最終更新日 2025-06-23

新発田長敦

「新発田長敦」の画像

越後国人・新発田長敦の生涯と時代 ― 謙信・景勝体制移行期における忠誠と悲劇の序章

序章:新発田長敦とは何者か

研究史における位置づけと本報告書の目的

新発田長敦(しばた ながあつ、天文7年/1538年~天正8年/1580年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて越後国にその名を刻んだ武将である 1 。しかし、その名は、後に主君上杉景勝に反旗を翻し、7年にも及ぶ壮絶な戦いの末に滅んだ弟・新発田重家の劇的な生涯の影に隠れ、これまで個別の研究対象として光が当てられることは稀であった 2 。重家の反乱という結果から遡って歴史が語られる中で、長敦はしばしば「悲劇の序章」を構成する一要素として、あるいは弟の物語の前提として簡潔に触れられるに過ぎなかった。

しかし、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、彼が生きた時代の文脈の中にその動向を位置づけることで、全く異なる人物像が浮かび上がってくる 4 。新発田長敦は、単なる一地方領主ではなく、軍神・上杉謙信からその甥・景勝へと上杉家の権力が移行する激動の時代において、極めて重要な役割を果たした「調整者」であり、政権の安定に不可欠な重鎮であった。

本報告書は、この新発田長敦の生涯を多角的に再検証することを目的とする。彼の出自と台頭の背景、主君上杉謙信の下での活躍、そして越後を二分した内乱「御館の乱」における決断と功績を詳細に分析する。それを通じて、彼の存在が、独立性の強い国人領主群「揚北衆(あがきたしゅう)」の統制といかに不可分であり、上杉家の安定にいかに貢献したかを明らかにする。さらに、彼のあまりに時宜を得ない突然の死が、いかにして権力構造の均衡を崩し、弟・重家の悲劇、ひいては越後国の勢力図の激変を招いたのか、その因果関係を深く掘り下げて論じるものである。

揚北衆の重鎮、そして悲劇の兄として

新発田長敦の生涯を理解する上で、二つの側面を念頭に置く必要がある。一つは、越後北部に割拠し、強い独立性を保持した国人領主群「揚北衆」を代表する重臣として、主君上杉謙信から絶大な信頼を得ていたという事実である 5 。彼は軍事のみならず、内政・外交にも関与し、謙信政権の中枢で重きをなした。もう一つは、弟・重家との関係性である。長敦の政治的手腕と、重家の戦場での武勇は、新発田氏の力を支える両輪であった。しかし長敦の死後、この均衡は崩壊する。主君への「忠誠」と、一族の自立性を維持しようとする国人領主としての「矜持」との間で保たれていた絶妙なバランスが失われ、その矛盾は弟・重家の反乱という形で破滅的に噴出することになる 2 。長敦の生涯は、まさに戦国武将の栄光と、その裏に潜む危うさを象徴していると言えよう。

本報告書の理解を助けるため、まず新発田長敦に関連する主要な出来事を時系列で整理した年表を以下に示す。

【表1:新発田長敦 関連年表】

西暦

和暦

年齢

新発田長敦・一族の動向

上杉氏・越後の動向

1530年

享禄3年

-

父・綱貞、上条定憲に呼応し長尾為景に反旗を翻す(上条定憲の乱) 7

上条定憲の乱が勃発。

1536年

天文5年

-

長尾為景が隠居し、晴景が家督を継ぐ。

1538年

天文7年

1歳

新発田長敦、誕生 1

1547年

天文16年

10歳

弟・重家、誕生 2

1548年

天文17年

11歳

長尾景虎(後の上杉謙信)、兄・晴景に代わり家督を継ぐ。

1561年

永禄4年

24歳

父・綱貞、死去 9

長敦が家督を相続 し、上杉謙信に臣従。

第四次川中島の戦い。新発田勢も参陣し武功を挙げたとされる 10

1568年

永禄11年

31歳

本庄繁長の乱が勃発。鎮圧後、新発田氏の揚北衆内での地位が向上する 12

1578年

天正6年

41歳

御館の乱で上杉景勝を支持 。武田勝頼との和平交渉を成功させる 5 。弟・重家(当時、五十公野治長)も軍事面で大活躍。

3月、上杉謙信が急死。御館の乱が勃発。

1580年

天正8年

43歳

新発田長敦、病没 1 。弟・重家が新発田家の家督を継ぐ。

御館の乱が終結。論功行賞で新発田氏は冷遇される 1

1581年

天正9年

-

弟・重家、恩賞への不満から織田信長と結び、上杉景勝に反乱を起こす(新発田重家の乱) 6

1587年

天正15年

-

弟・重家、新発田城が落城し自刃。領主としての新発田氏は滅亡する 13


第一部:新発田氏の出自と越後の情勢

第一章:揚北衆の雄、新発田氏の成り立ち

佐々木党加地氏庶流としての起源

新発田氏の歴史的特質を理解するためには、まずその出自に遡る必要がある。新発田氏は、近江国を本拠とした宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、由緒ある一族である 6 。鎌倉幕府の創設に功績のあった佐々木盛綱が、源頼朝から越後国加地荘の地頭職を与えられたことに始まる 8 。盛綱の子孫は現地に土着して加地氏を名乗り、その庶流として新発田氏、五十公野氏、竹俣氏などが分立した 6 。この「佐々木党」としての誇りと血の結束は、彼らが越後北部に確固たる勢力圏を築く上での精神的支柱となった。

独立領主としての新発田氏と「揚北衆」の特質

新発田氏は、室町時代頃に加地氏から分かれ、現在の新潟県新発田市に位置する新発田城を本拠とした 6 。その勢力は、日本海に面した新潟津(現在の新潟市中心部)から、内陸の三条島(現在の三条市)にまで及ぶ広大なものであり、単なる在地領主の枠を超えた、有力な国人領主であった 6

彼らが属した「揚北衆」とは、当時の越後を南北に隔てていた阿賀野川(古くは揚川と呼ばれた)以北に割拠した国人領主たちの総称である 6 。越後の政治的中心地であった府中(現在の上越市)から地理的に遠く、守護や守護代の権力が直接及びにくいという条件が、彼らに強い独立性を与えた 15 。彼らは府中の支配者に対して、完全な家臣として従属するのではなく、時々の利害に応じて協力、対立、あるいは中立を保つという、半ば同盟者に近い関係を維持していた。この独立不羈の気風こそが、揚北衆、そしてその中でも特に有力であった新発田氏の行動原理を理解する鍵となる。

第二章:父・綱貞の時代 ― 長尾為景との対立

「上条定憲の乱」における新発田綱貞の動向

新発田長敦が上杉謙信に対して見せた忠誠を理解するためには、その父・綱貞(つなさだ、1512-1561)の時代にまで遡り、新発田氏と長尾氏との関係性を確認する必要がある。上杉謙信の父である長尾為景は、主君である守護・上杉房能を打倒し、越後の実質的な支配者として台頭した下克上の体現者であった 8 。しかし、その強引な手法は国内に多くの敵を作った。

享禄3年(1530年)、守護・上杉定実の実家である上条定憲が為景に対して叛旗を翻すと、越後は大規模な内乱に突入する(上条定憲の乱) 7 。この時、長敦の父・新発田綱貞は、本庄氏、中条氏、加地氏といった他の揚北衆の領主たちと共に、反・為景方の中核として参陣した 8 。彼らは上条方として春日山城下を焼き討ちにするなど、為景を相手に激しく戦った 7

長尾氏との緊張関係の形成

この乱は天文5年(1536年)までの長きにわたり、最終的に為景を隠居に追い込むほどの激しさを見せた 8 。これは、新発田氏を含む揚北衆が、越後の覇権を狙う長尾氏と正面から渡り合い、その野心を一時的に頓挫させるほどの力を持っていたことを示している。この戦いの経験は、新発田氏と長尾氏の間に、容易には消えない潜在的な緊張関係を植え付けた。綱貞の代の新発田氏は、長尾氏にとって従属させるべき家臣ではなく、打倒すべき競争相手だったのである。

この父の時代の経験は、後に家督を継ぐ長敦の政治判断に大きな影響を与えた。父・綱貞が選んだ「対立」の道は、一族の独立性を誇示する一方で、常に戦乱の危険を伴うものであった。長敦が後に見せる謙信への恭順は、この父の時代の苦い経験を踏まえた上での、より現実的かつ戦略的な選択であった。父が貫いた独立の気風と、子が選んだ協調の路線。この180度の転換こそが、新発田長敦という武将の非凡さを示している。彼は、父の時代の価値観に囚われることなく、時代の変化を冷静に見極め、一族の存続と発展のために最も合理的な道を選んだのである。それは単なる心変わりではなく、為景の子・景虎(謙信)が父を遥かに凌ぐ力量で越後を統一していく過程を目の当たりにし、旧来の敵対関係を続けることが一族の滅亡に直結しかねないと判断した、冷徹な政治的決断の結果であったと推察される。

本報告書で展開される複雑な人間関係を把握するため、主要な登場人物とその関係性を以下の表にまとめる。

【表2:主要登場人物とその関係性】

人物名

読み

続柄・関係性

簡潔なプロフィール

新発田長敦

しばた ながあつ

本報告書の主人公

綱貞の嫡男。謙信・景勝に仕えた揚北衆の重鎮。政治・外交手腕に長ける 1

新発田重家

しばた しげいえ

長敦の弟

綱貞の次男。武勇に優れ、後に景勝に反乱。当初は五十公野家の養子 2

新発田綱貞

しばた つなさだ

長敦・重家の父

長尾為景と敵対し、上条定憲の乱で活躍した武将 8

上杉謙信

うえすぎ けんしん

長敦・重家の主君

長尾為景の子(景虎)。越後を統一した戦国大名。長敦を重用した 5

上杉景勝

うえすぎ かげかつ

長敦・重家の主君

謙信の甥で養子。御館の乱を経て上杉家を継ぐ 22

上杉景虎

うえすぎ かげとら

景勝の競争相手

謙信の養子(北条氏康の子)。御館の乱で景勝と家督を争う 22

直江兼続

なおえ かねつぐ

景勝の側近

景勝の家督相続後、上杉家の執政として台頭。重家の乱鎮圧を指揮 23

色部長実

いろべ ながざね

長敦の義弟

揚北衆の一人。妻は長敦・重家の妹 1 。重家の乱では景勝方として戦う。

五十公野信宗

いじみの のぶむね

長敦の義弟

重家の妹婿。重家が新発田家を継いだ後、五十公野家を継承 25 。重家と共に反乱。

本庄繁長

ほんじょう しげなが

揚北衆の同輩

揚北衆の有力者。一時は謙信に謀反を起こすが、後に帰参 27


第二部:上杉謙信の忠臣としての新発田長敦

第一章:家督相続と謙信への臣従

父の路線からの転換と謙信政権下での台頭

永禄4年(1561年)、父・綱貞が没すると、新発田長敦は24歳で家督を相続した 1 。彼が当主となった時代、越後の情勢は父の代とは一変していた。長尾景虎、後の上杉謙信が国内の諸勢力を次々と平定し、その圧倒的な軍事力とカリスマ性によって、越後国主としての地位を盤石なものとしつつあった。このような状況下で、長敦は父が貫いた長尾氏との対立路線を転換し、謙信に臣従するという現実的な道を選択する 28 。この決断は、新発田氏の歴史における大きな転換点であった。臣従後の長敦は、謙信が主導する軍事行動に積極的に協力し、その忠誠と能力によって、次第に謙信政権内で頭角を現していく。

謙信の主要な軍事行動への従軍

長敦は、謙信の主要な軍事遠征のほとんどに参加したと伝えられている 29 。関東の北条氏や甲斐の武田氏との戦いをはじめ、信濃や越中方面への遠征にもその名を連ねており、謙信麾下の有力武将として枢要な地歩を占めていた 2

特に、戦国史上名高い川中島の戦いにおける新発田勢の活躍は特筆に値する。永禄4年(1561年)に行われた第四次川中島の戦いでは、上杉軍と武田軍が激しく衝突したが、この乱戦の中で武田方の猛将として知られた諸角虎定(もろずみ とらさだ)を討ち取ったのは新発田勢であった、という記録が残されている 10 。また、別の史料では、長敦自身がこの戦いで敵将を討ち取るという武功を挙げ、謙信から直接賞賛されたと記されている 11 。これらの記録は、新発田長敦率いる軍勢が、単なる動員兵力ではなく、上杉軍の中核をなす精鋭部隊として、最も苛烈な戦場で重要な役割を果たしていたことを強く示唆している。

第二章:揚北衆のまとめ役として

本庄繁長の乱と、その後の新発田氏の地位向上

長敦の価値は、戦場での武功だけに留まらなかった。彼が謙信から特に信頼されるきっかけとなったのが、永禄11年(1568年)に勃発した「本庄繁長の乱」である。同じ揚北衆の有力者であった本庄繁長が、武田信玄の調略に応じて謙信に謀反を起こしたのである 16 。この反乱は謙信自らの出陣によって鎮圧されたが、この事件は揚北衆の内部構造に大きな変化をもたらした。

反乱を起こした本庄氏の信頼が失墜する一方で、一貫して謙信に忠誠を尽くした新発田氏の評価は飛躍的に高まった。この乱を境に、新発田氏は謙信の厚い信任を背景として、揚北衆の中での主導的な立場を確立するに至った 12

謙信の側近としての内政・外交への関与

本庄繁長の乱以降、新発田長敦は単なる軍事指揮官から、謙信政権の中枢を担う重臣へと変貌を遂げる。彼は謙信の側近として常に傍らに侍し、軍事のみならず内政や外交といった政務にも深く関与するようになった 5 。これは、彼が武辺一辺倒の人物ではなく、複雑な政治情勢を読み解き、的確な判断を下すことのできる優れた政治的手腕をも兼ね備えていたことを物語っている。

謙信にとって、常に独立の気風を失わない揚北衆の統制は、国政運営上の重要課題であった。直接支配を強めれば反発を招き、放置すれば本庄繁長のように外部勢力と結びつく危険性がある。このジレンマを解決する上で、新発田長敦の存在はまさにうってつけであった。謙信は、揚北衆の事情に精通し、かつ自身に絶対的な忠誠を誓う長敦に、この地域の統率を事実上委任したと考えられる。長敦は、謙信政権と揚北衆との間を取り持つ「代理人」であり、両者の間に生じる摩擦を吸収する「調整弁」としての役割を担ったのである。彼の存在は、謙信が後顧の憂いなく、越後国外の強敵である武田氏や北条氏との戦いに全精力を傾けることを可能にした、内政上の極めて重要な安定装置であった。長敦の価値は、一個の武将としての武功を遥かに超え、謙信の国家統治戦略の根幹を支えるほどのものだったのである。


第三部:御館の乱と長敦の決断

第一章:後継者争いと景勝方への帰属

謙信の急死と後継者問題

天正6年(1578年)3月13日、関東出陣を目前にした上杉謙信は、春日山城で急逝した 5 。謙信には実子がおらず、生前に養子として迎えていた二人の人物が後継者候補となった。一人は、謙信の姉の子であり、長尾家の血を引く上杉景勝。もう一人は、同盟の証として相模の北条氏康から人質として送られ、謙信に深く寵愛された上杉景虎である 22 。謙信が正式な後継者を指名しないまま世を去ったため、この二人の養子の間で上杉家の家督を巡る壮絶な内乱が勃発した。世に言う「御館の乱」である 13

長敦が上杉景勝を支持した背景

この越後を二分する争いにおいて、新発田長敦は一貫して上杉景勝を支持した 1 。彼のこの決断は、御館の乱の帰趨に決定的な影響を与えた。長敦が景勝を選んだ背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、景勝が謙信の姉の子、すなわち長尾家の血筋を引いているという「正統性」である。国人領主たちにとって、血縁の正統性は支持の大きな拠り所となった。第二に、景勝方の重臣であった安田顕元からの熱心な勧誘があったことである 2 。顕元は、新発田氏を味方に引き入れることが勝利に不可欠であると考え、長敦に破格の条件を提示して説得にあたったとされる。そして第三に、長敦自身の政治的判断である。揚北衆の重鎮である彼の決断は、他の国人衆の動向を左右するほどの重みを持っていた。長敦が景勝支持を明確にしたことで、多くの揚北衆が景勝方になびき、乱の初期段階における勢力バランスは景勝に有利に傾いた。

第二章:乱における長敦の役割

軍事面:揚北衆の統率と景虎方勢力の鎮圧

景勝支持を表明した長敦は、自らが旗頭となり、揚北衆の取りまとめに奔走した 3 。彼の指揮の下、新発田一族は軍事面で目覚ましい働きを見せる。特に、当時五十公野家の養子となっていた弟の治長(後の新発田重家)の武勇は凄まじかった。治長は、景虎方についた同族の加地秀綱を攻め降し、三条城に籠もる神余親綱を討ち取るなど、各地で連戦連勝を重ねた 10 。さらに、景虎を支援するために会津から侵攻してきた蘆名・伊達連合軍をも撃退する大功を挙げている 10 。その活躍ぶりは、景勝が自ら筆をとり、歓喜の書状を送ったほどであり、景勝陣営において新発田兄弟の武名は鳴り響いていた 5

外交面:武田勝頼との和平交渉における功績

しかし、御館の乱における新発田長敦の最大の功績は、戦場での采配以上に、外交交渉の舞台で発揮された。景虎の実家である北条氏と甲相同盟を結んでいた甲斐の武田勝頼は、景虎を救援するため大軍を率いて越後へ侵攻した。これは、景勝方にとって最大の脅威であった。もし武田軍が本格的に景虎方として参戦すれば、景勝は二正面作戦を強いられ、敗北は必至の状況であった。

この絶体絶命の危機を救ったのが、長敦の外交手腕であった。彼は斎藤朝信らと共に交渉の矢面に立ち、武田勝頼との和平交渉を粘り強く進めた 5 。長敦は、景勝と武田家が和睦し、今後は武田軍が景勝の指示に従って行動することを約束させるという、驚くべき成果を挙げたのである 33 。これにより、景勝は背後の憂いを完全に断ち切ることができ、景虎との戦いに全戦力を集中させることが可能となった。この外交的勝利がなければ、景勝の最終的な勝利はあり得なかったと言っても過言ではない。

御館の乱における新発田兄弟の働きは、まさに「外交・戦略」を担う兄・長敦と、「戦術・実行」を担う弟・重家という、見事な役割分担によって成り立っていた。重家の華々しい武功が後世に語り継がれがちであるが、その武功が活かされる戦略的環境を創り出したのは、兄・長敦の政治力と外交力であった。武田軍という最大の脅威を無力化し、さらには味方として取り込むという離れ業を成し遂げた長敦こそ、この乱における景勝方の勝利を決定づけた「影の功労者」と評価すべきであろう。


第四部:突然の死と新発田氏の悲劇

第一章:論功行賞と長敦の病没

天正8年(1580年)の死とその状況

天正8年(1580年)、約2年にわたる御館の乱は上杉景勝の勝利で終結した。勝利に多大な貢献をした新発田長敦は、戦後の論功行賞で相応の恩賞が与えられることを期待していたはずである。しかし、その矢先、長敦は病に倒れ、43歳の若さで急死してしまう 1 。乱の完全終結からわずか1年後の、あまりにも時宜を得ない突然の死であった。

新発田一族への不当な論功行賞

長敦・重家兄弟が挙げた絶大な功績にもかかわらず、乱の終結後に行われた論功行賞において、新発田一族には十分な恩賞が与えられなかった 1 。これは、景勝政権の内部対立に起因するものであった。景勝の側近である直江信綱(後の兼続の義父)ら譜代の家臣たちは、乱の勝利は自分たちの働きによるものだと主張し、恩賞を独占しようとした。一方で、長敦のような外様の国人衆は、自分たちの功績こそが勝利の原動力であったと主張した。この論功行賞を巡る主導権争いの結果、譜代家臣側が勝利し、新発田氏をはじめとする国人衆は冷遇されることになったのである 2

第二章:弟・重家の継承と反乱への道

長敦の死がもたらした権力の空白

この不当な論功行賞が行われたまさにその時、新発田長敦はこの世にいなかった。彼の死は、新発田氏にとって計り知れない打撃となった。嫡男がいなかったため、五十公野家の養子となっていた弟の治長が急遽、新発田本家に戻り、「新発田重家」と名を改めて家督を継承した 6

しかし、これにより新発田氏は、上杉家中枢における政治的影響力と、揚北衆の利益を代弁する発言力を一挙に失ってしまった。兄・長敦は、謙信の側近として政権の中枢に食い込み、譜代家臣たちとも渡り合えるだけの政治力と人脈を築いていた。だが、弟の重家は、戦場では比類なき武勇を誇るものの、政治的な駆け引きには長けていなかった。兄という最大の庇護者と政治的代弁者を失った重家は、上杉家中で孤立を深めていく。

「新発田重家の乱」勃発に至る経緯

恩賞への激しい不満と、兄亡き後の家中での扱いに憤りを募らせた新発田重家は、ついに越後の国境を接する織田信長と密かに通じ、天正9年(1581年)、主君・上杉景勝に対して叛旗を翻した 6 。世に言う「新発田重家の乱」の勃発である。

この悲劇は、新発田長敦の死がなければ避けられた可能性が極めて高い。もし長敦が生きていれば、その卓越した政治力と交渉術をもって、論功行賞への不満を内々で処理し、景勝との妥協点を見出すことで、事態を穏便に収拾できたであろう。彼は、弟の武人としての誇りを理解しつつも、一族の存亡を賭けた無謀な反乱を押しとどめることができたはずである。長敦という「重石」と「調整弁」の不在こそが、武人肌の弟・重家を制御不能な暴発へと向かわせた最大の要因であった。

新発田長敦の死は、単に一個人の死ではなかった。それは、上杉家と揚北衆との間に辛うじて保たれていた微妙なパワーバランスを崩壊させる、最初のドミノであった。彼の死が引き起こした連鎖反応は、越後全土を巻き込む長期の内乱へと発展していく。まず、長敦の死によって、景勝政権内で直江兼続らに繋がる譜代家臣団が台頭し、国人衆の発言力が相対的に低下した。次に、その結果として、国人衆の功績を軽んじる不公正な論功行賞が行われた。そして、政治力を持たない武人肌の重家がこれに激しく反発し、孤立感と憤りの中で反乱という最終手段に訴えた。この反乱は、天正15年(1587年)に重家が滅亡するまで7年もの長きにわたって続き、上杉家の国力を著しく消耗させた 13 。この内乱による弱体化は、織田軍の越後侵攻を容易にし、後の豊臣政権下における上杉家の地位にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。新発田長敦という一人の武将の死が、越後国全体の運命を大きく左右する歴史の転換点となったのである。


結論:新発田長敦の歴史的評価

上杉家における「調整者」としての役割の再評価

新発田長敦は、その劇的な最期によって歴史に名を残した弟・重家の影に隠れ、これまで不当に過小評価されてきた。しかし、本報告書で検証した通り、彼は謙信・景勝という二代の主君に仕え、特に権力移行期という最も不安定な時期において、上杉家と独立性の強い揚北衆との関係を安定させた、比類なき「調整者(バランサー)」であった。

彼の卓越した政治的手腕と外交能力は、謙信政権の安定に大きく寄与しただけでなく、御館の乱における景勝の勝利に不可欠な要素であった。彼は単なる武将ではなく、主君の統治戦略を深く理解し、その実現のために行動できる、優れた戦略家でもあった。

忠誠を貫いた武将の生涯とその死が残した遺産

父・綱貞が築いた長尾氏との敵対関係を乗り越え、新たな主君・上杉謙信に忠誠を尽くした長敦の生涯は、激動の戦国時代を生き抜く国人領主の現実的な処世術と、主家への貢献という武士の理想を同時に体現している。

しかし、彼の最大の歴史的意義は、皮肉にもその「死」そのものにあると言わざるを得ない。彼の突然の死が、上杉家中の権力構造を不可逆的に変化させ、越後最大の内乱の一つである「新発田重家の乱」の直接的な引き金を引いたという事実は、彼という一個人の存在が、いかに地域の安定にとって大きな重みを持っていたかを雄弁に物語っている。新発田長敦は、その死をもって自らの重要性を証明した、悲劇の時代のキーパーソンとして、今こそ再評価されるべき人物である。彼の生涯と死を深く理解することなくして、戦国末期の越後の歴史、そして上杉家の動向を正確に語ることはできないであろう。

引用文献

  1. 新発田長敦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%95%A6
  2. 新発田重家 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/sibatasigeie.html
  3. 山形おきたま観光協議会 - 戦国観光やまがた情報局 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=listlog&c=&kw=&off=1520
  4. 日 本 史 学 研 究 室 寄 託 の 石 井 進 氏 蒐 集 史 料 細 目 録 https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/29446/files/nkk016008.pdf
  5. 歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 1 https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005179.html
  6. 新発田氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E6%B0%8F
  7. 新発田城 埋もれた古城 http://umoretakojo.jp/Shiro/Hokuriku/Niigata/Shibata/index.htm
  8. 古城の歴史 新発田城 https://takayama.tonosama.jp/html/shibata.html
  9. 新発田綱貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E7%B6%B1%E8%B2%9E
  10. 新発田重家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%AE%B6
  11. 新発田城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-shibata-castle/
  12. 本庄繁長の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%B9%B1
  13. 新潟県 新発田市 清水園/新発田藩の歴史 - 北方文化博物館 https://hoppou-bunka.com/shimizuen/shibata_history.html
  14. 五十公野城 - FC2 http://ishigakiotoko.web.fc2.com/shiro/niigatak/ijimino/ijimino.htm
  15. file-5 上杉謙信と戦国越後 - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/05/
  16. 2020年10月号「トランヴェール」戦国の雄 上杉謙信・景勝を支えた揚北衆 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/railway/trainvert/archive/2020_trainvert/2010_01_part.html
  17. 越後享禄・天文の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/EchigoKyourokuTenbunNoRan.html
  18. カードリスト/上杉家/上021新発田綱貞 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/435.html
  19. 加地春綱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E5%9C%B0%E6%98%A5%E7%B6%B1
  20. 【越後上杉家】上杉謙信と家族・家臣一覧 - 武将どっとじぇいぴー https://busho.jp/sengoku-busho-list/uesugi/
  21. 新発田重家(しばたしげいえ): - samidare http://samidare.jp/naoe/lavo?p=log&lid=148199
  22. 義の華、乱に散る ~新発田重家の乱~ 前編|鬼丸国綱 - note https://note.com/onimaru_12/n/nd0d301e89388
  23. お城にまつわるいろいろ話 時代を生き輝いた女人と共に - ⑨新発田城 (新潟県新発田市大手町)1 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n6398ih/13/
  24. 新発田市観光ガイド https://kojodan.com/pdf/26-2.pdf
  25. 史 談 - 白鷹町 https://www.town.shirataka.lg.jp/secure/4631/shidankaiho040.pdf
  26. 五十公野城の見所と写真・100人城主の評価(新潟県新発田市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1140/
  27. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第1回【上杉謙信】最強武将の居城は意外と防御が薄かった!? https://shirobito.jp/article/1351
  28. 越後 新発田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/shibata-jyo/
  29. 新発田長敦(シバタナガアツ) - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/dictionary.php?action_detail=view&type=1&word=&initial=%BC&gyo_no=&dictionary_no=1043
  30. 新発田重家(しばた しげいえ) 拙者の履歴書 Vol.204~忠と反逆の狭間に生きる - note https://note.com/digitaljokers/n/naa19cb3250fd
  31. 上関城 物語 - 綿野舞の記 http://watanobu.com/kamisekizyo/kamisekizyo13.html
  32. 御館の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
  33. 歴史の目的をめぐって 直江兼続 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-21-naoe-kanetsugu.html
  34. 文化財保存活用地域計画 新発田市 https://www.city.shibata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/023/583/keikaku.pdf
  35. 歴史と概要 新発田重家と上杉景勝の抗争 2 https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005180.html