新庄直好は常陸麻生藩三代藩主。大坂の陣で武功を挙げ、幕府の信頼を得る。領地替えやワカサギ献上で藩政を安定させ、後継者問題では家の存続を優先。激動期から安定期への橋渡し役を担った。
本報告書は、江戸時代前期の常陸麻生藩三代藩主、新庄直好(しんじょう なおよし)の生涯を、彼の生きた時代の文脈の中に位置づけ、その歴史的役割を多角的に解明することを目的とする。直好は、一般的には二代藩主・直定の嫡男として家を継ぎ、大坂の陣に従軍し、将軍の上洛に際して甲府城を守備したといった断片的な事実で知られている 1 。しかし、彼の真の重要性は、戦国の遺風が色濃く残る時代から徳川幕藩体制の安定期へと移行する過渡期において、祖父の代に劇的な復活を遂げた新庄家を、巧みな政治手腕と自己犠牲的な決断によって盤石な大名家へと軟着陸させた「橋渡し役」としての役割にある。本報告書では、直好の生涯を「武功」「藩政」「家督」という三つの側面から深く掘り下げ、その実像に迫る。
直好が生きた慶長4年(1599年)から寛文2年(1662年)という期間は、徳川幕府の支配体制が確立され、「元和偃武」によって天下泰平の世が訪れた時代と完全に重なる 2 。この時代背景は、彼が藩主として直面した課題が、領土拡大や武力による覇権争いといった戦国的なものではなく、幕府への忠実な奉公、藩領の内部統治、そして何よりも「家」の永続であったことを示唆している。大名家の価値基準が、個人の武勇や軍事力といった「武」から、統治能力や幕府への忠誠といった「文」へと大きく転換していく中で、直好の行動は、この時代の変化に巧みに適応しようとした結果として理解することができる。
祖父・新庄直頼の生涯が、戦、改易、そして奇跡的な復活という戦国時代の激しい動乱そのものであったのに対し 4 、父・直定は、大坂の陣で武功を挙げつつも奏者番という幕府の文官的役職に就き、武人から行政官僚への過渡期を体現した 2 。そして直好自身は、大坂の陣への従軍経験を持つものの、その後のキャリアは幕府の公務が中心となり、新庄家が「戦国の雄」から「徳川の臣」へと完全に脱皮したことを象徴する存在であった。彼の治世は、まさに新庄家が時代の要請に適応していった過程の集大成であり、その堅実な歩みの中にこそ、彼の歴史的評価の核心が存在するのである。
新庄直好の治世を理解するためには、まず彼が背負っていた新庄家という家の歴史的背景を把握する必要がある。新庄氏の出自は、遠く藤原秀郷に遡るとされ、南北朝時代に俊名が近江国坂田郡新庄(現在の滋賀県米原市)に居住して新庄を称したことに始まる、由緒ある家柄であった 2 。代々室町幕府に仕えた後、戦国時代には近江の国人としてその名を知られるようになる 2 。
直好の祖父にあたる新庄直頼は、父・直昌が江口の戦いで戦死した後、浅井長政に属した 8 。浅井家滅亡後は織田信長を経て豊臣秀吉に仕え、その馬廻衆として活躍し、最終的には摂津国高槻城主として三万石を領する大名にまで登り詰めた 2 。この経歴は、新庄家が単なる地方の土豪ではなく、中央政権にも深く関与するだけの家格と実力を有していたことを物語っている。豊臣政権下で大名となったという事実は、後の関ヶ原の戦いにおける新庄家の運命を決定づける重要な要素となる。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、新庄家は重大な岐路に立たされる。地理的に西軍の勢力圏にあり、また豊臣恩顧の大名であった直頼は、嫡男・直定(直好の父)と共に西軍に与し、東軍方の伊賀上野城を攻撃した 4 。しかし、本戦で西軍が敗北した結果、新庄家は所領を全て没収され、改易処分となった。直頼・直定父子は会津の蒲生秀行預かりの身となり、大名としての新庄家は一度、歴史の表舞台から姿を消すことになったのである 4 。
ところが、そのわずか4年後の慶長9年(1604年)、事態は劇的な展開を見せる。徳川家康は直頼父子を赦免し、常陸国行方郡、新治郡、下野国芳賀郡などにまたがる三万三百石の所領を与え、常陸麻生藩が立藩された 2 。関ヶ原で西軍に与した大名、それも積極的に敵城を攻撃した者が、改易後に旧領に近い規模の所領を与えられ、しかも江戸に近い関東地方に封じられるというのは、極めて異例の措置であった。
この奇跡的な復活の背景には、家康が直頼の「質直な人柄」を高く評価し、「旧好」があったことが挙げられている 4 。『寛政重修諸家譜』によれば、直頼は上方諸将の大勢に逆らい難く石田三成に従ったものと家康は判断し、同族の縁がある蒲生秀行に預ける配慮をしたとされる 4 。また、家康の囲碁相手を務めるほど個人的に親密であったという伝承も残っている 5 。しかし、これを単なる個人的な温情と見るのは表層的であろう。むしろ、そこには家康の高度な政治的計算が働いていたと見るべきである。豊臣恩顧の大名の中でも信頼できる人物をあえて自らの膝元近くに置くことで、他の外様大名への牽制と、自らの度量の広さを天下に示すという政治的意図があった可能性が高い。
いずれにせよ、この異例の抜擢によって成立した麻生藩は、その誕生の経緯からして、徳川家に対する絶対的な忠誠を宿命づけられていた。家康個人との信頼関係という「無形の資産」は、その後の新庄家の存続を支える最大の政治的資本となった。直好の代に至るまで、歴代藩主が幕府への忠勤に励んだのは、この創業時の恩義に対する「返礼」であり、常にその信頼を裏切ってはならないという強い自覚があったからに他ならない。
新庄直好が歴史の舞台に初めて登場するのは、慶長19年(1614年)から翌年にかけて起こった大坂の陣である。当時まだ10代半ばであった直好は、父である二代藩主・新庄直定と共に徳川方として参陣した 1 。この参陣は、新庄家にとって極めて重要な意味を持っていた。
父・直定は、初代藩主・直頼の長男として、関ヶ原の改易と復活という激動を父と共に経験した人物である 2 。麻生藩成立後は、父と共に駿府に在勤を命じられるなど、早くから徳川政権下で活動していた 2 。彼にとって、そして新庄家全体にとって、大坂の陣は、関ヶ原の戦いで西軍に与したという「汚名」を完全に返上し、徳川家への忠誠を揺るぎないものとして内外に示す絶好の機会であった。かつての主家である豊臣家を滅ぼす最後の戦いに率先して参加し、武功を挙げることは、幕藩体制の中で外様大名として生き抜くための絶対条件だったのである。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、新庄父子は徳川家の重臣である酒井忠世の配下に属し、松平信吉と共に今里の附城を守備するという任にあたった 6 。譜代の重臣の指揮下で戦うことは、単に軍事行動に参加するだけでなく、徳川の指揮系統に完全に組み込まれ、その一員として認められることを意味した。
翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、決戦となった天王寺・岡山の戦いに参加。この戦いで父・直定は目覚ましい活躍を見せ、大坂城内に突入して首級13を挙げるという多大な武功を立てた 6 。この時、17歳であった直好も父と共に戦場に立ち、徳川の臣としての洗礼を受けた 1 。
この大坂の陣への従軍は、若き直好にとって単なる初陣ではなかった。それは、新庄家が豊臣恩顧という過去の出自と完全に決別し、徳川の臣として生まれ変わるための通過儀礼であったと言える。父が立てた武功と、自らがその場にいたという経験は、新庄家の幕府に対する忠誠心を疑いのないものとして証明し、直好が後に藩主としてキャリアを歩む上での信頼性の裏付けとなった。泰平の世へと向かう最後の戦乱において武門の誉れを示したこの経験は、彼の武人としての一面を形成する重要な原体験となったのである。
元和4年(1618年)、父・直定が57歳で死去すると、直好は20歳で家督を相続し、常陸麻生藩三万石(父の代に弟・直房へ三千石を分与したため、正しくは二万七千三百石)の三代藩主となった 2 。藩主となった直好は、祖父・直頼が築いた徳川家との特別な関係を維持・発展させるべく、幕府から命じられる数々の公務を忠実に果たしていく。
その中でも特筆すべきは、三代将軍・徳川家光の上洛に際して甲府城の守備を命じられたことである 1 。甲府城は江戸の西の守りの要であり、その留守居役を任されることは、幕府からの深い信頼の証であった。この他にも、岩槻城や佐倉城の守衛、下館城の在番など、幕府の重要拠点における守備任務を歴任しており、外様大名でありながら譜代大名並みの扱いを受けていたことが窺える 4 。これらの奉公は、麻生藩の財政にとっては大きな負担であったと推察されるが、直好は家の安泰と地位の安定のために、これらの任務を誠実に遂行した。
直好の藩主としての手腕が最も発揮されたのが、元和8年(1622年)に実現した領地替えである。当時、麻生藩の所領は常陸国と下野国に分散しており、特に下野国石橋(現在の栃木県下野市)周辺の一万石は、本拠地の麻生から遠く離れた飛び地であった 3 。飛び地の存在は、年貢の輸送、行政の効率、治安維持など、藩の統治における大きな障害となっていた。
この年、将軍家光が日光社参を行った際、直好はこの機会を逃さなかった。家光が自身の領地である石橋を通過することを知ると、これを丁重に饗応したのである 4 。この忠勤に満足した家光が直好の所望を尋ねた際、彼は石橋が本領から遠隔地であることを申し出た。この願いは聞き入れられ、さらに幕府の重鎮である大老・土井利勝の助力を得て、同年11月、下野国内の一万石を本拠地麻生に近い常陸国新治郡内に移転させることが認められた 4 。
この領地替えは、直好の優れた政治手腕と、彼が幕府中枢との間に強固な信頼関係を築いていたことを証明する画期的な出来事であった。領地の統合はどの藩主も望むことであるが、幕府の許可を得ることは極めて困難であり、それを実現できたのは、将軍への奉公という機会を巧みに利用し、幕府最高首脳に直接働きかけることができるだけの政治力があったからに他ならない。この成功は、藩の統治効率を劇的に改善し、その後の長期的な安定経営の礎を築いた、直好の藩主として最大の功績と評価できる。彼は単に幕府の命令を待つ受動的な藩主ではなく、藩の利益のために自ら機会を創出し、政治的に行動できる能動的な統治者だったのである。
直好の人物像を物語る上で欠かせないのが、霞ヶ浦のワカサギにまつわる逸話である。彼は領内の霞ヶ浦北浦で獲れる特産のワカサギを焼き、将軍家光に献上したところ、大変喜ばれたと伝えられている 4 。この献上をきっかけとして、ワカサギは「御公儀の魚」、すなわち将軍家御用達の魚とされ、「公魚」という漢字が当てられるようになったという 4 。
この逸話は、単なる心温まる美談として片付けるべきではない。むしろ、小藩の藩主が中央政界で存在感を示すための、洗練された「ソフトパワー外交」と解釈することができる。泰平の世においては、大坂の陣のような武功によって将軍の歓心を得る機会はもはや存在しない。また、外様の小藩主が将軍と直接接する機会は極めて限られていた。
そのような状況下で、自藩のユニークな産物を献上し、それが将軍個人の嗜好に合致することは、他の大名にはない特別な関係性を築く絶好の機会となる。直好は、この献上を通じて「麻生藩=将軍お気に入りの美味を献上する藩」という独自のブランドを幕府中枢に印象付けたのである。この逸話は、直好が武骨なだけの武人ではなく、相手の心をつかむ術を心得た、文化的なセンスと鋭い政治的嗅覚を併せ持つ人物であったことを雄弁に物語っている。
堅実な藩政運営と幕府への忠勤によって藩の基盤を固めていった直好であったが、彼の治世の後半は、家の存続そのものを揺るがしかねない後継者問題に深く苦悩することになる。
彼には正室である佐久間安政の娘との間に、長男・直常(なおつね)がいた 1 。しかし、この待望の嫡子は病弱を理由に廃嫡となり、承応3年(1654年)に父に先立って早世するという不幸に見舞われる 2 。江戸時代初期、藩主に適切な跡継ぎがいないことは「無嗣改易」、すなわち領地没収に直結する最も恐ろしい事態であった。跡継ぎを失った新庄家は、断絶の危機に瀕したのである。
この危機に際し、直好は迅速かつ現実的な手を打つ。叔父・新庄直房(旗本三千石)の二男で、自身にとっては従弟にあたる新庄直時(なおとき)を養子として迎え、さらに自らの娘を直時に娶せることで血縁関係を強化し、後継者として定めた 2 。これにより、ひとまず家の断絶という最悪の事態は回避された。
ところが、万治3年(1660年)、事態は再び劇的な展開を見せる。直好が62歳という高齢にして、側室との間に待望の実子・直矩(なおのり)が誕生したのである 1 。通常であれば、実子の誕生は家にとって最大の喜びとなるはずであった。しかし、この時の直好にとっては、苦渋の決断を迫られる新たな苦悩の始まりであった。
自らの死期が近いことを悟っていた直好は、実子・直矩がまだ生まれたばかりの幼児であるという現実を直視した。もし、自分が今亡くなり、幼い直矩を後継者に指名すれば、藩政の混乱を理由に幕府から改易を命じられる危険性が極めて高かった。当時の幕府は、幼君の相続を口実に大名家を取り潰す事例が後を絶たなかったからである 2 。
一方で、養子の直時はすでに成人しており、幕府の承認も得た正式な後継者であった。彼に家督を継がせれば、新庄家は確実に存続できる。ここに、直好は父親としての私情と、藩主としての公的な責務との間で板挟みとなった。そして彼は、非情とも思える決断を下す。家督は予定通り養子の直時が継ぎ、実子の直矩は成長した後に家督を譲り受けるという道筋を立てたのである。寛文2年(1662年)、直好が64歳で死去した際、この方針は維持され、直時が四代藩主として家督を相続した 1 。
この後継者問題への対応は、新庄直好という人物の核心に触れるものである。彼は、我が子に家を継がせたいという父親としての自然な感情よりも、新庄家という「家」の存続と、そこに生きる家臣団や領民の生活を守るという、藩主としての公的な責務を優先した。これは、当時の武家の当主として最も重要視された価値観を体現する、自己犠牲的かつ極めて合理的な決断であった。この決断の中にこそ、彼の「家の長」としての器の大きさと、深い思慮が見て取れるのである。
関係 |
氏名 |
続柄・備考 |
祖父 |
新庄 直頼 |
麻生藩初代藩主。 |
父 |
新庄 直定 |
麻生藩二代藩主。 |
叔父 |
新庄 直房 |
直定の弟。旗本・新庄勝三郎家の祖。 |
本人 |
新庄 直好 |
麻生藩三代藩主。 |
正室 |
― |
佐久間安政の娘。 |
長男 |
新庄 直常 |
病により廃嫡、早世。 |
次男 |
新庄 直矩 |
直好の晩年の実子。後の五代藩主。 |
娘 |
― |
養子・直時の正室となる。 |
養子 |
新庄 直時 |
従弟(直房の二男)。後の四代・六代藩主。 |
この表は、直時が「従弟であり、娘婿でもある養子」という複雑な立場にあったこと、そして実子・直矩の誕生がいかに後継者問題を複雑にしたかを視覚的に示している。
寛文2年7月22日(1662年9月5日)、新庄直好は江戸の藩邸にてその生涯を閉じた。享年64であった 2 。法名は「海了寺殿津峰寿玄大居士」と贈られた 12 。
彼の遺骸は、江戸における新庄家の菩提寺であった駒込の吉祥寺に葬られた 12 。吉祥寺には現在も巨大な墓石群が残り、麻生藩新庄家の威光を今に伝えている 15 。一方で、領地の常陸麻生には、藩主家と家臣のための菩提寺として海了寺が建立され、歴代藩主の大位牌などが祀られている 16 。これは、藩主が江戸に常住する参勤交代制下の大名家における、典型的な埋葬・祭祀の形態であった。
直好の死後、麻生藩は彼の遺した計画通りに、養子の直時が四代藩主として家督を継いだ。直時は、直好の遺志を尊重し、実子・直矩の補佐に努めた。そして延宝2年(1674年)、直矩が15歳に成長したのを見届けると、藩主の地位を直矩に譲ることを幕府に願い出て、これが認められた 4 。直矩は麻生藩二万三千石の五代藩主となり、直好の深慮遠謀は、ここに成就したかに見えた。
しかし、運命はあまりにも過酷であった。藩主となってわずか2年後の延宝4年(1676年)、直矩が17歳の若さで嗣子なく急死してしまうのである 10 。この不測の事態により、麻生藩は無嗣を理由に幕府から領地を没収され、改易の憂き目に遭った。直好が生涯をかけて守ろうとした新庄家は、ここにきて断絶の危機に再び直面した。
だが、この絶体絶命の状況においてこそ、直好が築き上げた「遺産」の真価が発揮される。通常、一度改易された大名家が再興されることは極めて稀であった。しかし幕府は、同年のうちに、隠居していた直時を再び藩主として取り立て、石高を一万石に減らしはしたものの、麻生藩の存続を認めるという異例の措置を取ったのである 10 。
この奇跡的な再興は、単なる幸運ではない。それは、祖父・直頼の代から直好に至るまで、三代にわたって築き上げてきた幕府への忠勤と、それによって得られた幕府中枢からの信頼という「無形の資産」があったからこそ可能になったと解釈すべきである。直好の堅実な治世と幕府への絶え間ない奉公は、彼の死後に藩が最大の危機に瀕した時でさえ、家が完全に歴史から消え去るのを防ぐだけの強固な「安全網」となっていた。彼の最大の功績は、この危機をも乗り越えられるだけの盤石な基盤を、次世代のために築き上げた点にあると言えるだろう。
本報告書を通じて詳述してきたように、新庄直好の生涯は、派手な武勇伝や劇的な逸話に彩られたものではない。しかし、彼の歩みは、戦国の動乱を乗り越えた一つの外様大名家が、いかにして徳川三百年の泰平の世に適応し、その存続の礎を築いていったかを示す、極めて示唆に富んだ事例である。
直好の人物像は、「武人」「藩主」「家の長」という三つの側面から総合的に捉えることができる。
武人としての彼は、大坂の陣において父と共に徳川方として参陣し、武功を挙げることで、時代の要請に応え、武門の誉れを示した。これは、新庄家が徳川の臣として生きるための資格を得る上で不可欠な行動であった。
藩主として の彼は、極めて有能で堅実な統治者であった。幕府への忠実な奉公を重ねて信頼を勝ち取り、その関係を巧みに利用して、藩政の長年の懸案であった領地替えを実現させた。また、ワカサギ献上の逸話に見られるように、武力によらない方法で将軍家との個人的な関係を構築する、鋭い政治的嗅覚と先見性を備えていた。
そして、 家の長として の彼は、後継者問題という最大の試練に直面した際、個人的な情愛を乗り越え、家の存続という大義のために最も合理的で安全な道を選択した。その自己犠牲的な決断は、一族郎党全ての未来を背負う当主としての、強い責任感と思慮深さの表れであった。
新庄直好の歴史的評価は、彼が「橋渡し役」として果たした機能に集約される。祖父・直頼が勝ち取った劇的な復活劇を、一過性の幸運で終わらせることなく、地道で堅実な治世と幕府への忠勤によって、永続的な安定へと繋げた。彼の存在なくして、麻生藩新庄家が一度の改易の危機を乗り越え、明治維新まで関東の地に存続することは極めて困難であっただろう。彼は、歴史の転換期において、家の舵取りを誤ることなく、次世代へと確かなバトンを渡した、地味ながらも極めて重要な役割を果たした大名であったと結論付けられる。