戦国時代の遠江国(現在の静岡県西部)にその名を刻む武将、新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)。彼の名は、多くの場合、徳川四天王の一人に数えられる井伊直政の命を救った「井伊家の恩人」として語られる 1 。井伊家の歴史における最大の危機を救い、その後の彦根藩三十五万石の礎を築く上で欠かすことのできない役割を果たした人物として、その功績は高く評価されている。特に2017年に放送された大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、井伊直虎の伯父として、情に厚く誠実な武将として描かれ、その知名度は飛躍的に高まった 3 。
しかし、この「井伊家の恩人」という評価は、主に井伊家が徳川家康の下で大名として大成した後の視点、すなわち「結果」から遡って形成されたものである。親矩が生きた時代、彼はあくまで駿河・遠江を支配する今川家の家臣であり、遠江国城東郡新野(現在の御前崎市新野地区)を治める一人の国人領主であった 6 。主家・今川氏の権勢が揺らぎ、遠江が激しい動乱の渦中にあった時代、彼は「忠義の今川家臣」「情に厚い縁者」、そして「激動の時代を生きる政治家」という複数の顔を持っていた。
本報告書は、この新野親矩という人物を、単なる「恩人」という一面的な評価から解き放ち、彼の出自、複雑に絡み合った血縁関係、今川家臣としての立場、そして時代の荒波の中で下した決断の背景を多角的に分析することを目的とする。彼が本来所属した「今川家からの視点」と、彼自身の「遠江の国人領主としての視点」、そして後世に語り継がれる「井伊家からの視点」という三つのレンズを通してその生涯を再検証することにより、親矩の行動の裏にあった政治的計算や人間的葛藤を浮き彫りにし、その知られざる実像に迫るものである。
新野親矩の人物像を理解するためには、まず彼が属した新野氏そのものの歴史的背景を把握する必要がある。新野氏は、単なる戦国期の地方領主ではなく、古くからの格式と、支配者である今川氏との関係性という二重の性格を持つ一族であった。
新野氏の歴史は古く、鎌倉時代にまで遡ることができる。歴史書『吾妻鏡』の建久元年(1190年)の条には、源頼朝が上洛した際の随兵として「新野太郎」の名が記録されている 7 。これは、新野氏が鎌倉幕府に直接仕える御家人という、武士として極めて高い地位にあったことを示している。彼らは遠江国城東郡新野郷(現在の御前崎市新野地区)を拠点とし、古くからこの地に根を張る有力な土豪であった 6 。一部の系図では、同じく遠江の有力国人であった横地氏の一族ともされており 8 、地域の武士団の中で重要な位置を占めていたことがうかがえる。
時代が下り、室町時代から戦国時代にかけて遠江が今川氏の支配下に入ると、新野氏はその支配体制に巧みに組み込まれていく。戦国期において、新野氏は今川氏の庶流、すなわち分家として扱われ、「御一門衆」という特別な格式を与えられていたことが確認されている 9 。これは、土着の有力な旧族が、新たな支配者である今川氏の権威と血統を取り込むことで、自らの地位をより強固なものにしていった典型的な例である。この「古くからの土豪」という側面と、「今川一門」という側面を併せ持つことによって、新野氏は遠江国内で特異な立場を確立していた。
このような複雑な背景を持つ新野氏であるが、新野親矩自身の出自はさらに特異である。彼は新野氏の血を直接引く者ではなく、信濃国(現在の長野県)の武将であった上田晴昌の次男として生まれ、新野親種の養子として家督を継いだ人物であった 9 。公家・山科言継の日記である『言継卿記』の弘治3年(1557年)の条には「新野彦十郎」という名が登場しており、これが親矩の初めの名乗りであったと考えられている 9 。
今川一門という高い格式を持つ新野氏が、なぜわざわざ外部、それも隣国の信濃から養子を迎えたのか。この背景には、当時の今川氏の広域支配戦略が透けて見える。主君・今川義元の時代、今川氏は遠江の支配を盤石にし、さらに西の三河、北の信濃へと影響力を拡大しようとしていた 11 。信濃の国人である上田氏から養子を迎えることは、国境地帯の有力国人である新野氏を介して、今川氏の対信濃政策を円滑に進めるための戦略的縁組であった可能性が高い。このことから、親矩は単なる地方領主というだけでなく、今川氏の広域支配戦略の一翼を担う駒として、いわば「送り込まれた」人物という側面も持っていた。彼の今川家への忠誠は、個人的な感情のみならず、彼自身の存在基盤そのものに根差した、極めて強固なものであったと考えられる。そしてこの強固な忠誠心が、後に井伊家との関係において、彼を深刻なジレンマへと追い込むことになるのである。
新野親矩の生涯を語る上で、彼と井伊家を結びつけた複雑かつ重層的な姻戚関係は、決定的に重要な要素である。彼は今川家から井伊家を監視・統制する「目付」としての役割を担っていたとされる一方で 7 、この濃密な血縁ネットワークによって、監視対象であるはずの井伊家の内部に深く取り込まれていく。彼の行動原理は、この「公的な立場(目付)」と「私的な関係(縁戚)」との間の強烈な葛藤から生まれることになる。
親矩と井伊家の最も直接的な繋がりは、彼の妹(一説には姉 7 )である祐椿尼(ゆうつばきに、名は千賀とも伝わる 7 )が、井伊家第22代当主・井伊直盛に嫁いだことである 7 。これにより、親矩は直盛の義兄(または義弟)となり、二人の間に生まれた娘、すなわち後の「おんな城主」井伊直虎の伯父となった。この婚姻は、今川氏の支配下で不安定な立場にあった井伊家を、今川一門である新野氏との縁組によって体制内に安定させるという、今川氏の和睦・統制政策の一環であったと考えられている 7 。
親矩の縁戚関係は、井伊家当主だけに留まらなかった。彼の妻は、井伊家の重臣であった奥山因幡守の妹であり 7 、井伊家の内情に深く関わる立場にあった。さらに、親矩が今川家からの取次役として井伊谷を頻繁に訪れる中で、同じく井伊家重臣の奥山朝利と意気投合し、その妹を妻に迎えたという記録も存在する 17 。これにより、親矩は井伊家の中枢を担う家臣団とも二重三重の姻戚関係で結ばれることになった。
これらの関係性を以下の表にまとめる。
表1:新野親矩 主要人物関係表 |
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人物名 |
新野親矩との関係 |
所属・役職 |
備考 |
井伊直盛 |
義弟(親矩の妹の夫) |
井伊家当主 |
桶狭間の戦いで戦死 10 |
祐椿尼 |
妹 |
井伊直盛室 |
井伊直虎の母 14 |
井伊直虎 |
姪 |
井伊家当主 |
幼名不詳、出家し次郎法師 4 |
井伊直親 |
義理の従弟(直盛の従弟) |
井伊家当主 |
今川氏真により謀殺 10 |
井伊直政 |
保護対象(直親の子) |
後の徳川四天王 |
幼名・虎松 19 |
奥山朝利 |
義兄弟(妻の兄弟) |
井伊家家臣 |
17 |
新野甚五郎 |
長男 |
後北条氏家臣 |
小田原征伐で戦死 7 |
(親矩の娘) |
娘 |
木俣守勝室 |
彦根藩家老家の祖 9 |
(親矩の娘) |
娘 |
庵原朝昌室 |
彦根藩家老家 9 |
(親矩の娘) |
娘 |
三浦与右衛門室 |
彦根藩家老家 9 |
この表が示すように、親矩は井伊家の存亡に直接的な利害関係を持つ人物であった。彼の妹は井伊家当主の妻であり、彼の妻は井伊家重臣の妹である。井伊家が滅亡すれば、彼の最も近しい縁者たちが路頭に迷うことは必定であった。
ここに、彼の立場の根本的な矛盾が生まれる。今川家臣としての彼の公的な任務は、井伊家の動向を監視し、場合によっては主君の命令に従い粛清を実行することであった 7 。しかし、私的な立場から見れば、井伊家の安泰は自らの家族の安泰に直結していた。この構造は、彼に「井伊家を助ける」という行動を選択させる強い動機を与えた。ただし、それは単なる情けや身内びいきではなかった。彼にとって井伊家を救うことは、井伊家が今川家にとって有用な存在であり続けるように取り計らうことであり、自身の縁戚ネットワークを守り、ひいては今川家の遠江支配を安定させるための、彼なりの「忠義」の表現方法であったと解釈することができる。
新野親矩のキャリアの後半は、主家である今川氏の急激な衰退と、それに伴う領国の混乱という激動の時代と完全に重なっている。彼の行動を理解するためには、この「遠州錯乱」と呼ばれる大混乱期の政治情勢を把握することが不可欠である。
永禄3年(1560年)、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれるという衝撃的な事件は、今川氏の運命を大きく変えた 9 。東海一の弓取りと称された偉大な当主の突然の死は、今川家の権威を根底から揺るがした。跡を継いだ嫡男・氏真は、父ほどの統率力を発揮することができず、広大な領国の動揺を抑えることに苦慮した 21 。
今川氏の弱体化を好機と見た三河の松平元康(後の徳川家康)が独立を果たすと、その影響は隣国の遠江にも波及した。遠江の国人領主たちは、「このまま今川氏に忠誠を誓い続けるべきか」「勢いを増す松平氏に与するべきか」「あるいは甲斐の武田氏の動向を窺うべきか」という、自家の存亡を賭けた厳しい選択を迫られた 23 。これにより、遠江国内は敵味方の見極めさえ困難な疑心暗鬼の状態に陥り、国人同士の対立や今川氏への反乱が頻発する「遠州錯乱」と呼ばれる大混乱期に突入したのである 10 。
この錯乱の具体的な現れとして、井伊家当主・井伊直親が松平元康への内通を疑われた事件 18 や、遠江西部の拠点である引馬城(後の浜松城)の城主・飯尾連龍が公然と今川氏に反旗を翻した事件などが挙げられる 24 。
このような混乱の渦中にあって、新野親矩は極めて困難な立場に置かれた。彼は今川家の「御一門衆」という高い格式を持つ家臣であり 9 、その律義な性格から、基本的には揺らぐ主家への忠節を尽くそうとしたと考えられる 7 。しかし、前章で詳述した通り、彼の縁戚である井伊家がまさにその動乱の中心にいたため、彼は公的な忠誠と私的な情義の狭間で、危うい綱渡りを強いられることになった。
「遠州錯乱」は、単なる国人たちの反乱の連続ではなかった。それは、今川義元という絶対的な権力者の死によって、これまで遠江の地域秩序を支えてきた「核」が失われ、パワーバランスが崩壊したことによって引き起こされた現象であった。親矩の行動は、この崩壊しつつある秩序を、自身の持つ人的ネットワークと政治手腕を駆使して、何とか内側から修復・維持しようとする必死の試みであったと見ることができる。
彼は、今川の権威が失墜していく中で、井伊家のような有力国人が離反すれば、それが引き金となって遠江全体の国人が雪崩を打って今川から離反していく事態を最も危惧したはずである。したがって、彼が井伊家の内紛や存続問題に深く介入したのは、単に縁戚だからという理由だけではない。遠江における今川方の最重要拠点の一つである井伊谷を安定させることが、今川領国全体の崩壊を防ぐために不可欠であるという、極めてマクロな政治的判断があったからに他ならない。彼の行動は、ミクロな家族への情愛と、マクロな政治的判断が奇跡的に一致した、稀有なケースであったと言えるだろう。
今川家の衰退と遠州錯乱の混乱が深まる中、井伊家は存亡の淵に立たされる。そしてこの時、新野親矩は自らの命運を賭けた、歴史的な決断を下すことになる。
永禄5年(1562年)、井伊家当主の座を継いでいた井伊直親は、家臣である小野道好の讒言により、主君・今川氏真から三河の松平元康との内通を疑われた 10 。この疑惑は、今川氏が支配の揺らぐ遠江において、特に三河との国境に近い井伊家の動向に神経を尖らせていたことの現れであった。
縁戚である親矩は、直親の潔白を証明するために奔走し、弁明を試みたが、疑心暗鬼に陥っていた氏真を説得することはできなかった 18 。直親は、弁明のために駿府へ向かう道中の掛川において、今川家の重臣・朝比奈泰朝の兵に襲撃され、非業の死を遂げた。享年28であった 10 。
今川氏真の粛清は、直親一人の死では終わらなかった。彼は、将来の禍根を断つべく、直親の嫡男で、当時わずか2歳であった虎松(後の井伊直政)の殺害をも命じたのである 7 。当主を失い、さらに正統な跡継ぎまでも奪われようとしたこの瞬間こそ、井伊家の歴史における最大の危機であった。
この井伊家断絶の危機に際して、立ち上がったのが新野親矩であった。彼は主君・氏真の命令に公然と異を唱え、「身命を賭して」虎松を保護したのである 16 。親矩は、虎松とその母(奥山氏の娘・ひよ)を自身の居城である新野の屋敷に匿い 10 、一方で駿府の氏真に対して必死の助命嘆願を行った 7 。
この親矩の命懸けの行動が、氏真の決意を鈍らせた。その間に、虎松は井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・南渓瑞聞の手引きによって、三河国境に近い鳳来寺などへ逃れることができた 10 。この一連の行動により、後の徳川四天王・井伊直政の命は救われた。まさしく、親矩が後世「井伊家1000年の恩人」 7 、「井伊家最大の危機を救った」[ユーザー提供情報]と称される所以である。
親矩のこの行動は、一歩間違えれば彼自身が謀反人として一族もろとも誅殺されかねない、極めて危険な賭けであった。主君の命令が絶対であった戦国時代において、家臣が命令を公然と妨害することは死を意味する。彼がなぜそこまでのリスクを冒したのか。その背景には、単なる情けや義侠心を超えた、冷静な政治判断があった可能性を指摘できる。
第一に、わずか2歳の幼児を殺害するという行為は、今川家の威信を高めるどころか、むしろ「追い詰められて幼児にまで手をかける、非情で弱い主君」という悪評を遠江中に広め、他の国人たちの離反をさらに加速させる危険性があった。第二に、今川氏の衰退が誰の目にも明らかになりつつある状況で、ここで井伊家の血脈を温存しておくことは、将来、この地域が徳川氏などの新たな支配者の手に渡った際に、自身の、あるいは新野一族の立場を保全するための戦略的な布石となり得た。
おそらく、姪や妹、そして妻の縁者である虎松を救いたいという純粋な家族愛が根底にあったことは間違いない。しかし、その感情を行動に移させた強力な後押しとなったのは、こうした戦略的視点であったと考えられる。彼は、氏真の短絡的な命令に従うことよりも、自らの判断で井伊家を存続させることの方が、長期的には今川家の(あるいはこの地域の)ためになると信じて行動した「確信犯」だったのではないだろうか。
主君の命令に背いてまで井伊家の血脈を救った新野親矩。しかし彼の物語は、その直後、あまりにも皮肉な形で幕を閉じる。彼の最期は、戦国武将が抱える忠義と現実の矛盾、そして時代の非情さを象徴するものであった。
虎松の保護に成功した後も、親矩は今川家臣としての立場を堅持し続けた。その忠誠が試されたのが、永禄6年(1563年)末から本格化した、引馬城主・飯尾連龍の反乱であった 24 。引馬城は遠江西部の要衝であり、その城主の離反は今川支配にとって致命的な打撃となりかねなかった。今川氏真は、この反乱を断固として鎮圧するべく、討伐軍を派遣した。
新野親矩は、この反乱鎮圧軍に加わった。彼は、井伊直親亡き後の井伊谷を実質的に率いていた井伊家家老の中野直由と共に、井伊家の軍勢を率いて出陣した 7 。虎松を救う際には今川氏の命令に逆らった彼が、今度は今川氏の秩序を守るために戦うという構図は、彼の立場がいかに複雑であったかを物語っている。彼が反抗したのはあくまで「氏真個人の短絡的な命令」であり、「今川家が維持する遠江の秩序」そのものには最後まで忠実であろうとしたのである。彼は反逆者ではなく、あくまで今川体制内の「調整者」として、崩壊しつつある秩序を必死に支えようとしていた。
永禄7年(1564年)、新野親矩と中野直由が率いる今川軍は、反乱の拠点である引馬城に迫った。そして、城下の天間橋(または安間橋とも)付近で繰り広げられた激戦の最中、新野親矩は奮戦の末、中野直由と共に討死を遂げた 1 。井伊家の未来を託されるべき虎松を救った英雄は、そのわずか2年後、今川家への忠義を尽くす戦場でその生涯を終えたのである。
親矩の死は、井伊家にとって壊滅的な打撃であった。当主・直親に続き、家を支えるべき二人の重鎮、親矩と中野直由を同時に失ったことで、井伊家には家督を継ぎ、家臣団を率いることのできる成人男子が完全にいなくなってしまった 4 。
この権力の空白こそが、歴史上でも極めて異例の「おんな城主」井伊直虎の登場を必然的なものにした。直親の許嫁であり、出家して次郎法師と名乗っていた直盛の一人娘は、幼い虎松が成長するまでの間、井伊家を守るために還俗し、「井伊直虎」として家督を継ぐという苦渋の決断を迫られたのである 4 。
結果的に、新野親矩は、その命懸けの行動で井伊直政を「生かし」、そしてその死によって井伊直虎を「立たせる」という、井伊家の歴史における二つの重大な転換点の、直接的な触媒となった。彼の生涯は、一人の武将の決断と死が、いかに大きく歴史の歯車を動かすかを示す、劇的な実例と言えるだろう。
新野親矩は引馬城下でその生涯を終えたが、彼の遺したものは血脈と恩義という形で後世に長く受け継がれていった。特に、彼が命を賭して救った井伊家との絆は、江戸時代を通じて、そして幕末に至るまで、形を変えながらも永続することになる。
親矩の嫡男であった新野甚五郎(新五郎、あるいは道氏とも伝わる 20 )は、父の死後、父が忠誠を誓った今川家の当主・氏真と運命を共にした。永禄12年(1569年)、徳川・武田の侵攻によって本拠地・駿府を追われた今川氏真が、同盟関係にあった相模の後北条氏を頼って落ち延びた際、甚五郎もそれに同行し、後北条氏の家臣となった 7 。これは、父・親矩が最後まで今川の秩序を守ろうとした生き様を、息子として継いだ忠義の道であったと言える。
しかし、その忠義は悲劇的な結末を迎える。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、甚五郎は北条方の武将として八王子城に籠城し、壮絶な戦いの末に討死した 20 。皮肉なことに、この小田原征伐、特に八王子城攻めには、かつて父が命を救った井伊直政が徳川軍の主力部隊として参加していた 7 。恩人の息子と、恩義を受けた若き当主が、敵味方として相まみえることはなかったかもしれないが、歴史の巡り合わせはあまりにも非情であった。
甚五郎の死により新野氏の男系直系は途絶えたかに見えたが、親矩の血脈は、彼が遺した娘たちを通じて、意外な形で井伊家の中枢に流れ込んでいく。親矩には一男七女がいたとされ 9 、その娘たちの多くが、後に井伊直政に仕え、彦根藩の重臣となる家に嫁いでいった。
特に、彦根藩の筆頭家老となった木俣氏や、同じく家老職を務めた庵原氏、三浦氏などがその代表例である 9 。親矩の娘を妻に迎えた木俣守勝の養子・守安は、井伊谷時代のことを叔母たちから聞き書きした記録を残しており、これが直虎研究の貴重な資料となっている 7 。このように、親矩の血は井伊藩政の中枢に深く浸透し、その存在感は後世まで残り続けた。戦国から江戸時代への移行期において、個人の武功や忠節が、婚姻政策を通じて一族全体の社会的地位の安定と向上に転化されていくプロセスを示す好例である。
井伊家は、親矩から受けた恩義を決して忘れることはなかった。その最大の証が、幕末期における新野家の公式な再興である。第13代彦根藩主・井伊直中の十男であった長野和(ゆき)が、親矩の娘の血を引く木俣家の養子となった後、分家して新野氏の名跡を継ぎ、新野親良(ちかよし)を名乗ったのである 9 。親良は後に大老・井伊直弼の家老となり、桜田門外の変後の混乱した彦根藩の舵取りにおいて重要な役割を果たした 29 。
これは、親矩の「投資」が、数世代の時を経て、井伊家による公式な家名再興という、最高の「配当」として返還されたことを意味する。親矩の決断がなければ存在しなかった彦根藩井伊家が、二百数十年後にその恩人の家名を自らの一族によって再興させたという事実は、武家の恩義がいかに長く、そして重いものであったかを雄弁に物語っている。
新野親矩の生涯を理解する上で、彼が本拠とした城郭の地理的・戦略的な価値を考察することは、文献史料を補完する重要な視点を提供する。彼の居城であった舟ヶ谷城と八幡平城の遺構は、彼が生きた時代の遠江国の政治情勢を物理的に物語っている。
舟ヶ谷城は、新野氏の平時における本拠地(居城)であったと考えられている山城である 1 。御前崎市新野を流れる新野川の東岸、牧之原台地から伸びる丘陵の先端部に位置し、南北に長い尾根を利用して築かれた広大な城郭であった 31 。城内には多数の堀切や横堀が設けられ、堅固な防御施設を備えていたことがうかがえるが、残念ながら中心部である主郭は後世の採土によって失われている 33 。この城は「新野新城」とも呼ばれ、新野氏の勢力の中心地であった。
八幡平城は、舟ヶ谷城と同じ丘陵の尾根続きに位置し、舟ヶ谷城の詰城(戦時の最終防衛拠点や支援拠点)としての役割を担っていたとされる山城である 30 。別名を「新野古城」ということから、舟ヶ谷城よりも古い時期に築かれた、新野氏の元々の本拠地であった可能性も考えられる。
この城の遺構で特に注目すべきは、二重の堀切や馬出し(城門前の防御施設)など、武田氏特有の築城術の痕跡が顕著に見られる点である 35 。これは、新野親矩の死後、遠江の支配者が今川氏から徳川氏へと移り、この地が徳川家康と武田信玄の勢力争いの最前線となったことを明確に示している。武田氏は、遠江攻略の重要拠点であった高天神城への軍道(兵站線)を確保するため、その経路上にある八幡平城を戦略拠点として接収し、大規模な改修を施したのである 35 。
城郭遺構は、その土地の戦略的価値を雄弁に物語る。親矩が生きていた時代、これらの城は「今川領国の西の守り」という役割を担っていた。しかし彼の死後、今川氏が崩壊すると、この地域は全く新しい戦略的文脈の中に置かれ、次なる時代の覇権を争う徳川と武田によって再利用された。親矩の城に残された武田氏の痕跡は、彼の生涯が、今川支配の末期であると同時に、次なる「武田対徳川」という大抗争時代の幕開けでもあったことを、物理的に証明しているのである。
新野親矩の記憶は、城跡だけでなく、彼を祀る神社にも受け継がれている。御前崎市新野にある左馬武(さまたけ)神社には、親矩の墓所と伝えられる五輪塔が祀られている 2 。地元では、彼は「情けの武将」として今なお慕われており 43 、毎年4月には彼の霊に新茶を奉納する「献茶祭」が執り行われるなど、地域の人々によって大切に守られている 42 。この神社は、彼の居城であった舟ヶ谷城を一望できる場所にあり 46 、故郷の地から静かにその後の歴史を見守っているかのようである。
本報告書を通じて、戦国武将・新野親矩の生涯を多角的に検証してきた。その結果、彼は単に「井伊家の恩人」という言葉だけでは到底語り尽くせない、複雑で奥行きのある人物像を浮かび上がらせる。
忠義の臣として、 親矩は今川一門という自らの立場を深く自覚し、揺らぎゆく主家・今川氏の秩序を最後まで維持しようと尽力した。彼の最期が、今川家臣としての任務を遂行中の討死であったことは、その忠節を何よりも雄弁に物語っている。
情の武将として、 彼は主君の命令という絶対的な規範よりも、縁戚である井伊家、特にまだ幼い虎松(井伊直政)の命を救うという人間的な情義を優先した。この決断は、自らと一族の命を危険に晒すものであり、彼の深い人間性と義侠心の発露であった。
そして、冷静な政治家として、 彼の行動は単なる感情論や義侠心のみに突き動かされたものではなかった。崩壊しつつある地域秩序の中で、国人領主たちの離反を防ぎ、地域の安定を保つためには何が最善かを常に計算していた。虎松の保護は、今川家の威信低下を防ぎ、将来の地域情勢を見据えた、高度な政治的判断に基づく戦略的な行動でもあった。
以上の三つの側面を統合する時、新野親矩の真の姿が明らかになる。彼は、崩壊しゆく今川の秩序と、台頭する新たな勢力との狭間で、忠節と情義、そして政治的計算の葛藤に苦しみながらも、自らの信念に基づいて行動した人物であった。彼の決断と行動は、結果的に次代の覇者である徳川家康を支えることになる井伊家の存続を可能にし、日本の歴史に間接的ながらも大きな影響を与えた。
新野親矩の生涯は、歴史が織田信長や徳川家康のような天下人だけで動かされているのではないことを我々に教えてくれる。彼ら大名を支え、時にはその意に反してでも地域の秩序を守ろうとした、名もなき、あるいは忘れ去られがちな国人領主たちの苦悩と決断こそが、歴史を動かすもう一つの確かな原動力であった。新野親矩は、まさしくそのことを体現した、戦国中期の遠江における極めて重要なキーパーソンであったと結論付けられる。