斎村政広(さいむら まさひろ)という武将の名は、日本の歴史、特に戦国時代の終焉を告げた関ヶ原の戦いを語る上で、しばしば特異な存在として言及される。一般的に彼は、「関ヶ原の合戦で西軍から東軍へ寝返ったものの、戦後の鳥取城攻めで城下を焼き討ちした罪を問われ、徳川家康の命により切腹させられた武将」として、その生涯の断片をもって記憶されている 1 。この逸話は、彼に「功を焦って過ちを犯した不運な人物」というレッテルを貼り、歴史の表舞台から退場させてきた。
しかし、彼の生涯を深く掘り下げていくと、この単純化された人物像とは大きく異なる、複雑で奥行きのある姿が浮かび上がってくる。その最も象徴的な証言が、文禄・慶長の役で日本に捕虜として連行された朝鮮王朝の高官であり儒学者の姜沆(カン・ハン)が、その抑留記録である『看羊録』に残した一節である。姜沆は、当時の日本の武将たちを厳しく批判する中で、政広(当時は赤松広通)に限り、次のような異例の賛辞を送っている。「日本の将官は、すべてこれ盗賊であるが、ただ、広通だけは人間らしい心をもっています」 3 。
この「仁政の主君」として異国の知識人から称賛されるほどの人間性と、戦後の「焼き討ちの罪人」として断罪される非業の最期。この二つの評価の間に横たわる深刻な乖離こそ、斎村政広という人物の実像に迫る上で解き明かさねばならない最大の謎である。本報告書は、彼の出自である名門・龍野赤松氏の栄光と没落から、織豊政権下でのキャリア、但馬竹田城主としての文化的側面に光を当て、そして運命を分けた関ヶ原での行動と、その死の真相に至るまでを徹底的に調査・分析する。これにより、一人の武将の悲劇を通して、戦国末期から江戸初期へと移行する時代の力学と、天下人・徳川家康の冷徹な国家構想を浮き彫りにすることを目的とする。
斎村政広の出自である龍野赤松氏は、室町時代に播磨守護として四職に数えられた名門・赤松氏の有力な支流であった。政広の家系は、本家である守護赤松氏(七条流)が養子によって血統を繋いだのに対し、血筋の上ではむしろ嫡流に近い家柄と見なされることもあった 1 。この事実は、一族内に複雑な内紛の火種を抱えさせると同時に、龍野赤松氏に強い自負と名門意識を植え付けた。政広の生涯を通じて見られる、失われた権威の回復への執念ともいえる行動の根源には、この名門としての矜持が存在したと考えられる。
政広の父・赤松政秀は、智勇に優れた武将であり、衰退した赤松宗家を庇護し、主家を凌ぐほどの勢力を播磨に築き上げた人物であった 6 。彼は、浦上政宗を討つなど赤松氏の再興に尽力する一方で、主家である赤松義祐とは対立し、独立勢力化する野心も持っていた 6 。しかし、その勢力拡大は周辺の諸将との激しい摩擦を生む。特に、小寺政職とその家臣であった黒田官兵衛(孝高)との「青山・土器山の戦い」で奇襲を受けて大敗を喫し、多くの有力家臣を失ったことは決定的であった 7 。
軍事力を大きく削がれた政秀は、西播磨の覇権を失い、浦上宗景への降伏を余儀なくされる。そして元亀元年(1570年)、政秀は浦上方の者によって毒殺されたと伝えられており、その生涯は悲劇的な結末を迎えた 4 。父が築き上げた権勢が、その目前で崩れ去り、ついには暗殺されるという現実は、幼い政広の心に深く刻み込まれたに違いない。
斎村政広は永禄5年(1562年)に生まれた 1 。父・政秀が元亀元年(1570年)に没し、その直後に兄の広貞も死去したため、政広はわずか9歳前後という若さで龍野赤松氏の家督を継承することとなった 1 。しかし、彼が継いだのは、かつての栄光の影もなく、権力闘争に敗れた弱小勢力の家督に過ぎなかった。家勢はすでに地に落ち、中央で勢力を拡大する織田信長の方面軍に属する荒木村重に人質を差し出すことで、かろうじて家の存続を図るという苦しい立場に置かれていたのである 1 。
名門の血を引きながらも、現実は大国の間で翻弄される無力な当主であるという厳しい現実。この理想と現実の大きな乖離こそが、政広の人物像を形成する上で決定的な役割を果たした。父・政秀が力の論理に敗れた姿を目の当たりにした彼は、単に武力に頼るのではなく、中央の巨大な権力にいかに取り入り、その中で生き残っていくかという、より現実的で政治的な処世術を、否応なく学ばざるを得なかったのである。この経験が、後の羽柴秀吉への迅速な降伏や、文化的な権威への接近といった、彼の柔軟かつ戦略的な行動に繋がっていく。
天正3年(1575年)、14歳であった政広(当時は広英と名乗る)は、小寺政職や別所長治ら播磨の諸将と共に上洛し、織田信長に謁見している 1 。当初は織田方に属したものの、翌年には毛利・宇喜多勢が播磨に侵攻すると、それに従うなど、弱小勢力として大国の間で巧みなバランス外交を展開していた。しかし、天正5年(1577年)、羽柴秀吉が織田軍の総大将として播磨に本格的に進軍してくると、16歳の政広は大きな決断を迫られる。彼は秀吉の軍事力を前にして抵抗することなく、本拠地である龍野城を無血で明け渡した 1 。
旧領安堵を訴えたものの、その願いは聞き入れられず、龍野城は秀吉の重臣である蜂須賀正勝に与えられた。政広には鵤(いかるが)周辺のわずかな所領が与えられたのみで、蜂須賀正勝の「与力」、すなわち配下の武将という屈辱的な立場に置かれることになった 1 。この時、蟄居を命じられた家老の所領、平井郷佐江村(あるいは才村)が、後に彼が「斎村」という姓を名乗る由来になったとする説もある 3 。名門赤松氏の当主が、本拠地を失い、一介の与力に身を落としたこの出来事は、彼の雌伏時代の始まりであった。
与力という立場に置かれた政広であったが、彼は不遇を嘆くことなく、武将としての本分を全うすることで活路を見出そうとした。備中高松城の戦いを皮切りに、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、そして四国攻めと、蜂須賀正勝の軍勢の中核として各地を転戦する 1 。特に賤ヶ岳の戦いでは蜂須賀隊の先鋒を指揮し、正勝不在時には全軍の統括を任されるなど、その軍事的能力は高く評価されていた 1 。この雌伏の時代を通じて、彼は武将としての実務能力と、逆境に耐える忍耐力を証明し、総大将である秀吉の信頼を着実に勝ち取っていったのである。
転機は天正13年(1585年)に訪れる。四国攻めの論功行賞において、蜂須賀家政が阿波一国を与えられて移封されると、政広もその功績を認められ、但馬竹田城主二万二千石の大名として取り立てられたのである 1 。これにより、彼は蜂須賀氏の与力という立場から解放され、秀吉の直臣、すなわち独立した大名としての地位を獲得した。これは、龍野城を失ってから約8年を経ての、見事な復活劇であった。
彼の豊臣政権内での地位向上は、これに留まらない。天正15年(1587年)には、秀吉自身の計らいにより、五大老の一人である宇喜多秀家の妹(備前の梟雄・宇喜多直家の娘)を正室として迎えることになった 1 。秀吉の養子格であった秀家との姻戚関係は、政広を豊臣一門に準ずる存在として位置づけるものであり、政権内での彼の立場を飛躍的に高めた。さらに『武家事紀』によれば、秀吉の親衛隊ともいえる精鋭「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一員にも選ばれており 1 、彼が単なる外様大名ではなく、秀吉個人の厚い信頼を得た「豊臣恩顧」の大名と見なされていたことは明らかである。
豊臣政権の中核を担う大名の一人として、政広は天下統一事業にも動員された。天正18年(1590年)の小田原の役では後備として駿河に駐屯し、文禄元年(1592年)に始まった文禄の役では、兵800を率いて朝鮮半島へ渡海、釜山城の在番衆(守備隊)の一員として任務に就いた 3 。この異国での駐留経験は、彼の視野を広げるとともに、後の朝鮮人儒学者・姜沆との運命的な出会いに繋がる重要な伏線となった。
この時期、彼は名を「広秀」から「広通(ひろみち)」へと改めている 3 。彼の生涯における頻繁な改名は、その時々の彼の立場や心境の変化を反映しているとも考えられ、興味深い。
年代 (西暦/和暦) |
名乗り |
主要な出来事 |
立場・石高 |
1575年 (天正3年) |
赤松 広英 |
織田信長に謁見 |
播磨龍野城主 |
1577年 (天正5年) |
赤松 広英 |
羽柴秀吉に龍野城を開城 |
蜂須賀正勝の与力 (鵤周辺) |
1582年 (天正10年) |
赤松 広秀 |
備中高松城の戦いに従軍 |
蜂須賀正勝の与力 |
1585年 (天正13年) |
赤松 広秀 |
但馬竹田城主に封じられる |
豊臣秀吉直臣 (2万2千石) |
1595年頃 (文禄4年頃) |
赤松 広通 |
伏見城普請に参加 |
豊臣秀吉直臣 (2万2千石) |
1600年 (慶長5年) |
斎村 政広 |
関ヶ原の戦いに参戦 |
豊臣秀頼家臣 (2万2千石) |
与力という不遇から、自らの武功と忠誠によって豊臣政権の中枢に近い大名へと駆け上がった政広。この「豊臣恩顧」というアイデンティティの確立は、秀吉の治世においては栄誉の証であったが、時代の歯車が徳川家康へと回り始めるとき、それは彼の首を絞める危険なレッテルへと変貌していくことになる。
斎村政広の人物像を語る上で、武将としての側面と同等、あるいはそれ以上に重要なのが、領主として、また文化人としての一面である。彼は、戦乱の世が終わり、武力だけでなく統治能力や教養が為政者に求められる新しい時代への転換を、誰よりも深く理解し、実践しようとした先進的な大名であった。
政広が城主となった但馬竹田城は、今日「天空の城」として世界的に知られるが、その壮麗な総石垣の姿は、まさしく彼の時代に築かれたものである 4 。近年の発掘調査では、城内広範囲に石畳が敷かれていたことなどが判明しており、一個人の大名による事業というよりは、豊臣政権の強力な支援のもとで行われた大規模な城普請であった可能性が指摘されている 10 。これは、但馬と播磨、丹波を結ぶ交通の要衝である竹田城を、豊臣政権がいかに重視していたか、そしてその城主に抜擢された政広への信頼の厚さを物語っている。
彼はまた、優れた領国経営者でもあった。領内では養蚕業や漆器産業といった地場産業を奨励し、民生の安定に努めた 3 。特に彼が奨励した漆器作りは、現代に続く竹田の家具製造業の礎になったと伝えられている 11 。こうした善政により、政広は領民から深く敬愛され、「仁政の主君」として慕われた 11 。その死から140年近く経った元文四年(1739年)、但馬地方が深刻な飢饉に見舞われた際、領民たちは政広が奨励した養蚕のおかげで苦難を乗り越えることができたと感謝し、彼の供養塔を建立したという逸話が残っている 5 。これは、彼の仁政が単なる美談ではなく、後世まで領民の生活を支え続けた確かな実績であったことを示している。
政広の文化的志向を最もよく表しているのが、近世日本儒学の祖と称される藤原惺窩との深い交流である。惺窩が故郷の播磨に一時帰郷していた際、政広はその学識に深く感銘を受け、経済的な援助を申し出るとともに、自らも弟子として漢学、特に当時最新の学問であった朱子学を学んだ 1 。惺窩の援助によって四書五経に朱子学に基づく訓点が施されたことは、日本の思想史における画期的な出来事であり、その背後に政広という一人の武将の支援があったことは特筆に値する 16 。この師弟関係は、政広が単に武勇に優れただけの武将ではなく、新しい時代の統治理念を学問に求めようとする、高い知性と教養の持ち主であったことを何よりも雄弁に物語っている。
政広の人間性を最も鮮やかに描き出しているのが、朝鮮の儒学者・姜沆との交流である。慶長の役の際、藤堂高虎の軍に捕らえられ、日本へ捕虜として連行された姜沆は、当代随一の碩学であった藤原惺窩と交流を持つようになる。そして惺窩の紹介を通じて、政広とも知己を得た 4 。
姜沆は、日本での抑留生活を綴った『看羊録』の中で、政広(作中では広通)について驚くべき評価を残している。彼は、日本の武将たちを「盗賊のようだ」と断じる一方で、政広だけは例外であるとし、「ただ、広通だけは人間らしい心をもっています」と記した 3 。さらに、「彼は大陸の文物や制度を見習おうとしており、日本にいるのにまるで日本人ではないようだ」とまで評し、その国際的な視野と、儒教的な「仁」の精神に基づいた人間性を絶賛している 4 。
この評価は、単なる社交辞令ではなかった。政広は姜沆の学識を深く尊敬し、彼に四書五経や朱子学関連の書物を筆写させ、その知識を吸収しようと努めた 16 。そして、姜沆が故国へ帰る際には、その費用を準備するなど、密かに帰国を支援したのである 4 。敵国の捕虜でありながら、その人物と学識を尊重し、人道的に接し、師として教えを乞う。このような態度は、戦国の殺伐とした価値観の中では異質であり、政広がいかに儒教的教養に根差した普遍的な人間観を持っていたかを示している。この高潔ともいえる精神性と、彼の最期を決定づけた「焼き討ち」という行為との間の埋めがたい断絶こそが、斎村政広という人物の悲劇性の核心をなしている。
文化人として仁政を敷き、領民に慕われた斎村政広であったが、豊臣秀吉の死は、彼の運命を大きく狂わせる。天下の覇権をめぐる徳川家康と石田三成の対立は、全国の大名を二分する関ヶ原の戦いへと発展。政広もまた、この歴史の奔流に否応なく巻き込まれていく。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、政広は石田三成が率いる西軍に与した 3 。この選択は、いくつかの要因から極めて自然なものであった。第一に、彼の正室は西軍の総大将格であった五大老・宇喜多秀家の妹であり、義兄弟という極めて強い姻戚関係にあったこと 3 。第二に、彼自身が秀吉の赤母衣衆に選ばれるなど、豊臣家への恩顧が深い大名であったこと 1 。これらの背景から、彼が西軍に加担したのは、豊臣家への忠義と人間関係に基づく当然の帰結であったといえる。西軍の一員として、政広は細川幽斎が籠城する丹後田辺城の包囲軍に加わり、その一翼を担った 1 。
しかし、9月15日に行われた関ヶ原の本戦は、小早川秀秋らの裏切りによってわずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わる。この報せを受けた政広は、田辺城の包囲を解き、急ぎ居城である但馬竹田城へと兵を返した 3 。敗軍の将となった彼が生き残る道は、もはや東軍へ降伏する以外になかった。
その好機をもたらしたのが、東軍として但馬・因幡方面へ進軍してきた因幡鹿野城主・亀井茲矩であった。茲矩と政広は旧知の間柄であり、その説得に応じる形で、政広は東軍に降伏。さらに、東軍方として戦功を挙げることで、自らの罪を償い、家の安泰を図ろうとした 3 。
東軍への寝返りを果たした政広に、亀井茲矩から与えられた任務は、西軍方の宮部長房が籠る因幡鳥取城の攻略であった 1 。鳥取城は、かつて秀吉が「渇え殺し」で落としたことで知られる堅城であり、この時も宮部方の兵は徹底抗戦の構えを見せ、容易には陥落しなかった 19 。
この攻城戦の最中、政広の部隊が城下町に火を放ち、市街の大部分を焼き払うという事件が起きる 2 。この「焼き討ち」によって鳥取城は開城に至るが、この行為が彼の運命を暗転させる直接の原因となった。
寝返りという不確かな立場に置かれた政広にとって、東軍総帥である徳川家康に対して自らの忠誠と存在価値を証明するためには、目に見える「戦功」が何よりも必要であった。鳥取城攻めが長引けば、他の東軍部隊に手柄を奪われる恐れもある。功を焦る心理が、彼を早期攻略のための強硬策、すなわち「焼き討ち」という焦土戦術へと駆り立てた可能性は高い。
さらに、この作戦を主導したとされるのが、共に城を攻めていた亀井茲矩である。因幡の地理と情勢に詳しく、尼子氏再興運動以来のしたたかな策略家として知られる茲矩が、この過激な戦術を立案し、功を焦る政広をその実行者として巧妙に誘導したのではないか。第三章で見てきた政広の「仁政」の理念とは全く相容れないこの破壊行為は、彼の置かれた極限状況と、戦国の世を生き抜いてきた猛者の狡猾な計算が交錯する中で引き起こされた、悲劇的な決断であったといえよう。
鳥取城を陥落させた斎村政広であったが、彼を待っていたのは恩賞ではなく、あまりにも過酷な運命であった。彼の死は、単なる一個人の罪の裁きという次元を超え、徳川家康が築こうとする新しい天下の秩序を象徴する、極めて政治的な出来事であった。
関ヶ原の戦いが終わり、天下の趨勢が完全に徳川方に定まった後、家康は鳥取城下での焼き討ちを厳しく問題視した。「合戦も終結し勝敗も決した状況において、城下を焼き払い、無関係の町民や百姓を苦しめるとはもってのほかである」というのが、家康が下した断罪の理由であった 2 。そして、この罪により、政広には切腹が命じられた。慶長5年(1600年)10月28日、政広は鳥取の真教寺において自刃。享年39、あまりにも短い生涯であった 3 。彼の死後、居城であった竹田城は没収され、やがて廃城となった 3 。
この不可解な処分については、当時から様々な憶測が飛び交っていた。最も根強く語られているのが、鳥取城攻めを共に戦った亀井茲矩が、焼き討ちの全責任を政広一人に押し付け、家康に讒言したとする説である 18 。
亀井茲矩は、尼子氏の遺臣として再興運動に身を投じて以来、数々の苦難を乗り越えてきた、したたかな武将であった。秀吉の死後は、いち早く家康に接近し、東軍として参戦している 18 。彼にとって、西軍からの寝返り組である政広は、自らの戦功を際立たせる上で格好の競争相手であり、同時に、焼き討ちという失策の責任を転嫁するには最適な存在であった。家康の歓心を買うため、そして自らの保身と恩賞を確実なものにするために、茲矩が政広を犠牲にした可能性は、状況証拠から見て極めて高いと考えられる。
しかし、政広の死の背景には、亀井茲矩の個人的な策謀をさらに超えた、家康自身の冷徹な政治的意図があったと見るべきである。
第一に、政広と宇喜多秀家との関係である。政広は西軍の総大将格であった宇喜多秀家の義弟という、極めて近い関係にあった。関ヶ原敗戦後、逃亡した秀家を政広が匿っているのではないかという疑惑が、家康の耳に入っていたとされる 3 。豊臣家の中核であり、最大の敵の一人であった秀家との繋がりは、家康にとって到底看過できるものではなかった。
第二に、より重要なのが、豊臣恩顧の大名に対する「見せしめ」としての効果である。関ヶ原に勝利したとはいえ、家康の目の前には、加藤清正、福島正則をはじめとする、依然として強大な軍事力を保持し、豊臣家への忠誠心が根強い大名たちが数多く存在した。彼らを効果的に統制し、徳川の支配体制を盤石なものにするためには、「アメ(加増・転封)」と「ムチ(改易・処罰)」を巧みに使い分ける必要があった 25 。
この文脈において、斎村政広は「ムチ」の対象として、これ以上ないほど都合の良い存在であった。彼は豊臣恩顧の大名であり、西軍の中核・宇喜多氏と縁戚関係にあり、そして「城下焼き討ち」という、処断するための分かりやすい口実があった。家康は、この好機を逃さず政広を厳罰に処すことで、他のすべての豊臣恩顧大名に対し、「徳川の新しい秩序に逆らう者は、たとえ東軍として功績を挙げた者であっても容赦はしない」という強烈なメッセージを送りつけたのである。政広の死は、徳川による新たな支配体制の確立を内外に示すための、政治的な生贄であったといえる 29 。
政広の処断がいかに異例であったかは、関ヶ原で同じく西軍から東軍へ寝返った他の大名たちの戦後処遇と比較することで、より鮮明になる。西軍から東軍への寝返りという行為自体は、戦国の世の常であり、多くは許され、あるいは功績として評価された。しかし、その中で死罪を命じられたのは、斎村政広ただ一人であった 22 。
大名名 |
戦前の石高 |
関ヶ原での主な行動 |
戦後の処遇 |
戦後の石高 |
備考 |
斎村 政広 |
但馬竹田 2万2千石 |
丹後田辺城攻撃後、東軍に寝返り鳥取城を攻撃 |
切腹・改易 |
0石 |
城下焼き討ちの罪。 |
小早川 秀秋 |
筑前名島 30万7千石 |
本戦で西軍を裏切り大谷隊を攻撃 |
加増 |
備前・美作 51万石 |
寝返りの功が最大と評価された。 |
脇坂 安治 |
淡路洲本 3万石 |
本戦で寝返り |
本領安堵 |
淡路洲本 3万石 |
後に伊予大洲へ加増転封。 |
朽木 元綱 |
近江高島 2万石 |
本戦で寝返り |
本領安堵 |
近江高島 2万石 |
後に常陸土浦へ転封。 |
赤座 直保 |
越前今庄 2万石 |
本戦で寝返り |
改易 |
0石 |
大谷吉継隊への攻撃が遅れたため。 |
小川 祐忠 |
伊予今治 7万石 |
本戦で寝返り |
改易 |
0石 |
事前の内通がなかったため。 |
この表が示すように、関ヶ原の勝敗を決定づけた小早川秀秋が大幅な加増を受けたのは当然としても、他の寝返り組の多くは所領を安堵されている。改易となった赤座直保や小川祐忠でさえ、死罪は免れている。この事実こそ、政広の死が単なる罪の清算ではなく、家康の高度な政治的判断に基づいていたことの何よりの証左である。彼が築き上げた文化人としての名声や、領民を慈しんだ仁政は、新しい時代の秩序を構築しようとする天下人の冷徹な計算の前では、何の意味も持たなかったのである。
斎村政広は、徳川の世の礎として政治的に抹殺され、大名としての家は断絶した。しかし、彼の記憶は、中央の政治史が記す「罪人」という一面的な評価とは異なる形で、後世に受け継がれていくこととなる。
政広の墓所は、彼が非業の最期を遂げた因幡国鳥取の真教寺と、かつての領地であった但馬国竹田の法樹寺に、今も静かに佇んでいる 3 。特に注目すべきは、竹田に残る供養塔である。これは彼の死から140年近くも後の時代に、かつての領民たちが建立したものである 5 。但馬地方を襲った大飢饉の際、人々は政広が奨励した養蚕業によって得られる収入で苦難を乗り越えることができた。その恩に感謝し、故君の霊を慰めるために建てられたこの供養塔は、彼が単なる戦国の武将ではなく、領民の生活を豊かにし、その死後も長く「名君」として記憶され続けた稀有な領主であったことを物語っている。中央の権力者が下した評価とは別に、彼が治めた土地には、確かに「仁政」の記憶が息づいていたのである。
大名としての斎村(赤松)家は滅びたが、その血脈は途絶えなかった。政広の子孫は、但馬国宵田村(現在の兵庫県豊岡市周辺)で帰農し、代々村長(庄屋)を務め、藩主から70石の扶持を与えられていたという伝承が残っている 22 。また、政広の弟である赤松祐高は、兄の死後、流浪の身となるが、慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、浪人衆として大坂城に入城。豊臣秀頼に仕え、最後まで豊臣家への忠義を貫いて討死した 22 。この祐高の行動は、斎村一族が抱いていた豊臣家への恩顧の念が、決して浅いものではなかったことを示唆している。
斎村政広は、播磨の名門としての誇りを胸に、武勇と教養を兼ね備え、儒教的な仁政を志した理想主義的な武将であった。彼は、戦乱から統治の時代へと移行する歴史の転換点において、新しい為政者像を体現しようとした先進的な人物であったといえる。
しかし、豊臣から徳川へと権力の重心が劇的に移行する激動の中で、彼の「豊臣恩顧」という立場、そして宇喜多氏との深い縁は、あまりにも大きな政治的リスクを伴うものとなった。彼の悲劇的な最期は、個人の資質や能力、あるいは理想だけでは抗うことのできない、時代の巨大なうねりと、天下人の冷徹な政治力学の前に、一人の人間がいかに無力であるかを示す歴史の教訓である。彼が所持していた名刀「斎村貞宗」が、切腹の際に徳川家によって没収された 2 ことは、彼の武威と誇り、そしてその命そのものが、新しい時代の秩序の中に吸収されていったことを象徴する出来事であった。歴史の記憶の中に、彼は「仁政の主君」と「悲劇の将」という二つの顔を持ちながら、今も我々に静かに問いかけ続けている。