本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、斑鳩平次信好(いかるが へいじ のぶよし)に関する包括的かつ詳細な調査結果を提示することを目的とする。利用者より提供された概要情報、すなわち加藤清正の家臣であり、元は上杉謙信に仕え、庄林一心の推挙により清正に仕官し、一番槍七度の功績で三千石の知行を得たという点を踏まえつつ、現存する史料や研究に基づき、その生涯、武功、人物像を多角的に明らかにすることを目指す。
斑鳩平次は、通称を「平次」、実名を「信好」とし、「貍平次(たぬきへいじ)」の異名でも知られる安土桃山時代の武将である 1 。その経歴は、はじめ上杉謙信に仕え、後に加藤清正の家臣となり、特に文禄・慶長の役における勇猛な働きによってその名を残した。加藤家の主要な家臣である「加藤十六将」の一人にも数えられ 2 、最終的には三千石の禄を得るに至った 1 。本報告では、史実としての斑鳩平次と、後世の講談などで描かれる人物像との関連性にも留意しつつ、その実像に迫ることを試みる。
本報告書の作成にあたっては、現時点でアクセス可能な文献史料、研究論文、および信頼性が比較的高いとされる編纂物を基礎とした。しかしながら、斑鳩平次という人物に関する一次史料は限定的であり、その生没年や詳細な経歴の一部、特に初期の動向や晩年については不明な点が多く残されていることを予め断っておく必要がある。
斑鳩平次の実名は信好(のぶよし)、通称は平次(へいじ)であると複数の史料で確認される 1 。彼が用いた「斑鳩」という姓は、大和国(現在の奈良県)の斑鳩の地、すなわち法隆寺周辺地域との関連が推測される 4 。この地は聖徳太子ゆかりの地として名高い。しかし、平次自身の直接的な出自や、その家系が斑鳩の地と具体的にどのように結びつくのかを示す史料は現在のところ確認されていない。
「斑鳩」という地名の由来についてはいくつかの説が存在する。一つは、イカル(斑鳩)という鳥の生息地であったとする説であり、また、文筆家の松本清張氏が提唱するように、古代朝鮮に関連する「韓(から)」の音が転訛した「軽(かる)」に接頭語が付いたものではないかという説もある 6 。ただし、これらはあくまで地名の由来に関する考察であり、斑鳩平次の家系がこれらの由来と直接的にどう繋がるかは不明である。
「斑鳩」という姓が、聖徳太子や法隆寺を想起させる古都の響きを持つ一方で、平次の知られている経歴は、特定の家柄に頼るのではなく、実力で道を切り開いた武人としての側面が強い。この姓の持つイメージと、彼の実際の経歴との間にはある種の対比が見られ、この姓が彼自身あるいは主君によって何らかの意図をもって選ばれたのか、あるいは単なる偶然の一致なのかは、直接的な証拠がないため断定はできないものの、彼の人物像を考える上で興味深い点である。
斑鳩平次は、その武士としてのキャリアの初期において、越後の戦国大名である上杉謙信に仕えていたと、複数の資料で一致して言及されている 1 。
しかしながら、謙信に仕えた具体的な期間、どのような役職にあったのか、いかなる経緯で仕えるに至ったのか、そして上杉家を離れた理由についての詳細な記録は見当たらない。現存する上杉家の家臣団に関する資料、例えば慶長年間の『会津御在城分限帳』など 7 には、「斑鳩平次」あるいは「斑鳩信好」という名は確認されていない。この事実は、平次が謙信の直接の家臣ではなく、謙信のいずれかの家臣に仕える陪臣であった可能性、あるいは仕官期間が比較的短かった可能性、もしくは現存する史料が網羅的でない可能性などを示唆している。
上杉謙信は戦国時代を代表する戦術家として名高く、その軍団は精強で軍律も厳しかったと伝えられる。詳細は不明ながらも、平次がそのような謙信の下で武士としての経験を積んだことは、後の彼の武勇や戦場での判断力に少なからぬ影響を与えた可能性は否定できない。この時期に培われた武士としての素養が、後に庄林一心や加藤清正といった武将たちにその能力を認められる礎となったと考えることは、自然な推論であろう。
上杉家を離れた後、斑鳩平次は諸国を流浪したと伝えられている 1 。この流浪の期間や具体的な行先、どのような生活を送っていたのかについての記録は乏しい。
この流浪の過程で、平次は庄林一心(しょうばやし かずただ、通称は隼人とも)という武将に出会い、その武勇を認められた結果、加藤清正に推挙されることとなった 1 。庄林一心は、後に加藤十六将や加藤三傑の一人に数えられるほどの猛将である。元は仙石秀久の家臣であったが、戸次川の戦いでの敗戦により仙石秀久が改易された後、九州征伐後の加藤清正の肥後入国に伴い加藤家に仕えたとされる 2 。軍事面で清正から最も信頼を寄せられていた人物の一人で、禄高も八千石と、家中でも高い地位を占めていた 2 。
戦国時代において、有力な家臣からの推挙は、個人の能力を保証する一種の証明書として機能した。特に、庄林一心のような実力と実績を兼ね備え、主君からの信頼も厚い人物からの推薦は、被推薦者である平次が加藤家で重用される上で極めて重要な意味を持ったと考えられる。一心自身が優れた武人であったからこそ、彼が見込んだ平次の武勇に対する清正の期待も大きかったと推察される。この強力な後ろ盾が、平次の加藤家におけるキャリアの出発点に有利に作用したことは想像に難くない。
利用者より提供された情報によれば、斑鳩平次は「一槍五百石の約束」で加藤清正に仕官したとされる。この約束が事実であったとすれば、清正が当初から平次の槍働き、すなわち合戦における直接的な戦闘力と一番槍という功績に大きな期待を寄せていたことを示している。
「一槍五百石」という具体的な条件提示は、戦国時代における実力主義的な雇用契約の一端を示すものと言える。これは、特定の技能、この場合は一番槍の功績、に対する成果報酬型(インセンティブ)の契約であり、諸国を流浪していた平次のような武士にとっては、自らの武勇を直接的に評価され、かつ大きな報酬を得る機会として大変魅力的であったろう。一方、加藤清正の視点から見れば、実績に応じて報酬を支払うという形式は、新たに召し抱える武士のモチベーションを高め、軍団全体の戦闘力を効率的に強化する狙いがあったと考えられる。このような契約形態が、後の平次の「一番槍七度」という目覚ましい功績に繋がる重要な動機付けの一つとなった可能性は高い。
斑鳩平次は、加藤清正の主要な家臣群を指す呼称である「加藤十六将」の一人に数えられている 2 。この事実は、彼が清正の家臣団の中で一定の評価と地位を得ていたことを明確に示している。
加藤十六将には、平次の推挙者でもある庄林一心をはじめ、飯田直景、森本一久といった「加藤三傑」と称される重臣たちや、その他にも多くの勇将、有能な吏僚が含まれていた 2 。これらの人物と名を連ねることは、平次の武功と能力が家中で広く認められていた証左と言える。
「加藤十六将」という呼称自体が、後世になって加藤家の武勇や家臣団の結束を顕彰するために形成された側面も考慮に入れる必要はあるものの、平次がそのリストに含まれているという事実は、彼の存在が単なる一兵卒ではなく、名の知られた武将として認識されていたことを意味する。
斑鳩平次は、文禄・慶長の役における目覚ましい武功により、最終的に三千石の禄を与えられたと記録されている 1 。利用者より提供された情報にある「一槍五百石の約束で、一番槍の功を七度まで立て、三千石を与えられた」という記述は、史料の「三千石」という数字と照らし合わせると、単純計算(五百石 × 七度 = 三千五百石)とは若干の差異が生じる。この差異については、約束の具体的な内容の解釈、記録の精度、あるいは他の要素(例えば、一番槍以外の功績や、ある程度の高禄に至った時点での包括的な評価など)による調整があった可能性などが考えられる。
斑鳩平次の三千石という禄高が、加藤家臣団の中でどのような位置づけにあったのかを客観的に把握するために、他の主要家臣の禄高と比較することは有益である。
家臣名 |
禄高(石) |
主な役職・功績(判明する範囲) |
出典 |
庄林一心 |
8,000 |
加藤三傑、軍事面で清正が最も信頼 |
2 |
加藤直正 |
8,500 |
肥後藟嶽城代、蔚山倭城での鉄砲による活躍 |
2 |
斑鳩平次 |
3,000 |
元上杉家臣、文禄・慶長の役で一番槍七度など武功 |
2 |
貴田孫兵衛 |
900 |
豊前出身の豪傑、文禄・慶長の役で鉄炮衆を率いる、俊足の使者 |
2 |
上記の表からもわかるように、加藤家には斑鳩平次よりも高禄の家臣が複数存在する。例えば、軍事面で清正が最も信頼を寄せたとされる庄林一心は八千石、肥後藟嶽城代を務めた加藤直正は八千五百石の禄を得ていた 2 。これらと比較すると、平次の三千石は最高位ではないものの、加藤家の中堅以上の重要な武将として厚遇されていたことが窺える。戦国時代から江戸初期にかけての武士の身分において、数千石クラスの知行は、大名から直接知行を与えられる上級家臣に相当する。
この三千石という禄高は、平次の生命を賭した武功、特に「一番槍七度」という戦場での際立った働きが、主君である加藤清正によって高く評価された直接的な結果であると言える。それはまた、他の家臣たちに対する武功奨励の模範ともなり得たであろう。
斑鳩平次の武功の中で最も特筆すべきは、豊臣秀吉による朝鮮出兵、すなわち文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、七度にわたり一番槍の功名を立てたとされる点である 1 。
「一番槍」とは、合戦の開始時に敵陣に対して最初に槍をもって突撃する行為を指し、個人の武勇を示す最高の栄誉の一つと見なされていた 12 。この役割は、戦の口火を切り、味方全体の士気を高め、戦闘序盤の優勢を決定づける可能性を秘めていたため、極めて危険であると同時に、成功した際には非常に高く評価された。
平次が具体的にどの戦闘で一番槍の功を挙げたのかについては、現存する史料からは残念ながら特定が難しい。主君である加藤清正は、文禄・慶長の役において数多くの激戦に参加しており、例えば慶長の役における第二次晋州城攻防戦 13 や、極めて過酷な籠城戦として知られる蔚山城の戦い 2 などが挙げられる。斑鳩平次もこれらの重要な戦闘の中で、その武勇を発揮し、一番槍の功を重ねた可能性が高い。
一番槍は生還すること自体が困難な危険な任務であり、それを七度も成功させたという記録は、平次の卓越した武勇、戦場での冷静な判断力、そしておそらくは強運をも示している。単なる偶然や幸運だけで成し遂げられるものではなく、彼の存在は加藤軍の先鋒として、敵に恐怖を与え、味方を鼓舞する象徴的な役割も果たしたであろう。この功績が、彼の三千石という禄高や加藤十六将への列挙に直結したことは疑いない。
一番槍という華々しい功績以外にも、斑鳩平次は加藤清正軍の主要な一員として朝鮮半島各地を転戦し、数々の戦闘に参加したと考えられる。
特に慶長の役における蔚山城の戦い 16 は、加藤清正が指揮した戦いの中でも最も過酷な籠城戦の一つとして知られている。城の完成直後に明・朝鮮連合軍の大軍に包囲され、厳寒と深刻な兵糧不足の中で戦い抜いたこの戦いにおいて、平次もまた重要な役割を果たした可能性が高い。籠城兵力は約一万人とされ、浅野幸長らと共に死守した 16 。
また、加藤清正の軍勢は朝鮮半島北部、豆満江を越えてオランカイ(女真族の居住地域)にまで進軍した記録があり 13 、平次もこれらの長期間にわたる困難な遠征に従軍した可能性が考えられる。
平次の武功は、一番槍のような突撃戦における勇猛さだけでなく、過酷な籠城戦における忍耐力や防御能力、あるいは長期遠征における持続的な戦闘能力や強靭な精神力にも支えられていたと推測される。蔚山城の戦いのような極限状況での経験は、彼の武士としての総合的な評価をさらに高めたであろう。これらの多岐にわたる戦功が、彼の加藤家における地位を確固たるものにしたと考えられる。
斑鳩平次には「貍平次」という異名があったことが、複数の資料で確認されている 1 。しかし、この興味深い異名の具体的な由来を直接的に説明する同時代の史料は見当たらないのが現状である。
明治時代に刊行された立川文庫の講談本『豪傑斑鳩平次』の目次には、「斑鳩狸平次の素性」という項目が見られる 20 。このことから、この講談が「狸平次」という呼称を一般に広めた、あるいはその由来について何らかの物語的な説明を与えた可能性が考えられる。「狸」という言葉は、日本語において多様な含意を持つ。「古狸」という言葉が示すように狡猾さや老獪さを連想させる場合もあれば、人を化かす不思議な能力を持つ動物、あるいはどこかユーモラスな存在としてのイメージもある。史料 52 に見られる中世京都の土倉・酒屋に関する「狸(むじな)売買」という記述や、 53 の和歌に関する記述は、斑鳩平次の異名とは直接的な関連性を見出すことはできない。
この異名の由来として考えられる解釈はいくつかある。一つは、戦場での神出鬼没な動きや、相手の意表を突くような戦術を得意としたためかもしれない。あるいは、一度狙った獲物は逃さない執念深さや、困難な状況を切り抜ける知恵のようなものを狸の性質になぞらえた可能性も考えられる。また、容貌や風貌が狸に似ていたという単純な理由も可能性としては排除できないが、これを裏付ける記述はない。性格面では、豪傑でありながらも、どこか飄々とした、あるいは捉えどころのない一面を持っていたことを示唆しているのかもしれない。
しかし、最も可能性が高いと考えられるのは、立川文庫の『豪傑斑鳩平次』 20 が大衆的な人気を博したこと 22 に関連する解釈である。講談師が物語を面白おかしくし、登場人物のキャラクターを際立たせるために「狸」という字を当て、それにまつわるエピソードを創作した可能性は十分に考えられる。講談というジャンルでは、英雄的な活躍に加えて、何らかの人間的な面白みや特異なキャラクター性が求められることが多いためである。
「豪傑」として知られる 2 平次の武勇のイメージと、「狸」が持つ一般的なイメージ(例えば狡猾さ、ひょうきんさなど)との間に何らかのギャップが存在する場合、そのギャップ自体が異名の面白さや記憶されやすさに繋がった可能性もある。あるいは、戦場での勇猛さと、平時の振る舞いや知略との間に意外性があったのかもしれない。史実としての正確な由来は不明としながらも、後世の講談による影響がこの異名の定着に大きく関わったと見るのが妥当であろう。
斑鳩平次は「数多く逸話が伝わる豪傑」として知られている 2 。これらの逸話は、江戸時代以降に編纂された武勇伝集や、明治時代の講談本などを通じて伝えられている。
江戸時代中期の正徳6年(1716年)に熊沢淡庵によって刊行された武勇伝集『武将感状記』(別名『砕玉話』) 24 には、「斑鳩平次」の項目が「勇力の部」に収録されている 27 。『武将感状記』は、石田三成と豊臣秀吉の出会いの逸話として有名な「三献茶」の物語などを収録している一方で、必ずしも全ての逸話の信憑性が高いわけではなく、著者の出自が不明な点などから記事の裏付けがとれないものもあると評価されている 25 。しかし、刊行当時の武士の価値観や道徳観を推し量る材料としては有用とされる 25 。斑鳩平次に関する具体的な逸話の内容については、提供された資料の範囲では詳細を把握できないが、「勇力の部」に分類されていることから、彼の武勇や剛勇を示すエピソードであると推測される。
幕末の儒学者・岡谷繁実によって編纂された『名将言行録』 28 は、戦国武将たちの言行や逸話を集めたものであるが、当時巷間で流布していた話をそのまま参集した箇所もあり、史実との乖離が指摘され、歴史学界では信頼性に乏しい「俗書」として扱われることもある 28 。加藤清正の家臣である国右衛門という人物の逸話が収録されている例があるが 30 、斑鳩平次に関する具体的な記述内容の有無は、提供された資料からは不明である。もし記述が存在したとしても、その史実性については慎重な吟味が必要となる。
明治45年(1912年)に雪花山人(せっかさんじん)の手によって著され、大阪の立川文明堂から刊行された講談本『豪傑斑鳩平次』 20 は、明治末期から大正期にかけて大衆的な人気を博した「立川文庫」シリーズの一冊である 22 。このシリーズは、猿飛佐助や霧隠才蔵といった架空の忍者キャラクターを生み出し、大衆文化に大きな影響を与えたことで知られている。
『豪傑斑鳩平次』の目次 20 を見ると、「斑鳩狸平次の素性、槍持で三千石」「岩沼畷の惨劇、狸平次赤児を救ふ」「斑鳩平次実父布施藤十郎に奇遇す」「斑鳩平次図らず母の仇を討ち取る」「駒木根八兵衛友房平次の奇才に感ず」「斑鳩平次駒木根八流の奥儀を極む」「平次旗本四十八人を向ふに廻し武勇を現はす」など、波乱万丈で英雄的な物語が展開されることがうかがえる。登場人物も多岐にわたり、勧善懲悪的な要素や武勇譚、仇討ちといった講談特有の物語構成が色濃く反映されていると推測される。
立川文庫の『豪傑斑鳩平次』は、史実の斑鳩平次像とは大きくかけ離れた、講談特有の脚色や創作がふんだんに盛り込まれたエンターテイメント作品である可能性が極めて高い。明治時代という、富国強兵と国民国家形成が進む中で、過去の武将や英雄が理想化・英雄化されて語られることは一般的な風潮であった 31 。この作品を通じて、斑鳩平次の名が一般大衆に広まり、特定のイメージ、例えば超人的な武勇や義侠心に厚い人物といった像が付与されたと考えられる。したがって、この講談本は、史実の人物像を伝えるものとしてではなく、斑鳩平次という名がどのように大衆文化の中で受容され、変容していったかを示す資料として捉えるべきである。
限られた史料から斑鳩平次の人物像を推測すると、以下の点が挙げられる。
第一に、その 武勇 は疑いようがない。「一番槍七度」という卓越した戦功 1 や、諸書における「豪傑」との評価 2 は、彼が並外れた勇気と高度な戦闘技術を保持していたことを示している。また、加藤家の重臣であり武勇の士として知られる庄林一心の目に適い、推挙されたという事実 1 も、その武勇の高さを裏付けている。
第二に、主君である加藤清正に仕え、その下で数々の武功を立てていることから、 忠実な家臣 であったと考えられる。加藤清正自身も家臣を大切にする気風があったとされており 33 、そのような主君の下で平次もその能力を存分に発揮できたのであろう。
第三に、彼の経歴は 実力主義的な生き方 を体現している。上杉家を離れた後、諸国を流浪し、自らの武勇によって新たな仕官先を見つけ、そこで功績を挙げて高い地位を得るという道筋は、実力でのし上がっていく戦国武士の一つの典型を示している。
第四に、その性格については、「貍平次」という異名がもし彼の内面的な特徴に由来するものであるならば、単なる猪突猛進型の武人ではなく、何らかの知略や機転、あるいは捉えどころのない一面を持っていた可能性も示唆される。しかし、これはあくまで異名からの推測であり、具体的な証拠に乏しい。
斑鳩平次の生き方は、主君を次々と変えることが必ずしも不忠と断じられなかった戦国乱世から、豊臣政権下での大名家臣団が次第に固定化していく過渡期における武士のあり様を反映していると言えるかもしれない。上杉謙信という当代きっての名将の下で武士としての基礎を学び、浪人生活の中で武を磨き、そして加藤清正という実力主義の将にその才能を見出されて目覚ましい活躍を遂げるという道筋は、当時の多くの武士が目指した一つの理想形であった可能性も考えられる。
斑鳩平次信好について言及している主要な史料や編纂物は、以下の通りである。
斑鳩平次に関する一次史料、すなわち同時代の記録や書状などにおける直接的な言及は、提供された資料の範囲では限定的である。多くは江戸時代以降に編纂された二次史料や、明治時代以降の著作物、あるいはそれらを基にした現代の解説に依存している。
特に逸話に関しては、その成立年代が降るほど、また大衆向けの娯楽作品であるほど、脚色の度合いが強まる傾向があることを念頭に置く必要がある。『名将言行録』や『武将感状記』のような逸話集は、教訓的な意図や物語としての面白さを追求する過程で、史実から離れた内容を含む可能性があることを常に考慮しなければならない。
斑鳩平次に関する情報の多くが、加藤清正の家臣団の一員として、あるいは武勇譚の主人公として語られる文脈で存在している。これは、彼個人の詳細な記録が独立して残存するよりも、主君である清正の評価や、彼を題材とした物語の普及と分かちがたく結びつき、その文脈の中で記憶されやすかったことを示唆している。彼の歴史的実像と、後世に形成されたイメージとを区別して論じることが肝要である。
斑鳩平次の生年および没年は不明である 1 。主君であった加藤清正は慶長16年(1611年)6月24日に50歳で死去しており 3 、その後の加藤家は嫡男・忠広の代になったが、寛永9年(1632年)に改易されている 40 。
平次が清正の死後、あるいは加藤家の改易後にどのような生涯を送ったのかについての具体的な記録は、提供された資料からは見当たらない。加藤家改易後、多くの家臣は他の大名家に再仕官するか、浪人となる道を選んだ 40 。平次がこれらのいずれの道を選んだのか、あるいはそれ以前に没していたのかも不明である。
斑鳩平次の墓所の所在地や、子孫に関する情報も現時点では不明である 1 。資料 54 には「斑鳩平次に、一萬石が何高のぞみ」という断片的な記述が見られるが、文脈が不明であり、墓所や子孫とは直接結びつかない。
現在の熊本市内には、加藤清正やその家臣団ゆかりの寺社や史跡が多数存在するが 46 、斑鳩平次に特化したものや、彼の墓所と伝えられる場所は確認されていない。
斑鳩平次の名を後世に広く伝えた大きな要因の一つが、明治から大正にかけて人気を博した立川文庫の『豪傑斑鳩平次』である 20 。このシリーズは、猿飛佐助や霧隠才蔵といった、今日でも知られる忍者キャラクターを生み出したことでも有名であり、当時の少年たちを中心に熱狂的に支持された 22 。
この作品を通じて、「斑鳩平次」の名は勇猛果敢な英雄として大衆の間に広まった。その内容は史実から大きく離れた創作部分が多いと考えられるが、彼の名を後世に伝え、ある種のイメージを定着させた影響は非常に大きいと言える。
江戸時代から明治時代にかけて、加藤清正は忠勇義烈の武将として民衆から絶大な人気を誇り、その武勇伝や逸話は講談、歌舞伎、錦絵など様々な形で語り継がれた 2 。その影響下で、清正を支えた家臣たちもまた、様々な物語や創作物の題材となった。斑鳩平次も、そのような加藤清正家臣団の勇猛な一員として、あるいは独立した豪傑として語り継がれる素地を持っていた。
斑鳩平次の名は、詳細な史実としての記録以上に、大衆文化の中での英雄譚を通じて後世に記憶されている側面が強い。これは、歴史上の人物が、時代の要請や大衆の嗜好に応じてどのように記憶の中で変容し、新たな意味やイメージを付与されていくかの一つの事例と言えるだろう。彼の「一番槍」という分かりやすい武功や、「貍平次」というユニークな異名は、物語の素材として極めて魅力的であったと考えられる。
本報告書では、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、斑鳩平次信好について、現存する史料や研究を基に調査を行った。
調査の結果、斑鳩平次信好は、はじめ上杉謙信に、後に加藤清正に仕えた実在の武将であり、特に文禄・慶長の役において「一番槍七度」という顕著な武功を挙げ、その功績により三千石という厚遇を受けた勇猛な人物であったことが確認された。その名は加藤十六将にも連ねられ、異名「貍平次」と共に、後世の講談などを通じても語り継がれた。
一方で、その詳細な生涯、特に生没年、出自、上杉謙信への具体的な仕官状況、晩年などについては不明な点が多く残されている。また、彼に関する逸話の多くは、江戸時代以降の編纂物や明治時代の講談における脚色が加わっている可能性が高く、史実としての評価と、物語の中で形成された英雄像とは慎重に区別して理解する必要がある。
今後の研究課題としては、以下の点が挙げられる。
これらの課題の解明には、地道な史料調査と、歴史学のみならず国文学や民俗学的なアプローチも必要となるであろう。斑鳩平次は、史実の武将として、また後世の物語の英雄として、今後も多角的な研究の対象となり得る興味深い人物であると言える。
本報告書作成にあたり参照した主要な資料は、本文中に角括弧で示した各識別子(例: 1 )に対応する調査資料である。具体的には、Wikipediaの関連項目、各種辞書サイト、国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の『豪傑斑鳩平次』、『武将感状記』や『名将言行録』に関する情報、その他関連ウェブサイトなどが含まれる。