された後も、彼の活動は続いた。
隠居の翌年、寛文12年(1672年)には、正室・千代の実家である越後長岡藩主・牧野家の菩提寺である大恩寺(現在の愛知県豊川市)に、山門を建立・寄進している 8 。この行為は、単なる篤い信仰心の発露と見るだけでは不十分である。譜代大名間の婚姻は、家と家とを結びつける重要な政略であった。隠居した元藩主が、妻の実家の菩提寺に多額の費用をかけて寄進を行うことは、牧野家に対する深い敬意と感謝を示すとともに、両家の強固な絆を内外に誇示する意味合いも持っていた。これは、跡を継いだ息子・氏西の代における牧野家との良好な関係を維持し、戸田家の姻戚ネットワークの盤石さを示す、巧みな政治的行為であったとも解釈できる。
その後、氏信は穏やかな余生を送り、天和元年11月14日(西暦1681年12月23日)、居城であった大垣にてその長い生涯を閉じた。享年83 7 。法号は「興林院天誉逸閑(こうりんいんてんよいつかん)」と贈られ 7 、その亡骸は歴代藩主とともに、大垣にある戸田家の菩提寺、旭光山円通寺に葬られた 4 。
戸田氏信は、多くの子女に恵まれ、その婚姻や分家を通じて、戸田家の血縁的ネットワークを大きく広げた。これは、江戸時代の大名家における重要な生存戦略であり、家の繁栄のための布石であった。
正室は、越後長岡藩主・牧野忠成の娘である千代であった 7 。彼女との間には、家督を継いだ長男・氏西をはじめ、男子だけで7人、そして複数の女子が生まれた 7 。彼らの動向は、大垣藩戸田家の勢力拡大と安定化に大きく寄与した。
氏信の主要な家族構成と、その婚姻・分家による関係を以下にまとめる。
関係 |
氏名 |
生没年 |
略歴・特記事項 |
父 |
戸田 氏鉄 |
1576-1655 |
大垣藩初代藩主。島原の乱で武功を挙げ、藩政の基礎を築く 3 。 |
母 |
- |
- |
松平(戸田)康長の娘 7 。 |
本人 |
戸田 氏信 |
1599-1681 |
美濃大垣藩二代藩主 7 。 |
正室 |
千代 |
- |
越後長岡藩主・牧野忠成の娘 7 。 |
長男 |
戸田 氏西 |
1627-1684 |
大垣藩三代藩主。財政難のため「延宝の大暇」を断行 8 。 |
次男 |
戸田 信言 |
?-1680 |
7 |
三男 |
戸田 氏春 |
1634-1672 |
将軍世子・徳川家綱に仕え、御小姓となる 24 。 |
四男 |
戸田 氏利 |
- |
父・氏鉄の遺言に基づき、氏信から5000石を分知される 3 。 |
五男 |
戸田 氏広 |
1639-1711 |
兄・氏西から新田二千石を分与され、旗本・戸田近江守家の祖となる 25 。 |
六男 |
戸田 信等 |
- |
7 |
七男 |
戸田 氏方 |
?-1715 |
子孫は分家し、後に大垣藩家老職を務める戸田縫殿家となる 24 。 |
長女 |
- |
- |
美濃郡上藩主・遠藤常友の正室となる 7 。 |
次女 |
筆子 |
- |
下野烏山藩主・板倉重常の正室となる 7 。 |
三女 |
- |
- |
旗本・高木貞長の室となる 7 。 |
この表から明らかなように、氏信の子女は、藩主家を継ぐ者、幕府の要職に就く旗本として分家する者、そして他の大名家や旗本へ嫁ぐ者と、それぞれが幕藩体制の中で重要な役割を担った。特に、息子たちが旗本として分家し、娘たちが他の譜代大名家と姻戚関係を結んだことは、江戸城内における戸田宗家の発言力を補強し、情報網を広げる上で計り知れない価値を持っていた。氏信の治世は、内政の安定化のみならず、血縁という最も強固な絆を用いて、家の将来を盤石にするための期間でもあったのである。
戸田氏信の歴史的評価は、「善政」か「悪政」かという単純な二元論では捉えきれない、多角的で複雑なものである。
まず、彼の最大の功績は、父・氏鉄が「創業」した大垣藩を、制度的に安定させた「守成」の藩主であった点にある。武断政治の時代が終わり、文治政治へと移行する過渡期において、彼は藩の法令集「定帳」を制定し、統治の仕組みを整備した。また、父の遺産である新田を活用した巧みな分知政策により、一族の結束を固め、御家の安泰を図った。これらの政策は、大垣藩がその後二百年以上にわたり存続するための、揺るぎない制度的基盤を築いたといえる。
しかし、その安定には代償が伴った。彼の治世下で増加した家臣団は、藩の財政を著しく圧迫し、次代の藩主・氏西に「延宝の大暇」という痛みを伴う改革を強いる直接的な原因となった。また、全国でも早期に行われた藩札の発行は、彼の先進性を示すと同時に、すでに彼の代から財政的な困難が始まっていたことを物語っている。氏西の緊縮財政は、氏信の拡大・安定政策の直接的な帰結であり、両者の治世は表裏一体のものとして理解されなければならない。
したがって、戸田氏信は、短期的な安定と長期的な持続可能性という、いつの時代の組織経営にも通じる課題に直面した統治者であった。彼は、一族の結束強化、統治システムの整備、家臣団の拡充による威勢の維持といった手段で、目の前の課題を解決しようとした。しかし、そのコストの支払いを、藩札発行や次世代への負担という形で先送りした側面も否定できない。彼は「課題解決者」であると同時に、「新たな課題の創出者」でもあった。この両面性を認識することこそ、彼に対する最も公正な歴史的評価といえるだろう。
美濃大垣藩二代藩主・戸田氏信は、戦国の遺風が薄れゆく泰平の世において、新たな時代の統治者像を体現した、堅実かつ重要な大名であった。彼は、偉大な父・氏鉄が築いた武功と富という遺産を巧みに継承し、それを単に消費するのではなく、藩の永続化のために戦略的に活用した。
弟たちへの大規模な分知は、父が残した新田を原資とすることで、宗家の石高を損なうことなく一族の結束を固め、幕府内における戸田家の政治的地位を強化した。藩の法令集「定帳」の制定は、属人的な支配から法に基づく体系的な統治への移行を促し、大垣藩の統治システムを近世的な行政機構へと成熟させた。これらの政策は、彼の20年間の治世が、大垣藩百年の安泰を決定づけた、決定的に重要な時代であったことを示している。
一方で、彼の治世がもたらした家臣団の増加とそれに伴う財政的課題は、藩政が決して理想論だけでは成り立たない現実を浮き彫りにする。次代の藩主・氏西が断行した厳しい財政改革は、氏信の「安定」政策が内包していた矛盾の表れであった。
総じて、戸田氏信は、華々しい武功や創造的な事業によって名を残したわけではない。しかし、彼は時代の変化を的確に捉え、父の遺産を未来への投資へと転換し、藩の制度と一族の絆を磐石なものとした。彼は、歴史の表舞台で脚光を浴びる「創業の英雄」ではないかもしれないが、組織の礎を固め、その永続性を確かなものにした「継承と安定の藩主」として、高く評価されるべき人物である。