戸田氏鉄(とだ うじかね)は、天正4年(1576年)から明暦元年(1655年)にかけての激動の時代を生きた、江戸時代初期の譜代大名である。彼の名は、美濃大垣藩の初代藩主として、あるいは大坂城の修築や島原の乱で活躍した武将として知られている 1 。しかし、その生涯を深く掘り下げると、単なる一介の大名に留まらない、時代の転換点を体現した「武将官僚(テクノクラート)」としての姿が浮かび上がってくる。
氏鉄の生涯は、戦国の武勇が求められた時代に生まれ、徳川幕府による中央集権体制が確立されていく泰平の世で、卓越した行政手腕と築城・治水といった土木技術をもって国家に貢献した軌跡そのものである。彼のキャリアを通じて一貫して見られるのは、主君である徳川将軍家からの絶大な「信頼」を基盤とし、天下普請と呼ばれる大規模な国家プロジェクトを成功に導き、その功績によって更なる信頼と加増・栄転という報酬を得るという、見事な好循環であった 3 。
本報告書では、この「信頼の獲得と再生産」のメカニズムを解明することを軸に、戸田氏鉄の80年にわたる生涯を多角的に分析する。三河武士としての出自から、近江膳所、摂津尼崎、そして美濃大垣と渡り歩いた藩主としての治績、さらには著作を通じて後世に伝えようとした為政者としての思想までを詳細に追うことで、彼が如何にして乱世を生き抜き、泰平の礎を築く一翼を担ったのかを明らかにする。
戸田氏鉄の成功は、彼個人の資質のみならず、父・一西が築き上げた徳川家からの厚い信望という、強固な基盤の上に成り立っていた。戸田氏は、三河国を発祥とする譜代の家臣であり、その歴史は古い 5 。氏鉄の父である戸田一西(かずあき)は、早くから徳川家康に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐では伊豆山中城攻めで武功を挙げるなど、歴戦の武将であった 6 。
一西の評価を不動のものとしたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける逸話である。徳川秀忠軍に従軍した一西は、中山道を進む途上、信濃上田城の真田昌幸攻めに固執する秀忠に対し、全軍の遅参を懸念して唯一諫言した。結果的に秀忠軍は関ヶ原の本戦に間に合わず、家康は激怒したが、後に一西の忠節を知ると「諫める者がおったか」と彼を高く評価し、自らの采配を授けてその忠義を賞賛したと伝えられる 6 。この出来事は、単なる武勇伝ではない。主君に対し、たとえ耳の痛いことであっても臆さず進言する家風を持つ、極めて信頼に足る家臣であるという評価を、戸田家にもたらした。これは、氏鉄の将来に計り知れない影響を与える無形の資産となった。
戦後、一西は近江国膳所に3万石を与えられ、初代膳所藩主となった。彼は琵琶湖の「瀬田しじみ」を藩の特産品として奨励するなど、藩政の基礎を築いたが、慶長9年(1604年)、落馬が原因で62歳の生涯を閉じた 6 。
戸田氏鉄は、天正4年(1576年)3月、戸田一西の長男として三河国二連木(現在の愛知県豊橋市)で生を受けた 2 。父が築いた徳川家からの信頼を背景に、氏鉄は早くから家康の近習として出仕し、エリートとしての道を歩み始める。文禄4年(1595年)には20歳の若さで従五位下采女正(うねめのかみ)に叙任されており、将来を嘱望されていたことが窺える 2 。
父が秀忠軍に属していたことから、氏鉄も慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、父と共に中山道を進軍した 7 。この時、彼は20代半ばであり、父の傍らで戦国の世の終焉と、徳川による新たな時代の幕開けを目の当たりにした。父・一西の死後、慶長9年(1604年)、氏鉄は29歳で家督を相続し、父が築いた近江膳所藩3万石の領主となった 2 。彼が継承したのは、領地や家臣団だけでなく、父が命がけで築き上げた「徳川家からの信頼」という、何物にも代えがたい財産であった。この信頼が、彼のその後のキャリアを大きく飛躍させる原動力となるのである。
表1:戸田氏鉄 略年譜
和暦(元号) |
西暦 |
年齢 |
出来事・役職 |
藩・石高 |
天正4年 |
1576年 |
1歳 |
三河国二連木にて誕生 |
- |
文禄4年 |
1595年 |
20歳 |
従五位下采女正に叙任 |
- |
慶長5年 |
1600年 |
25歳 |
関ヶ原の戦いに父・一西と共に従軍 |
- |
慶長9年 |
1604年 |
29歳 |
父の死去に伴い家督相続 |
近江膳所藩 3万石 |
慶長19年 |
1614年 |
39歳 |
大坂冬の陣。膳所城の守備を命じられる |
近江膳所藩 3万石 |
元和元年 |
1615年 |
40歳 |
大坂夏の陣。引き続き膳所城を守備 |
近江膳所藩 3万石 |
元和3年 |
1617年 |
42歳 |
摂津尼崎へ加増移封。尼崎城の築城を開始 |
摂津尼崎藩 5万石 |
寛永元年 |
1624年 |
49歳 |
大坂城再築工事の普請総奉行を務める |
摂津尼崎藩 5万石 |
寛永12年 |
1635年 |
60歳 |
美濃大垣へ加増移封 |
美濃大垣藩 10万石 |
寛永14年 |
1637年 |
62歳 |
島原の乱に副使として出陣 |
美濃大垣藩 10万石 |
寛永18年 |
1641年 |
66歳 |
将軍家綱誕生の際、箆刀の役を務める |
美濃大垣藩 10万石 |
慶安4年 |
1651年 |
76歳 |
隠居し、常閑と号す |
- |
明暦元年 |
1655年 |
80歳 |
大垣にて死去 |
- |
1
表2:戸田氏鉄 系譜
関係 |
氏名 |
備考 |
父 |
戸田一西 |
徳川家康の家臣。初代膳所藩主。 |
母 |
真木氏常の娘 |
|
正室 |
諷(ふう) |
松平康長の娘。母は家康の異父妹・松姫であり、氏鉄は徳川家と極めて近い姻戚関係にあった。 |
長男 |
戸田氏信 |
大垣藩2代藩主。 |
次男 |
戸田氏経 |
|
四男 |
戸田氏頼 |
|
五男 |
戸田頼鉄 |
|
六男 |
戸田氏照 |
島原の乱に出陣。後に将軍家綱の小姓を務める。 |
七男 |
戸田利鉄 |
|
長女 |
玉樹院 |
直江景明室、のち板倉重宗継室。 |
次女 |
於才(栄春院) |
本多正勝正室。 |
三女 |
於玉 |
戸田正家室。 |
四女 |
松光院 |
松平忠国室。 |
2
慶長9年(1604年)、父・一西の急逝により家督を継いだ氏鉄は、近江膳所藩3万石の第2代藩主となった 2 。膳所という土地は、徳川幕府にとって極めて重要な戦略拠点であった。琵琶湖の南端に位置し、湖上の水運を掌握するとともに、東海道の要衝として京都への入り口を扼する位置にあったからである 10 。この地に、父の代から引き続き譜代大名である戸田家が置かれたこと自体が、いまだ大坂城に健在であった豊臣家とその残党勢力に対する、幕府の強い警戒心と西国支配の意志を明確に示すものであった。氏鉄に課せられた使命は、単なる一藩の統治に留まらず、畿内における幕府の橋頭堡を守り抜くことであった。
氏鉄の藩主としての真価が問われたのが、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて勃発した大坂の陣(冬の陣・夏の陣)である。この一大決戦において、氏鉄は意外にも前線での戦闘部隊に加わるのではなく、居城である膳所城の守備に徹するよう幕府から厳命された 2 。
一見すると、これは地味で目立たない任務のように思える。しかし、その戦略的意味を考察すると、この命令こそが氏鉄に対する幕府の絶大な信頼の証であったことがわかる。膳所城は、大坂方が京都へ侵攻しようとした場合、必ず通過しなければならないルート上に存在する。もしこの拠点が突破されれば、徳川軍の背後は完全に脅かされ、兵站線は寸断され、作戦全体が崩壊しかねない。したがって、膳所城の守備は、徳川軍の生命線を確保するという、作戦の成否を左右する極めて重要な任務であった。
戦国的な「一番槍」の手柄を求めるような武将ではなく、大局的な戦略目標を理解し、自己の役割を忠実に、そして確実に遂行できる「組織人」としての能力。幕府が氏鉄に求めたのは、まさにこの資質であった。派手な武功を挙げることはなくとも、この戦略的忍耐を要する任務を完璧に果たしたことこそが、氏鉄の「戦功」として高く評価された。そして、この信頼の証明が、戦後の彼の大いなる飛躍へと繋がっていくのである 12 。
大坂の陣の終結から2年後の元和3年(1617年)、戸田氏鉄は2万石を加増され、合計5万石で摂津尼崎藩へと移封された 8 。この人事は、豊臣家が滅亡した大坂を幕府の天領(直轄地)とし、その周囲を信頼できる譜代大名で固めるという、徳川幕府の新たな西国支配体制の構築、いわば「大坂包囲網」政策の重要な一環であった 1 。尼崎は、大坂の西の玄関口にあたり、西国諸大名の動向を監視し、有事の際には大坂を防衛する「西の守り」として、軍事的・経済的に極めて重要な拠点と位置づけられた。この重責を担う初代藩主として、膳所での忠勤が評価された氏鉄が選ばれたのである 3 。
尼崎に着任した氏鉄に課せられた最初の、そして最大の任務は、幕府の威光を示す新たな近世城郭の築城であった。彼は幕府の命を受け、直ちに尼崎城の建設に着手し、壮麗な天守閣を持つ城を完成させた。同時に城下町の整備も進め、近世尼崎の基礎を築き上げた 3 。
しかし、氏鉄の真骨頂が発揮されたのは、幕府が総力を挙げて推進した巨大国家プロジェクト「大坂城再築工事」においてであった。彼は尼崎藩主としての務めの傍ら、この天下普請に深く関与する。特に寛永元年(1624年)には、工事の中心である本丸天守台や堀の普請総奉行という大役を任された 2 。これは、彼の持つ高度な土木技術、大規模な人員や資材を差配する管理能力、そして幕府の意図を正確に形にする実行力が、国家レベルで認められていたことを雄弁に物語っている。この時期、氏鉄はもはや一藩の主に留まらず、徳川幕府という巨大な「国家」のインフラ整備を担う、トップクラスの技術官僚(テクノクラート)へと変貌を遂げていた。この経験は、彼が「戦(いくさ)に強い武将」から、「国造り(くにづくり)に長けた能吏」へと自己の価値を転換・向上させたことを示しており、泰平の世が求める新たなリーダー像を体現していた。
氏鉄の能力は、軍事的な城郭建築だけに留まらなかった。彼は領民の生活を安定させる民政にも優れた手腕を発揮した。当時の尼崎は低湿地が多く、神崎川水系の度重なる水害に悩まされていた。氏鉄はこれに対処するため、神崎川分流の拡張・改修工事と築堤事業に着手した 13 。
この治水事業によって領民は水害の恐怖から解放され、農業生産も安定した。領民たちは彼の功績を称え、この改修された川を、氏鉄の官職名である「采女正(左門)」にちなんで「左門殿川(さもんどがわ)」と呼ぶようになった 13 。その名は現在も尼崎市と大阪市の境を流れる川として残り、彼の善政を今に伝えている。この逸話は、氏鉄の事業が単なる土木工事ではなく、領民の暮らしに寄り添う「民政」であったことを象徴している。尼崎での18年間にわたる統治は、彼に藩経営の貴重な経験と実績をもたらし、次の舞台である美濃大垣での大治績へと繋がっていくのである。
寛永12年(1635年)、尼崎での18年間の治績が認められ、戸田氏鉄はさらに5万石を加増、合計10万石の大名として美濃大垣へと移封された 1 。これにより、彼は譜代大名の中でも最高クラスの地位に上り詰めた。大垣は、中山道と伊勢路(美濃路)が交差する交通の要衝であり、東国と西国を結ぶ軍事上の重要拠点でもあった。関ヶ原の戦いでは西軍の拠点となった歴史を持つこの地に、幕府が絶大な信頼を置く氏鉄を10万石という大禄で配置したことは、徳川による全国支配体制を盤石にするという強い意志の表れであった 17 。
大垣藩主となった氏鉄は、尼崎で培った経験を存分に発揮し、藩政の永続的な基礎を築く二大事業に着手した。
第一に、 治水と新田開発 である。大垣藩領は、揖斐川、長良川、木曽川という三大河川が集中する輪中地帯であり、古くから水害が頻発していた 19 。氏鉄はこの難題に対し、藩政の最優先課題として治山治水に取り組んだ 4 。具体的な施策として、寛永13年(1636年)、揖斐川の増水時に洪水が城下へ逆流するのを防ぐため、水門川に「川口水門樋」を建設した 21 。これは尼崎での治水事業の経験を応用・発展させたものであり、彼の技術官僚としての面目躍如たるものであった。こうした大規模な治水事業の成功により、領内の水害は減少し、安定した新田開発が可能となった。その結果、大垣藩は実質的に1万3千石もの増収を達成し、藩財政の基盤は大きく強化された 2 。
第二に、 藩法の制定 である。氏鉄は、尼崎での統治経験の集大成として、全488条40法度から成る体系的な藩法『定帳(さだめちょう)』を制定した 13 。これは、江戸時代初期の藩政においては極めて稀な総合法典であり、単なる場当たり的な統治ではなく、法に基づく安定した支配を目指す彼の先進的な統治哲学と、実務能力の高さを物語っている 22 。この『定帳』によって、大垣藩における統治のルールが明確化され、以後235年間にわたって続く戸田家の治世の揺るぎない礎が築かれた。彼は一過性の成功ではなく、子孫が継承可能な「永続的システム」を構築することに心血を注いだのである。
大垣藩主として藩政の基礎固めに邁進していた寛永14年(1637年)、九州で島原の乱が勃発した。幕府はこれを重大事と捉え、老中・松平信綱を総大将とする大規模な討伐軍を派遣する。この時、氏鉄は信綱を補佐する副使(副将格)として、九州への出陣を命じられた 1 。62歳という高齢でありながら、この大役に任命されたことは、彼の武人としての経験と、冷静な政治的判断力が、依然として幕府から最高レベルの評価を受けていたことを示している。
彼は現地において、総大将・信綱と緊密に連携し、困難を極めた原城の攻略と、乱の鎮圧後の戦後処理に至るまで、その重責を見事に果たした 25 。この島原での奉公は、彼の武人としての一面を改めて示す最後の舞台となった。
戸田氏鉄が徳川将軍家から得ていた信頼は、石高や役職といった公的な評価だけに留まらなかった。そのことを象徴するのが、寛永18年(1641年)、三代将軍・徳川家光の嫡子である竹千代(後の四代将軍・家綱)が誕生した際に賜った栄誉である。氏鉄は、赤子のへその緒を切る儀式で用いられる「箆刀(へらとう)」を献上し、その役を務めるという大役を拝命した 2 。これは、武功や行政手腕だけでは決して得られない、将軍家からの極めて人格的な、そして私的な信頼の証であった。譜代大名として、これ以上の名誉はなかった。この事実は、彼が単に「仕事のできる家臣」ではなく、その実直で忠義に厚い人柄そのものが、将軍家から深く愛され、信頼されていたことを示している。
氏鉄は武人・官僚であると同時に、深い学識を持つ文化人でもあった。彼は当代随一の儒学者であった林羅山らと親しく交流し、儒学を熱心に学んだ 27 。そして、その統治哲学と人生観を、後世に伝えるために二つの重要な書物を著した。
一つは**『八道集』**である。この書は、「明君(めいくん)」「闇君(あんくん)」「良臣(りょうしん)」「倭臣(わしん、佞臣のこと)」「賢道」「愚道」「武道」「自欲」という八つの章から構成されている 29 。その目的は、理想的な君主と家臣のあり方、そして避けるべき姿を具体的に示すことで、君臣間の正しい関係(情義)を確立し、子孫への永遠の戒めとすることであった 13 。
もう一つは**『四角文集(しかくぶんしゅう)』**、または『志学文集』とも呼ばれる著作である。これは、学問、修身(自己の人格を修めること)、そして為政(政治を行うこと)に関する要諦をまとめたもので、為政者としての心構えを体系的に説いたものであった 13 。
これらの著作から明らかなのは、氏鉄が目指した統治が、単なる武力や権謀術数によるものではなく、儒教的な徳治主義、すなわち為政者自身の高い倫理観と自己規律に基づいたものであったということである。彼は自らの成功体験を、単なる個人の武勇伝や功績として終わらせるのではなく、普遍的な「為政者の道」として言語化・体系化し、それを藩の「家訓」として制度化することで、戸田家の永続的な繁栄を図ったのである。
慶安4年(1651年)、氏鉄は76歳で隠居し、家督を長男の氏信に譲った。その後は入道して「常閑」と号し、穏やかな余生を送った 2 。そして明暦元年(1655年)2月14日、泰平の世の礎を築いたその生涯を、居城である大垣城で閉じた。享年80 1 。
彼が築いた藩政の基礎と、文教を重んじる気風は、その後も大垣藩戸田家に受け継がれた 30 。氏鉄が定めた『定帳』は藩政の基本法典として機能し続け、彼が奨励した学問は、後の藩校設立へと繋がり、大垣を文教の地とする礎となった。大垣城前に今も立つ、彼の勇壮な騎馬像は、単なる一藩の祖としてだけでなく、徳川三百年の泰平を支えた偉大な武将官僚としての功績を、後世に静かに語りかけている 31 。
戸田氏鉄の生涯は、戦国の遺風が色濃く残る時代に生まれながら、泰平の世が求める新たな統治者の姿を誰よりも早く体現した、時代の移行期を象徴するものであった。彼は、三河武士としての武勇と忠誠心を受け継ぎつつ、築城や治水といった高度な専門技術を駆使する行政官僚としての能力を、国家的な規模で発揮した。
彼が後世に残した遺産は、二つの側面から評価できる。一つは、尼崎の左門殿川や大垣の治水施設といった、今なお地域社会に恩恵をもたらす物理的なインフラである。もう一つは、『定帳』という藩の基本法典や、『八道集』『四角文集』に示される統治思想といった、制度的・精神的な遺産である。彼は、単に目の前の課題を解決するだけでなく、その経験を普遍的なルールや思想に昇華させ、永続的なシステムとして次世代に継承する仕組みを構築した。
歴史的に見れば、戸田氏鉄のキャリアは、徳川幕府がいかにして「天下普請」という大規模公共事業を通じて全国支配を盤石なものとし、信頼できる譜代大名を用いて地方を安定させていったかを示す、絶好のケーススタディである。彼は、幕府の意図を正確に汲み取り、それを超える成果で応え、更なる信頼を獲得するというサイクルを回し続けた。その生涯は、徳川三百年の平和を築き上げた、名もなき、しかし偉大な「国造り」の功労者たちの一人として、高く評価されるべきである。