戦国時代の美濃国(現在の岐阜県南部)といえば、油商人から身を起こし、主家を乗っ取って一国の大名に成り上がった斎藤道三の「国盗り物語」が広く知られている 1 。しかし、その華々しい下克上の物語には、重要な前史が存在する。道三によって歴史の表舞台から姿を消すことになった、美濃の旧来の名門権力者たちの存在である。本報告書が光を当てる斎藤利良(さいとう としなが)は、まさにその旧勢力の最後の抵抗を象徴する人物であった。
斎藤利良は、美濃守護・土岐氏を凌ぐ権勢を誇った守護代・斎藤氏の嫡流として生を受けた。彼の生涯は、祖父と父の悲劇的な死に始まり、主家の内紛に身を投じ、権力の座と亡命の双方を経験し、そして最後は台頭する新興勢力の前に没落していくという、波乱に満ちたものであった。その軌跡は、守護・守護代という室町時代以来の権威と秩序が、「実力」という下克上の論理によって解体されていく時代の転換点を、まさに凝縮した形で示している。
本報告書は、従来、道三の物語の序章、あるいは単なる「踏み台」として語られがちであった斎藤利良という人物について、現存する史料を丹念に読み解き、その生涯を多角的に再構築するものである。彼の行動原理を、持是院斎藤家の盛衰、主家・土岐氏の内紛、そして斎藤道三の台頭という三つの大きな歴史的文脈の中に位置づけることで、その歴史的意義を深く考察することを目的とする。
年代(西暦/和暦) |
斎藤利良の動向 |
美濃国の動向 |
関連人物・諸国の動向 |
1497年(明応5年) |
幼少期。祖父・妙純と父・利親が近江にて戦死 3 。 |
持是院斎藤家の権力に動揺。叔父の又四郎、彦四郎が家督を継承 5 。 |
六角高頼との合戦帰路に土一揆が蜂起 4 。 |
1512年(永正9年) |
叔父・彦四郎を追放し、持是院家の家督を継承、守護代となる 7 。 |
守護・土岐政房と守護代・彦四郎が対立 8 。 |
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1517年(永正14年) |
土岐頼武を擁立し、頼芸派との合戦に勝利 5 。 |
土岐氏の内紛が武力衝突に発展。 |
長井長弘、長井規秀(道三)らが頼芸を支持 5 。 |
1518年(永正15年) |
頼芸派の反撃に敗北。主君・頼武と共に越前へ亡命 9 。 |
斎藤彦四郎が頼芸派に加わり美濃に帰国 8 。 |
越前守護・朝倉孝景を頼る 5 。 |
1519年(永正16年) |
朝倉軍の支援を受け美濃に帰還。頼武を守護とし、守護代に復帰 5 。 |
土岐政房が死去。頼武が美濃守護となる 9 。 |
朝倉孝景が弟・景高に3000の兵を率いさせ美濃へ派遣 8 。 |
1521年(永正18年) |
この頃を境に、史料上での活動が確認されなくなる 5 。 |
斎藤利茂が新たな守護代として史料に登場 6 。 |
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1525年(大永5年) |
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長井長弘らがクーデターを起こし、頼武・斎藤方が「山入」する 13 。 |
越前朝倉氏が頼武救援のため稲葉山城を攻撃 13 。 |
1538年(天文7年) |
9月1日、死去。病死説と殺害説がある 5 。 |
長井規秀が斎藤氏の名跡を継承し、斎藤新九郎利政と名乗る 15 。 |
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斎藤利良の生涯を理解する上で、彼が背負った一族の歴史、特に祖父・斎藤妙純が築き上げた絶大な権力とその突然の崩壊を知ることは不可欠である。利良は、栄光の頂点にあった名門の嫡流として生まれたが、その権力基盤は彼の預かり知らぬところで既に脆弱性を内包していた。
美濃斎藤氏は、平安時代の鎮守府将軍・藤原利仁を祖とするとされる名門である 17 。鎌倉時代に国司の代官である目代として美濃に入国したのがその始まりと伝えられ、室町時代には美濃守護・土岐氏の被官となり、やがて守護代の地位を確立していった 18 。
室町時代中期、美濃斎藤氏の内部で大きな権力構造の変化が起こる。本来の守護代の家系である帯刀左衛門尉家(斎藤利藤の系統)に対し、分家であった斎藤妙椿(みょうちん)が台頭し、持是院(じぜいん)家を創設した 20 。この持是院家は、応仁の乱などの混乱に乗じて主家である土岐氏の権力を凌駕し、美濃における実質的な支配者となった 18 。
利良の祖父にあたる斎藤妙純(みょうじゅん、利国とも)は、この妙椿の跡を継ぎ、持是院家の権勢をさらに拡大させた人物である。彼は主君である守護・土岐成頼や政房の後継問題に深く介入し、自らの意のままに守護を擁立するなど、「影の実力者」として美濃国に君臨した 18 。この妙純の絶大な権力こそ、孫である利良が生まれながらにして継承すべき、輝かしい遺産であった。
しかし、その栄光はあまりにも突然、そして悲劇的な形で終焉を迎える。明応5年(1497年)12月、妙純は近江の六角高頼との戦いを有利な和議で終え、意気揚々と美濃への帰路についていた 3 。その道中、美濃勢は予期せぬ土一揆の蜂起に遭遇する。長期にわたる近江への出兵に不満を蓄積させていた郷民や馬借たちが、不意を突いて襲いかかったのである 4 。
油断していた美濃勢はなすすべもなく、妙純とその嫡男であり利良の父である斎藤利親(としちか)は、多くの将兵と共にこの乱戦の中で討ち死にしてしまった 3 。この事件は、持是院家の権力中枢を一瞬にして壊滅させる大打撃となった。
この時、利良はまだ幼名の勝千代を名乗る幼子であったため、家督を継ぐことはできなかった 5 。家督は、利良の叔父にあたる妙純の次男・又四郎、そしてその死後は三男・彦四郎が継承することになる 3 。しかし、彼らには妙純ほどの器量はなく、この権力の中枢における混乱と空白は、これまで抑えられていた守護・土岐政房の復権や、長井氏をはじめとする他の国人たちの台頭を許す絶好の機会を与えてしまった 3 。
利良が継承した権力は、制度的な「守護代」という職そのものよりも、祖父・妙純という一個人の卓越した政治力と軍事力に大きく依存していた。そのカリスマ的指導者が後継者と共に突然失われたことで、持是院家の権力基盤は根底から揺らいだのである。利良の生涯は、この脆弱な権力を、激動の時代の中でいかにして維持しようとしたか、その苦闘の記録であったと言えよう。
祖父と父の死によって生じた権力の動揺は、美濃国を新たな内乱の時代へと導いた。成長した斎藤利良は、この混乱の中で自らが継承すべき権力を取り戻すべく、主家・土岐氏の家督争いの渦中へと身を投じていく。彼の政治的キャリアは、隣国をも巻き込んだ激しい権力闘争の連続であった。
美濃国の混乱の核心にあったのは、守護・土岐政房の後継者問題であった。政房は、正室の子である嫡男・頼武(よりたけ、政頼とも)を疎んじ、寵愛する側室の子である次男・頼芸(よりのり)に家督を継がせようと画策した 5 。この政房の意向が、美濃国人を二分する深刻な対立を引き起こした。
斎藤利良は、持是院斎藤家の当主として、また守護代筆頭として、正統な後継者である頼武を支持した 5 。これは、家格と血筋を重んじる旧来の秩序を守る立場として当然の選択であり、自らの権威を再確立するための行動でもあった。
一方、頼芸を擁立したのは、小守護代の長井長弘(ながい ながひろ)や、その配下で頭角を現しつつあった長井規秀(のりひで)、すなわち後の斎藤道三であった 5 。彼らにとってこの内紛は、既存の権力構造に揺さぶりをかけ、斎藤氏持是院家に代わって美濃の実権を握るための千載一遇の好機であった。こうして美濃国は、利良を中心とする「頼武派」と、長井氏を中心とする「頼芸派」との間で、抜き差しならない対立状態に陥ったのである。
陣営 |
主要人物 |
関係性 |
頼武派(旧秩序派) |
土岐頼武(政頼) |
土岐政房の嫡男。正統後継者。 |
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斎藤利良 |
美濃守護代(持是院家)。頼武の筆頭支持者。 |
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朝倉孝景(宗淳) |
越前守護。利良の従兄であり、頼武の舅。最大の支援者。 |
頼芸派(新興勢力) |
土岐頼芸 |
土岐政房の次男。父の寵愛を受ける。 |
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長井長弘 |
小守護代。頼芸派の中心人物。 |
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長井規秀(斎藤道三) |
長井長弘の家臣。謀略で頭角を現す。 |
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斎藤彦四郎 |
利良の叔父。当初頼武派だったが、後に頼芸派に寝返る。 |
永正14年(1517年)12月、両派の対立はついに武力衝突に至る。この最初の合戦では、斎藤利良が率いる頼武派が勝利を収めた 5 。しかし、頼芸派はこれで屈しなかった。彼らは、かつて利良に家督を追われ尾張に亡命していた利良の叔父・斎藤彦四郎と密かに連絡を取り、逆襲の機会を窺っていた 5 。
翌永正15年(1518年)8月、頼芸派は彦四郎を担ぎ出して反撃に転じる。今度は形勢が逆転し、利良・頼武派は敗北を喫した 6 。勝利した彦四郎は美濃に帰国し、逆に追われる身となった利良と頼武は、越前へと亡命の途についた 9 。
彼らが頼った先は、越前守護・朝倉孝景(宗淳)であった。孝景の母は斎藤妙純の娘であり、利良にとっては従兄にあたる 14 。また、頼武はこの亡命中に孝景の娘を妻に迎えている 9 。この亡命は、当時の武家社会において、血縁というネットワークがいかに重要な安全保障として機能していたかを示す好例である。頼芸派は室町幕府を通じて朝倉氏に頼武の上洛を迫るが、孝景はこれを無視し、二人を庇護し続けた 5 。
利良と頼武にとって、転機は永正16年(1519年)に訪れる。頼芸派の後ろ盾であった守護・土岐政房が死去し、美濃守護の座が空位となったのである 5 。
この好機を逃さず、朝倉孝景は弟の朝倉景高に3000の精兵を授け、利良と頼武を伴って美濃へ侵攻させた 5 。朝倉氏の強力な軍事介入は、美濃国内の力関係を一変させた。朝倉軍を中核とする頼武派は、正木合戦や池戸合戦などで連戦連勝を重ね、頼芸派を圧倒した 9 。
この勝利により、土岐頼武はついに正式な美濃守護の座に就くことができた。そして、彼を支え続けた斎藤利良もまた、守護代として権力の頂点に返り咲いたのである 6 。しかし、この成功が美濃国内の力関係だけでなく、越前朝倉氏という強力な外部勢力の動向に大きく依存していたことは、彼の後の運命に暗い影を落とすことになる。彼の権力基盤は、自らの力だけで築き上げたものではなく、常に外部からの支援という不確定要素を内包していたのであった。
越前朝倉氏の支援を得て美濃守護代の座に返り咲いた斎藤利良であったが、その権勢は長くは続かなかった。歴史の記録は彼の急速な失速を物語っており、その最期は謎に包まれている。彼の没落の背後には、着実に力を蓄えていた長井規秀、すなわち斎藤道三の影が色濃くちらつく。
永正16年(1519年)から永正18年(1521年)にかけての約二年間は、斎藤利良の生涯における絶頂期であった。彼は主君・土岐頼武のもとで守護代として権勢を振るい、美濃国政の中心にいた 5 。しかし、その足元では、新たな時代の潮流が静かに、しかし確実に彼の権力を蝕み始めていた。
その潮流の中心にいたのが、頼芸派の家臣であった長井規秀(道三)である。彼は主君・頼芸の信頼を勝ち取りながら、虎視眈々と美濃の実権を狙っていた 7 。頼武・利良派の勝利によって一時的に逼塞を余儀なくされたものの、その野心は衰えるどころか、より巧妙な形で発揮されることになる。革手城を襲撃して頼武を追放した実績を持つ彼は 27 、武力だけでなく謀略こそが自身の最大の武器であることを熟知していた。
永正18年(1521年)、利良の運命は再び暗転する。この年を境に、彼の活動は史料の上から忽然と目立たなくなるのである 5 。代わって美濃守護代として史料に登場するのが、斎藤氏の別系統である斎藤利茂(とししげ)であった 6 。これは、利良が何らかの理由で守護代の地位を失ったことを強く示唆している。
この権力移行期に、大規模な合戦があったという記録は見当たらない。この事実は、利良の失脚が武力衝突によるものではなく、水面下での政治工作の結果であった可能性を示している。すなわち、長井規秀(道三)らによる、周到な調略に基づいた「静かなるクーデター」である。道三は、利良を支持する国人衆を一人また一人と切り崩し、主君・頼武と利良の関係を巧みに離間させ、彼を政治的に孤立させていったと考えられる 7 。権力の座から滑り落ちた利良の姿は、武力だけでなく、情報戦や謀略が勝敗を決する戦国時代の新たな戦いの様相を物語っている。
大永5年(1525年)には、長井長弘らがクーデターを起こし、頼武・斎藤方は「山入」(城に籠城すること)を余儀なくされたと記録されている 13 。この頃には、もはや長井氏の力が斎藤氏を凌駕し、美濃の政治的実権が逆転していたことは明らかであった。
歴史の表舞台から姿を消した利良が、再び記録に現れるのは、その死の場面においてである。天文7年(1538年)9月1日、斎藤利良は死去した 5 。しかし、その死因については、二つの異なる説が伝えられている。
一つは「病死説」である。『美濃国諸旧記』や『岐阜市史』をはじめとする多くの文献が、利良は病によって亡くなったと記している 15 。これが公的な見解であった可能性が高い。
もう一つは「殺害説」である。複数の史料が、彼は殺害されたと示唆している 5 。この説の背後にいると目されるのが、斎藤道三である。道三は利良の死後、待っていたかのように斎藤氏の名跡を継ぎ、「斎藤新九郎利政」と名乗った 15 。彼にとって、持是院家の正統な嫡流である利良は、斎藤氏を乗っ取る上で最大の障害であった。その後の道三の、主君・長井長弘の殺害 15 や主君・土岐頼芸の追放 30 といった行動様式を鑑みれば、彼が利良を暗殺したと考えることには十分な蓋然性がある。
利良の死因に関する記述の相違は、単なる記録の食い違い以上のものを物語っている。それは、歴史が「勝者」によっていかに編纂されるかという問題である。道三が自らの「国盗り」を正当化するためには、前当主が「病死」し、なおかつ「嫡子がいなかった」 29 という物語が最も都合が良かった。これにより、彼の斎藤氏継承は、名家断絶を防ぐためのやむを得ない措置として描かれ、下克上の汚名を薄める効果があった。利良の死の真相は歴史の闇の中だが、その死をめぐる言説そのものが、道三の壮大な政治的プロジェクトの一部であったと解釈することができるのである。
斎藤利良の死は、単に一人の武将の生涯が終わったことを意味するだけではなかった。それは、美濃国における一つの時代の終焉であり、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であった。彼の死によって、血統と家格に基づいた旧来の権力構造は決定的に崩壊し、実力主義という戦国の論理が美濃を支配することになる。
斎藤利良には嫡子がいなかったと伝えられており 29 、彼の死をもって、祖父・妙純、父・利親と続いた持是院斎藤家の正統な血筋は事実上、断絶した。これにより、応仁の乱以降、半世紀以上にわたって美濃国に君臨してきた名門は、その歴史に終止符を打ったのである。
利良の死後、斎藤氏の名跡と守護代の地位は、長井規秀、すなわち斎藤道三によって乗っ取られた 2 。これにより、美濃斎藤氏は、藤原利仁以来の血統を受け継ぐ家門から、個人の実力と野心によって支配される存在へと完全に変質した。道三は「斎藤」という伝統的な権威を巧みに利用しつつも、その支配の根拠はあくまで自身の圧倒的な実力に置いた。利良の死は、美濃斎藤氏が血統から実力本位の組織へと変貌を遂げる、決定的な転換点であった。
斎藤道三にとって、利良の死は「国盗り」を完成させるための最後の、そして最大の好機であった。彼はこの機会を逃さず、ただちに自らを「斎藤新九郎利政」と名乗ることで、一介の国人領主から美濃における最高の名跡を持つ守護代家当主へと、その名目上の地位を飛躍させた 15 。
この「斎藤」という権威を新たな足がかりとして、道三は美濃国内に残る旧勢力や対抗勢力の一掃に取りかかる。そしてついには、自らが擁立した主君・土岐頼芸をも尾張へ追放し、名実ともに美濃国主の座を手中に収めたのである 16 。
この一連の流れを見れば、斎藤利良の生涯と死が、道三の「国盗り物語」においていかに重要な意味を持っていたかは明らかである。利良の存在は、道三が乗り越えるべき旧体制の象徴であり、その死は、道三が美濃国という舞台の主役へと躍り出るための、最後の扉を開く出来事であった。
斎藤利良の生涯は、単なる一個人の悲劇として終わるものではない。それは、血統と家格に重きを置いた中世的な権力秩序が、個人の才覚と野心によって覆される、戦国時代という新たな時代への大きな移行期を象徴している。利良は、美濃で最も権威ある家系の嫡流として生まれ、主家の正統な後継者を支持し、旧来の秩序を守るために戦った。しかし、彼は出自不明ながらも謀略と実力で成り上がった道三の前に、権力を、そして最後には命をも失った。利良の敗北と死は、美濃において「家格の時代」が終わり、「実力の時代」が始まったことを告げる画期的な事件であり、彼は新しい時代の激しい波に飲み込まれた旧時代の、最後の代表者であったと言えるだろう。
斎藤利良。その名は、斎藤道三や織田信長といった戦国時代の巨星たちの影に隠れ、歴史の中で大きく注目されることは少ない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことで、戦国という時代の転換期のダイナミズムと非情さを、より深く理解することができる。
祖父と父の予期せぬ同時戦死という悲劇に始まり、主家の内乱の渦中で権力闘争を繰り広げ、一度は敗れて亡命の憂き目に遭いながらも、外部勢力の力を借りて権力の座に返り咲く。しかし、その権勢も束の間、忍び寄る新興勢力の謀略の前に力を失い、最後は謎に満ちた死を遂げる。彼の生涯は、まさに激動の時代に翻弄された貴公子の物語そのものであった。
斎藤利良を、単に「道三の国盗りの踏み台となった凡庸な人物」と見なす従来の評価は、一面的なものに過ぎない。彼は、自らが背負う家門の権威と、守るべき旧来の秩序のために、最後まで主体的に戦った人物として再評価されるべきである。彼の戦いは、血統と家格という中世的な価値観が、実力と野心という新しい時代の価値観に敗れ去る過程そのものであった。
斎藤利良の物語を知ることは、斎藤道三の下克上がいかにして可能となったのか、そして織田信長が対峙した美濃という国がどのような変遷を経てきたのかを、より複眼的かつ立体的に理解するための鍵となる。彼の悲劇的な生涯は、歴史の大きな転換点において、一つの時代が終わり、新たな時代が始まる瞬間の複雑さと深さを、我々に静かに語りかけているのである。