斎藤昌信は長尾為景の下剋上を支え、斎藤氏の基盤を確立。孫の朝信は「越後の鍾馗」と称され、上杉謙信・景勝に仕え活躍した。
日本の戦国時代、越後の地で活躍した武将「斎藤昌信」は、長尾為景の家臣としてその覇業を支えた記録が残る人物です。しかし、戦国史において「越後の斎藤氏」として広くその名を知らしめたのは、昌信の孫にあたる「斎藤朝信」でした。彼は主君・上杉謙信、景勝の二代に仕え、「越後の鍾馗(しょうき)」とまで謳われた稀代の名将です 1 。利用者様がご関心をお持ちの斎藤昌信の生涯を深く理解するためには、彼個人の活動に留まらず、その功績が孫である朝信の活躍にいかにして繋がっていったのか、という一族の歴史的文脈の中で捉え直す必要があります。
昌信の行動は、斎藤氏が越後の新たな支配者である長尾氏の家臣団の中で確固たる地位を築くための「第一の跳躍台」となりました。そして、その安定した基盤の上で、孫の朝信は類まれなる才能を存分に発揮する機会を得たのです。本報告書は、この祖父・昌信から孫・朝信へと至る世代を超えた因果関係を解き明かし、単なる個人史に留まらない、越後の激動を生き抜いた斎藤一族の興亡の軌跡を徹底的に詳述するものです。
まず、本報告書で中心的に扱う斎藤一族の主要人物の関係性を以下に示します。
関係 |
名前(読み) |
主な活動時期と主君 |
特記事項 |
祖父 |
斎藤 昌信(さいとう まさのぶ) |
永正年間(1504-1521)頃 / 長尾為景 |
利用者様の照会対象人物。為景の下剋上を支援 3 。 |
父 |
斎藤 定信(さいとう さだのぶ) |
大永年間(1521-1528)頃 / 長尾為景・晴景 |
朝信の父。史料は限定的 2 。 |
本人 |
斎藤 朝信(さいとう とものぶ) |
天文~天正年間(1540年代-1580年代) / 上杉謙信・景勝 |
「越後の鍾馗」。本報告書の主要人物 1 。 |
子 |
斎藤 景信(さいとう かげのぶ) |
天正~慶長年間(1580年代-) / 上杉景勝 |
朝信の跡を継ぐ。会津移封には従わず越後に残留 2 。 |
孫 |
斎藤 信成(さいとう のぶなり) |
寛永年間(1624-1645)頃 / 上杉定勝 |
米沢藩に召し抱えられ、子孫は米沢藩士として存続 2 。 |
越後斎藤氏の出自については、実のところ詳らかになっていないのが現状です 3 。後世の編纂物である『米府鹿子』などでは、平安時代中期の鎮守府将軍・藤原利仁を祖とする藤原氏の一族であるという説が記されていますが、これを裏付ける同時代の史料は確認されておらず、その信憑性については慎重な検討が求められます 3 。
より確実視されているのは、室町時代に越後守護であった上杉氏が関東から越後に入部した際に、被官として随行してきた一族であろうという推測です 4 。これは、同じく上杉家譜代の重臣である千坂氏などと同様の経歴であり、関東に起源を持つ武士団であった可能性を示唆しています 6 。
この斎藤氏が代々の本拠地としたのが、越後国刈羽郡(現在の新潟県刈羽村)に位置する赤田城です 1 。赤田城は、平野部に舌状に突き出した丘陵の先端に築かれた山城で、地域の軍事・政治を統括する拠点として重要な役割を担っていました。築城の経緯については、斎藤氏以前にこの地を治めていた赤田氏によるものか、あるいは斎藤氏自身によるものかは定かではありません 7 。しかし、城の麓にある斎藤氏の菩提寺・東福院は、寛正2年(1461年)に斎藤下野守頼信によって建立されたという記録があり、このことから斎藤氏が少なくとも15世紀半ばには赤田の地を領有し、勢力を確立していたことが確認できます 8 。現在も城跡には、本丸跡や土塁、堀切といった遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができます 8 。
斎藤昌信が歴史の表舞台でその名を示すのは、越後の国情が大きく揺れ動いた「永正の乱」の最中です。当時、越後は守護・上杉氏の権威が形骸化し、守護代であった長尾為景が実力をつけていました 11 。永正3年(1506年)、為景の父・長尾能景が越中での一向一揆との戦いで戦死した際、主君である越後守護・上杉房能が援軍を送らなかったことなどから両者の対立は決定的となります 12 。
そして永正4年(1507年)、為景は房能の養子である上杉定実を新たな主君として擁立し、房能に対してクーデターを決行しました。拠点を追われた房能は、関東管領であった兄・上杉顕定を頼って関東へ逃亡を図りますが、その道中、松之山の天水越にて為景軍に追い詰められ、自刃に追い込まれました 12 。この事件は、家臣が主君を討つという、越後における「下剋上」の時代の幕開けを象徴する出来事でした。
この一連の動乱において、斎藤昌信は長尾為景方に与して活躍したと伝えられています 3 。斎藤氏は本来、上杉家の譜代の家臣であり、一説には上杉家の四家老の一角を占めるほどの家格であったとも言われます 16 。そのような立場にありながら、旧主の上杉氏を見限り、新興勢力である為景に味方するという決断は、一族の存亡を賭けた極めて大きな賭けであったと言えます。
昌信が為景政権下で重要な地位を占めていたことは、いくつかの記録から明らかです。まず、利用者様がご存じの永正7年(1510年)の逸話、すなわち為景が主君・上杉定実に対し、築地資茂という人物の功績を賞するように「注進」したという記録があります。ここでの「注進」とは、単なる事実の報告に留まらず、主君への進言や推薦といった高度な政治的行為を意味します 17 。このことから、昌信が為景の側近として、人事に関する意見を述べられるほどの信頼と発言力を有していたことが窺えます。
そして、その地位を裏付ける決定的な史料が存在します。永正18年(1521年)に為景が越後国内の一向宗を禁じるために家臣たちと交わした「長尾為景一向宗禁止連署契状」に、長尾一族や他の上杉家旧臣(石川景重、千坂景長ら)と並んで、「斎藤昌信」の名がはっきりと署名されているのです 6 。これは、昌信が単なる一武将ではなく、為景が再編成した新たな支配体制の中枢を担う重臣の一人として、公的に認められていたことの動かぬ証拠と言えます。
昌信のこの選択は、単に忠誠の対象を乗り換えたという単純な話ではありません。それは、旧来の守護体制がもはや機能不全に陥っていることを見抜き、越後の新たな実力者である長尾為景に一族の未来を託すという、極めて冷静かつ戦略的な政治判断でした。この決断が成功したことにより、斎藤氏は為景政権下で重臣としての地位を確保し、旧体制に固執して没落していった他の多くの在地領主とは対照的に、戦国乱世を生き抜き、さらなる発展を遂げるための強固な礎を築き上げたのです。
祖父・昌信が築いた盤石の基盤の上で、その才能を最大限に開花させたのが、孫の斎藤朝信です。彼は上杉謙信・景勝の二代にわたり、軍事・政治・外交のあらゆる面で比類なき手腕を発揮し、上杉家にとって不可欠な存在となりました。
斎藤朝信は、大永7年(1527年)、赤田城主・斎藤定信の子として生を受けました 2 。彼が少年期を過ごした頃、主家である長尾家では、病弱であった当主・長尾晴景に代わり、その弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が、その非凡な軍事的才能により頭角を現していました 11 。朝信は、この若き景虎が家督を継いだ頃から仕え始めたとみられています。謙信とはわずか3歳違いという年齢の近さもあり、主従関係を超えた深い信頼関係を築いていったと考えられます 20 。
朝信の武名は、謙信が繰り広げた主要な合戦のほとんどで轟いています。彼は単なる一兵卒としてではなく、しばしば重要な局面を任される司令官として活躍しました。
これらの戦歴が示すように、朝信は謙信から絶大な信頼を寄せられていました。後世の軍記物には「謙信は強敵と思われるところには朝信を差し向けた」という記述が見られ、これは朝信が単なる勇猛な武将であるだけでなく、戦況を的確に判断し、部隊を巧みに指揮する戦術眼に優れた将であったことを物語っています 2 。天正3年(1575年)に作成された「上杉家軍役帳」によると、朝信は217人もの軍役を負担することが定められており、彼が上杉家臣団の中でも屈指の大身の武将であったことが数字の上からも裏付けられています 2 。
朝信の能力は、戦場での活躍に留まりませんでした。彼は為政者としても卓越した手腕を発揮し、謙信政権の中枢を支える重臣として活躍しました。
柿崎景家といった他の重臣たちと共に 奉行職 を務め、領国統治の実務を担いました 2 。また、軍事制度上では、上杉軍の精鋭部隊である**「七手組」の大将**の一人に任命されています 3 。七手組は、平時には政務を担い、戦時には中核部隊として出陣する、いわば上杉家の最高幹部集団であり、ここに名を連ねることは、朝信が軍事・政治の両面においてトップクラスの地位にあったことを意味します。
その信頼の厚さを象徴する出来事が、永禄4年(1561年)に謙信が関東管領職に就任した際、鎌倉の鶴岡八幡宮で執り行われた就任式典です。この晴れがましい儀式において、朝信は柿崎景家と共に 太刀持ち という大役を拝命しました 2 。これは家臣として最高の栄誉の一つであり、朝信が謙信にとって最も信頼する側近の一人であったことの証左です。
天正6年(1578年)、主君・上杉謙信が後継者を指名しないまま急死すると、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で、家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発します 21 。家臣団も二派に分かれて争う中、朝信は一貫して
上杉景勝を支持 しました 2 。
乱の序盤、景虎は実家である北条家や、同盟関係にあった甲斐の武田勝頼の支援を受け、優位に戦いを進めていました。この危機的状況を打開するため、朝信は外交官としてその真価を発揮します。彼は景勝方の使者として甲斐へ赴き、敵将である武田勝頼と直接交渉に臨みました。そして、東上野の割譲と黄金の譲渡という条件を提示し、武田軍を中立化させるという 和睦交渉を成功 させたのです 2 。この外交的勝利は、景虎方から最大の軍事的後ろ盾を奪うものであり、景勝方の勝利を決定づける極めて重要な転換点となりました。
乱の終結後、景勝は朝信のこの絶大な功績に厚く報いました。刈羽郡内の六ヶ所の所領に加え、景虎方に加担して滅亡した三条城主・神余親綱の旧領などが与えられ、その地位はより一層強固なものとなったのです 2 。
朝信を語る上で欠かせないのが、「越後の鍾馗」という異名です 1 。鍾馗とは、中国の道教に由来する神で、日本では魔除けや厄払いの守護神として信仰されています 20 。朝信の武勇と、敵を睨みつけるような威厳に満ちた姿が、この神になぞらえられたのです。
しかし、この異名は単に彼の武勇だけを指すものではありませんでした。鍾馗が人々の暮らしを脅かす「魔」を祓う守り神であるように、朝信もまた、上杉領を脅かすあらゆる「脅威」から民を守る存在として認識されていたのです。
第一に、彼は武田、北条、そして織田といった強大な外部の敵と最前線で戦い、国境を防衛する「武の鍾馗」でした 2。
第二に、彼は優れた為政者として領内を安定させ、奪った敵領ですら巧みに治め、士卒や農民から深く慕われたと伝えられています 1。これは、内乱や一揆といった国内の混乱、すなわち「治の魔」を祓う「文の鍾馗」でもあったことを意味します。
そして第三に、彼の外交官としての姿です。軍記物『甲越信戦録』には、彼が使者として甲斐に赴いた際の逸話が残されています。武田信玄と対面した際、信玄は朝信が小柄で片目(一眼)であることを見て、侮るように「その方、はなはだ小兵で、見ると一眼である。知行はいかほどであろうか」と尋ねました。これに対し、朝信は臆することなく「六百貫を頂戴しております」と堂々と答え、その胆力と機知に富んだ弁舌に、あの信玄でさえも感嘆したと伝えられています 2。敵国の君主を前にしても決して臆さず、国家の威信を守り抜くその姿は、まさに「威の鍾馗」と呼ぶにふさわしいものでした。
このように、「越後の鍾馗」という異名は、朝信の武勇、統治能力、そして外交手腕という多面的な能力と、彼が上杉家および越後の民にとって、内外のあらゆる脅威から国を守る「守護者」であったという役割を、包括的に表現した極めて的確な評価であったと言えるでしょう。
「越後の鍾馗」とまで謳われた朝信の死後も、斎藤一族の物語は続きます。それは、一度は上杉家から離れた一族が、その功績と名声によって再び召し出され、新たな地で再生を遂げるという、戦国武家のレガシーのあり方を示す興味深い事例です。
朝信は、天正10年(1582年)の本能寺の変後まもなく、老齢を理由に隠居し、文禄元年(1592年)頃にその生涯を閉じたとされています 2 。家督は嫡男の乗松丸が継ぎ、主君・上杉景勝から「景」の一字を賜って「斎藤景信」と名乗りました 2 。主君の諱の一字を与えられることは、家臣にとって大変な名誉であり、景勝が斎藤家に対して引き続き厚い信頼を寄せていたことの証です。
しかし、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉家が越後から会津120万石へ移封されるという大きな転機が訪れます。この際、景信は病弱であったためか、あるいは他の理由があったのか、会津へは同行せず、故郷である越後に留まることを選びました 2 。これにより、斎藤家の嫡流は、一時的に上杉家臣団から離れることになりました。
時代は下り、関ヶ原の戦いを経て上杉家はさらに米沢30万石へと減移封されます。そのような中、寛永20年(1643年)、米沢藩の第2代藩主であった上杉定勝(景勝の実子)が、一つの決断を下します。彼は、かつて父・景勝を支えた大功臣・斎藤朝信の血筋が越後に残っていることを知り、景信の子である斎藤信成をわざわざ越後から米沢へ呼び寄せ、300石の知行を与えて再び家臣として召し抱えたのです 2 。
この出来事は、単なる有能な人材の登用という以上の、極めて象徴的な意味合いを持っていました。故郷である越後を失い、石高も大幅に削減された米沢藩にとって、藩のアイデンティティを再構築することは重要な課題でした。定勝は、幼い頃から父・景勝より、御館の乱の危機を救い、上杉家を支え続けた「越後の鍾馗」斎藤朝信の武勇伝や功績を、繰り返し聞かされて育ったに違いありません 3 。
その朝信の血を引く孫を、わざわざ旧領の越後から呼び戻すという行為は、失われた越後時代の栄光と、忠臣の記憶を、米沢という新たな体制の中に復活させる試みでした。それは、藩の家臣たちに対して「主家への忠義は、代を超えて必ず報われる」という明確なメッセージを示すと共に、上杉家の歴史的正統性と権威を強化する効果も持っていました。この時、斎藤家の血筋は、もはや単なる一個臣の家系ではなく、上杉家の栄光の歴史を体現する「守り神のような存在」として、その価値を認められたのです 3 。
こうして斎藤家は上杉家臣団に復帰し、以後、幕末に至るまで米沢藩士として存続していくことになりました 3 。
本報告書で詳述してきたように、利用者様がご関心をお寄せになった斎藤昌信という人物は、戦国時代初期の越後において、守護・上杉氏から守護代・長尾氏へと主家を乗り換えるという大きな政治的決断を成功させ、一族が新たな時代で生き残るための確固たる礎を築きました。彼の深謀遠慮は、斎藤氏のその後の運命を決定づける、まさに「第一の跳躍台」であったと言えます。
その祖父が築いた基盤の上で、孫の斎藤朝信は、文武にわたる非凡な才能を遺憾なく発揮しました。主君・上杉謙信、そして景勝から寄せられた絶対的な信頼は、彼を「越後の鍾馗」とまで称される伝説的な名将へと押し上げました。彼は軍事司令官として国境を守り、為政者として領内を安定させ、外交官として国家の危機を救いました。その活躍は、上杉家の歴史そのものを支える重要な柱の一つでした。
斎藤一族の物語は、単なる一武家の盛衰史に留まるものではありません。それは、昌信の的確な政治的決断力、朝信の卓越した能力と主家への揺るぎない忠誠心、そしてその功績と名声が「斎藤」という名の価値、いわばブランドとして後世にまで認められ、一族の再興に繋がったという、戦国武士の生き様と、そのレガシーが形成されていく過程を示す、極めて貴重な歴史的事例です。斎藤昌信と朝信、祖父と孫の二代にわたる軌跡は、上杉家の歴史、ひいては戦国時代の越後を理解する上で、欠かすことのできない重要な一頁を構成しているのです。