慶長5年(1600年)、日本の歴史を二分した天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦。その勝敗が徳川家康による新たな治世の幕開けを決定づけたことは広く知られている。しかし、この中央での激突と時を同じくして、遠く離れた東北地方、特に出羽国(現在の山形県および秋田県)においても、それに連動した大規模な軍事衝突が発生していた。後に「慶長出羽合戦」または「北の関ヶ原」と呼ばれるこの戦いは、本稿の主題である戸蒔義広(とまき よしひろ)の運命を決定づける、彼の生涯最後の舞台となった。
この戦いの発端は、豊臣秀吉の死後に顕在化した権力闘争に遡る。五大老筆頭として急速にその影響力を拡大する徳川家康に対し、豊臣政権の官僚であった石田三成を中心とする勢力は強い警戒感を抱き、両者の対立は日に日に先鋭化していった 1 。この中央政局の緊張は、地方の勢力図にも直接的な影響を及ぼした。家康は、豊臣恩顧の大名でありながら強大な軍事力を有する上杉景勝を危険視し、慶長3年(1598年)、景勝を越後から会津120万石へと移封する。これは、家康寄りの大名である伊達政宗(陸奥)と最上義光(出羽)で上杉を挟撃、牽制する狙いがあった。しかし、逆に上杉家は会津において、直江兼続の主導のもと、神指城の築城や武具の購入、街道整備といった大規模な軍備増強を開始し、隣接する最上・伊達両家にとって看過できない軍事的脅威となっていった 2 。
この上杉家の不穏な動きを口実に、家康は諸大名を動員しての「会津征伐」を断行する。この軍事行動は、表向きは豊臣政権への反逆者を討つという名目であったが、その実、諸大名に対して徳川方か反徳川方かの立場を明確にさせる「踏み絵」としての意味合いが強かった。出羽角館の若き当主・戸沢政盛や、仙北六郷の六郷政乗といった出羽の諸将もこの動員令に応じ、東軍として上杉領への進撃路確保という重要な役割を担うべく、主君家康のもとへ馳せ参じた 4 。
そして慶長5年7月、家康率いる東軍主力が下野国小山(現在の栃木県小山市)に達したまさにその時、石田三成が畿内で挙兵したとの報が届く。家康は会津征伐を中止し、軍を西へ返すことを即座に決断した。この決定により、東北地方は、家康の命を受けて東軍の防衛線を担う最上・伊達勢と、西軍の主力として東国に釘付けにされた上杉景勝勢との直接対決の舞台と化したのである 2 。
この慶長出羽合戦は、単なる関ヶ原の「地方戦」という側面だけでは語れない。豊臣政権下で一時的に抑え込まれていた東北大名間の旧来の領土紛争が、中央の政変を絶好の機会として一気に噴出した「清算」の戦いでもあった。特に、最上義光と小野寺義道は長年にわたり仙北・雄勝郡の領有を巡って激しく争っており、その遺恨は根深いものがあった 3 。小野寺義道が当初は東軍に与する姿勢を見せながらも、最終的に積年の宿敵である最上氏を攻撃し、西軍に与したと見なされる行動を取った背景には、この地域的な対立構造が存在する。
戸蒔義広の戦死は、この中央の政争と地方の旧怨が複雑に絡み合った、慶長出羽合戦という大きな動乱の渦中における一つの悲劇であった。彼の生涯を理解するためには、まずこの「北の関ヶ原」という壮大な歴史的背景を把握することが不可欠なのである。
戸蒔義広という武将の人物像に迫る上で、彼がその名を負う「戸蒔氏」の出自と、戦国時代の仙北地方(現在の秋田県仙北郡、大仙市、仙北市周辺)における一族の立ち位置を解明することは、極めて重要である。戸蒔氏は、この地の歴史に深く根を張りながらも、乱世の荒波の中で複雑な生存戦略を余儀なくされた、典型的な在地領主であった。
戸蒔氏の起源については、複数の伝承が残されている。一つは、清和源氏の流れを汲む新羅三郎義光の末裔であり、八幡太郎義家の時代から仙北の地に住んでいたとするものである 8 。また、甲斐源氏、すなわち武田氏の庶流であるとする説も存在する 9 。これらの伝承の真偽を直接証明する史料は乏しいが、戦国時代において地方の在地領主が自らの家格と支配の正統性を権威づけるため、源平藤橘といった名門の系譜に連なろうとしたことは一般的であり、戸蒔氏もその例に漏れなかったと考えられる。
彼らがその勢力を本格的に伸張させたのは室町時代後期頃からとされ、戦国時代に入る頃には仙北地方に確固たる地盤を築いていた 8 。その本拠地は、現在の秋田県大仙市大曲戸巻町に位置した戸蒔城であった 8 。発掘調査や地勢から、戸蒔城は大規模な山城ではなく、二重の堀と土塁を巡らせた「環濠屋敷」形式の城館であったと推定されている 8 。これは、有事の際の防御拠点であると同時に、平時における領主の政庁兼居館としての機能を併せ持っていたことを示唆している。
しかし、この戸蒔城も時代の大きなうねりには抗えなかった。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉による奥州仕置が断行される。この際、戸蒔城は主家である戸沢氏が支配する「戸沢三十五城」の一つとして、破却を命じられた 8 。これは、秀吉政権が全国の大名・豪族の軍事力を削ぎ、中央集権的な支配体制を確立しようとした「城割」政策の一環であった。この事実は、この時点で戸蒔氏が独立した領主ではなく、角館城主・戸沢氏の支配構造に完全に組み込まれた被官、すなわち家臣となっていたことを明確に物語っている。
戦国時代の仙北地方は、北の安東(秋田)氏、南の小野寺氏、そして中央部に勢力を拡大する戸沢氏や六郷氏といった有力大名がひしめき合い、その勢力圏が複雑に入り組む、まさに群雄割拠の地であった。このような厳しい環境の中で、戸蒔一族は一枚岩の勢力としてではなく、各々が異なる主君に仕えるという、極めて特異な形でその血脈を保っていた。
現存する史料によれば、戸蒔一族の動向は以下のように整理できる 8 。
人物名 |
仕えた主君(勢力) |
拠点・役職など |
典拠 |
戸蒔 義広 |
戸沢氏 |
戸蒔城主 |
8 |
戸蒔 市正 |
檜山安東氏 |
不明 |
8 |
戸蒔 甲斐守 勝実 |
六郷氏 |
不明 |
8 |
戸蒔 中務少輔 |
小野寺氏 |
不明 |
8 |
戸蒔 越中守 充包 |
(独立勢力か) |
荒川城主 |
8 |
戸蒔 越中守 光祐 |
(独立勢力か) |
荒川城主 |
8 |
この表が示す事実は驚くべきものである。本稿の主題である戸蒔義広は戸沢氏に仕えているが、その一方で、戸沢氏と仙北の覇権を争った宿敵である小野寺氏や安東氏にも、戸蒔姓を名乗る者が仕えていたのである。これを単なる一族の分裂や内紛と捉えるのは表層的な解釈に過ぎない。むしろ、これは弱小な在地領主が激動の時代を生き抜くために編み出した、巧みな「保険戦略」であった可能性が高い。
当時の東北地方では、昨日までの同盟相手が今日の敵となることは日常茶飯事であり、勢力図は常に流動的であった。特定の一大名に一族の命運の全てを賭けることは、極めて高いリスクを伴う。そこで、一族の各分家がそれぞれ異なる有力者に仕えることで、どの勢力が最終的に地域の覇者となっても、いずれかの家系を通じて「戸蒔」という血筋そのものは存続できる、というリスク分散を図ったのではないか。この仮説に立てば、戸蒔義広が主家である戸沢氏のために忠誠を尽くして戦死した一方で、その敵である小野寺氏にも同族が仕えていたという一見矛盾した状況は、一族全体の生存というマクロな視点からは、極めて合理的な選択であったと解釈できるのである。戸蒔義広は、このような複雑で錯綜した一族の背景を背負った武将であった。
戸蒔義広が忠節を尽くし、その命を捧げた主家・戸沢氏。彼の行動原理を理解するためには、義広が仕えた時代の戸沢氏が、いかに激動の運命を辿ったかを知る必要がある。特に、義広が直接仕えたであろうカリスマ的当主・戸沢盛安の時代と、その死後に訪れた家督相続の危機、そして幼い新当主・戸沢政盛の擁立という一連の出来事は、戸蒔義広を含む家臣団の結束と忠誠心を形成する上で決定的な役割を果たした。
戸蒔義広が家臣として最も濃密な時間を過ごしたであろう主君は、戸沢氏第18代当主・戸沢盛安(1566-1590)である。永禄9年(1566年)に生まれた盛安は、病弱な兄に代わり、天正6年(1578年)にわずか13歳で家督を相続した 11 。若年ながらその器量は群を抜いており、智勇に優れた采配で次々と周辺の敵を打ち破り、戸沢氏の勢力を飛躍的に拡大させた。その戦いぶりは凄まじく、周辺の諸大名から「鬼九郎」あるいは「夜叉九郎」と呼ばれ、深く恐れられたという 11 。
盛安の人物像を伝える逸話は、彼の類稀なる武将ぶりを物語っている。彼は総大将でありながら常に陣頭に立ち、単騎で敵勢の中に突っ込むほどの荒武者であった。その一方で、捕虜とした兵士は斬らずに解放したり、部下を深く慈しんだりと、慈悲深い一面も併せ持っていたと伝えられる 11 。このような、苛烈さと温情を兼ね備えたカリスマ性は、戸蒔義広をはじめとする家臣団の心をとらえ、絶対的な忠誠心を引き出す源泉となったに違いない。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、盛安はその類い稀な行動力を発揮する。商人に変装してわずかな供回りのみで敵陣を突破し、秀吉に謁見。その大胆さを賞賛され、北浦郡4万4,000石の所領を安堵された 11 。しかし、その直後、小田原城が落城する前に陣中にて突然病死してしまう。享年25。あまりにも早すぎる、流星のような生涯であった 11 。戸蒔義広は、この若き主君の目覚ましい活躍と劇的な死を、家臣の一人として間近で経験したはずである。
盛安の死後、家督は弟の光盛が継いだ。しかし、その光盛も文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵に従軍する途上の姫路にて病没。光盛には跡を継ぐ子がおらず、戸沢家は後継者不在という、改易・断絶の絶体絶命の危機に直面した 13 。
この国家存亡の瀬戸際において、戸沢家の家臣団は驚くべき行動に出る。彼らは、かつて盛安が鷹狩りの際に見初めた百姓の娘との間に儲けた庶子・安盛(後の政盛)の存在を探し当てる。当時、安盛は母の再嫁先である東光坊という山伏のもとで、一介の百姓の子として育てられていた。家臣団は、この幼い庶子こそが主家の血を引く唯一の希望であると判断し、なんと養父である東光坊を斬殺して安盛を奪い取ると、急ぎ大坂城へ上らせて秀吉に謁見させ、家督相続の承認を取り付けたのである 13 。
この一連の出来事は、戸沢家家臣団の驚くべき結束力と、主家存続にかける常軌を逸した執念の現れである。戸蒔義広もまた、この「主君擁立劇」に加わった家臣団の中核の一人であった可能性が高い。自らの手で探し出し、担ぎ上げた幼い主君・政盛を守り、支え、盛り立てていくことは、彼らにとって封建的な主従関係を超えた、極めて個人的で強い責任感を伴う使命となったはずである。
盛安の強烈なカリスマの下で培われた恩義と忠誠心。そして、その死後に訪れた断絶の危機を、家臣団が一丸となって乗り越えた「主家再興」の成功体験。この二つの経験が、戸蒔義広の忠誠心を、いかなる困難にも揺るがない強固なものへと昇華させていたと推測される。彼が慶長出羽合戦において、若き主君・政盛のために命を懸けて戦う背景には、このような深く、そして熱い主従の絆が存在していたのである。
戸蒔義広がその命を散らすことになった慶長出羽合戦は、単一の戦場ではなく、出羽国全域にわたって複数の戦線が同時に展開された、複雑な様相を呈する広域戦であった。その全体像を把握することは、戸蒔義広が置かれた状況と、彼が担った役割の戦略的重要性を理解する上で不可欠である。この戦いは、最上義光と直江兼続が激突した主戦場「長谷堂城の戦い」と、それに呼応して最上領を脅かした小野寺義道の動きという、二つの大きな軸によって展開された。
関ヶ原へ向けて徳川家康が軍を西へ返した直後、西軍の主力として東北に留まった上杉景勝は、重臣・直江兼続に約2万ともいわれる大軍を預け、東軍方の最上義光が守る山形領への侵攻を開始した 2 。慶長5年9月、上杉軍は最上領の南の玄関口である畑谷城を攻撃。城主・江口光清以下わずか500の城兵は、主君・義光からの撤退命令を拒否して玉砕覚悟で抵抗し、上杉軍に1,000人近い死傷者を負わせる奮戦を見せたものの、圧倒的な兵力差の前にその日のうちに落城した 2 。
畑谷城を攻略した兼続は、最上氏の本拠・山形城まで約8キロの地点に位置する最重要拠点、長谷堂城へと軍を進め、菅沢山に本陣を敷いて城を包囲した 2 。しかし、ここでも城主・志村光安と援軍の鮭延秀綱らわずか1,000の兵が、地の利を生かした巧みな防戦術と決死の夜襲を繰り返し、上杉軍の猛攻をことごとく跳ね返した。この長谷堂城での頑強な抵抗により、上杉軍の進撃は完全に停止し、戦線は膠着状態に陥った 2 。
最上軍が長谷堂城で上杉軍主力を引きつけている間、最上領の背後では新たな脅威が生まれていた。横手城主・小野寺義道である。義道は、最上義光と雄勝郡(現在の秋田県南部)の領有を巡って長年激しく対立しており、この戦乱を積年の恨みを晴らし、失地を回復する絶好の機会と捉えた 3 。彼は上杉景勝に呼応する形で挙兵し、最上領南部の重要拠点である湯沢城を大軍で包囲攻撃したのである 2 。
この小野寺軍の動きは、最上義光にとって致命的な脅威であった。もし湯沢城が陥落すれば、最上軍は上杉軍と小野寺軍による挟撃を受けることになり、戦線は一気に崩壊しかねない状況であった。湯沢城では城将・楯岡満茂が奮戦し、小野寺軍の侵攻を遅滞させていたが 2 、長谷堂城と湯沢城の二正面で敵の大軍を相手にしなければならない最上軍の苦境は、極めて深刻であった。
この絶体絶命の窮地において、最上義光は同盟軍に救援を求める。一つは、関係が悪化していた伊達政宗への援軍要請であり、もう一つが、同じく東軍に属していた戸沢政盛や六郷政乗ら仙北の諸将に対する、小野寺領への攻撃要請であった。戸沢・六郷勢に小野寺領へ逆侵攻させることで、湯沢城を攻める小野寺軍の注意を自領の防衛に向けさせ、その背後を突くことで、最上軍本隊への圧力を軽減させる狙いがあった。戸蒔義広は、この極めて重要な反攻作戦を担う戸沢軍の部将の一人として、主君・政盛の指揮下で出陣することになったのである 8 。
以下の表は、慶長出羽合戦における主要勢力の配置と役割をまとめたものである。これを見れば、戸蒔義広が参戦した戦線が、合戦全体の戦略の中でいかに重要な位置を占めていたかが理解できる。
陣営 |
主要武将 |
主な軍勢 |
担当戦線・役割 |
典拠 |
東軍 |
最上 義光 |
最上軍本隊 |
VS 上杉軍(長谷堂城防衛) |
2 |
|
伊達 政宗 |
伊達軍(援軍) |
最上軍後詰、上杉領侵攻 |
17 |
|
戸沢 政盛 |
戸沢軍 |
VS 小野寺軍(小野寺領侵攻) |
11 |
|
六郷 政乗 |
六郷軍 |
VS 小野寺軍(小野寺領侵攻) |
5 |
|
楯岡 満茂 |
最上軍分隊 |
VS 小野寺軍(湯沢城防衛) |
2 |
西軍 |
直江 兼続 |
上杉軍本隊 |
最上領侵攻(長谷堂城攻撃) |
2 |
|
小野寺 義道 |
小野寺軍 |
最上領侵攻(湯沢城攻撃) |
3 |
|
下 秀久 |
上杉軍分隊 |
最上領侵攻(谷地城占拠) |
2 |
9月29日、関ヶ原での西軍大敗という衝撃的な報せが、長谷堂城を包囲する直江兼続のもとに届く。もはや戦を継続する大義も勝機も失われたことを悟った兼続は、全軍の撤退を決断。翌10月1日より、最上・伊達連合軍の猛烈な追撃を受けながらも、前田利益(慶次)や水原親憲らの獅子奮迅の働きにより、見事な殿(しんがり)戦を展開し、大軍を整然と米沢へと帰還させた。この撤退戦は「直江の退き口」として後世に語り継がれることになる 2 。
主戦場における上杉軍の撤退は、慶長出羽合戦全体の攻守を完全に逆転させた。東軍は一斉に反撃に転じ、戸蒔義広が属する戸沢軍もまた、小野寺領の深奥部へと進撃を開始した。彼の最後の戦いは、この総反攻の最前線で繰り広げられたのである。
慶長出羽合戦の戦局が東軍優位へと劇的に転換する中、戸沢政盛率いる軍勢は、最上義光の要請に応え、宿敵・小野寺義道の領国へと侵攻した。この軍勢の一翼を担った戸蒔義広は、やがて「角間川(かくまがわ)」と呼ばれる地で、その生涯を閉じることになる。断片的に残された史料を繋ぎ合わせ、彼の最後の戦いを可能な限り詳細に再現する。
戸蒔義広が戦死した角間川は、現在の秋田県大仙市角間川町一帯にあたり、当時、単なる一集落ではなかった。この地は雄物川とその支流が合流する地点にあり、近世を通じて雄物川舟運の最重要拠点の一つとして栄えた河港都市であった 23 。雄勝・平鹿といった内陸部で収穫された米穀をはじめとする物資は、この角間川港に集積され、川舟によって下流の土崎港へと運ばれ、そこから北前船で京・大坂へと送られた。
このため、角間川は小野寺氏にとって領国の経済を支える大動脈であり、軍事的な観点からも補給線を維持するための極めて重要な戦略拠点であった。戸沢軍がこの地の制圧を目指して進軍したことは、小野寺氏の経済基盤と兵站線に致命的な打撃を与えるという、明確な戦略的意図があったことを強く示唆している。
複数の史料は、戸蒔義広の戦死を「慶長5年(1600年)10月」と記録している 8 。この時期は、関ヶ原合戦本戦(9月15日)の敗報が東北地方に伝わり、上杉軍が撤退を開始した(10月1日)直後のことである。この事実から、義広が参加した戦いは、東軍が総反攻に転じた後の、攻勢作戦の一環であったことがわかる。守勢に回り、自領の防衛に徹しようとする小野寺軍に対し、戸沢軍が勝利に乗じて攻め込んだ、激しい戦闘であったと推測される。
戸沢政盛の軍に属する戸蒔義広の部隊は、小野寺方の防衛線を突破し、雄物川沿いに進軍、戦略目標である角間川へと迫った。これに対し、小野寺義道も自領の生命線を守るべく、防衛部隊を差し向けた。両軍は角間川の地で激しく衝突。この激戦の最中、戸蒔義広は奮戦及ばず、討死を遂げたと伝えられている 8 。
彼の死が、敗走中の無念の死ではなく、主家の勝利を確実にするための総攻撃の先鋒として、敵の頑強な抵抗に遭い壮絶に散った栄誉あるものであった可能性は高い。彼は、主君・戸沢政盛が近世大名として生き残るための礎の一つとして、その命を捧げたのである。
戸蒔義広の最期を語る上で、一つの謎が残されている。『戸沢家譜』などの史料には、彼の名と共に、一門として「戸蒔右京(うきょう)」「戸蒔光祐(みつすけ)」「戸蒔市正(いちのかみ)」「戸蒔勝美(かつみ)」といった名が列記されている 11 。彼らが義広と共に角間川で戦ったのか、それとも単に戸沢家に仕えた戸蒔一族の主要人物として記録されているだけなのかは、判然としない。
しかし、第一章で考察した一族の分散状況と照らし合わせると、興味深い可能性が浮かび上がる。
これらの人物が実際に角間川の戦いに参陣していたとすれば、この戦いは戸沢家の家臣・戸蒔義広個人の戦いというだけでなく、周辺の諸勢力に仕えていた戸蒔一族の一部が、東軍という旗の下に結集して小野寺氏と戦った、一族にとっても重要な局面であったのかもしれない。しかし、これを断定するにはさらなる史料の発見が待たれる。確かなことは、戸蒔義広という武将が、この角間川の地で、主家への忠義を胸にその生涯を終えたという歴史的事実だけである。
慶長出羽合戦の終結は、出羽国の勢力図を決定的に塗り替えた。戸蒔義広の死を代償の一つとしてこの戦いを乗り切った戸沢氏と、彼が命を懸けて戦った小野寺氏。両家の戦後の運命は、あまりにも対照的なものであった。そして、一人の忠臣として歴史の転換点に生きた戸蒔義広の記憶は、時代の流れの中に静かに刻まれることとなる。
慶長出羽合戦における戦功を徳川家康に認められた戸沢政盛は、その後の論功行賞により、大きな飛躍を遂げる。慶長7年(1602年)、戸沢氏はそれまでの出羽角館から常陸松岡(現在の茨城県高萩市)4万石へと転封(領地替え)された 13 。これは、家康が戸沢氏の忠誠を評価し、江戸に近い関東の地に配置することで、譜代大名に準ずる存在として組み込み、近世大名へと脱皮させようとする明確な意図があったと考えられる。戸蒔義広の死は、主家がこの新たな地位を築くための、痛みを伴う礎となったのである。戸蒔氏の残存一族も、この主家の転封に従い、先祖代々の地である仙北を去ったと伝えられている 9 。
さらに戸沢氏は、元和8年(1622年)、最上家が改易されたことに伴い、出羽新庄(現在の山形県新庄市)6万石(後に加増)へと移封され、故郷である出羽国への栄転帰還を果たした 13 。以後、戸沢家は新庄藩主として明治維新に至るまで、十一代にわたってこの地を治め、その血脈を現代にまで伝えている。
一方、西軍に与した小野寺義道の運命は過酷であった。関ヶ原の戦後処理において、徳川家康は西軍に味方した大名に厳しい処分を下す。慶長6年(1601年)、小野寺氏は改易を命じられ、その広大な所領は全て没収された。当主・義道は遠く石見国津和野(現在の島根県津和野町)へと配流の身となり、ここに鎌倉時代から続いた仙北の名門、戦国大名としての小野寺氏は滅亡した 3 。
戸蒔義広の名は、彼が命を捧げた主家・戸沢氏の歴史の中に、確かに記録として残されている。『戸沢家譜』をはじめとする関連史料は、彼を関ヶ原の戦役において忠節を尽くした家臣の一人として記している 11 。彼の死は、戸沢家が近世大名として存続するための、数多の犠牲の上に築かれた栄光の歴史の一ページを構成している。
しかしながら、彼の個人的な記憶を辿ることは極めて困難である。戦死の地である角間川や、その周辺地域に、彼の墓所や供養塔、あるいはその死を悼む伝承といったものは、現在のところ確認されていない。これは、戊辰戦争の戦死者の墓が同地域に残されているのとは対照的である 31 。また、主家である戸沢氏が後に本拠地とした新庄においても、彼の名を顕彰するような痕跡は見出すことができない。これは、戦国乱世において主君のために命を落とした数多の武将たちの多くが、個人の具体的な記憶としては歴史の大きな物語の中に埋もれていった、という厳しい現実を示している。
戸蒔義広という一人の武将に関する直接的な史料は、決して多くはない。彼の生没年すら定かではなく、その具体的な人物像を詳細に描くことは叶わない。しかし、彼を取り巻く主家・戸沢氏の激動の歴史、敵対した小野寺氏の動向、そして「慶長出羽合戦」という巨大な戦乱の文脈を丹念に読み解くことで、歴史の霧の向こうに、一人の忠臣の輪郭は鮮やかに浮かび上がってくる。
彼の生涯と死は、戦国末期という時代の大きな転換点を象徴している。中央の政争の波が地方の勢力図を根底から塗り替え、旧来の在地領主たちが、近世的な大名とその家臣団という新たな支配構造へと再編されていく過程。戸蒔義広は、まさにその渦中で、自らの一族が持つ複雑な背景を背負いながら、仕えるべき主君への純粋な忠誠を貫き、戦場に散った。彼の存在は、名もなき多くの武士たちの犠牲の上に、徳川の平和(パックス・トクガワーナ)が築かれたことを物語る、一つの貴重な証言なのである。